三里塚-第二砦の人々 『公明新聞』 10月26日付 公明党機関紙局 <1971年(昭46)>
三里塚-第二砦の人々 『公明新聞』 10月26日付 公明党機関紙局

マンハイム映画祭・最高賞受賞作品「三里塚-第二砦の人々」

映画性で世界の水準を抜く

 小川プロの最近作「三里塚-第二砦の人々」が最近、西ドイツ・マンハイム映画祭で見事最高賞の栄冠を勝ち得た。同じドキュメンタリー映画を志す私にとって、刺激的な出来事でもある。というのは、日本の土壌そのものといえる「三里塚」を撮り続け、現在世界的な映画のスタイルや方法論のはんらんのなかにあって一見、無縁ともいえる独自の活動を続け、記録映画における最高のスタイルを映画のある必然として選び取ってきた小川紳介の芸術が、ここにある日、世界の記録映画の最前進点に浮上していたという点で、画期的なことと思うからである。今まで、その五年間に及ぼうとする「三里塚」への腰の据え方の徹底的態度に対する称賛、その独自な上映方法、自主的な映画つくりの創造的態度への評価が、その作品の質についてより、やや過重ともみえる評価を与えられていた印象をぬぐえない。もちろん、この五年、いや処女作「青年の海」からみれば足かけ七年の小川プロの足跡のなかで、商業ルートにいっさい頼らず、自主上映し、そのなかで作品を展開してきた映画運動が、今日、映画を映画館で見るという常識を破り、相よって映画づくりの場について相談し、相よって映画を見、そしてやむことのない気持ちと感想を交し合うという、創造された作品と見る人、見せる人の磁場をつくってきたことはいうまでもなくユニークをきわめ、その点の前衛性はしたたかに示されてきた。しかしこの「第二砦の人々」は疑いもなく、その映画性において世界の水準をはるかに抜き、その映画論が世界の映画のなかで今後、一つの論議を呼ぶものとなるだろう意味において、新たに評価されるのだ。小川紳介は、日本独立プロの最盛期もすぎかけたころ(今井正の「米」などの作品の助監督の末端にいた)遅れてきた青年の一人である。昭和三十二年ころから、岩波映画でPR映画の助監督の職につくまで、ヤクルト配達や、あらゆる仕事をしながら、映画と、その大学時代からの一つの思念の根拠である民俗学への関心をかかえて青春を生きてきた。私や、黒木(とべない沈黙)、東(やさしい日本人)などとの交友はその時代からのものである。彼は私たち仲間のなかでも最も不遇の映画青年であった。そのバイタルな構想力と腕力は、いつも岩波映画という器の中では身の丈に余ったからである。その後、あいついでフリーとなり、それも彼にとっては失業としてのフリーであり、けっして前途あっての自由宣言ではない。彼が処女作「青年の海」、第二作「圧殺の森」を若い未経験に等しいスタッフ、そして友人として交際深いカメラマン大津幸四郎らと組んで発表するまでの二、三年、彼らは全く食えなかった。その貧窮の極端さにおいて、映画にかける何者かのテーマの一生分を獲得したといってよい。いつも体制のトータルからずり落ちている人々を主題として身じろぎもない姿勢がそれである。羽田闘争の記録「現認報告書」そして三十七年冬からはいった三里塚、そして今日まで四部作「日本解放戦線ー三里塚の夏」「日本解放戦線ー三里塚」「三里塚第三次強制測量阻止闘争」を経て最近に至る、延べ七時間二十二分の全記録を背負い続けて歩んできた。日本の記録映画が、ひとり亀井文夫の戦前・戦中の反戦をモチーフとした「戦う兵隊」「上海」そして戦後の原爆をモチーフとした作品を除いて、ほとんどその先駆的仕事をする人々を見失った時期から、しかも、映画界の斜陽化と、第一次-独立プロ運動の崩壊という最悪の気象条件のなかで飛び立たなければならなかった彼の映画が、そのエネルギーの思想的補給路を三里塚におき、その三里塚との半住民的同化のなかで、その歴史的うねりと、人間の真実をカメラで撮る仕事をしてきた。そのなかで時間とともに成熟させてきた彼独自の映画的手法が、何ゆえに新しく画期的であるのか。彼と若い仲間の映画のモチーフは生死をかけたコミュニティーの在所を求めることにあるように思える。三里塚の闘いにカメラを向けてもその物理的な肉弾戦や、機動隊との衝突といったダイナミックな画面にはほとんど関心は軽い。そのシーンの前後に人々の心に沸々と静かに生起する常民の心にいつもカメラとマイクはひかれてやまない。闘いが権力の手によって圧殺され、空港が一見完成しようと、農民の怨念がどこまで昇華され、不滅の闘いの思想として、その農衣の内側に生きつくか、それに対して楽天も悲観にももはや染めることのできぬ闘ってきた農民百姓の生きざまを描き小川プロもまた、それに根づいて生きることを映画として率直に宣言しようとする。そんな映画を、営々と繰り出すようにつくり続ける。そこまで映画は人々の歴史そのものに交合し始めた。それは小川紳介とそのプロの仲間がある日気ついたら、地表に突き出した露わになった頭で、その首で見回したときの映画的風景であったのだ。前人未踏のドキュメンタリーの作業として"してしまった"のだ。

生死をかけた共同体に迫る

 映画は画と音だと小川紳介はいつも強調する。その二つの要素によって表現されるのだと。これはあたりまえといわれるかもしれない。しかし映画はこの二つがいわば自在になった時にその虚構性において、その作為性において、大いに映画的真実から遠のいたことも事実である。ある有名な作家のテクニックについての述懐として「画だけで六十点にいっていれば、せりふ・録音で七十点、編集で八十点、音楽をつけて九十点と、宣伝と世に出し方で百点」と冗談めかして言われたことがあるが、それは一面、今日のドキュメンタリー映画といわれるものさえもむしばんでいる映画の常法である。映画がフィクションとしてひとくくりに、くくられる危険を生んだのは臭覚、触覚を除くすべての感覚を支配し、時間共有をしているからである。彼の方法は今回の「第二砦」において最もシンポリックに示されているように、同時録音とワン・ショットの長回しによる表現である。修羅場ともいえる撮影現場でカメラと録音、そして演出といった三ポジションが一つの表現化対象に向かって的確に作業するには、ある人物が、次に何を行為し、何をしゃべりだし何ゆえに変ぼうしていくかについて共通の洞察力と感応力を必要とされる。音とカメラが別々のポジションをとり、時をずらして対象把握するなら、その編集、録音にはまだ再創造の余地と計略が残り得る。しかし、同時録音でスタッフが一体に目の見えぬ紐でくくられた撮影では、そのシーンは、その現場ですでに百点の表現行為が果たされなければならない。それでいて、テーマも劇性も、真実も、情況もすべて述べられなければならない。
 小川紳介とそのスタッフはこの困難な方法を選びとることで、淡々たる長回しのフィルムを通じ、見る人々に、その強烈なアクチュアリティーと、その修正不能な「正確さ」と対象とカメラの対話性と、生身の動きとともにその美しさもいっきょに獲得する手法を完成した。その農婦から農婦へのカメラのパンの途中に映る何気ない生活器具や、彼らのこもった穴の中をさぐるカメラワークのもつ息づかいの伝えるもの、そのやさしい眼くばりは、五年間、彼らと映画をともにわかったのではなく、まさに血を分けたことなのだと感じさせる。映画を撮りながら、そのモチーフと私の独断する「生死をかけた共同体の在所」に迫っているのだ。