1984年1月28日 「海盗りー下北半島浜関根」あいさつ文
今日お集まりの皆さんに、ぜひともおあいしたい想いでいっぱいですが、こんなかたちでご挨拶することをお許し下さい。
昨年5月、資金からっぽにひとしい状況の中でスタートしたこの映画でありましたが、企画者松橋勇蔵君の純情一路のこころと、後藤孝典、結純子氏らの物心両面の支援の努力をもちまして、フィルムはもとより、酒と肴に事欠くことなく下北に身をおくことが出来ました。ありがとうございます。
とくに、フィルムは、このように迷走する「むつ」ゆえに、途中で投げ出したいほどの迷いに陥り、更に焦点を浜関根より下北半島全域の「「海盗り」のドラマに拡げるにあたり、その途切れる事ない補給は、この映画の命脈を支え、ラストにたどりつくことに力がありました。加えれば、この映画より、新鋭撮影機材一式を貸与(ほぼ無償)してくれた青木基子(土本基子)さんの協力も、ロケが一週間、一ヶ月とのびるたびに、命のちぢむ想いをしたこれまでの悪条件から解放してくれるものでした。なんと恵まれたわがスタッフであったことでしょう。
映画の最終段階になって、私たちの推論として話の芯としていたものが、体制側の本音として宿便のように黒々と、臭気ぷんぷんと出てまいりましたことは、グロテスクにもドラマチックなものでありました。
「原子力船「むつ」の母港を、原子力のメッカ、下北半島の核燃料サイクル専用港にする」という自民党の本音がそれです。やっぱりというか、みごとというか、苦し紛れのヨロイをかいまみた想いです。
この映画に着手したときから、住民、漁民の敗北を辛くもみつめるつもりでありました。
そのことは今も変わりません。しかし、あるいはこの映画が、口から泡をふき出した政府の「むつ」「原子力」政策の破綻にむけて、一矢をむくいることに、タイミングとしても間に合えばと念じています。あまりにも下北は知られることのなかった北限です。幸い体制の時間稼ぎできめた、廃船の是非を84年は8月末までというタイムスケジュールの間げきにむけて、映画の上映を策したいと願っています。
高度成長の幻影にひかれて、夢の海をさまよい、一夜にして白髪と化した浦島太郎たちが、六ヶ所に何百何千人といます。そしていま、同じ夢をたどる関根の浜の人々を、まじろぎもせずみつめている――そんな下北の現代の寓話を描いてみたい――夢見ています。
1月28日
民宿「関根」にて
土本典昭