私論“滝田修”-「パルチザン前史」前後 滝田修著「ならずもの暴力宣言」 初版3月1日 芳賀書店
私にとって、映画をつくることは、人と出遭う事業である。最近、私は東京という、権力機構の中枢の地帯で仕事することに躊躇している。限られたごく少数の人を除けば、九州水俣の石牟礼道子さん、陥没地帯に根づく上野英信氏、森崎和江さん、新島の広野広氏、駿河湾の甲田寿彦氏、三里塚の戸村一作氏、そこにすわりつづける小川紳介氏、東北のむのたけじ氏らの事業に心ひかれてならない。滝田修が関西に腰をおろしつづけて、「関ヶ原からこっちに来ると、何やら気が楽になる。東京との境い目は、どうやら関ケ原やな」などと、空気のちがいまで味わっているのを見ていると、これまた滝田であるなと思う。
最近出あった人のうち、滝田修と石牟礼道子さんはその邂逅の一瞬が奇妙に似ている。会釈の頭をあげた時から、未知なもの同志がもちあう何かかたまりが、取りのぞかれているという人があるものだ。胸襟を聞くというのとは違って、その人はその人以外ではないという等身大のイメージがまずある。どこか開かれた境地に到った人の自在感が、澄明にそこにあるのだ。
私は人と出遭うことでのみ、映画の柱をたててきたような気がする。映画はひとりで出来ない以上、何人かのスタッフと一緒になって、お互いに溶解しあい、とけぬ異質の核を発見し、そのちがいを確かな基礎にして対象に照明をあて、選び、撮る。その意味で当然のことながら、私にはカメラマンをはじめとするスタッフづくりが映画の生命と思っている、それ以上に、映画をもって、むきあう人々との出遭いは更に重い。滝田修のように、『パルチザン前史』の企画の時から話しあい、映画に身をさらし、思いのたけを述べ、しかも出来上がった映画の中の自分に新たな責任を負っている人間は私にとって、私の作品より大事なものであることは言うまでもない。映画についてある週刊誌で行った対談を読んで、石牟礼道子さんが、水俣や熊本で、滝田という人間はとても面白いと、それを持って読め読めと誰彼なしにすすめているという話を風の便りに聞いて、滝田が無性によろこんでいた。「あれはいい女ですわ!」と全く呆れるほど断言的にいうので大笑いした。しかし物事は予感的に動くとみせかけて、ある必然をつくるもので、『パルチザン前史』を作ってから、私は、石牟礼道子さんの霊媒的な手招きによって、水俣にいき、五ヵ月そこに居ついて『水俣ー患者さんとその世界』という次回作を作ってしまった。そのロケ中、私は、『パルチザン前史』を水俣の患者さん達に試写してみせたのだが、その特有の用語は聞きながして、老人たちは、「京都戦争」のシーンにどよめき、滝田を「ホーチーミンみたいごたる」といって良き若者を眺めるように親近の情を寄せているのをみると、このところ、映画と生活との空間時間が、何か不思議によじり込まれた一本の綱のように見えてくる。
映画『パルチザン前史』の末尾は、滝田が、共産主義的共同労働団のいとぐちをつかむべく、琵琶湖畔で働くシーンで終っている。そのシーンについて滝田は機会あるごとに、「そうせねばならんといつも考えながら、事、志と反して演説してまわっている・・・」と聞かれもしないことを、省みて大声をあげてわびながら、しかし、われわれが、それをしとげなければ、新らしいプロレタリアをみつけることは出来ないと訴える。その訴えはいつもそこで泣くがごとく裏切で、確信的であり、滝田の言葉の魂の所在をみせる。
「・・・政治というものは、こういう奴がやるもんやという風に、大体なっておったもんだけれども、そういうもんじゃない。いまは、政治というものの質なり、政治の中味なりー政治とはどういうもんかが問われている。そもそも一切の矛盾、一切の苦悩、これを集約する所のものが『政治』のはずです。モトモトの政治のもとをただせばこれであります。これの一切の最高の表現が、何かいうたら暴力なんだ。暴力というのは、従ってこれは人間性なんだ・・・」
これは、映画が完成して、はじめて観客の前に提出した頃、滝田の行った演説である。『パルチザン前史』が終った時点と、この演説の時点の間に、一一・一六佐藤訪米阻止の闘争があり、蒲田でつくられた「自警団」にひるんだことを率直にのべ、彼が、自分たちの暴力をのべた部分であるが、私が、最も感動した滝田の心根を語っているので、更に引用をつづける。
「・・・では、何故、われわれの暴力が弱いのかという問題だ、それはわれわれが『知らん』からだ。学生しか知らなかったからだ。われわれは農民を知らん、労働者を知らないーいわんや在日朝鮮人や未解放部落の諸君を知っとるか? 知らんやないか。こんなことで暴力が強くなる筈はない、実際、不退転の決意で敵の眼の前にいったって怯まぬ、そういう絶対に怯まぬやつが日本にも居るわけです。そういう奴がおるーそういうそれが、何を言うとる、何を食うとる、どんな家に住んどるのか、どういうイキサツになって、どんな話になっとるのかということを、われわれは知らん訳だ、そんな奴は駄目なんだ、僕も駄目なんだ、これを知っとったら絶対に勝つよ、それは。・・・ (中略)・・・そういう戦土の共同体を形成することが必要なのであって、『党形成』の『階級形成』のうんぬんというような、キレイゴトの話は、これはもともとの『人間』を押さえんと、そんなものホイと通っていくものか、大衆の顔も知らんような百姓の顔もみたことないような、或いは労働者ー下請・孫請の労働者の生活、そいつらの呑む酒がどういう酒で、そいつらの食うホルモンが犬のホルモンであってどうのこうのという話をーむかしはこれを素朴実感主義と言ったが-そういう話をさておいて、ホイホイやったって、敵を打倒できるものじゃない! 」
水俣で、わずかの間だが、石牟礼道子さんを見ていると、水俣病患者でないことを恥じらっているフシがある。彼女の献身性には女であり主婦であり、作家であるすべてのチャンネルを動員した圧倒的なこまやかさと、自然さと甲斐甲斐しさで満たされている。彼女の得た聞きがきには、そのすべてがぬりこめられているのだが、患者さんに対し、患者でないこと、患者でしかわからぬ苦悩と生理を憑きもののように物まねからでも没我没入したい化け物のような情動が、実は全く物静かに流動して、ごく自然のたちいふるまいとして患者の心の扉を開かせている。それは骨肉のものの情よりもっと普遍的である様をとって石牟礼道子さんは、まごうことなき石牟礼道子さんとなって家々をさまよい歩いているようだ。
私は、滝田が物を語っているとき、滝田にふっとその背中に背負っている「者共」の気配を感ずることがある。自分と一緒に闘い、自分のアジテーションで闘ったひとりひとり、それが負傷し、タイホされ、屈辱を味わったであろうものを背中に背負って、いまこの言葉を語っているのだと思うことがある。彼は大声のアジテーター として、長く引用したような文句をもって熱い言葉を交すこともあるが、彼とむきあって、相語るときの彼の素晴しさはまた魅力的の一語につきる。私は彼の文章が、数学的なまでに論理的な書き方がされていて、時に解読しがたい、その意味では申訳ない友人であるが、彼の物言わんとするところが、いつも語りつくし、人との間に試しつくされた言葉として文章になっているがゆえに、つねに大衆的な表現と性情をたたえているのだと思う。
十五、十六の少年ならいざ知らず、俊才といわれ、大学院から助手へのコースへ進むまでに、通俗的な世のごみやこけやよごれがなかったとは露思わない。彼自身、学問が学問だけの中でもつ奇体なよろこびを知ったことを語ってくれたことがある。ロー ザ・ルクセンブルグへの傾倒も、一面では、強烈な読書人の作業としての頂点であったろう。そうした学究の道から、最もヤバイ世界への下降志向は、彼のコレクションにある様々な人間への有形無形のくびきであり義理であり、それゆえに、それを人間の粋として編み直し、「おのれ怨念をわれに与えよ!」というが如く、闘いへの道に自己転回を計ったに違いない。断片的にしか語らないが、山村工作隊時代の実兄のこと、小学校時代の朝鮮人の友人等が、闘いが煮つまるにつれて、浮上して鮮やかに彼をとらえていく時間を、まざまざと持ったことがある。
彼にとって、映画『パルチザン前史』は映画でなく、自己の語らいであり、闘いの表現であった。京大文学部のバリケードの中や、私たちスタッフのアジトで夜を明して語りあうことがあったが、私は疲れを感じなかった。いつも本当のことばかり話しあうのは実は難儀なことが多い。 本当のことばかり話しあって、疲れないのは稀有の事態ではないか。つまりこうである。彼は日頃思っていることを喋りたいから喋るのではない。それは一方交通である。最もひどい場合には説得すべく諮る場合である。これは肉体的格闘のごとくシンドイのである。しかし彼の対話は、その言葉が精子のように泳ぎ、むすび、ひとつの懐胎を求めて動きまわる。一つの事象が、真逆に転倒する言葉、正反対の意味づけで登場しようとも、それは極めて発作的にみえて、発言している滝田自身が一瞬、アレアレと困惑するていの生き方を始めて、然り、否、然り、否と緊張した道行きをはじめ、あらゆる卑小卑俗なことがらにも触れながら、あやふやな航跡を次第に太いものにしてゆく。それは、喋りながら、話し相手にも面倒を見てもらいながら、彼自身の個有の発見、ロジックが誕生するまでつづくといったもので、決して借りものでなく、決して啓蒙者の言でなく、決して口舌の徒の陶酔ではないのだ。汗水たらして一つの思念を生み落す、その時、私にはひとつの思想の誕生に立ちあったひとりのように快い充血感があり、それは私にたしかに刻印されて、忘れることの出来ない言葉としての彼を刻まれるのである。語り合うとはかかるものであったかと、それは新鮮で、創造的でさえあるのだ。そんな日々の連続が、数ヵ月かかって、映画としては『パルチザン前史』となり、交わりとしては更につづいて『水俣ー患者さんとその世界』の創造過程にまで、彼はたえず、私の背中におんぶお化けのようにくっついて、語りつづけてくれているのだ。私はそういう意識を五ヵ月の水俣滞在中少くともたもちつづけた。
ではそんな話し方が何故に出来、それが何事をしでかそうとしているのか。 私はゲラ刷りも見ていないし、諸論文を通読してもいない。大体、後書などとやらは初めてかかされる破目であるが、彼が、私の仕事の転機となり、今もって弾条の役割をしているのは何か。去年の冬、長田四郎という劇映画監督が『パルチザン前史』をみて(三度観たという)、大島渚氏に、滝田を弥勒菩薩に擬し、彼をそう観たが間違いかと念を押しながら、彼の所業を仏教的に解明して飽くことがなかったという話を大島氏から聞いた。乱世にしか姿をみせず釈尊の救いにもれた衆生のために下降し世が平穏の時は、どこか人知れぬところに身をひそめるという未来仏・弥勒菩薩のことなど殆んど知らない私ではあるが、何か面白い気がして、あのひげづらの風貌が一瞬奇妙に思いかえされた。つまるところ、私にとって、何か事を考えるに当って、滝田の言う、「日本の革命の母胎は、体制の支配からこぼれ、たえず怨念を吐きだすところの、限界領域外の人間たち、支配の構造の中にくりこまれることのない人民たち、その顔を、その生活を、その喰い物を知れ、それを知らんで何で勇気が授るか! 」といい切った時の、一見思いつきとも思える程の突飛で狂的な表現をとった言葉に私は自身つきさされる。絶対に叛乱せずにはいられない人民、かつてのポツダム労働組合にも、戦後民主主義にも無縁の、よりよき生活をめざす小市民の脚の下にるいるいとある無名の人々しか確乎と信じるものはいない、それを背に欲しい! という彼の選択の言葉によって、彼は自身のいわゆる「大学助手」の身分をまず引裂いて示しているし、裏切ることのない定点を引きつけて、そこから諸々を起そうとしている。それは、私にとって、そのまま一つのモチーフとなりそうである。水俣でも患者さん、つまり漁民は水俣にとって全くもれ落ちた人々であった。労組ですら敵対した時期があった、それなしに十八年間未解決のままの悲劇はありえない。彼の言う人民、在日朝鮮人問題、部落問題、大企業の中の下請・孫請労働者等、それらが、私のモチーフとして、私の作家的拠点のつくり方と相ないまざって迫ってくる。どの一つも、気の遠くなるように困難な対象世界ばかりであるが、私はいま、それへの出遭いを求めることなく、映画を選びとってしまった私の生き方はないと思える。滝田は、私に、私たち小川紳介をふくめ、映画をつくることと政治をしていることとの区別のない世界がある、そのような分業が不分明になり、無定形なドロドロのカオスが、今の映画だといって、私に一本釘をさしたことがある。彼は釘をさしたつもりではないだろうが、私はさされたもののみがもつ友情を感じた。つねづねかくあるべき党を夢想して、未だ党ならずの痛覚をもってのみ、連帯してゆきたいと思ってきた私にとって、滝田修は、私のまだ至らざる党のありかをかいま見せてくれた。それにしてはあまりに鈍で、怠けものである私であるが、記録映画のもつ表現行為の個有の運動自体が、スタッフという細胞をつくることから始まり、対象世界の人々とのかかわりからしか生まれない事業である以上、私は、映画で事を起しつづけなければならないだろう。