映画『水俣』をつくらせたもの 「熊本学生新聞」 3月26日号 熊本大学学生新聞会
運動と映画とのかかわりあい、運動に「役立つ」映画という、いわば短絡させた言い方に置き換えてもいい。運動と創造とがどういうかかり合いを持つかは、私たちの中でも長い間、一つの継続的な課題であった。映画『水俣ー患者さんとその世界』のプロセスをふりかえるとき、いわばこの映画のうらに厳然とあった運動のあり方についてふりかえらざるを得ない。
私は学生時代に日本共産党早大細胞の一員として、学生運動を体験している。故あって、今日どの党派にも属していない。いわば抜け忍であるが、その痛みをもちながらも、あるべき「党」を希求する心情は、抜け忍ゆえに複雑に私を呪縛している。戦後二十年余の党派政治は、一つに「大衆宣伝」、「大衆教育」の具としての映画を彼等なりに重視してきた。ことにこの数年の日共路線で作られた劇映画、記録映画(これは極めて数少ない)が、つまるところ統一と団結をうたうエピローグに終るのをみると、映画をつくるプロセスに於ける誤った委員会の論理の存在を推測せざるを得ない。日く「シナリオ委員会」日く「製作委員会」等の名のもとで、「大衆から学び、大衆から教えられ、大衆に帰するものとして映画をつくる」こうした論理の悪しき運用によって、本来極めて内的回路の独自性の強くあるべき映画が、そのつきつめるところで運動体(組織)の意志にそい、或いはそれに主体をゆだねていくことの屈折を見ないわけにはいかない。
私は幸か不幸か、今までそのような組織体にもたれかかりの出来る映画づくりの機会をもたなかった。むしろそれを避けつづけてきた。新左翼の諸党派、諸同盟に路線的に共鳴するものがあっても、そのどれにも依拠することなく映画をつづけてきたのも、本質的に運動と映画の関係について、つねに日本共産党のもつ短絡した映画の「使命観」、「価値論」をどこで明確にその論理を区分できるか残念ながら分らなかったからである。
以上るるのべたのは、映画『水俣』において、私がどのように運動体、「水俣病を告発する会」「水俣病市民会議」とかかわって映画をつくってきたか、さらにありていに言えば、この映画が、この運動体の運動なしには、着手されもしなかったし、製作もされ得なかっただろうと断言できるほどの強さで、運動と映画のかかわりあいをもち、それでいながら、私は殆んど自由に、そのおのれの欲するところに従つてのみ映画をつくり得たのは、何故かを解いてみたいからである。
映画『水俣』は、その映画をつくる「必要性」においても、その「有用性」においても「タイミング」においても七〇年に作られねばならぬものとしてあったことは、映画を作る私だけでなく、少くとも運動にかかわる人の一致する意志であったろう。ことに、七〇年五月の補償処理委員会による水俣病「始末」行為は、これを弾がいするか見逃すかは、「告発」の連動にとって、全くその運動体の生死にかかわる二者択一的な行動であったし、その意味は時間の経過とともにますます重いものとなっている。
この五月の時点、私たちは高木をふくめ、創造の動機の一部を、石牟礼道子氏が『苦海浄土』で示した作家性の強烈さの火照りかえしとして、映画として何事かを起さねばという灼かれ方として熱していたのみであって、主体的に、患者さんにカメラをもって対面、対峙するだけの「魂」をもちうるかについて、自信がなかったし、石牟礼氏の土着にくらべ、われわれ浮遊の徒の生きざまが自ら見すかされる態のものであり、しかも私のように五年前、「使命観」のみを手にして猪突猛進して、その見せない壁に首の骨を折った前科者には、どこで真のハラを決めるかが、日々の問題であった。二月頃から、「口ばっかりでミナマタミナマタといっていた」のが実情であろう。
高木隆太郎(プロデューサー) は徹底して、パースン・ツー・パースンの男で、あらゆる仕事を人間と人間のかかわりあいとその組合せに還元してからでないと物を言いださぬ男で、彼から熊本の「告発」のメンバーの話をきかされていた。その運動の主体的で自立的な、いわば新らしい組織論を内包している運動体とは聞いていた。彼らと映画の事について語り得るという知己をもつものの自信が彼にはあったが、私にはまだそれがなかった。 一挙にしてそれを獲得できたのは五月の東京行動の中である。
私はかなりしばしば五月二十日頃、熊本の渡辺京二氏が、東大都市工の一部屋で、「自分らの行動」について語ったことにふれ、それが私をつきうごかし、跳ばしめたことを語ってきた。その時、熊本は「肉体的にも、一任派に対する処理委の処理を阻止する!」という決意の周辺を語った。「かりに患者さんと相談したら、そんなことはせんでくれといわれるかもしれない。しかし、水俣病の告発にかかわってきた私たちは、最後には私のもつ一個の肉体を投げだし、すわりこみ、バリケード、あらゆる方法でこれを阻止する行動なしには、再び熊本に帰れない。これは私たちの勝手であって東京の支援の皆さんに同じことをやってくれとたのむつもりはさらさらない。私たちはやりたいのだ。」という。この行動原理は、話はとぶが、私が前作『パルチザン前史』において、戦士の形成とその条件をめぐって、主人公ともいうべき滝田修が、ようやくたどりついた主体形成と闘いの原理と、期せずして全く同じ地点に到達していることに私は驚倒したのである。これだけの結論をもちうるに至った「告発」の集団の思想史はどのように深いのか、その組織はどのように前衛的であるか、そのメンバーのひとりひとりの主体はどのようにナイーブで生生しいものであるか、私はほぼ戦慄的に「告発」集団の魂のありざまを直観できたのである。
私は十五人のメンバーと共に厚生省にとびこんだが、はっきりいえば体だけを武器にどうころぶか分らぬ行動をしたかった。パクられることをどうとも思わなかった。しかし、私は映画をつくるものの本能として、次には運動者としてでなく、映画を撮るプロパーとしての人間の形成が、この道による以外にないという自己決定を無意織にしていたと思う。あの日々それはどんなに「記録映画」的な光景の連続だったろう。 通常ならば決定的瞬間に動物的に敏感でさえある仲間たちが、自発的にもカメラやテー プについてガタガタし、「とりあえず撮ろう・・」ということになる緊張した日々であったはずだ。しかし、これを超えて、はじめて次の映画的行動に辿りつき得るだろうという(そんなことはひとことも話し合ってはいないのだが) 物の気配があったのか、カメラの大津もせっせと東京告発のために働き、高木も事務所を明けわたして世話人として運動にかかわり、一ノ瀬(カメラ助手)も家庭の事情で帰郷していたのに、とび出してきたし、映画などに何の経験もない堀(演出助手)が、告発の運動の中から「映画につけてくれ」と名乗り出てくるなど、すべては五~六月の行動の中から映画を胎んだ主体として登場してきたのである。それは私にとって百の説得でも不可能なスタッフの形成であった。
その後、熊本水俣の活動家に相ついで知己を得、六月二八日渡辺栄蔵さんが東京告発の発会式に参列してくれた。この日渡辺さんの撮影からクランク・インした。彼を原点とすれば、それにつらなって石牟礼道子氏、日吉フミ子氏らの連珠があり、更に放射状に連らなり独自のサイクルで自己運動している本田啓吉、島田真祐、松岡氏らに相ついで、私は水俣病支援の人々の内的構造と組織的構造の芯をみることが出来た。また、それによって私は、これを逆に辿ることできっと患者さんの世界の中に下降していける途が開けるにちがいないことを予感することが出来たのである。その間一カ月半、それは何と最短距離であり、最小時間であり得たことか、私は驚嘆する。それが変革、真の変革がいつももつカであろう。私たちの精神的準備の第一段階は、こうして運動によって始まり、超え得たことを銘記しなければならない。
七月上旬、私たちは熊本へ行った。経済的にロケ体制は手薄のまま、とりあえず七月の裁判と全国の支援者と患者の交流会を撮り、あとはその時点で財政的にも考えようという、たよりないスタートであった。頼みもしなかったのに熊本「告発」のメンバーは、それぞれ個人的な拠金として五十万円を用意してくれた。「こうしたいのだから使ってくれ、そして映画については、どのようにでも自由につくってほしい。」つまり、金は出しても口は出さんと宣言しているにひとしい。これは稀有なことだ。金を出すにあたって漠然としても「期待する映画像」をのべる方がむしろ当然である。それを全く気にしないで使ってほしいと、むしろ金をつくったこと自体、ぼくらが気にすることを気にするおもむきで拠出された。これは、どんなに私にとって「内なる委員会」を樹立せねばならぬかを迫るものであった。人間を原理的に信頼する。これこそ真の党派的倫理であろう。それを身軽く実践できる資質を「告発」はその形成をとげているように思われた。私はそれに映画で応えねばならない。その投企する人の心に、こちらも投企をもって答えなければならない。映画は誰も、お前に作ってくれと世界が頼むものではない。自分の勝手であり自分の道楽だと私は規定している。私の道であり私の快楽なのだ。その私が、記録映画という、人間の実体を登場させる、その点で劇映画と異った位相でシリアスな人間関係が前提となる仕事のはじめにあたって、彼らを私の「内なる委員会」の一員として抱けるのは何と必然的なことであろう。
その五十万で私たちは手招きされたように水俣に赴き、そのごく自然につくられた順路を踏んで出月部落の浜元フミヨさんの家に根拠地をつくることとなった。
まだ何も分からない手さぐりの時期であったが私たちは、たしかに人相と心相の分った人々の重なりを手ごたえに、まだ見ぬ患者さんをたずね、撮り進む決意を形成していた。こうしたプロセス自身がドラマチックであり、水俣病の真実であり、支援の実相であろう。恐れるものは我であり、恐れるものは倣慢である。私たちスタッフは、いわくいい難い浄福の中で、フィルムを廻しはじめた。私たちが夢みていた新らしい運動と創造とのかかわりの原型が、確実に所在していたことを心のはりに歩み出したのである。