「不良少年」と私 『映画運動(試写室)通信』 11月1日 映画運動「試写室」 <1976年(昭51)>
 「不良少年」と私 『映画運動〔試写室〕通信』 4月1日 映画運動『試写室』

 「不良少年Jを撮る前から、撮っているうちも、羽仁さんは殆んど一生分近い量の話を喋ったのではなかろうか。この一作にうちこんだというより、映画のもつ可能性についておびただしく話しつづけた。形としてシナリオもあり原作もあった。地主愛子氏編による久里浜少年院の少年の手記「飛べない翼」をもとに創作を始めていた。この手記の編者の意図は多分に教育的であり、羽仁さんをどこかで教育家と思いこんで企画が進んでいったふしがある。しかし羽仁さんが身をのりだして語る少年像は一向に教育的でなく、実在の、出演を承知した少年ひとりひとりの面白さとその才能と人間性の話ばかりで、愛着と共感しかそこにはなかった。少年院といういれものや、非行を生む社会の構造についてさえ「批判」的ではなく、即物的で、少年を抑圧した物象として、少年たちと同じ体験をそこにこすりつけてみたいような節があった。だから教育映画風にみせて、本物の少年院の中の撮影許可をとり、そこで一日の殆んどをすごし、同じめしをくって思案をつづけるといったことを試みたのである。
 不良というレッテルを記帳すれば安泰とする体制の思考に対して、その中味をまるごと出したいと思ったのではないだろうか。私も羽仁さんは”お坊ちゃん”というレッテルをどこかで貼っていた。彼は真赤になって中学2年当時、劣等感と異和態に悩んで自殺を計って二階から飛び降りた話をし、それを種にまた映画論・演技論にうつっていくのであった。劇というウソの中で、最も本当のものを産み出すのだというのが、氏がこの映画で何とか獲得したい方法論であったと思う。それが既成の俳優の演技から仮の衣しょうをひきはがすような回路ではなく、自分の「自分」なるものを自責していない。どちらかといえば秘める方向で屈折している少年のなかから、「犯罪」をしたときに発揚したであろう人間的なある昂揚感さえともなった「犯行」という表現を、この映画の中で、人間の表現そのものとしてひき出しうるかどうか、そのことに映画作家としての最も新らしい設問を自分に課した。だから出演者と演出者は基本的に原理的に対等であったし、その思想方法論はドキュメンタリーの回路からしか発想しなかったのだ。私は一シーンをよく思い出す。映画の中で徴罰房の中で火を起してタバコを盗み喫みするシーンである。これはむつかしい作業だ。セルロイド製の歯ぶらしの柄をガラスの破片でけずって粉末にし、再生の綿くずの中に入れてこよりにし、板と板とで摩擦して発火させるのである。音も出るし、きなくさい匂いも出る。しかも煙草は厳禁の本物の少年院のなかである。これは粉の量と綿の量、質と関連する。いつでも誰でも出来るものではない。本物の独居房の中で、扉の監視窓の真下の死角に身をひそめての作業である。いく度も失敗した。その間じゅう彼は体験的に2年前の収監時に完全にさかのぼってしまい、たえず周辺に神経をはりつめ、「悪事」ひとすじにとりつかれていった。やっとかすかに仏前の線香程の火が点いて、彼はしけもくを胸一杯にすいこんだ。ひとすじの残りもなく煙を胸郭にしみこませた。まわりの少年も監督もスタッフも異様に沈黙したままみつめる外なかった。それ程浄福に近い行為の原型を見た気がしたのである。私は何を学んだか、そこから言うのはむつかしい。つまり何より、映画的体験であり映画的解放だったのである。
 原作もシナリオも一応あった。また劇的措定にしたがった作り方もあった。しかし、自由な映画とは何かを理論からでなく、こうした撮影のプロセスで思考しつづけた点で、いつも新しいものを「見た」気がしていた。それが一つの共同作業の終りにこの映画になったーという気がする。その意味で、私のその後の映画づくりの中の基点でもあるのである。私は「不良少年」の全身ことごとく好きなのはそのためである。
 (1976.3.20)(試写室委員・記録映画作家)