舞台に凝縮される水俣の霊 『アサヒグラフ』 6月11日号 朝日新聞社 <1971年(昭46)>
 舞台に凝縮される水俣の霊 「アサヒグラフ」 6月11日号 朝日新聞社

 五月二十六日、大阪厚生年金会館大ホールにおけるチッソ株式会社の株主総会において、患者さんが考えぬいたあげく、わが子を告発の実像として引きつれてきた。その子どもたちに白衣を着せ、それを擁して、追弔御和讃をとなえたとき、開会前から壇に人垣をつくった四百人のガードマン、暴力団、菊水会、総会屋の中から、一斉に「ウマイゾ!」というヤジと、嘲笑と手拍子が真向から患者にあびせられた。
 かつて、去年(昭和四五年) 十一月、右翼や総会屋をも黙祷せしめた患者さんの歌は、半年後、あざけりの対象として恥ずかしめられ、汚物をなげかけられた。この時ほど、同じ人間として、満身の凌辱を感じたことはない。砂田明さんたちは、その前夜、同じ御詠歌をもって幕となる劇『苦海浄土』を大阪・森ノ宮の児童会館で上演していた。会場には仏教的世界とも、行者的世界とも、または演劇愛好者とも無縁な人々を前にして、同じ歌を歌い、それが、果てしなく海の人なる私たちの父祖の生き方の底からの声として、人々の心をしかととらえ、共感を生んでいた。一つの御和讃がリトマス試験紙のように人を区分けている。同じ常民の静かなひろがりと、暴力をむきだしにしたチッソの手兵の反発とー一夜をさかいにした二つの体験のなかで、私はこの和讃の鋭い作業カを見ないわけにはいかなかった。
 私が砂田明に初めて会ったのは、去年の五月二十日ごろである。早稲田大学に近い、あるアパートの一室で開かれた"熊本水俣病を告発する会の東京行動を成功させる会準備会“ の席上であった。学生も含む、あまり食糧事情もよからぬ風情ながら、一途な目つきの人々が十人あまり。その自己紹介の中で「地球座の砂田です」といわれて、迂潤にも新宿地球座の人かと思ったが、劇団の主宰者であり、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を劇化したいと熱心にのぞんでいると聞いた。
 一見、しなやかな、演劇演技二十年の生活で自在にあやつれる肉体にしとげた体のもつ線は、なるほどと思えた。その後、数日のうちに、熊本の「告発」の会員は、一任派に対する厚生省あっせんの補償に対する阻止の行動を東京で組むにあたって、この十人あまりから一挙に百人近い人間を、ご挨拶ぬきで、溶解、重合していって、私たちが、「水俣闘争の計量不能のある作用」という、予想外の充血した行動にかりたてた。
 同じ去年の五月十五日、砂田明は、訴訟派患者が厚生省に陳情に行き、冷たいあしらいで口を封じられたという、朝日新聞の記事をみて、翌朝にはチッソ前にすわりこんだ患者さんのむしろの片隅に、声もなく、もごもごとすわらせてもらったという。
 そのござの上で、道ゆく東京の人を仰ぎみながら、彼は水俣の人々と同じ、”非人“ に近い心を味わったのであろう。思うに、彼が、『苦海浄土』を上演するためには、三カ月間、巡礼姿で水俣まで行脚したいといって、私たちが厚生省の中に突入するプランに至る討論を重ねて上気している中で、同じ赤らみの顔ながら、一念、非人の心を自らに問うかげりのあったのを思い出す。

 この五月行動は、東京で、水俣病発生以来十七年、はずかしくも初めての大衆行動となり、東京という”専門家“ のふきだまりで突然変化累数の最も高度な? 地帯からしか生れない、一連のものごとを生んできた。その一つに劇「苦海浄土」があり、映画『水俣』があり「一株株主運動の提起」があり、以後一年、それぞれに歩んできた。
 その揺ラン期ともいえる六月中旬、東京に「告発」を作る準備会が数人でもたれたとき、彼が会議の終りごろ、ポケットから紙片を出し「私の気持を私の故郷、若狭の言葉でいいあらわしてみました」と言って、読んでよかろかと見回す風情に、私は、なるほど、役者の発言とは、こういう表現を通してのものなのだなと思った。その詩には、一度で感電した。握手がわりに、拍手することしかできなかった。二度よむことを頼んだ。彼は初めて腑におちたように低誦した。
 
 ”もし、ヒトが、今でも
 万物の霊長やというのやったら
 こんなむごたらしい
 毒だらけの世の中
 ひっくり返さなあきまへん・・・

 何が文明や
 蝶やトンボやほうたるや
 しじみや、タニシや、雁や燕や
 どじょうやメダカやゲンゴローやイモリや・・・
 数も知れん生き物殺しておいて・・・”

 七月九日、私たちの映画『水俣』は熊本での患者さんとの交流集会で始った。その日、数日間に同行十人で西日本を横断した巡礼姿の人々は、球磨焼酎をしいられ、酔いながらも、患者さんとの出会いの場で、その詩を朗読した。砂田明は最も下手くそに、うたいなれた詩をつつかえながら朗誦した。脳裏に渦まく情念は行脚の中で太く渦まき、数日のうちの体験が彼をつき動かし自分の作った詩の定型を自ら、あっちこっちとくい破っていくていたらくであった。しかしそのとつとつの詩ほど、胸中の万感を思わせ、人々に、演ずる人の心を共有させ得たものはなかった。

 その時たずさえた六十余万円の浄財の喜捨もさりながら、その後、部落の夜ばなしに、”東京の人“ といえば、自ら勧進姿で這ってきた巡礼団のイメージがすぐ浮ぶさまを、患者さんのロから聞き知った。十七年耐えしのんだ人々のショックは名状しがたい。東京といえば背広の人と思うのに、勧進、つまり”乞食“ のかっこうで苦行者としてきたことがつよくやきついて離れないのだ。思えば、彼がござの上から想念した”非人”の旅を自らに課した心が、見事に、水俣において非人でありつづけた水俣病患者の、ひだの多かった歳月を一挙に解放したように思える。それはカメラとテープをもってあれが監督かしら、もしや「土方の監督」では、といぶかりの心を抱かせつづけていた、われら”映画の人“ を嫉妬に駆らせるほどの"信心“ を患者さんに通わせていた。
 それからほぼ半年、その間、彼らはイリコ漁を手伝って残るものもいた。『苦海浄土』に語られた人々と語り合い、砂田明は独演会を開くなどして、劇『苦海浄土』を演ずるのココロをひたむきにとりこんできたといえる。私のように演劇に無縁のものは、彼の二十年の演劇生活の軌跡が、賭けより重い賭けごと、つまり生き方の最終の選びとりのように決断的で確信に満ちたものを求めて、水俣に沈降してゆくことに果てていることには、深く共感するものがあった。「おいしそうな顔だな」と思う。水俣で、人々の話をきいて歩いている彼らの顔は、一様に美味求真の境地であった。
 映画が完成するとほぼ同じころ、練り上げられた脚本が完成した。一読、寸劇ふうであり、漫才ふうであり、童唄ふうであり、混沌たるものであって、これがどういうふうになるものかと、思いとまどっているうちに、出演者がたとえ巡礼行をともにしたとはいえ、大学院の英文学専攻であったり、くそまじめな学究肌の学生であったり、素人が半分以上という。
 四月、初日の幕が新宿の小演芸場であけられた。「御霊会」の大提灯が大門の柱にかかげられた夜の石段の上のような舞台で、大口を開いて告げねばならぬと心定めたまま、あごの閉じぬような面をつけた患者の霊がくりひろげる、地獄とも現世ともわからぬ語りとわななきは、戸惑いに満ちた私にも垂直におりなずんでいった。私の映画からはみ出た部分、水俣病の病状のディテールや、闘争の歴史の再現、その社会的背景といったいわば説明的な部分まで丁寧にとり入れながら、砂田明扮するゆき女の魂のありさまが、仮面ゆえにさらに動いて一気に観るものの心に迫るのであった。「こりゃ芝居による語りべだ」と思う。そして、巧拙を問うの心を恥じさせる圧倒的な語りがある。私の知る彼の一年の歳月の日付けが二時間余の凝縮を求めて、舞台の鍋の中で煮つまり作用をしているといった熱気を感じ、とても他在をゆるさないのだ。
 砂田明と林洋子らその一行は、語り部の非人の道行きによって、患者さんの怨みの心の底にある日本の常民の心を諸国に置いて歩きまわる。だれもが美味求真の者のもつ顔に変っていることに私は驚く。そして、彼は水俣に生活の根拠を移すことを考えている。それは運動や告発の思想からではなく、それは今や「美味しい快楽」になりつつあるのだ。