水俣病”午前”のこと -水俣病裁判後について思う- 『公明』 12月号 公明党機関紙局 <1972年(昭47)>
 水俣病”午前”のこと -水俣病裁判後について思う- 「公明」 12月号 公明党機関紙局

 公害が発生した場合、住民パワーが被害者とむすびついて直接に企業と衝突することを避けるために設置されたといわれる公害等調整委員会(小沢文雄委員長) は昭和四十七年十月十七日、初仕事として製紙公害で漁業被害をうけた香川県漁連(約千四百名) と製紙会社七二社との間の調停を行った。漁民側は愛媛県川之江市、伊予三島市にある中小の紙・パルプ工場群の廃液によって損害をうけたとし、①ハマチ、ノリなど全魚介類の損害約十億二千二百万円、②補償問題解決まで工場の操業短縮、③漁場の回復を求めた。調停案は、因果関係にふれず、汚染については排水基準を守ることについての注意にとどまり、漁業補償は十分の一弱の一億一千万円(漁民一人当り七万八千円相当)の判決である。(昭四七・一〇・一八朝日新聞より)
 この記事をみて、調停委のはるかな原型である水俣病紛争調停委(昭和三四年) が水俣病患者の一人三百万円の要求を死者三十万、生存患者、成人十万円、未成年三万円の年金によって調停したことを思い出す。十分の一の論理なのである。しかもこの調停には以後一切の補償を求めないという駄目押し付きの”和解契約“ である。今度の製紙公害も、因果関係についてふれず、金の性質も「賠償金ではなく、和解金」としたとされている。全く同じではないか。初仕事である。第一の前例である。そして、今水俣病の新しい患者さんたちの多くは、チッソの頑強な態度と「市民」感情におされて、この公害調停委に補償の全てをゆだねようとしているのである。この調停委の前身は、水俣病の歴史にあてはめてみれば、上記の調停紛争委(昭三四) であり厚生省による補償処理委員会(昭四三) であり、中央公害審査委をへて現状の公害等調停委とつながる。
 水俣病の患者さんの処理にあたって、チッソはいつも第三者の公平な機関による”常識ある裁停“という路線にひきこみ、つねに直接的な責任のとり方を回避してきた。それがいまからどれだけ出るか分らないとされる潜在患者の今後の処理のオートマティクな、オン・ラインシステムを暗示しているものと思えてならない。国の仲介により、国の一機関として公害を処理してゆく構想は水俣病の処理の歴史を通じて芽ばえ、この闘争を反面の叩き台として成長してきた。チッソの事実上の資本といわれる興銀の相談役中山素平は今年三月開かれた関西経済同友会のセミナーで「公害の被害者に対して、公平な認定により、妥当な治療費や最低の生活補償金を極力早い時期から支給出来るよう、民間の経済界が中心になり公害補償基金のようなものを設けるのが有効であろう」とのベ(朝日新聞昭四七・七・二〇)、公害を出した一企業に対する防衛措置を総資本の側でうけとる方向を率直にかたっている。そして、治療費や「最低の」生活費とわざわざ注意しているのである。
 水俣病闘争の歴史、あるいは単に一家族の歴史をみるだけでもよい。昭和二十八年、水俣病発生以来、水俣病の患者さんをその眼でしっかり見て策をたてた調停者はこの一、二年前まで皆無といってよい。患者さんのチッソにもつすざまじいまでのうらみは、加害者が、十数年も被害者の前に出て一言も「私の方に責任がありました」とのべたことなく、ましてひとりひとりの患者をつぶさにその眼で見ようともしなかった非人間性に基づいているのである。(昭和四十三年、厚生省見解によって、やっと見舞い訪問が行われたのみである)三年四ヵ月にわたって、チッソ会社を相手に争われてきた、いわゆる熊本水俣病裁判は昭和四十七年十月十四日審議を終えた。あと判決をまつばかりである。患者さんは、法廷の中で、はじめて生きた人間の形をしたチッソ側と直接にむきあった。主役は当時工場長だった西田証人であったが、その証人が技術畑出身であり、科学者であることから、政治的なことについては用心をかさね、重大なことを忘れたとか知りませんとか逃げ切ることに終始したが、その専門畑の化学とか技術については一片の正直さをもっていた。そのことがいとぐちになって、水銀を無処理で放出したことや、いままで水銀滓をとる装置が浄化装置とされていたのが、実は再利用のための回収装置だったこと、魚には有害だと思っていたこと(それが人体にまでさかのぼるとは知らなかった! )、水銀を約六十トンたれ流したことをみとめ、因果関係については、ほぼ完全に自白した形となった。この裁判を傍聴している患者さんは、時に押えかねてたけりくるったように西田証人にくってかかる。その能面のような死んだ表情は、患者さんにとっては、いつも門前払いをくらわせられたチッソ工場の門で見た下っば重役や総務課長の積年のあしらいを想起させるのであろう。
 この裁判の中で、チッソの現業労働者の職を賭けての一証言は実に尊いものであった。他の公害裁判には見られないことである。それだけ熾烈な闘争の歴史が水俣病にはあったのであろう。労働者鬼塚政人さんは昭和四十三年までアセトアルデヒド排水(註・有機水銀を含む排水) を百間港に流していたことを証言し、チッソの三十五年停止説を静かにくつがえした。
 この結審にあたり、患者さんは口ぐちに水俣病患者は、「私たちはただ氷山の一角にすぎず、水俣病はこの裁判で終るものではない」とのべている。だが、部落の長たちに属する人々が裁判の終りまで生きていたい、チッソの負けをみとどけたい、裁きがどのようになるかをこの耳でききたい。金を手にうけとることも勿論ふくめての話だが、その気力だけで生きてきた人を何人も知っている。また、裁判の始めには元気だった人も歩けぬようになり、また、自身は患者でなく遺族として加わっていた人が三年余の間に異常があらわになり本人自身患者と変り果てた人もいる。新たに認定された人が中公審に調停をたくすようという周囲のすすめをしりぞけて裁判に加わった人もいる。そして今一つ「脱落者」もあったのである。
 すでに新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ゼン息病にかかわる三大公害訴訟はほぼ終った。その判決の都度、私はいつも損害賠償額がどうなるかばかり見つめてきた。判決の主文がどのように企業を裁くにせよ、前進と評価されるにせよ、問題は金である。金とは思想の集中的表現としての金である。謝意の具体的あらわれとしての額である。残念ながらイタイイタイ病の”控訴審“ 以外に思想をみとめることが出来ない。
 新潟水俣病は補償総額を見事に二分の一にして手を打った感がある。死者一千万、最重症、胎児性水俣病についてはほぼ原額をみとめたが中等軽症についてランクづけを行い、甚だしくは七分の一にまで叩いた。このランクづけの思想こそ私の最も憎むものだが、それは四日市ゼンソクの場合にも用いられた。請求総額に対し四割五分である。しかも次のようなことばを何とみたらよいか。「原告らの呼吸器疾患には根本的な治療法がまだなく、退院しても大気汚染によって、再入院はさけられない。しかし、労働能力の鑑定結果から、原告の労働能力は全損されたとはいえない」と判決はのべている。 (朝日、昭四七・七・二四)四日市裁判ではばい煙工場の操業停止については殆んど無力であり、工場の煙はたれ流しのままである。その中で、「再入院はさけられないが、働く能力のあるのも又事実だ」と判決は矛盾する。このことは補償総額を四割五分に押え込むことの出来た論拠である。
 裁判といい、公害調停委といい、公害被害者をランクによって、区々に分け、総額を押え、値切る手口にそう変りはない。それが総資本の大きな要望に添って見えるのは当然であろう。新潟水俣病裁判の時、殆んどのマスコミが勝った勝ったとV サインを示したとき、TV 中継でうつし出された熊本水俣病患者の思い晴れぬ顔を思い出す。と同時に当の新潟水俣病の原告(被害者) 当事者の白けた顔もその熱気の中で見られたのである。つまり、一生妊娠規制を決められた若い妻の慰謝料わずか百何十万が何故七分の一にまで引き下げられ、それで勝ったことになるのか。
 熊本水俣病を支えた水俣病市民会議や、「告発」グループは、つとにこのランクの意味をみぬいていた。
 九月七日、熊本の口頭弁論で原田正純証人(熊大体質医学研究所講師) の証言はその点で実に重い。「水俣病は個々の患者に、精神・神経の数多くの症状が複雑に組み合わさって顕われる。ひとつひとつの症状を抜き出して比較するなら、重い軽いの差がつけられるけれども、ある症状は軽い患者が、別の症状は重いという形で顕われており、しかも症状は固定しておらず進行している例がいくつも確認されている。過去・現在・未来にわたってそれぞれの症状のもたらす障害は複雑でありとくに水俣病に特異な精神障害は外面的にとらえることは出来ない。ーしたがって、医学の立場で水俣病をみてきた者として、全症状を概括して重いとか軽いとか言うことは不可能だ」・・・ 「人間を歩く機械、働く機械として見るならば、歩ける距離や作業量によって、どれだけ障害があるかの差はつけられる。しかし精神の働きを加えて人間総体としての患者を見る場合、どうして差をつけられるか」・・・ 「患者に対する介助の苦労もさまざまで、身体を動かせる患者だから介助が楽だとは言えない。いちばん大切なのは、その患者に何が出来るかということではなく、水俣病によって、その人が自己の全人生から何を失ったかを見ることだ」(昭四七・九・二五「告発」)。ここに医師として最高の人間性の原質の把握がある。ランクづけが不能である視点について語っているのである。一度たりとも患者と生活を共にしてみるならば、この言葉の意味はいささかも誇張でなく、むしろ抑制しつくした表現であることが分るだろう。すでにのべたように、亡霊のように次々と衣をかえて立ちあらわれる調停者たちの中で、この視点に一度でも立ったものがあろうか? ましてチッソの首脳にはこうした思考方法の能力すら破壊し尽されていると思ったが方がいい。つまり、危険な無自覚犯人と同質の人々なのだ。
 
 裁判の終りをむかえて、私は裁判から「脱落」して今年一月四日、ひっそりと死んだ一人の女性を思い出してならない。彼女の死ねた一点と死にきれなかった一点があると思うからだ。
 患者さんの多発部落の一つに茂道という漁村がある。交通不便なところにあるこの部落は自然に閉鎖的な社会を作っている。私が初めてここを訪れた昭和四十年二月、女一人子一人の住み家を見た。こわれかかったあばら屋に当時七歳位の胎児性水俣病の女の子H枝が発育不全のまま四歳程に見えた。全盲、全聾、全唖、そして運動機能はすべて破壊された四重苦の幼女だった。母M女は、当時はまだ四十八歳位であったが、その子をあやし「ほら頭をあげたでしょうが・・・」といって心から嬉しそうであった。あとで知ったが、彼女は不幸な過去を送って、最後に落ついたのがある漁師の妾となって、隣にあてがわれたあばらやにすむことであった。娘を三人生み、その末っ子が胎児性水俣病となった。この部落は一軒おきに患者が棲むといった多発地帯であり、四十年頃は、患者さんはまだ分裂以前であったので、一つの共同体をつくっていた。しかし五年後事情は変った。有力な網元、舟大工(ともに患者家庭) がチッソの望む調停一任の立場をとり、一任派としてもボスとして部落内の患者に干渉した。その中ではとうてい一任派以外になりようのないM女の立場である。しかしその娘H枝は、訴訟派に名をつらねていた。子供の父親は、裁判とともに私生児H枝を実子として認知し、裁判にのぞんだ。部落の漁師たちは、「魚もとれんじゃっで、私生児をネタに大金つかもうとしとる、あれではM女はぐらしか(可哀そう」なあ、ひどか父親ぞ」といっているかげ口をきいたが、それが当っていなくもない。貧しい水俣の漁村にも、激しい差別が相互になげかけられているのであって、その中で、奴婢同様の妾生活に耐えているM女は一番押しひしぎやすい対象に見えたのである。水俣病がなくても不幸な一生を終えたであろう。その上に水俣病となり、近所のそねみをうけ、その上、”訴訟派”に組することによって、父親たる男ともども欲のかたまり、漁師くずれ、妾くずれと幾重もの侮蔑の中に生きている。(だがその部落全体も、天草から明治末に移住してきた流れ者が多く、水俣市からも、近傍の部落からも粗野な”成道モン“ として差別されているのであった。)
 映画の撮影中、私は茂道にいくたびに、何がしかの菓子や果物を手にその家に立ちよった。寄ることだけが私に出来るはげましと思ったのだ。その頃から、M女はH枝ちゃんともども病人として臥せることが多くなった。顔色も青ざめ、かつて五年前女の色香さえ残っていた体はところどころしこりかこぶのようになって、内臓はおそらく腐れる一歩手前であろうと思われた。そんな家にも台風が襲い屋恨がとんだ。その惨苦は見るにしのびない。
 それは同じ部落の人の共通の想いだったろう。極限の苦しみに落ちたことは誰の眼にも明らかだからである。一任派の人々は半ば心をこめて、自分たちと同じように調停して金をもらって楽をしてはどうか? 屋根も直せるではないかと説得するのである。それにじっと耐えていた。水俣市民会議は、屋根を補修する金を届け、「あんたも水俣病ですばい、いっちょ見て貰わんば・・・」というのだが「H枝が水俣病というのに・・・」といって気の進まぬ返事であったという。
 H枝の請求補償額は八百万円である。だが一任派にかたれば前例にてらして百七十万円の一時金と年金二十八万である。多くの患者さんは、年金というチッソの支払いのしくみを信用していない。それまでチッソの不誠意をみてきたし、いつでもチッソはこの水俣を逃げだせるからである。裁判も半ばにきた頃から、彼女の体はめちゃめちゃになった。もう地を遣うようにして生きてきた。市民病院では、本態性高血圧症・十二指腸球部変形潰瘍、それに膀炎の合併症と診断した。しかしその根っ子が胎児まで犯した水銀であろうことは疑いなくなった。その彼女がもう死期の近づくのを知らないはずはない。はじめて申請し、中等症の軽ともいうべきBランクの患者として認定された(昭和四六年四月三この頃から病院に寝た切りの生活となった。更に直腸癌を併発して開腹手術をうけた。そして、彼女は裁判の終りまで待たず訴訟をとり下げ、調停を求めた。部落の一任派の人々はある安堵とともに早くその手続を終えた。(昭和四六年五月)
 支援の人々の足も遠のいた中で、赤崎覚氏はひとり見守っていたようだ。市役所につとめ、水俣病患者を歴訪して水俣市民会議のいとぐちとなった人々のひとりである。気弱さをかくしていつも焼酎をひっかけなくては、患者家庭のしきいをまたげない人である。そのため彼自身去年大吐血をしたという。彼は「告発」(昭四七・九・二五)に次のように記している。
 「それは人間の耐えうる眼界をはるかに越えていたようです。M女は今年(昭四六) 五月にチッソとの和解契約に調印、H枝ちゃんの分を九月に調印しました。
 一時金あわせて四百五十六万円(概算払) でしたM女とH枝ちゃんの年金額はまだ決定していません。ランクづけがまだ定っていないからです。わたしはただ暗然として声をのむだけでした。六月、M女は『あたしが、あっちいったもんで(註・訴訟派から一任派にうつったこと) こんごろは誰もきよらつさん』といっていました。『こげんな躰になったもんですけん、生きとるうちに金ば見て、ぜんぶH枝に貯金ばしておいてくれんばち思うて』」
 彼女の訴訟派からの「脱落」の実情はもう明らかであろう。死ぬことですべてに言い訳けし、ただひたすらに死後の子供の生きる保証としての金を手にしたかったのである。それがどのように残されたか分らない。昭和四十七年正月、直腸癌の再発で苦しみつづけて死んだ。
 患者さんのすむ漁民部落は市のはずれから始まる。その部落は市からみれば、岩にとりついたかきがらのようだ。「市民」がいつも患者を差別する構造の裏には、漁民を一つ下の階層とみる牢固とした階級蔑視がある。よく「会社ゆき」と「その他のもの」の区別がいわれるが、今度の裁判での証言で「会社ゆき」の中にさえ、信じ難い差別のあったことが証言された。「職工を人間と思うな!牛馬と思え」とは初代社長野口遵の口ぐせであったという。東大を出て、東大閥で固めたチッソ会社が水俣に来て、「原住民」の元漁夫、元農夫の工員にどんな公然たる差別を定着させたかの一証言である。江口政春さん(五四) は「チッソには社員・工員の別という厳格な身分制度があった。社員は月給、工員は日給、社員のボーナスは月給の三~四ヵ月分、工員は日給の五日分、というだけでなく、社員食堂も、工員は使用禁止で、工場の内外をとわず社員は銀バッチ、工員はその三倍の鉛バッチをつけていた。その身分制は工場を一歩出た水俣という地域社会でもそのまま通用し、それは子供心にも悪影響を及ぼした。工員となる前のボーイは会社の仕事として社員社宅の奥さんの日常の小間使い、買い物の用までした」とのべている。
 その体質をのこしたまま、水俣病問題にオーバーラップしたとき、どんなに人間に対するゆがんだ処遇が相ついで続出するか、そして現に起きているか想像できるだろうか?
 私の独断でいえば、チッソは患者の数を極力限り、その補償額をとことん値切ることで推し通したい。それは今も少しもかわらない。
 その「運動」のために、恩を売ったこの水俣の地域社会のボスを総動員して、この水俣の地縁の中で徹底的に患者を孤立させ、口を封じさせ、放逐することである。ところが、昨年から、もはや大勢の赴くところ潜在息者の出現を防ぎ切れない情勢となった。しかも、公害の祖型といわれる裁判も大詰をむかえ、全国民の注目の的となっている。補償をしたら会社がつぶれ三万市民が路頭にまようのは明らかではないかという訴えも、このように次々と新しく患者が名乗りをあげてはかなわない。いまは、国の責任と総資本の意向にたよって、患者を調停委の下に送りこむことだ。今後の補償の主役を調停委におねがいし、チッソの倒産だけは全「市民」の手で守らなければならない。
 そのためには市民以外の奴は水俣から出ていけ、全国的な「告発」の運動と患者とを切りはなし、ひきはがせ! 他所者ではないか。裁判が終る時点までにその「運動」をしとげ、もう二度と水俣病紛争を起すまい。ついでに「水俣」病を有機水銀病と改名させることだ。それが出来なければ、市名の方でも変えてはどうか。・・・乱暴ないい方だが、この一年の水俣「市民」の動きはこれに尽きる。しかも、それを患者同士、隣人同士で相せめぎあいさせるすざまじさである。
 たしかに水俣病は新しい危機感によって新しい局面をむかえている。
(1)水俣病の審査基準批判
 昭和三十四年以来、水俣病審査委員会は基準をいわゆる「ハンター・ラッセル症候群」なるものにあてはめてきた。
 しかもその審査にあたって、全員一致制を建て前としてきた。そのため一人でも疑義あれば、審査をパスしないのだ。認定が即、補償につながって「金」の問題がからむだけに、チッソは全力をあげてこの構成委員と接触してきた。
 熊大の徳臣教授らの渡航費をはらったり、研究発表の出版費をカンパしたりしたといわれる(「告発」)、その彼を審査委員長とし、委員に水俣の開業医、現市長、浮池氏などが公正中立な立場の人として入っていたのである。
 イギリスの例が有機水銀工場の事故による発病であるのにくらべ、熊本水俣病がプランクトンー魚ー人間ー (胎児) という自然界の食物連鎖による中毒という、発生機序に大きな特異性があるのにその病像をハンター・ラッセル氏の論文中の諸症状にあてはめ、それにがい当しないものはすべて削除してきた。これが過去十数年、一〇〇人前後の眼定患者数にたもてたのだ。
(2)汚染地域
 昭和三十五年頃、県は不知火海域の住民の毛髪検査をしていたにもかかわらず、その結果を発表しなかった。昭和四十六年五月、退職した関係者の死蔵資料の中から発見され、当時、天草に九二〇PPMという最高値の老女の生存していたことが発見された。
 今まで、地域を水俣湾とその周辺と限って、しかもその上積極的な疫学的な調査や住民の一斉検診を怠ってきた県の態度はますます批判の対象となってきた。
(3)病気発生の時期
 審査会は水俣病は昭和二十八年に発生し、昭和三十五年にその発生を終ったとしてきた。そのため水俣病の発生がこの期間の以前、以後の場合、病名不詳とか他の併発症状で片づけてきた。すでに勇気ある工場労働者の発言にみたように、アセトアルデヒド排液は昭和四十三年まで流れていたのである。熊大の藤木講師ら衛生学教室グループは、その発生時期を確定するため、日付のはっきりしている研究資料として嬰児のへソの緒に着眼した。この一帯は誕生日をかきそえてへソの緒を保存しているのだ。それから水銀量を検出した結果、昭和二十二年生まれの嬰児のそれに一・〇三三PPM (乾重量)という測定値を発見、遅い例として微量ながら四十五年六月生まれまで確認し得た。その年次別四十七のサンプルのうち昭和三十四年当時の嬰児のそれから二・二五八PPMという最高値を測定したといわれる。(昭四七・四・三 朝日新聞)
 先に法廷で証言している原田熊大講師は、「人類史上初めて発生した中毒の症状であり、その病像はまだいとぐちにすぎない。」とのべ、専ら、住民の一斉検診と継続的な医学的処置と記録、そして臨床体験の蓄積を説いている。一医学者の良心をかけての仕事が恐るべき結果をひき出している。
 去年、彼が茂道、湯堂、月浦、津奈木の一部で六十五世帯のうちの百人について検診を行なったところ、全然異常のないもの僅か十名、しびれや言葉のもつれなど比較的軽い症状のもの三十名、あとの六十名ははっきりと生活に支障があり、うち三十二名は日常生活に介添えが必要というものである。九割が異常だという研究結果となった。(昭四六・七・二五「告発」)
 又県の行なった第二次水俣湾周辺地域住民健康調査の結果、二〇 ・二%に当る八百九十三名が水俣病と目され、その上千七百名(約四〇%)が精密診断のうたがいがあるという。(昭四七・五・一ニ 朝日新聞)
 十月現在、県の審査委員会の下に、医師診断書を添えて認定申請中の潜在患者四百五名に達し、これが最終的に何千名にのぼるか見当がつかないといわれている。
 美しい水俣湾には今も水銀が堆積している。今年の六月の熊大の公害研究班が県の委託をうけて行なったへドロ調査によれば総ヘドロ量五十九万八千立万メートルに及び、水銀最高一、四二〇PPMと発表された。無機水銀が殆んどといわれるが、それが自然の中でいかに有機化するかについてすでに諸説が発表されており、水俣病発生の危険性はいまもあるのである。
 映画人として水俣病とかかわりをもったものとして、今年の夏のストックホルムでの発表は自分にとってこたえるものであった。今後の水俣病をどうするのだという問いである。私は映画をとりつづけようとひそかに覚悟をもったが、その時は(今もそうであるが) その果しない展望の前にたじろがざるを得なかった。すでに三つの公害訴訟が示すように、因果関係や責任論で多くの前進をみたにせよ、企業を罰し、操業停止に追いこみ、自然を可能な眼り復元せよといった力を法はもっていない。損害についての補償も、まだ病像が固定もしていない未知の病いにランクをつけ、その操作によって患者の請求を値切るということは今後もつづくであろう。まして第三者機関である公害調整委員会や「公害裁判所」の構想は資本家相互の損害保険に似た構想であり、ひいては国民の税金をつかつての「立替払い」になりそうなすう勢である。
 オートマティックに患者さんは支払窓口で「調整」された結果のランク別の金をうけとり処理されるであろう。この政策によって、血でつながれた公害反対の人間的闘争はおしつぶされ「自然消滅」の道を辿らないといえるだろうか? チッソの校智はいま国や総資本に正統にうけつがれ、善意の市民運動を包みこみつつ扼殺してゆくという手口に化けるに違いない。
 この時、ストックホルムで初めて発表された「水俣病センター 」(仮称)の構想は、極めて重大な内容をふくんでいる。その集会場、診療室(移動診療所の基地ともなる)、ベッド、そして僻地をまわる診療車、そして全資料を保存するための資料センター、これに将来は働ける患者さんを中心にした共同作業場が構想されている。上記の一つ一つは今までなかったものの充足である。患者さんの会議する場所はいつも患者さんの家のまわりもちであった。診療をうけるにもタクシー代をかけてゆかなければならなかった。
 まして天草御所浦などは舟以外ないのである(診療船の構想もある)。そして資料は市、県、国のものは秘としてかくされ、一般の人々のもつ資料、写真、映画、テープは分散して目録化も出来ないでいる。外国の研究者がきていつも驚くのは、これだけの人体実験をもってあがなった水俣病の資料が一カ所にないことであった。
 隠ペイの歴史から説明しなければ、この質問に応えることは出来ない。地元の市民会議の松本事務局長はその形は一つの寺院のようで、だだっぴろく、みんなが集りやすい民家の体臭をもった建築であってほしい」とイメージをのべている。水俣病死者と生者の霊にそった形なのであろう。
 裁判を通じて患者さんたちに一つの新しい像が出来たのを見てとれる。今までの血縁、地縁の人々が、相互に患者でありながら、進み方によって相憎む不幸な構造もとった。また隣人が「金のほしいばっかに、市民に迷惑をかけて」と遠くの「市民」のかわりに足をひっぱりもした。しかし水俣病はその隣人すらもむしばんで来ているのだ。
 去年暮から新たに認定された人々の中から、チッソにじか談判によって補償を解決しようとしている十三名の患者さんー自主交渉の人々の一年にわたるすわりこみをよく御承知のことと思う。
 かくれた水俣病が新たにせきを切ったように浮上した時期、水俣の一部市民の危機感は一せいに自主交渉派にむけられた。その一部「市民」が全戸に配ったビラにいう。
 「水俣に会社があるから人口わずか三万たらずの水俣に特急がとまり観光し客だって来るのではないのですか。会社ゆきさんが会社から高い給料をもらい水俣で使ってくれるから水俣の中で金が流れるのではないのですか。銀行だって、生命保険だって土建業だって、私達駅前の食堂だって曲りなりにも成り立っているのではないのですか? もし水俣から会社が去ったら、どんな事業でも縮小せざるを得ないでしょう。そこで働いて生計をたてている我々市民はどうなると言うのですか・・・市民の座談会の声をきけ・・・
D氏ー神経痛か小児マヒかアル中かよう分らんとに、金をやるとか仕事をやるようにせんばならんとか言うからノボすっとよ・・・
E氏ーあいつらは弱った魚を食べたから奇病になったのは、これは事実じゃ。そん証拠に俺達はいくらでんたべたし、魚屋で買うてくうた市民は誰もなかったもんな、やっぱり本当の漁師が専門にとって、金取って食わせる魚を食わんとが一番悪かったごとあるなあ・・・まあなってしまったことだからしょうがなかけど、ストライキの時のように市民に迷惑をかけるのだけはよくなかっけん・・・」
 ちなみにこうした運動の中心人物を列挙すると自民党水俣支部長、商工会議所会頭、財人会長、医師会長、湯出観光協会長、前水俣市助役らの顔ぶれである。だが上記のような意見をのぺる市民もまた危機感にかられて、憎しみは自主交渉グループや訴訟派患者に集中している。それがチッソの城下町の水俣の実態である。水俣で二度のべ六日、私の映画『水俣ー患者さんとその世界』を上映した。その殆んどの人が、初めて「水俣病」を知ったとのべた。だれも近くにいる水俣病患者を凝視した上での発言ではなかろう。
 今後の水俣病の進展を思うとき、患者さんが、生き身を横たえる場所を絶対に水俣に建設したいと思う。水俣病センターとは何か、それは患者さんそのものでしかない。それは今後もつづく差別の中で、埋められた患者さんが名乗りをあげる心のよりどころとなるであろうし、一任派たると何々派たるとを問わず水俣病という公害の原罪を問うべき人々の共通の場として存在してほしいのである。すでに土地をかい、全国的なカンパをよびかけている。(総工費三千六百万)いま同じ茂道に病むひとりの老人のことを思う。彼はやっと最近自ら患者となることを承知した。十数年前、となりの患者にむかつて「漁師しとるくせに水俣病と名乗って、恥かしくないか、金ほしさに」と悪罵の限りをつくしたという。その後自分に典型的な水俣病の症候が襲い、寝た切りになった。市民会議の人々の患者申請のすすめを何度もことわりつづけ、そして言う「わしがいじめた。わしがわるくちを言うた。そのわしが何で水俣病といえようか」
 私はこの話が好きだ。今病む人々をいつかは歴史が一つの人間の像にむすびつけ、水俣病とは何であるかのひとつの病像を刻むことになるであろう。センターはその場所となることを切にのぞんでいる。〈七二・一〇・二三)