不知火海・巡海映画行
―1977年9月15日天草 新和町にて―
夜、11時「水俣病その20年」の上映会を終わり、いま老人クラブの一隅を仮寝の宿にかりている。戸数28戸の小集落T区。眼前の海には、離島獅子島がその前景になっているところだ。僻村である。
ここ老人クラブは元診療所分室だったそうだ。いまは無医村である。もともと鉄道の全くない天草は、バスが大抵の地区を網羅しているが、ここには入り込まない。小型の内航客船のつく埠頭もなく。老人たちは高いタクシーで行き来している。
海村とはいえ、漁村ではない。昔は知らず今は出漁する舟もない。どこにも数トンの動力漁船があるものだが、ここは笹舟のような木造船だけ、これに船外機なる小型発動機とスクリュウをつけたものをとりつけて海に出る。小舟だがかといって櫓をあつかう構造でもない。遊び舟といおうか、おかずとりに近くの岩場あたりまでいくのがやっとの舟。それも一日みていても出漁する気配はなかった。若い人、壮年が皆で出稼ぎに出てしまっているからだ。「もう漁に出る年でもない」と自嘲する老漁夫と女房、老婆の村である。
眼前の海と生活はどこでつながっているのか。ここに魚の行商が「クロイオ、タチ、アサリ…」などとスピーカーで入ってくると、老婆は安い魚をひよいとビニールにつまんで買っている。海はあれど漁のない天草の僻村である。今まで約30集落歩いたが、こんな淋しい気持をさそうむらはなかった。天草下島である。
ここは旧村三つが合併して、昭和39年に「新和町」というそれまでゆかりもいわれもない新命名の町になった。その役場は内陸の交通路の分岐点に建てられた。その時から、海沿いにあった旧村役場は失われた。町村合併によって更に町内でも僻遠の集落となり孤絶したという。若い人は皆、出稼ぎの先輩である血縁地縁の人に呼び出され、東京、大阪、名古屋に出ていった。殆どが左官、大工、その手職を覚えるや、嫁をもらい世帯をもち、盆、正月しか帰ってこないという。
今まで20数箇所で上映したが、いつも映画会場のまわりには子供たちがまつわりつく。
ここでも三人の小学生がつきっきりだった。が、たったその三人だけでいつまでたっても子供の数はふえない。もともと数人しか子供のいない部落なのだ。そのひとりも父は出稼ぎにでていて「帰るのは正月だろうもん!」と答えた。今日は9月15日「敬老の日」である。
私たちが隣の集落からここに来て、上映の場所を見つけている頃、婦人たちは嬌声に近い、はなやぎの声もかしましく、敬老パーテイのための巻き寿司、野菜の煮しめ、魚のつくりを用意していた。ビラまきはその女たちにわたせば全村まいたのと同じであった。
上映会場が、消防倉庫わきの休耕田、青草しげる平地にきまった頃、敬老会はのっけから焼酎で始まったようだ。
三人の小学生は所在なく、“映画のヒト”のまわりにつきまとっている。質撲というか、けがれないというかわが子のように可愛かった。大体、集落に足を踏み入れて、そこの子供の様子、口のきき方でその村の人情がな何となしに分るようになっていた。私たちが子供たちに引き立てのコーヒーを湯でうすめて「アメリカン・コーヒー」といってふるまうと、お礼のつもりか30円のビニール袋に入ったかき氷を店から買ってお返しをしてくれる。
やがて「汐のひききれば、オル(俺)がばんのおかずばとってやるぞ」といって、私たちの手をひいて岩場に糸をたれるのだ。子供たちにとっては、海は遊びの場としてあった。とれたのは小魚三匹、夕方までに半ば干物になる代物であったが、煮て深夜の晩餐に供してありがたく味見した。子供たちの好意がうれしかったからである。
果たせるかな、ここの人たちの情はこまやかであった。区長さんは天草では珍しい焼酎づくりの二代目、60歳になるという。元飛行機の“設計”方面をやっていて、少年航
空兵の教官であったという。純敏な眼をもち、往時をふり返って「国のためなら、オル(俺)はいつまでも操縦桿ば握りきる!」と焼酎臭い祝い酒によって喋りかけてくる。
「水俣病のことは、おるはあえて口にせん。チッソ会社の倒れてしもたら水俣の人ぜんぶが困るばい。」もう責めるな、とでもいいたげで、こと水俣病となると口は重い。
しかし、新聞をよみ国事を憂うることは人後に落ちぬ。「おるはもっと本を読んで国のことを考えたか」という。最初、上映班の若いリーダー一之瀬君と小池君が挨拶にいった折「資金カンパの何のって、もしかしたら、失礼じゃばってん、革マルとか何とかいうのと、あんたら同じ組か?」と念を押すようたずね。二人をひっくり帰るほど驚かせた人である。責任感のある村の知識人だった。
「ああ、この部落に500の1000のと票があればなぁ。病人を担うて投票したっちゃ80票もなかけんなぁ」彼はいまときめく官房長官園田直氏のふたいとこ(ふたいとこ)だそうだ。だが、その縁故をもってしても、この投票数では威力はさらさらないのだ。彼は更に宴たけなわの敬老会を抜け出して、日陰にしつられたテーブルとキャンパス椅子の休息所のところにきて歎くのである。「欲の出るから出稼ぎにいくとだ。皆、現金ほしさになあ。ここは何もなかもんな。むかしはたきぎ船がまきをつんで出よったが、今はまきも炭も焼ききらん。子供が少ないってか。そんなもんおるか。少しもみれんもなかじゃっでここにゃ。あと老寄 女ばっかし。区長のなんのって。役ばかりやっとる。いつも人がくればおるの役目じゃ、一日はたらけば焼酎ももちょっとハカがいくばってん……今日も敬老会で一日つかうとです。何千円。何万円分の仕事を休んでですよ。今日は映画もやるとでしょう?」と眼が心なしか凄ごむ。
「しかしわしは今日年寄に挨拶した『皆さんの血と涙で今日のこの部落がある!』とな。」
その部落とは何だろう。遺棄された人々の墓場のようではないか。海辺にあっても漁ひとつない“漁村”ではないか。
わたしたちはこの8月1日から、『水俣病』の映画をもって、全不知火海区の漁村をまわっている。漁業の活況をみせる集落では、白眼視する漁民にも心情と意図をのべて、辛うじて上映の旅をつづけてきた。その甲斐はじわじわとでてきていた。
だがこのように、水俣病映画をやることの意義というか、手ごたえの薄さを私に自覚させた部落ははじめてであった。
夕方になって、更に酔った区長は、宴おえて、家でひっくりかえっている年寄たちに戸毎に触れ歩いてくれた。その気遣いには遠来の客であるわたしたちに失礼のないようにという武人の礼儀だけがあった。
上映前に、もうくたくたになって寝そべる区長に、三々五々あるまって老婆たちは「こんにゃよか男も年とったにゃあ!」と天草弁で色っぽくからんで、男のわきにペタンとすわり、海の果ての「水俣サ」の映画のはじまりを待つのであった。ほぼ全戸の年寄りが、敬老の日に行事の一つであったのかのように映画会場の荒廃田の上のシーツに坐る頃、満天の星が降るように輝く。澄み切った太古のままの空である。
映画のなかで、コメントが「水俣の海にもはや漁はなくなった」と強くのべるシーンがある。あっと思う。ここと同じではないか。水俣病も知らず、水俣事件も遠い他所の話である。風化する消滅寸前のようなこの村のなかで「よそのひとびとの不幸」の物語として映画がうつっている。同情の声、共感の声がしきりである。だがそれはこの村の海と重なった話では必ずしもない。他の土地では、眼前の海をさして「あなた方の問題だ。」と言い切れた。しかしここで、何を媒介に、それを言えよう。海は一つの風景でしかないのだ。
この海にもかつては半農半漁の生活律はあったろう。決して、漁業1本にも農業だけにも“専業化”することのない自給自足の生活が何百年と続いてきたはずだ。
それが奇しくも水俣病がおきた頃(昭和30年代初め)から、高度成長の汐に流され、都会に若い人々を根こそぎうばわれた。今ここはその出稼ぎが専業となり果てている。訪れる人も稀なこの村に、十何年ぶりに来た移動映写は水俣病でしかなかった。
ふと思う。もし水俣病が起きなかったら、どんな経緯をたどったであろうか。この村とちがった再起新生の道を創造できたろうか。――あらためて、私すら12年足をむけさせた水俣病の事件の重みを思う。水俣には極限の不幸と、それにつれての人々の様々の流れが入り込んだ。平和に老いるべき村に毒殺毒害の20年がその全体をさし貫いた。このことによって、水俣は水俣病事件を生きぬくことによって“病者”の生命力というべき負の灯をとして燃え続けている。だが、対岸の、この同じ汚染海域としての不知火海にあるこの一僻村は、一見別の歴史の流れで扼殺され“自然死”をたどっているかのようだ。
いづれが“明”でいづれが“暗”か。いま私は地図の上で一つの湖にすぎぬ海のほとりをまわりはじめて50日近く。このむらのなかでまたひとつの文明史の暗部にたちむかわされている気がするのだった。
(土本典昭、不知火海・巡海映画班)