映像で記録する 講演会 映像で記録する 「水俣-患者さんとその世界」 1996/11/14 研究所共同会議室 中央大学人文科学研究所
長時間の映画をごらんいただいたあとでお疲れだと思いますけれども、映画を見ていただいたということは、さいわいにも、お話を非常にしやすいわけで、その点ではありがたいことだというふうに思っております。
いま、ご紹介がありましたように、わたしはいままでかなり水俣のことを撮っておりますけれども、あたまから水俣を知ったということで申しますと、ちょうど三一年のあいだ水俣を見ていたな、という感じがしています。ただし、ほんとうに集中して仕事をしたのは、一九七〇年代からほぼ一〇年かけて水俣の撮影に何度か行った時期でして、まるごと三〇年集中していたという」とではありません。
それできょうの表題にあります「映像としての記録」ということを含めてお話しできるかどうかーわたしが映像を撮ることは、卑近な例でいえば、映像をノートのように使っているのであって、いわばペンと紙のように映像を使っているわけです。ですから、記録あるいは記録するという意味をとくに考えて仕事をしてきたわけではなく、自分の人生の普通の仕事としてやってきたので、理論的なかたちでお話しすることは苦手なものですから、経験をまじえながらお話しさせていただくつもりでいます。
まず最初に、水俣にどうしてわたしがひかれたのかということをよく訊かれるのですが、それにはひと口にはいえない魅力がありました。水俣は、その事件が起きるまえにもっていた風土と人間の関係が非常に濃やかであり、日本人の心のふるさとのような温かみをたたえた不知火海という、たいへん温暖で生産性の高い、海も豊かであれば、陸もさつまいもなどをつくっていて、さつまいもと鰯を食べていれば、何とか生命はしのげたというような、その風土のもつおおらかさというものがあります。そして景観的にも、全国の景観をくらべてみましでも、とびぬけて美しいところでありーそういうところにチッソという会社が存在して、そのチッソという会社が長いことかかって汚水をたれ流して、何も罪のないひとたちが、自然を信頼するがゆえに魚を食べつづけて、何と言われても新鮮な魚を食っていればまちがいないだろうということで、かなり疑わしい時期でも、魚の姿を見れば食べつづけたということによって、絶対に医学では治らない疾病にとりつかれて苦しみ、なかにはもがき苦しんで亡くなり、いまもって不知火海周辺に何万という人が病んでいる。こういったものすごい事象が不知火海に見られるものですから、これは文学者にとっても、たいへんな文学の主題としての宝庫であった、と思います。
石牟礼道子さんのことは、みなさんもよくご存じだと思いますが、考えてみれば、人口三万数千の都市にたまたま石牟礼さんのような作家がおられて、文学的に作品を書いて支持される、これが水俣のどまん中に生まれた、どまん中に座った方であった。その文学的な仕事が、やはり大げさに言えば、その方が存在したか、しなかったかでは、水俣の歴史ががらりと変わったんじゃないかと思うほど、よい仕事をなさいました。
そして、これはもうほんとうに天の与えた配剤といいますか、悲劇の地なるがゆえに、天が与えた配置ではないかと思うぐらい、その妙に驚くわけですが、石牟礼さんをはじめとして、全国からいろんな表現者がやはり水俣に心ひかれて集まりました。わたしもそのひとりであります。ひとつ申しますと、ほかにもいろいろな公害がありました。イタイイタイ病とか、カネミ油症とか、四日市ぜんそくとか、その他、いわゆる四大公害事件と言われるものを含めてー。が、水俣だけが突出していろんな表現にめぐまれている。とくにその範囲も、写真から、演劇から、あるいは音楽にいたるまで、水俣を題材としたものがたくさんつくられている。そのなかでやはり映画も目立った存在になっているわけです。
そういうふうなものをつくらせたのは、水俣じしんがもっている非常に怪しいまでの魅力というものであり、あまりにも劇的な、あまりにも明白な資本の実害というものがその地域に加えられたことによって、どう描こうとも、やはりそれは非常にドラマチックなものにならざるをえない。
きょう見ていただいた映画もそうですが、淡々とつくっているつもりなんですけれども、その起承転結を見ますと、耐えにたえた患者が、最後は株主総会で一声あげるまでに曲折があるわけで、まったく一介の水俣の人たちが、資本にとっては晴れの舞台である株主総会に出られて、社長ーあの社長は、いまの皇太子妃のおじいさんですがーその江頭さんをつかまえて一声放つ。まるで東映映画の時代劇にあるように、悪代官にいじめられていた農民が一揆を起こして、代官のまえで声を放つというような、まさにパターンすれすれのような劇になってしまっている。これには、そうとう悩みました。こんなに起承転結のはっきりした映画になっていいのだろうかと悩みましたけれども、じっさいに撮っている順序からいっても、ああいうふうになった。わたしが映画を撮るときには、まったく予定になかった株主総会という運動ー株主総会に向けて、みんなで”切符”を買って、株主総会にのりこもうという運動が撮影中に起きたわけですから、それを撮影していくうちに、あのような劇的な展開になりました。わたしとしては、もっと淡々とつくっておきたかったんですけれども、非常にドラマチックになったんです。
水俣には、水俣病事件には、いつもよもやと思いながら、とんでもない展開をしてゆくところがある。ひとことで言えば、われわれの現代社会の常識ではとても起こりえないようなことが起こるというのが、水俣病の事件史のなかにはいくつかあって、これもそのひとつだと思いますが、やはり株主総会のシーンといったような、ああいう激発した状況というのは、まったく水俣ならではのことであった、というふうに思っております。
そういった水俣の魅力にとりつかれて、わたしは映画をつくってきた。それでとくに何を記録しようというふうなことをお膳立てして撮ったものではありませんけれども、たえず念頭にあったのは、やはり水俣に滞在して、そこで見たものを記録していくことが、当然のスタンスとしてありました。わたしは宝の山に入っているようなもので、どこにカメラをむけても資料性があり、証言性があり、記録性があるものばかりに取り巻かれていましたから、かえってありがたみがなくて、思いつくまま、気の向くままと言っていいんでしょうか、そういうかたちで撮りすすめてきた。現在、正確にいうと十三本、水俣にかんする映画を撮ってきました。その中心的な作品は六本ぐらいですが、あと関連した作品をいれれば、一五本ぐらいの映画を撮ってきました。その連作の意味については、また後に触れたいと思いますけれども、どうして撮ってきたかと言われれば、やはり水俣病事件が終わらなかったから、またわたしにとって一作つくるたびに、「あれ、これが抜けてたんじゃないか?、ご覧になった方々のなかにおきる疑問、要望、それからわたし自身のいまだ足らざるものあれこれ、この面はどうなんだろう?」というふうに、上映しながら、ご覧になった方々のなかにおきる疑問、要望、それからわたし自身のいまだ足らざるものありという思いで撮りだしていくうちに、連作になってしまったというのが実情です。
わたしは映画を撮りはじめてから四〇年になるけれども、この四〇年のうちには、映画を撮るうえで、テレビということを視野にいれると、たいへんに大きい技術の進歩がありました。若い方々には以前の状態が想像できないほど、技術が発展してきました。たとえばいまは、だれの手にも8ミリのビデオが使えるように、非常に安く、しかも高性能で、高感度で、音もきれいにとれる、かなり暗闇でもモノがしっかり写るというようなカメラが登場して、それがありがたくもなんともない普通にあるものだと思っていられるというような時代ですけれども、わたしが映画をはじめたときには、映画は全部フィルムでありまして、テープはテープレコーダーで録音しなければいけない。かならずしもテープでとったときと、撮影したときが一致しませんから、なかでしゃべっている話と声とはちぐはぐですし、音声と映像が微妙にずれているということが随所でおきました。わたしが『水俣ー患者さんとその世界』を撮ったのは二六年まえですが、やはり音声と映像とが一致していない、ちぐはぐなままのことを余儀なくされ、そういうふうに編集したものが残っているわけです。それに、あの当時はフィルムも非常に高くつきました。ですから、ひとつのものを記録しようと思っても、その記録するまえに、お金のことがいつも念頭にあるわけですね。つまり、高いフィルムをどうやって有効に使うか、そのフィルムの値段、ちょっとこまかい話になりますが、ビデオで六〇分ぐらいきれいに撮れる最高の品質のテープが、いまはヨドバシカメラなんかで買えば、二〇〇〇円ぐらいですね。ところが、ぼくらが水俣の映画を主に撮っていた一九七〇年代には、だいたい一分当たり数万円というフィルム代と現像代がかかりました。しかも、いちばん長くまわせてせいぜい一〇分なんでいう時間しか、物理的に撮れませんでした。カメラを据えてなにかを撮るという場合に、流しっぱなしとか、撮りっぱなしとか、惜しみなくなにかを撮るなんてことは、とてもとても考えられない。そういったことで、資料の山、宝の山にいながら、なにを撮るかということを、ほんとうにそれが必要かどうかを徹底的に考えてからカメラをまわさないと、とてもお金が足りない。そういうものだと思っていましたから、ものを撮るのに、たえず選択がはたらきました。どういう話を撮るのか、だれを撮るのか、どういう角度で撮るのか、どういう長さで撮るのかということを含めて、たいへんに選び抜いた方法をとらざるをえませんでした。
ですから、かならずしも頭のなかに浮かんだ、これは撮っておいたほうがいいんじゃないかと思うものも撮らないですましたということが、とてもたくさんありました。いま考えると、資料としては、もっといろいろな角度で撮っておいたほうがよかったと思うことがあります。時代の制約のなかでそういうことが潤沢にいかなかったということは、自分でも感じております。よくテレビなんか見ていると「資料映像」と右上に文字のでる画があります。本題の撮影のフィルムに、まえにあった資料を加えて歴史などを語ったりするような「資料映像」というパターンですね。わたし自身が撮っているなかでも、あのとき「資料映像」として撮っておけばよかったと思うものがたくさんあります。
先ほど十三本映画を撮ってきたと言いましたが、水俣病事件を頭から終わりまで、今日まで正確に撮りつづけるならば、とてもその数ではなくて、おおよそ二五本から三〇本撮らなければ、水俣病事件を記録したとは言えない。ですから、わたしの仕事もそうした巨大な出来事のほんの一片しか撮れていないと思っております。
それでも水俣病事件がそれだけたくさんの潤沢な記録を残したという背後には、やはりそれを見てくれる観客あるいは読者、そういったものが膨大に潜在していたわけです。それは出来事と水俣病事件に象徴される、自分たちがまったくなんの油断をすることもなく生活していても、いつ、どこからこういった悲劇が襲ってくるかわからないという不安な時代に、水俣病は、いったいなにを語っているのか、水俣病事件ではどこが明らかになったのかを知りたい、水俣病にたいしてみんながどう考えるのか知りたい、といった非常に分厚い関心があったからだ、と思います。
それはとくに一九六〇年代の後半から一九七〇年代いっぱい、一九八〇年代にかけて、なお続いておりました。水俣にたいする関心は、決して一時的なものではなくて、今日もなお、続いていると言いたいのですが、やはり薬害エイズの問題とか、その他、いろいろ考えてみますと、水俣病事件を起こした流れといいますか、そういったものは、いぜんとしてどうひいきめに見ても、変わっていないように思われる。そしてあたらしい事件が起こるたびに水俣病が思い出されて、水俣病のかかえているものを、もう一度とらえなおそうという動きが出てきていると思います。そういった仕事に関連してわたしが仕事をすることができたということは、たいへんに自分にとって光栄なことだと思っていますが、一面では水俣というものの奥深さに、ぼく自身の力がまだ足りないというので悩んでいることでもあります。
では、映像として水俣を撮るというときに、どういうことがあったのかとお考えになると思いますが、そのひとつの例として、じっさいの体験をお話ししてみましょう。これは両極相反する体験をしたものですから、その両方ともお話しをしておいたほうがいいと思います。
いちばん最初、わたしが水俣を撮りましたのは一九六五年(昭和四〇年) の年頭でした。昭和四〇年というのは、水俣病はだいたい発生をやめて終息したと思われていた時期です。水俣病の人たちには、チッソから(原因はチッソにあるとは認めませんでしたがて同じ地域にこれだけのことが生まれたので非常にお気の毒だと思うという、まことに善意に満ちたかたちの「見舞金」が出ていたわけです。患者は、チッソがやったというふうにどこかで思っていますけれども、原因がはっきりしないものですから、チッソのそういったお情けみたいなお金を受け取って、生命をながらえていたという時期です。
わたしが行きまして三年ぐらいして、はじめて厚生大臣が政府として水俣病を公害病と認定し一九六八年(昭和四三年)ですから、水俣病はすでに終わった、だいたい終息したといわれていた時期でしたが、じつは何も終息していなかった。水俣病のあらたな患者は胎児性水俣病患た者だけでしたが、しかし何も終息してはいなかったのです。一部胎児性の子供が脳性小児麻痺かなと思っていたのが、動物実験とかしていろいろ観察してみると、まぎれもなく水俣病らしい。 亡くなった胎児性の子の脳を解剖してみたら、やはり水銀特有の障害を脳に与えていたということがわかって、水俣病とされた。その流れがあっただけで、患者の人数は増えていませんでした。
そういった時期にわたしは、あるテレビ局の番組ではじめて水俣を撮りに行ったんです。いま申しました、ほとんど何も起きなかったという時期を、のちに学者は「空白の八年」と呼んでいます。水俣病の見舞金契約が終わり、政府の公害認定がでて、水俣病も終息したんだというふうにみられていた八年間ー何事もなかったという意味で、それは「空白の八年」と言われた。その空白の時期にはじめてわたしは水俣病のフィルムを撮ったわけです。
このころに、胎児性の子供が新聞にいくらか載るようになりました。脳性小児麻痺と思われていたが、じつは胎児性水俣病の子供だ。その子供たちについて少なくともお見舞いをしたり、支援をしていきたい。そういったニュースがちらちらと地方の新聞に出る。ほんとうにローカルな事件として扱われているのを見て、わたしはそこで「水俣の子は生きている」という題名のテレビ番組をその子供たちに焦点を合わせて撮った。それではじめて水俣に行くわけですが、いまのように水俣と言えば、だれもがどこかで聞いたことがあるという話じゃなくて、水俣という字もストレートに読めるひとも少ないような時期でした。水俣には何があるのか、何もわからないといった時期に、カメラを持ってテレピの仕事で水俣に行ったわけです。
行ってみて最初に感じたのは、少なくとも水俣病と名がついているからには、水俣に行けば、少しは水俣の人たちも水俣病患者を見たり、水俣病について知っているんじゃないかと思いましたので、水俣に着いてから、かなり歩きまわって、「水俣病を知っていますか」と訊いても、だれも知らないんですね。「ほんとうに困った病名がついている。これがほかの病名ならいいけれども、水俣病という名がついてまかり通っている。だいたい水俣にいても水俣病なんて見たこともないし、水俣病にかかったひとがどこにいるかも、ぜんぜん知らない」、「たしかにひどい事件だったらしいけれども、水俣は病名で汚名をきせられて、水俣市全体が汚名をつけられて、ほんとうに迷惑している」というような反応が聞こえてくるだけです。そんななかでただひとり、タクシーの運転手で患者を乗せたことがあるひとがいました。十数人に訊いたなかで、水俣病について実際に知っていたのは、そのタクシーの運転手だけだったのに、わたしは驚いたわけです。
わたしは、映画のなかでちょっと仕掛けをつくりまして、いきなり水俣病というふうに撮影しても、いろいろ問題があるだろうから、水俣になんらかのかたちでかかわるひとを主人公にして、そのひとのかかわりで水俣病を描こうとしました。その映画の主人公は熊本短大生で、卒業を間近かにした二〇歳か二一歳ぐらいのケースワーカー志望の女性にしました。このひとに焦点を当てて、その女性が水俣のあちこちを歩きながら見聞していく。今後、ケースワーカーをするために、水俣病患者とつき合う。そういう心で水俣病というものを見つけていこう。その当時、水俣病はどこに行ってもすぐには見つからないような時代だったものですから、苦肉の策として、水俣病とどうしてもつき合わなければいけない、そういった人物を主人公にして番組を考えていました。
ところが、じっさいに撮影になりますと、いろいろなことがわかってきました。というのは、だれも水俣病を知らないわけです。その当時、水俣で一〇〇人ぐらいだった患者の大部分は漁村地帯にいた。しかもこれはコレラやペストよりも死亡率が高いんです。三九パーセントの死亡率でしたから、もう四〇人ぐらい亡くなっている。残ったひとはしかし、漁村地帯にひっそりと暮らしている。さらに十何人かは病院にいました。その病院というのは、また一般病棟とか、そういうものとは隔離されたー隔離病棟とは言いませんがー病院のいちばん奥のところにある病室に、全員そろって入れられている。そういうなかで水俣病患者を見るという機会は、ほんとうになかったんです。ですから、水俣市民が知らなかった理由はこういうことだったんだな、ということがわかりました。
それで、撮影しはじめた途端から、撮影するということについて、すごい反発があった。わたしは、水俣病というのは、薬物中毒だ、企業による中毒事件だ、死者のあることからいえば、これはある種の業務上過失とかいうのがつくのかもしれませんけれども、殺人罪であり、傷害罪だぐらいに思っていましたから、その被害者は、もう少し顔をあげて、そしてテレビやその他に公然とその非を鳴らすようなことがあるのではないかと思っていた。わたしがそのように力んでいたのが浅はかだったんです。だから、カメラを持っていって撮影しようとすると、カメラが向かっていくと、患者は、子供の患者はベつとして、大人の患者は、わあっと逃げていくわけですね。主人公のケースワーカーといっしょにカメラは動くんですが、ケースワーカーとは仲良くなるだろうと思うものですから、ケースワーカーと患者が話しているところを撮影しますと、患者のほうはどんどんカメラに写らない物陰にしゃがみこんで話すというようなことで、結局、わたしは生の患者の姿というものをほとんど病院へ行っても撮ることができなかった。これはなんだろうということを、ほんとうに思いました。
水俣病というのは、こんなにも映像が撮りにくいものかとつくづく思いながら、しかし、胎児性の子供はそういうことをまだ考えるような歳ではありませんから、ぼくたちにしたいよってくる。子供たちのほうからぼくらに近づいてくるので、子供たちを撮ることはできましたが、およそ成人の患者は、病院に行っても、カメラから逃げられた記憶しかありません。
そうこうしているうちに、漁村地帯にいる患者をぜひ撮りたい、とくに子供を撮りたいと思つて出かけていくわけですが、そのときに撮影方法へのちょっとした誤解から生じたことですがー隠し撮りをしたと思われたんですね。ぼくらが集落の外を撮っているときに、たまたま日向ぼっこをしている胎児性の子供とその母親、それから周りにはその母親といっしょに、網の繕いかなにかをしている女性のかたまりがあったんですが、そこに近づいていくケースワーカーの姿をうしろから撮っていったら、ひょっと逃げようとするひとがいる。はっと気がついてみたら、それが胎児性の子供だったんですね。それがそこにいるとわかれば、べつな挨拶、ベつな対応を当然したんですけれども、遠くからちょこちょこ歩くケースワーカーを追いかけるのに必死だったものですから、まったくそんな判断ができませんでした。
そうしたなかで、わたしは、母親から咎められたのです。子供を抱いて家に閉じ龍もった母親が障子を閉めたまま、大きい声で怒るわけですね。「なして自分の子供を撮ったか、子供を撮ったからといって、少しも病気はよくならない。みんなこの子を撮影していくけれども、それがなんになるんだ。あなたはなして子供を撮ったか」ーわたしが一生懸命詫びをいれるんですけれども、そのひとは、ともかく泣きたかったんですね。障子を閉めたまま、延々と閉じことばを繰り返しつづけていました。
それを聞きながら、こちらも足がすくみまして、それでいくら謝っても許してもらえない。そういうなかでやっと頭を下げてその家を辞退して以後、その水俣病の、とある集落の海辺に立ちすくんだまま、右にも行けない、左にも行けない。どこにもカメラを向けられない。どこに患者がいるかわからない。風景もなにも撮れない。どこからひとに見られているか、わからない。そういった状態のなかで、映画としてはまだ未完ですから、これからも撮っていかなきゃならない。そう、そのときに思いました。
これではとても水俣病という病気は、映像では記録できない。やはり、これだけの屈折した「撮られたくない」という気持ちがあるということがはっきりした以上、もう具体的に患者にカメラを向けることは難しいだろう。やっぱり世の中にはカメラを向けられない題材というものがあるものだ。では隠しカメラで撮ったらどうか。その方法はわたしにはなじまないし、隠しカメラはあんまり好きじゃありませんでしたので、どうしようもなくなって悩みました。そのときの怖さ、それから水俣病にまつわる患者の対応、これは記録作業にとっては、ほんとうに致命的なことに思いました。それを撮れるようにするには、どうしたらいいかということは、あとでさかんに考えることになりましたが、その作品はとても成功作とはいえません。あるていど話のわかる患者さんの話を聞いてまとめましたけれども、わたしにとってはたいへん手痛い経験でした。そのなかで、わたしの裁量で撮ったカットですがー、その主人公の女子短大の生徒のグループ、サークルかなにかの部屋に、カンパをもらうときに宣伝用に使った患者さんの肖像写真・パネル写真があった。その写真はとてもすぐれた写真で、みなさんもご承知の方が多いと思いますが、桑原史成さんというひとが撮った患者の写真です。かれの写真集にある代表的な写真が、そこにパネルとして用意されていました。そのサークルの人たちは、その写真を持って街頭に出て、水俣の子供たちに何らかの支援をしようというので、カンパをもらうために、それを道具にしていたわけです。が、その写真のもっとも中心の目のところに黄色いビニールテープで目張りがしてあるんですね。それはだれがしたかというと、学生がしたんですね。目だけでも隠してしまうとちょっと人がわからない。写真は写真としてちゃんと目を大事に出して、桑原さんは撮っているし、とても眼差しを大事にするカメラマンですから、ぼくはじっさいの写真をまえもって見ていたせいもあるんですけれども、目張りのされたそれらの写真を見ることには、とても耐えられなかった。それで、学生たちに話して、これはなぜ写真の自に目張りをするのかと聞いたら、だいたい予想したとおりですけれども、目をだすと、プライバシーの問題があるから患者さんに気の毒だと思っているからだ、というのです。きみたちはこの写真を持って歩いてカンパを集めるのか、どこか話が違いはしないか、ということを論議しまして、とうとう映画のなかに学生が目張りを剥がして、その写真をありのままの形に復元するシーンを、そのことをめぐる学生の討論を入れて、撮影しました。目張りを取ってみれば、ほんとうにつややかな目、長いまつげの目、ほんとうに少女らしい目、少年の目、全部を復元しますと、これは強烈な迫力をもっています。しかしながら、その剥がすまえは、まるで犯罪人の現場写真か、あるいは最近、目張りのつけられた写真がいっぱい出ていますけれどもーなにか目だけ隠せばよかろうというので、中途半端なことがテレビなどにいっぱいありますが、それとほとんど同じことがなされていたわけです。この目張りを剥がすということの意味については、そのときはあんまり考えませんでした。が、ともかく剥がしたい一心で剥がしました。それを撮影して、そしてその番組のなかに入れました。その第一作を撮ったときには、ひとことで言えば、撮れない水俣、撮れないのが普通である水俣ー、記録作業は、なかなか思うとおりにいかないのが水俣なのだ、水俣を撮るには、間接話法とか、あるいは番組全体として、なにか目隠しでもどこかにしなければ撮れないような題材ではないかという感じすらもしました。
そうした水俣病事件の性格から言えば、ほんとうにみずから名のりでて、事件を明るみにだしていって当然だというふうに、どこかで思っていた観念とは違って、患者じしんが、自分が患者であることを非常に嫌っている。だから、ひとに指摘されるのも恐れている。ひとに知られるのを、ましてテレビなんかに写真を撮られるのを拒否する。そういった気持ちが、むしろ一般的だったのです。
そのいっぽうで、当時、チツソは、「だれがなんと言おうと自分たちが流したということが確定されているわけではない。にもかかわらず、見舞金ということで、かれらに年金を渡しておる。こんなにも性質の善なる企業がほかにあろうか」という顔をしています。水俣市民の多くも、患者たちはなんらかの金をもらって生活しているだろうし、チッソもできるだけのことはやったんだろうから、もう寝た子は起こすな、という状態でした。
そういったなかで、わたしのささやかなテレビをつくる仕事を通じて、そういうアクションによって、はじめて水俣病の現在というものを痛切に感じとれたわけであります。ですから、わたしは、このテレビを撮っていますけれども、そのあとにたいへん画期的な出来事があったから、わたしはもういっぺん水俣にもどれたのであって、そのままだったら、水俣は絶対に撮らなかったと思います。
それを撮ってから三年後、先ほど申しあげましたように、水俣病を公害病と認定するという政府・厚生省の公式見解が発表されました。じつは政府は、それで水俣病をいっさい全面的に処理済みとする、その仕上げのつもりだったんですね。つまり、水俣病の発生は止まった、と医学は言っている。水俣病にたいする救済はチッソがおこなっている。患者は増えてないから、約束は守られている。原因は不明だという点については、チツソを加害者と確定した。新潟水俣病といっしょでしたけれども、政府が水俣病の原因はチッソの有機水銀のたれ流しだ、工場からの排水によって有機水銀が流され、それが魚に蓄積されて起きた問題だということを、つまり原因をはっきりと認めた。そうすることによって、水俣病の問題をいっさい終えようとした。それが、昭和四三年に、新聞の大見出しで、大仰に公害病認定を発表したときの政府の思惑だった。ところが、水俣は違いました。水俣はその発表を待って「なんだ、やっぱり原因はチッソだったのか」と、まちがいなくチッソだと思っていたのだが、チッソだということが政府によって認められた。それなら自分たちは、改めてその原因企業にたいして罰としての賠償を、ここまで理不尽に追いつめてきたからには、これだけの補償では容赦しないという気になったのだと思います。それで民事裁判を起こしました。これが、いまは第一次訴訟(第三次までありますので)になっております。
この訴訟が起きてから、支援がはじまります。その支援のもっとも先端を担ったのは、石牟礼道子という個人です。水俣病対策市民会議が生まれ、また石牟礼道子という人物を介して、熊本に「水俣病を告発する会」というのがつくられます。これは個人をあまりに大きくいうわけじゃないんですけれども、ほんとうにこのときの石牟礼道子は、獅子奮迅のはたらきをして、この患者の支援のため市のなかにひとつの支援組織、それからその支援組織を支援する熊本における広範な運動組織を、熊本の有志とともにつくります。これが「告発する会」です。この「告発する会」という組織そのものが、たいへんにユニークな組織で、これには多くの文学者、教師、それから新聞記者などが旗をふりました。
この団体のおもしろいところは、われわれは患者に役立つことはすべてやる、いかなる動きにたいしても、なんら条件をつけないで患者を支援する。ある意味で絶対的に患者支援ということにピントを合わせた活動でした。そういったなかで、わたしに映画を撮ってくれないかという話がきました。それが今日ごらんになった映画です。
その映画をだれが撮るのかということで、わたしに決まるまえには、東陽一にという話もありました。が、一度つくっておでこをすりむいた男がいちばんよかろうということで、土本が水俣を撮ってたいへん苦しんだ、あの男が撮れなければ、撮れる者がいないだろう、やはり多少とも経験をもつ、おでこをぶつけた人間が撮るのがいちばんよかろうということで、わたしに話がきたものですから、わたしはたいへん考えました。わたしが撮ったころとあきらかに条件が違うのは、患者が裁判にうって出たということです。患者じしんが「この裁判の意味を知っていただきたい」ということで、勃然たる発表力を秘めているわけです。自分じしんがやっていることを知ってもらいたいという気持ちがある。これはかつての「なにもさわってくれるな」といった時代とは、一八〇度ちがう出来事ですから、これはおおいにやる意味があるというふうにわたしは思いました。意味があると思いましたけれども、それは患者一般、全部がそうかといえば、まだわたしにはたくさんの水俣病患者の姿のなかで、患者のなかには、やはり絶対に撮られたくない、カメラを見たくもないひともいるに違いないと思うものですから、それをどうやって撮るのかというのがわたしの次の問題でした。
それで話が前後とびますがー、その映画を引き受けてからじっさいに撮影するまでのあいだに、わたしは患者の支援闘争だけをする時期がありました。カメラを持たずに患者のうごきやすいように条件をつくる活動です。そのなかで、厚生省突入といったような行動もしました。一任派の患者という、訴訟してない患者が厚生省にせっちん詰めにされて、一方的にきわめて低額の補償を押しつけられるというようなくわだてにたいして、これに反対しなければ、えらいことになるというアッピールがあり、その反対運動にかかわって、厚生省に不法に乱入しました。そして会議場を制圧しました。制圧といっても座りこみです。そのときの証拠を官憲側で撮っていたということで、わたしは逮捕されました。逮捕されたときに、あっこれでひょっとしたら、わたしが逮捕されたことによって、あるいは自分たちのために何かする人間だと患者が思ってくれるのじゃないかなと思って、ぼくはつかまったのにかかわらず、にんまりした記憶(ひとが悪いですね)があります。はたせるかな、やっぱりその逮捕は非常に大きい記事になりまして、水俣では、東京でもなかなかか偉いやつがいる、映画をつくっている人間もおるらしい、こいつがほんとうに映画を撮るらしいということが広まりまして、それで「水俣では土本さんを待っています」というようなことが、石牟礼道子から電話でくるわけですね。すっかり、あのひとにのせられるようなところがあるんです。(笑声)
そんなわけで、つぎに行ったときには、わたしたちは石牟礼さんたちに段取りされた患者さんの宿に泊まり、「水俣病銀座」といわれる、軒並みに患者さんのいるような漁業集落のひと間をお借りして、みんなで合宿して、映画を撮るというふうになりました。
患者さんたちは、わたしたちを受け入れたとはいうものの、さて受け入れて、どこから撮ろうかとなると、みんな袖引き合うー「うちは後にしてくれ」というわけです。「自分のところはそんなにいそがないで、どこかよそから撮ってくれ」と言われて、一カ月か一ヵ月半も、どうしょうもなく、なにも撮れなくて遊んでいました。やはりその根底には、目立ちたくない、映画になにか言いたいと思うけれども、自分はいちばん最後に言いたい。これはいかにも水俣らしいのですが、そういったようなぐあいで、わたしたちはなにも撮ることができませんでした。
そこで一計を案じまして、「だれにしても全部撮ります、わたしはわけ隔でなく全員撮りますから」と言ったんです。それまでぼくは、典型的な患者を七、八人撮れば水俣病のことは伝えられるかなと思ったけれども、七、八人をピックアップするだけでも難しい。それだけの選択をすること自体が、患者にとってはなにかのさざなみを起こすだろうと思ったものですから、「全員撮ります」と言って、撮れる人からくどいて撮っていった、というのが今日の映画です。
患者が非常に開放的に見えます。それは撮れる時期まで待ったということ、患者がものを言いたくなるまで、あせらずに待ったものですから、いったんカメラをむけるとじつによく話してくれました。それが、あのような開放的な印象を与えるものになったのだ、と思います。
またしても話はとびますが、つくりあげた映画を水俣病患者に試写したことがあるんです。完成した映画を最初に水俣病の患者さんにお見せしたら、患者さんが「あっよくできている、この映画だったら、わたしらは出てほんとうによかった」というふうに言われて、つくった甲斐があったと確信しました。
じつは、わたしも映画を撮られたことがあって、映画を撮られるということは、非常にいやだった体験が学生時代にあったんですね。それはどういうことかといいますと、一九五二年(昭和二七年) 五月に、早大事件という、学生運動ではすこしは知られた事件、抵抗しないと決めた学生に警官隊が襲いかかって、全員を殴打するという事件がありました。その事件のころは、「血のメーデー」の直後であり、私服が犯人さがしに学外、学内にはりこんでいたようで、非常に学内に緊張が強い時期でした。カメラを持ってわれわれを写そうとする者は、全部、顔写真を撮りにきた官憲のスパイじゃないかとみんなが言い合うような、ピリピリした雰囲気のときでした。そういった雰囲気のときに起きた事件ですから、その事件を撮影したニュース社なんかありましたけれども、わたしたちは、とてもじゃないが、そういった撮影をほんとうに嫌いました。
ところが、わたしはそのことで、大学を除籍されたりしたんですが、一年後に「早大事件を回顧する」というので、そのニュース・フィルムを借りて見たことがあるんですね。だから、ここは撮った人間、撮られる人間の立場を多少は自分でもっているということを説明するために申しあげるのですが、そのとき、とてもそのニュース・フィルムがよかったんですよ。自分たちがニュース・カメラマンにたいして、警戒心もあらわな顔をしているには違いないんだけれども、ニュース・カメラマンのほうは、事態の全体をちゃんと見ているんですね。学生にもいろいろ問題があるかもしれないが、官憲の深夜における学生へのいっせいの逮捕行動はけしからんというのを、まるで群衆劇のように撮っているんですね。一年後にそれを撮られた人間として、こわごわ見たんですが、やはりこのフィルムは、ほんとうに撮られてよかった。べつに撮ってくれと言つたわけではないのだけれども、ニュース社にたいして感謝したという記憶があるんです。水俣の映画を、こんどは撮る側に立って撮ってみて、それと同じようなことを患者に言われました。やはり自分たちは、こんなことを言ったのか、こんなことを言ったつもりはないけれども、おれもなかなかいいことを言ってるじゃないか、という感じでした。
やはりいい映像はどこで撮れるかというのは、くだいていえば、それは「場」なんですね。カメラが現実に、患者とどれだけ近い場所に三脚を立てられるか、三脚が立てられなければ、われわれは撮れないわけです。
それでいまは、ひとりで何でもかんでもやっちゃうというひとがいますが、わたしたちのときには、録音のひとがいる、カメラのひとがいる、ぼくがいる、助監督がいる、五人ぐらいは、いつもいるわけです。それだけの人間が「場」を得て撮影をできるということが、いちばんの苦労でした。それだけの人間は目立ちますから、どこから見てもぼくたちはなにをしているかわかります。またカメラはにじり寄ってゆくーそのひとの膝元まで寄ることがこちらの希望ですから。遠く離れてなにも知られないうちに撮ってくるというひとがいますけれども、とにかくカメラが傍若無人というぐらいにそばに近づけるような「場」を持たなければ、わたしの場合、あの記録はできなかったわけです。これが非常にたいへんでした。
それについては、患者との接触のいちばんのポイントは、相手が撮影の「場」、カメラをすえる「場」をわたしに与えてくれるかどうかという了解です。知らないうちに撮るというのではありません。カメラがその家にはいってきて、近所のひとにも知られるし、あらゆる点でそのひとが撮影されることによって裸になっていくわけですから、そのことを頼むのにたいへん苦労しました。
そのことを説得するのにいちばん役立ったのは、じつは車なんです。というのは、いろいろ患者と話しますけれども、一対一で話すのが、最後の決め手になります。わたしたちは、水俣にいるあいだ、わたしたちの車を全部患者に開放したんです。あなた方が何かでどこかへ行くというときには運転手をやります、というわけです。撮影しないときは車が遊んでいるから「患者タクシー」と名づけて、ぼくたちが水俣にいるときには白タク(もちろん、お金はもらいませんけれども)をやったんです。白タクに何の意味があるかというと、会合のときなどに送り迎えをする、患者が、「きょうの会議をどう思うか」とか、「あなたはしばらく来ているけれども、あれは撮ったか」なんて、いろいろ話すわけですよ。それで車をちょっと停めたりしながら、そこで患者と話をするわけです。要するに差しで話をするということを非常に大事にします、向こうの人間は一対一で、膝と膝とをまじえてしゃべることを大事にしますので、そのときにいちばん役に立ったのはタクシーです。白タクをフルに利用しました。
もうひとつは、撮ったフィルムをいつでも患者は見てよろしい、ということです。撮ったフイルムは水俣に送りかえして、借りている宿屋で、編集のために、いつも上映しているんです。で、「あなたのきのうのフィルムができましたから、どんなふうに写っているか、見ませんか」と誘うと、かれらは見にくるわけです。見にきながら「おれはこんなふうに写っているのか」といろいろ言っていますが、そのうちだんだん観客が増えてゆく。どこそこのを撮ったそうだけれども、どれぐらい撮れたのかと言って見にくるのです。
わたしたちがいちばん撮りたかったのはー、いちばん悲惨な、少女で水俣病になったひととか、胎児性の水俣病の家庭とか、そういうのを撮りたいわけですが、まずそれは後回しにして、比較的撮りやすいひとから撮っていくようにしていました。
映画会をやっているということで、わたしたちは呼びにも行きましたし、お連れもして、見てもらっていた。そういうことが習慣づいてくると、どこまで撮ってきたということがわかるものですから、患者のほうから、「おまえたちはうちの娘を撮らないで、ほかの者ばっかり撮っているが、そんなことじゃあ水俣病のひどさなんでいうのはわかるまい」と。(笑声)「うちの娘を撮らなくてどうするんだ」などと言って、怒ってくるんですよ。待っていました、ということで、それを撮ったといったしだいです。その点では、わたしがいちばん最初に水俣病で感じた微妙な患者の心理というか、水俣病ということについての屈折をいやというほど知ったものですから、それ以後のことにはやはり、工夫が得やすかった。そういう点では、第一作がなければ、第二作はなかったと思います。
それで今日の表題の趣旨にそって言いますと、水俣病だけに限らないと思うんですけれども、やはり記録にとって映画というのは、あるところで非常に有利な点があるんですね。どこがいちばん有利かというと、ある対象をまるごと撮る、ことばを含めてまるごと撮る、なにかしゃべるときも、その表情も含めてトータルの記録ができる。その点では、映画はまたとなくすぐれています。が、欠けている点もあります。ことばなんかを撮った場合、しゃべっているひとのテープをそのまま起こしたものが、かならずしもいいとは限らないように、厳密性を問う場合には文章のほうがいいと思うけれども、しかし、それをどういう雰囲気でしゃべったか、どういう顔でしゃべったかを表現するときには、映像はほんとうに力があると思います。
撮る側で言いますと、わたしたちは、たえずスタッフのあいだで、「われわれが撮るときには何かを発見して撮ろう」、「何か新しく見えてきたときに撮ろう」というようなことを、いつも口にしています。これははたで聞いていると、おかしくてしょうがないらしいんだけれども、ぽくたちがよくスタッフでしゃべりあっていたのは、「われわれ自身が見たこともないような映画を撮ろうよ」ということでした。これがわたしたちの「合い言葉」でした。わたしたちが患者を撮ろう、患者の世界を撮ろうということは、やはりひととはちがう、われわれ独自の映像を撮ろう、われわれ自身も見たことのないようなたぐいの発見を撮ろうということで、これはある意味でわたしの記録映画論の中心にもなることでー、記録映画におけるポイントは、「発見」だというふうに思います。
その発見したシーンを、ひとたび編集する過程でもういっぺん洗いなおして、さらに自分じしんで撮ったフィルムそのものが、どう撮れているのか、それがうまくいっているのかどうか、もういちど洗いだしてつないでいったときに、はじめて映画というものはかたちをなしてくる。そういった意味で、はたで聞いているとおかしいというのは、「これまでだれも見たことのないような映画を撮ろうよ」といっても、じつはだれもが撮っているものばっかりしか撮ってないような気がするんですが、撮っている本人としては、やっぱりそれぐらい鮮烈に自分の目から鱗を落として、あらゆる事実を見なおしていくという気構えだけは、やはりスタッフでいつも話しあって、撮ってきたように思います。
それで、きょうごらんになった『水俣病ー患者さんとその世界』の裏話を通じて、水俣病における映画表現の影と光の部分をお話しできたように思います。影の部分は、ほんとうに水俣病の映像は撮れないということ、光の部分というのは、むしろ患者のほうから、この話を撮ってほしい、自分たちを撮ってほしい、といわれること。そのような、「自分たちを撮ってほしい」といわれる環境が生まれるなら、これは映画として信じがたいほどいいシーンが撮れるんですね。
ユージン・スミスが撮った写真で、お母さんが患者の少女をお風呂に入れている写真をみなさんもごらんになったことがあると思います。あの女の子は上村智子というんです。この上村智子さんを、きちんと撮れた作家は、ユージンと、もうひとり(!)ぐらいしかいないんですよ。智子さんは表現することがいっさいできない。お母さんともなにも話すことができない。アッともウッとも言えない。アッともウッとも言えない子供で、たえず痙攣しているような少女ですが、ひとの気配には、ものすごく敏感なんですね。写真家が撮影すると、それを知って、目を剥くんです。きらきら目を剥くんですね。そうすると、それが「水俣病患者の目」だということで、そういった目つきになった上村智子さんの写真がずいぶん出まわりました。つまり痙攣し、目をひっくり返して苦しんでいる写真です。
ところが、それは本当ではありません。その上村智子さんがいやがって、カメラを拒否して、正気で反抗している顔が、それなんです。カメラがなければ絶対にしない顔を撮って、「上村智子さんだ」というのは、無理があります。そういう痙攣発作を起こしている水俣病の上村智子さんですが、平素は非常にきれいなんですね。このきれいな上村智子さんがぼくなんか行くと、ぼくの声をどこかで聞いていて、映画を撮る人間だというのが、頭のなかで何気なくわかっていて、それで身構えてしまう。ぼくらが入っていくと、ワッと泣くんですね。硬直し、痙攣しているわけです。いやなんです。ぼくらを映画を撮る人間だと思うのでしよう。それを撮るにはどうしたらいいかと考えまして、もう撮れなくてもいいというところまで思いつめていました。ロケも最後になってきたころ、その家を撮ったんですが、そのときに、お母さんはぼくらが撮りやすいようにある工夫をしているんですね。ぼくらを含めて、「カレーライスのタベ」をやるわけです。そのお母さんと、スタッフ全員がカレーライスを食べ終わるころまで会話をかわしていくうちに、智子さんがぼくらにたいして警戒を解くわけです。警戒が解けたところから撮影をする。そうすると、お母さんがしょっちゅう膝のうえに智子さんを抱いてしゃべりながら、あやしながら・・・。ぼくらがカレーライスを食べるあいだに、智子さんにわれわれを知ってもらったわけですから、それから撮影の準備をしてカラメをまわすというときには、智子さんはじつに普通の顔で微笑みを浮かべて、きれいな顔になる。それがきょうの映画になった智子さんの御飯を食べているシーンなんです。あれだけきれいな智子さんの写真を撮れたものはほかにはなかった、とぼくは思っています。
それというのも、やはり記録映画のひとつの特徴ですけれども、撮るものとのジャストミートのない限り、撮る対象との関係性がきちんといかない限り、どんなにうまく撮っても、表現としてきれいだとか、撮影技術としてきれいだとかということはありますが、対象じしんがきれいになって撮れるということはないんですね。
だから、ぼくは、いやなことばですけれども、撮らせてもらうということをよく言います。撮らせてもらうというのは、なにもへりくだってこちらが「とらせてください、お願いします」というようなことではなくて、やはり撮れるまで待って、そして明らかに相手と心がどこかで通じあうときまで待つという、いつもたいへん気の長いという感じがありますけれども、そういうものがなければ、やっぱりああいった場合の人間は撮れないだろう、と思います。
ですから、ある言いかたで言えば、あるシーンについては、それ自身が光を放つような発光体になったときに、はじめてフィルムに撮れるんだという言いかたをします。これはほんとうの話で、撮る側もわなわな震えながら撮るというようなところまでいった場合のカットが、みんなに親しまれるカットになって残っていくということを経験したわけです。
あまりこの表題にそっくりなかたちになりませんけれども、映像における記録とは何だろうかということを、もういっぺん考えてみますと、決して客観的な、冷静な、第三者的な記録というのは、映画の場合にはない。いろいろな記録の場合、みなさんがどんなふうにお考えになるか知りませんが、まず選択がありますから、それを選んで並べたうえで、それを構成していくうえで、わたしなりの主観的な解釈がありますから、その撮ったものひとつひとつは、愚直なまでに事実主義的で、事実ばかりを撮ったに違いないけれども、その事実をどの角度で、どのように選択して撮るかということによって、あきらかに客観的なものではなくて、かといって主観的なものとも言いがたいんですけれども、非常に選択的な作家の考えかたを通して、やはり選ばれたものが記録映画として残るのであって、その意味でそれは決して客観的なものではない。だから、客観的であるかどうかとか、主観的であるかどうかという論は、映画ということを考えてみたときに、これは劇映画でもそうでしょうが、とくに記録映画の場合、無意味だと思います。映画というのは選択の結果ですから、そういった意味で、記録にはその作り手のすべてが濃厚にあるということです。まったくの第三者的な、客観的なものが、記録映画に残るとはわたしは思っていません。
最後にもうひとつ、これからドキュメンタリーをつくっていく場合にどうなるかということですが、わたしたちが映画を撮ってきたなかで、いちばん大事だったのはなにかというと、スタッフづくりです。スタッフをつくるということ。わたしはカメラなんか撮れない。カメラマンは録音ができないわけです。ぼくは、録音の手伝いはできますけれども、相手をしっかり見ていなければ、演出はできない。つまり何人かの人間でなければ、ひとつの記録作業が終わらない。このことはマイナスでもあるが、しかし、それはものすごいプラスなんですね。それぞれ個性の違つた、考えかたの違った仲間たちが、映画のスタッフとしてひとつの紐に結ぼれている。そして物事を撮っていく場合に、だれもがそれぞれの考えかたを持っていますから、違いがあります。その違いを大事にしながら、やはりスタッフで共同の感性を磨いていきます。おおむねそれは避けられないことです。毎晩毎晩、映画について語りあいます。そして、もしこういうものが撮れない場合、どうしようかということまで含めて、明日のことを考えながら、構想をとぎすましていきます。そういったスタッフの共同作業によって、カメラマンは自分のカメラをまわし、録音は録音の仕事をやる。そして演出は、両方を目配りしながら進めていくことができるわけです。
いまの時代は、機材が発展しましたから、フォトジャーナリストの仕事、ビデオジャーナリストの仕事など、「ひとりでできるよ」というひとがいます。実際、そういうものが出てきています。テレビの世界ではいい意味での試みもなされてはいます。しかしながら、いままで問題にしてきた映像における記録にとって、ひとりで撮ることでほんとうに大丈夫なのかという点では、わたしは大きいクエスチョンを持っております。というのは、インタビューというのをぼくは大事にしますから、インタビューを撮っている場合に、ぼくがカメラをまわすことができるか、ということなのです。だれかを撮っているときにカメラにスイッチを入れて、自動的にまわしておくことはできますが、カメラはカメラなりに、インタビューのある呼吸にしたがって相手に近づいたり、あるいは手つきまで含めて大きいサイズを撮ろうと思ったり、目が輝いたからといって目に寄ったりするという、カメラ固有の動きがあります。それをインタビュアー自身が気にすると、肝心の話に身が入らないんですよ。インタビューというのはどういうことかというと、相手に質問して答えてもらうことだけではなくて、相手がこれから答えようとすることをあらかじめ先取りして、ほんとうに言いやすいように仕向けていくという対話であって、インタビューするときにはインタビューの演出があるんですね。そのピリピリした緊張感を脇に置いて、自分で演出しながら、インタビューしながらカメラをまわすということは、脳として使う場所が違うと思うんですね。インタビューする脳は右脳か左脳かは知りませんけれども、どこかの脳を使っています。それでうまく撮ろうという脳は、どうも違うんですね。自分でやってみて、うまくいかない。つまり最低限、記録者はカメラマンとインタビュアーーカメラマンはカメラの感応だけを撮っていけばいいが、やはりインタビューについてはインタビュアーが誠心誠意そのひとと向き合わなければなりません。そういうことで言えば、わたしは映画は、やはり複数でつくるものだ、複数のとぎすましたものがぶつかりあったときにいいものができるのだ、と考えます。ぶつからなかったらだめになりますが、そういった意味ではひとりで撮れるジャンルというのは、望ましいことかもしれませんが、ものによってはそれはどうしても不可能だと申しあげたい。だからといって、映画の方式が全部いいとはまいりません。テレビでも、いいものがどんどん出ています。けれども、やはり人間の映像による記録の中身というのは、ひとりよりも二人のほうがいい。二人よりも三人のほうがいいということが肝腎なので、ひとりでできる万能カメラができたからといって、十分なものではないということを、最近しきりにわたしは考えるので、申しあげておきたいと思います。
映像として記録するということがどのようなものであるかということについて、現場的なことを多少お話しできたかと思います。(拍手)
質疑応答
司会 これからしばらく質問の時間をとります。遠慮なくご意見、ご質問など出してください。
質問 今日の記録映画以外のことでも、わたしたちは、そういった類いのものをテレビなどで見たり、聞いたりすることがあります。ただ、わたしたちは実際に被害を受けている人たちとはやはり立場がちがうわけです。わたしたちはそもそも健康ですし、まあ明日があるというところで、げんに被害者である人たちとは決定的に違うところがあると思います。
ですから、たとえばそういうところに撮影に行かれたりするとき、撮影の対象とされる人たちとのギャップを埋めるために、いつも考えておられることがあると思います。それは、わたしたちがこの種の薬害や公害を見たり、それについて考えたりする場合の参考になります。土本さんのお考えを聞かせてください。
土本 患者さんたちは、おまえらに自分の気持ちがわかるかということを言います。その立場になってみないとわからぬことがあるだろう、おまえらになにがわかるかということを、常に言いますね。そのとおりなんです。
実際にそのとおりなのですから、わたしはそういう場面で患者さんたちにいつも、こう応えてきました。あなたの本当の気持ちはわからない、わからないのはほんとう辛い。わからないということの辛さを、あなたはわかってくれるのかと、逆にたずねるのです。これは、どうしようもないですね。立場の違いを問いつめて、「わかるか」といわれても、こちらは当事者ではないから、わからない。わからないのは苦しいし、辛いことだけれども、わからないとしか言えない。
それで、また相手がよくわかるんですね。自分の言っていることがどんなに辛いか、そんなのは無理だと、わりに正面きって患者さんたちにも言ったほうがいい。それが、これまでやってきた、わたしのやり方です。
司会 ほかにどうでしょう。映画のことについてもいいと思います。さきほどの上映会とつづけて参加しているひとが、ほとんどだと思いますので・・・。
質問 土本さんがはじめて水俣へ行って撮影をしようとしたとき、その時点では水俣の人たちは水俣病というのがなんであるか、まだ明確にはわかっていなかった。だから、自分たちの家系から障害をもつ子供が生まれたといった、後ろめたさなどもかなり感じていたのだろうと思います。水俣の患者さんのなかに現実を隠そうとする動きがあったのは、たぶんそうした思いと関係があったのでしょう。
映画を撮られたときに、胎児性の水俣病患者の親たちはなかなか心を開かなかった。それは、かれらが以前からいわれのない後ろめたさを感じさせられていたからで、チッソや行政の側はそれをずっと利用しつづけていたのだと思います。そうした歴史の重みともいうべき重圧が、撮影のときに土本さんを苦しめることになったのではないでしょうか。撮影を始めたときからでも、むろん大変だったでしょう。しかし、それ以前の歴史の重み、日本の社会というものがもつ重圧があったはずです。それについて、土本さんはどうお考えですか。
土本 そのとおりです。医者でもそうなんですよ。診察にまわりますね。ところが、医者がやってくると、患者さんや家族たちはなにか怖がってしまう。医者が来れば、自分が水俣病だということを触れ回っているようなものだといって、どんどんことわってくる。医者にたいしてでもそうなのですから、ましてわたしたちなどの場合はもっと危慎を抱いたのだと思います。
水俣病は、二年間くらい、伝染病というように解釈された。つまり庶民は病気の正体はわからないけれども、伝染病だったら困る。そんなふうに恐れの気持ちをもちながら、水俣病を見つめていた時期があったと思うんです。つまり、患者を隔離して水俣病を見つめていた時期があったのです。それが、伝染病じゃない、毒物による中毒だということがわかった。みんなは、サッと安心するのだけれども、伝染病だと思うことによって、被害を身内に近づけないようにした。その残像は今日まで、いまだに尾をひいているような気がします。
それがごく初期だとすれば、胎児性水俣病の子供が生まれたときに、これはやはり遺伝する、子々孫々まで崇るのではないかというふうにとらえられた。じつは、そのころ胎児性水俣病はそんなものではないと、学問的にはすでにクリアになっていた。ただ、そうなってはいるのですが、そのときもうできてしまっていた思いこみというものがある。今ではだいたいとれているはずなのですけれども、それでは、胎児性の子供についてどう対応すればいいのかとなると、やはり遺伝という偏見をどうしても脱却できない。これは水俣病発生のときから、胎児性の子供たちが生まれたときから、そうだったのです。
いまひとつ、これで三つになると思いますが、ニセ患者という誹謗です。水俣病には誰の目にも見える顕著な病像から、ほんとうに接近して日常生活まで見て考えないと、水俣病とは見えない軽い病像とがあります。だから、そういった人たちにたいして、よくニセ患者という言いかたがされる。そういう言いかた、そこから生まれる差別、これは大きいですね。患者にとって、ニセ患者といわれるのはなによりいやなわけです。人格的に詐欺師だとか、犯罪者だとか、そのように見られているのだ、というふうに患者さんたちの側は思いますから・・・。
ですから、伝染病と周囲が思いこもうとした時期と、それから胎児性の子供を遺伝病だと思いこもうとした時期とは、錯綜していたというのが実情ではないかと思います。
質問 さきほど土本さんは愚直なまでに事実を撮ると言われました。それと、つぎにくる作業として選択し、編集するということとは、ちょっと違うと思います。今日の映画『水俣ー患者さんとその世界』の場合、選択、編集するときの基準とされたのは、こういうものを撮りたいと思っておられたのは、どういうことだったのでしょうか。
私の考えで言えば、こういう問題だと、すぐにチッソを告発したり、国や厚生省を攻撃するようなことがまず出てしまう。だけど、この映画ではそうではない。人間の生命みたいなことを、あの映画から受けとめて感動しました。その点、どうなのでしょうか。
土本 おっしゃるとおりで、そこのところを出したかったということがあります。実際にわたし自身が、前に手痛いひっかき傷を残しています。ところが、水俣病に近づいていって、なかに入ってみると、患者さんたちは意外と明るいし、苦労しただけあって、非常な優しさをもっている。かれらや家族の人たちを見ていると、妻にたいする想い、子供たちにたいする想いなどが輝いているものですから、これは意外だったんですね。やっぱり、ああ、なるほどなというふうに思って、それがなるべく出るような映画にしたいなと考えました。
映画ができたときにはとてもおもしろい映画だと、まあ不謹慎きわまりないと思ったりもしたのですが、しかし、自分はそういうものをどこかに想わなければ、映画はつくれないと思いますね
質問 ひとつだけうかがいます。あの映画のラストシーンは、ご詠歌のような音楽でまとめられている。それはチッソの株主総会の場面からのひきつづきで、映画は荒れる海の場面をずっとパックに流しながら、非常に美しいかたちで終わります。そのご詠歌らしいものは、ほかにも映画の途中で一度流れます。あれは、どの程度計画的に行なわれたのでしょうか。はじめの構想や映像で記録するシナリオなどの段階から、あったのでしょうか。
土本 結論から申します。ご詠歌は、撮影している途中で株主総会に乗りこもうという話が出てきました。みんながどうやって乗りこむのかなと思っていたら、患者さんたちが考えだした方法は、勧進姿というか、「同行二人」と書いて、自分たちは赤旗、青旗をもたない姿で行く、祈ってやるんだということになりました。会社のやつらは愚かだから、祈ってやるんだというわけです。そんな感じで、患者さんたちは自分を非常に厳粛にとらえて、歌の訓練をしていきました。つまり、ご詠歌は撮影の途中から出てきたことなので、はじめの構想や計画にはありませんでした。
それから、そのご詠歌が、株主総会の会場に鳴り響いたときの衝撃が、また大きかったのですよね。あの歌はとても単調で、わかりやすい言葉です。ご詠歌を選んだというのは、まったくかれらのなかから出てきたのです。それを、映画に使いました。
質問 土本さんは、水俣の映画をライフワークにされたということですが、そうしたライフワーク的な仕事をやろうとか、そういうお気持ちから一三本の作品を撮られたのでしょうか。また、そうした仕事を、これからどのようにまとめあげていこうと考えておられるのでしょうか。
もうひとつ、ぼくたちはこうした映画などに接する機会がなかなかありません。土本さんの作品は、もっといろんな、たくさんのひとに見てもらいたいと思います。ビデオなんかがあれば、見る機会もふえると思うのですが・・・。
土本 わたしたち映画の人間には、やっぱり非常に近視眼的なところがある。映画をつくってから二年間も見てもらえばいいんだみたいなところがあります。そうした考えは、映画の世界に入ったころからありまして、長い期間にわたって作品を見てもらいたいといったことは、あまり考えていませんでした。それぞれの映画をつくったときには、そのときなりに見てもらったわけですから、それでよしとしているところがあるのです。ただ、水俣関連の作品は、いまビデオにもしています。
わたしたちが自主映画をやった唯一のよさは、今日みたいに映画を見たいといわれれば、フイルムをもってこられるルートをもっているということです。たとえば劇場公開の映画などは、なにを見たいといっても、なかなかもってこられません。ところが、わたしたちは自分たちでフィルムをもっていますから、電話してくだされば、いつでももってこられる。ロングセールという態勢はとっています。
それから最初におたずねのあった、まとめるというのは弱いんですよね。見当がつかないのです。いままで水俣の映画を撮って、知識としての水俣は撮った。ある意味で、水俣のもっとも水俣らしいところをかなり出してきたという自負はあります。そういう映画を四五分くらいのフイルムにまとめたものもある。ですが、そういうことではなく、水俣病を四〇年撮って、「いま水俣病を、あなたはどうとらえますか」とたずねられるとき、わたしは、いまとても困っています。ずばり、そういうことをたずねられるのは、怖くてしょうがないところもある。水俣病の映画は、どこかで水俣の患者さんたちの固有な闘いを見つめて、そこから生まれてくるいろんな動きを頭に入れてつくっている。闘争映画をつくったつもりはありません。患者さんたちのなかのムーブメント、心のなかの闘いみたいなものを見ながらつくってきました。
ところが、今度は「和解」ということが起きました。わたしは、一定の時期だとは思いますけれども、いま水俣はとにかくへとへとになってしまっている。「和解」までもっていくのが精いっぱいだったわけで、いまは動きがないのです。わたしが見えないだけではないかとも思ったりしていますが、かならずしもそうではない。いま、患者の運動はもっともエネルギーの衰えた時期だなというふうに、わたしは思っています。だから、なかなか自分で記録を撮っておこうという目安がたたない。もう少し時期を見てやっていこう、と考えています。その時期は一〇年か、それくらい先になるでしょう。
なぜなら、いまの「和解」ですが、そのことで、つい数カ月前に患者さんたちは、それこそ苦渋の決断を余儀なくされた。すべてを患者に押しつけるというかたちで、一人当たり二六〇万円という非常に安いお金が薄く、広く配られたわけです。この金を受けとるか、受けとらないか、患者やその家族の人たちの暮らしを考えれば、受けとらなかったら、大変ですよ。ただ、患者たちのもともとの要求は、水俣病と認めてもらおうということです。しかし、政府は水俣病と認めて和解金を出しているわけではない。政府は、あなた方がニセ患者といわれるいわれはないとは言いますが、水俣病であるとは絶対に言わない。水俣病患者だというふうには考えていません。だけれども、あなた方は有機水銀の影響がまったくないというわけではなく、補償を求めるについては無理からぬ理由があるので、あなた方を対象として一人当たり二六〇万円の和解金を出すというのです。
同じような病状の人でも、ずっと前に水俣病審査会にかかって、患者として認められた人にたいする補償は一六〇〇万円から一八〇〇万円という数字でした。この金額は、当時としては高かった。ただ、いまではいっこうに高いとは思いませんけれども・・・。
エイズ薬害の問題でも、補償額はやっぱり四五〇〇万円だったでしょう。そういうことがありますから、こういう疾病にたいする補償額からいったら、一六〇〇万から一八〇〇万円でも、高いなどとはとてもいえないのに、その金額をさらに下回って二六〇万円というのは、どういうことかと思います。だから、そのことでは、受けとった和解金はおそらく一年もたったら使いはたされてしまうでしょう。その後、病気が治ってしまえばいいのだけれども、病気は治らない。そのときに、またかれらはどうするかですね。
司会 ありがとうございました。もうお一人だけ、どうぞ。
質問 よく障害をもっている人たちはかわいそうだとか、つまり同情するところから、ことは始まるわけです。土本さんは、患者さんにたいしてどういう思いをもって映画を撮られていたのか、それをうかがいたいと思います。
土本 わたしには、たぶんたたかれることになるのでしょうけれども、同情でなにが悪いかと思うところがあります。ほんとうに酷い目にあっているひとに同情をよせて、どこが悪いかというふうに思います。それは、むろん同情にあぐらをかいて、相手を差別するようなこととはちがいます。そうしたおおもとの姿勢とは別に、細かい配慮が必要なのは言うまでもありませんが、実際の映画と切り離して、患者さんや水俣の人たちにこう向き合ってきました、とういうようなことは言えません。心のどこかで、同情でなにが悪いんだというふうに思っています。そういう姿勢はよくないというのであれば、どうぞ批判してください。わたしは、そう思っています。
司会 最後に司会者として、ひと言つけくわえさせてください。
水俣を見る場合に、石牟礼道子さんの『苦海浄土』というのは、もっとも大事な本のひとつだと、わたしは思っているのですが、今日このフィルムを見て、『苦海浄土』やご詠歌や、『水俣ー患者さんとその世界』という映画のタイトル、それに水俣という現場の感じもよくわかりました。また水俣の患者さんや家族の人たちが初期の段階で、こんな病気を出して恥ずかしいと感じたりした意識の問題とか、患者さんやご家族の意外なほどの明るさなど、そうした問題が、このフィルムを手がかりにすることで、非常に納得がいったと感じています。はじめに土本さんが言及された、水俣の美しさということ、これについては同じく石牟礼道子さんの著作で、朝日新聞社から刊行されている『椿の海の記』という本があります。そのことを紹介して、この会を終わりたいと思います。