映画『水俣一揆』のまえとあと 「エコノミスト」 7月3日号 毎日新聞社
一昨年、映画『水俣ー患者さんとその世界』を発表してから、東プロおよび青林舎(改称) の仲間たちで作った水俣関係の映画は五本になった。『勧進』( 一九七一) 『死民の道』( 一九七二) 『実録公調委』(一九七三) および最新作の『水俣一揆ー一生を問う人びと』(一九七三)
このうち『勧進』は、患者さん達が巡礼姿で、チッソの幹部の自宅を訪問し、御詠歌を唱え、その一家の安泰と息災を祈るという行脚の一部始終を描いたものである。『水俣ー』が刺激となって、若い東プロのメンバーがほとんど自費で作った小品であるが、その当時、つまり二年前の患者さんの姿勢が、まだ土着のまま抑圧されていたことを巡礼の風姿は、記録している。
その翌年、私のスタッフの若い人、一之瀬正史、堀傑が作った『死民の道』は、川本さんらの自主交渉の経過を記録している。この闘いは延べ一年半つづき、現地水俣のチッソ工場前と東京本社前にテントをかまえての長期坐り込み闘争となった。チッソは、三菱地所所有のビルにあるチッソ本社の四階に鉄格子をきずき、エレベーターをその階のみノン・ストップという工作までして、完全に城砦を作る愚挙を行なった。
新認定患者の一部の人々のとったこれらの行動は、訴訟中の患者さんの一部と合流して、自分たちの状況とは直接つながっていない公調委派の人々への支援となって、昨年末から一月にかけて、闘われた。それはいかにも水俣らしい出来事、公調委への申請書や、全権委任状の偽造、印鑑流用をあばき出して、公調委を窮地に追いつめることとなった。これが、私の『水俣レポートー実録公調委』として本年三月発表されたものである。ついで裁判後のチッソ本社での闘いは六月末発表の『水俣一揆ー一生を問う人びと』となった。そして今後の予定として、水俣病の病像そのものを医学的に究明する、医師むけのアッピール映画を計画中で、それについで、今までの集大成として新規にロケを開始する『不知火海』を目標のうちに入れている。この作業は上映をふくめて完結するのに、最低三年はかかるであろうと思われる。
最初にTVの仕事で胎児性水俣病をあつかった映画『水俣の子は生きている』(四一年度ノンフィクション劇場、NTV) から、断続的に約七年、カメラとテープをまわしながら、患者さんのあとについて、映画記録の作業をしてきた。しかし正直いって、全然倦むことがないのである。
「どうしてだろうか」私はときに、自問自答してみるが、これといい切れることはない。強いていえば、患者さんの闘いが深まるごとに、新しい問題や、患者さんの人間的な飛躍の節をある驚きをもってうけとめているからにちがいない。私はモラリストでも社会運動家でもない。そうではないものとして、つまり一人の自由な映画人として、私の道の楽しみ、つまり道楽として映画を作っている。
誤解をおそれずにいえば、水俣病を掘り下げることに快楽を失ったら、その時は躊躇なく、他の世界にカメラをもって行ってしまうにちがいない。しかし今のところその気配はない。私は水俣病というとてつもない現実によって、映画とは何かを学んでいるし、技法も内容もみがくいま唯一の修業場と思うからだ。
たとえば、七年前、八歳ぐらいだった坂本しのぶちゃんが、次の映画では中学の特殊学級に入った少女であり、二年後一緒にストックホルム環境広場にいったときは、多感な女としてめざめていく過程であった。今度の映画ではひとりの女性として、その一生を思いあぐねる強い思索を開始した立派な大人として、昼夜わかたぬチッソ社長との長距離マラソン的な直接交渉の場に、自分の発言の機会をまって、じっと耐えて坐りつづけているのである。このように水俣病患者のひとりひとりの人生のある時期をながくみつづけられることが他にあろうか。その患者さんのなかで変化をとげていく「人間なるもの」にかくもナイーブに接しつづけられることが、他に考えられようかー。今年三月、水俣でしのぶちゃんがアイリーン・スミス(写真家ユージン・スミス夫人、水俣在住) に語った告白は、「嫁にいけない。しかし時に好きでしょうのない青年がいる。それはほとんど、水俣にしばらくは留まって、そしてやがて去ってゆく支援のヒトである。それも仕方がないと思う。だが、もう一度、きてほしい。裁判の終わることが恐ろしい。みんなもう水俣から立ち去っていくのではないか。私の一生がみえる。父母が、夜半に、私のこと、つまり両親が死んでからあとの私のことを話していたのをすっかり聞いた。母は、自分の死ぬ前に、私が死んでくれた方がいいと泣いていた。まだちいさい弟も、やがては嫁さんをもらうであろう。私はその嫁さんの世話になるのだろうか。それは辛いことにちがいない。父母が死んだあとの自分のことを考えると、たまらない・・・」というものだった。
はっきりしていることは、私たちがしのぶちゃんの立場に立つことも、真に十全に理解することも不可能である。母親でさえ娘のすべてをわかったといいがたいことは上記の語らいからもうかがえる。このことは、すべての患者さんと私との基本的な関係の形である。患者さんへの合体合一をときに夢みることはあっても、それは不可能だという地点からしか映画はとれるものではない。単純にいって、写真ですら、不具の身にあっては、とられることが忌わしいものであるのに、容姿も表情も声も、そしてその起居する自分の室や病床に入りこんでくる「記録映画」の人びとに、どんな抵抗や、違和感があるか想像にかたくない。私たちとしてはそれは知っているつもりの上での撮る作業である。
水俣にかぎらず映画の仕事の中で、困難なカベにぶつかるのは毎度のことである。非合法生活をしている半亡命留学生を撮るときもそうであったし、中米ドミニカ武装下のデモ取材のときも撮られることが身の危険にかわるであろう人々に接してきた。しかし、これらと水俣の患者さんとは位相がちがう。他の映画の経験では、どこかで自分も加担しているという心情があった。共同性や相対的にせよ「同じ志」といった彼我関係を作りえたのである。しかし水俣病の場合、死者とか治ゆ不能といった映画が、そのひとりひとりの苦痛に決してかかわれない意味で、ある絶対性をもった対象なのだ。
昭和四一年春、はじめて水俣にいつてある意味で完敗した作品を作ったとき、この世で、どうしても記録映画として撮れないものがある。ーそれは現実の死、現実の性交、現実の罪、そして決して治ゆすることのない病人ーこれだけはその絶対性において、カメラを伏せざるを得ないと思い定めた。
一九七〇年、私たちが改めて水俣におもむく前に、映画がはじめて入り得る条件が生まれていた。それは患者さんの一部が訴訟に立ち上がったことである。権利意識の発達した都会人なら奇異に感じようが、これは現地水俣では大変な決心を要することであった。水俣病がチッソの手で処理されようとするのをみかねて、日吉フミコ、石牟礼弘、石牟礼道子、赤崎覚といった人々が支援の声をあげはじめたころ、やはりそのひとりであった松本勉(市役所勤務、現水俣病市民会議事務局長)は当時を回想してこう述べたことがある。「私に何が出来るか考えた。訴訟といっても、患者当事者でなければ、それは出来ない。誰かが訴訟にふみ切る以外にない・・・私は真剣に水俣病の子どもを養子にし、自分で親となって、つまり当事者となって訴訟を起こそうと考えたものである・・・」。
このつきつめは、患者さんの心にも隠れすんでいた。訴訟に起つとき、それを決めたのはひとりひとりの患者さんであった。患者互助会が、補償処理委員会に一任するか否かで分裂のせと際にあったとき、当然訴訟の道しかのこされていなかった。大半は地元に生きる以上、チッソにはさからえないものとして一任派に加わる中で、訴訟を名乗りでるには、個人の胸のうちで考えたこと、誰の指図でもない「自らの考え」にもとづいたという。これが患者さんの中で活発に活動している人のことばとしてではなく、日ごろ、総会でじっと耳をかたむけ、ひかえめに茶菓の始末をしている老婦人、長島さんから聞かされたときは、その訴訟の決意がどんなに根源からの選択であったかがわかった。訴訟とはそのように絶対的な決断であり、和解談合の余地を全く失った人々のただ一つの行為であった。
それはとりもなおさず、地縁との差別をうけ入れる覚悟と患者が同じ原告同士としての新しい人間のつながりを求めることへとおもむく。この変化の過程で、はじめて映画もこの人々の中に一つの座をもつことが出来たのである。それは支援の人びとなどの手ぴきにせよ、それをうけ入れるべくしてうけ入れたのは、自ら闘いをえらびとった患者さんの決心によるものであり、五年前とちがって鋭い闘争をするものの直感ともいうべきものによって許される「作業」となった。
嫁むこ関係と有機的につながっていた古い共同体を裂いた代償のように、支援の人びとが現われた。見も知りもしない人の力づけ、東京までに達した脈絡をもつ人びと、それがどんなに訴訟の気力をふるいたたせたかは、また私たちの付度出来ることではない。そのなかに映画も一つあったのである。
こうした変貌期にあって、映画は、まず全患者、その家庭をとることにきめたが、その手はじめは、すでに死亡した人々からの訪問であった。逆にいえば生きている患者さんにとうてい素面素手で相対できる状況ではともになかったからである。怨みをのこして死んだ人びとの遺影の前で、その霊に何宗、何教ともわからぬが、合掌してから聞く話は、やはり、死後の追憶の純化作用があって「ひと」にまつわる苦しみと思慕は、むしろ語りたい気持にそって告白されるのである。どの家もどの家も「私のところほど恐しか病状はなかった。私ほど悲しんだものはおらん。もし字がかければ、両手にあまる分厚い本にしても書き切れんものじゃった・・」と皆告げるのである。
多くの死者家庭のあと、大人のそれもどこか命運をさとりはじめた老人患者に足がむけられる。その人びとの誰一人として魚狂いでなかった人はいない。漁(すなどり) びととしての自慢、海のことで知らぬことはないという誇り、そして魚に関しては食魔ともいうべきたんのうぶりを語って、今日の悲劇に到るのである。
彼らの多くは漁村部落からの除けもんであり、ことに一任派の多い地区では異端であって、近所のつきあいは切られている場合もある。いわば流れものであるわれわれに対してであろうと、焼酎をくらっての話はつきないのである。
そうして数ヵ月をへて、はじめて、うしろめたさを薄らげ、胎児性の子供にむきあえ、カメラを回させたのである。その時までに、何十人かの死者や生存患者からじかに伝えられた「水俣病」の存在をごく自然に背に負えるときが近づいてきたのがわかる。それでも、なお軽症の子供からという順序になるのである。
その数ヵ月の中で、映画のスタッフと患者さんの中で奇妙な場がもたれた。それは、撮りっぱなしのフィルムの試写である。そこでは、とった順序通りの未完成未編集フィルムが上映された。そうすると”出演”した息者さんは満面顔を赤らめながら打ち興ずるのである。そして他の患者さんやその家族から批評も生まれる。ときには「あげな軽い患者をガラガラ回してフィルムがもったいなか・・・。わしの家の娘こそこれが水俣病ぞ! 早うちゃんと撮らんな!」と告げにくるのである。ここらあたりが映画と映画に登場する人々とのつきあいの形の転換点であったろう。
こうした場合、人々は映画やマイクのある事態の中で、自分の一番いいたいことをよどみなく述べるのである。「あれえ、あのひとはいつもは、そんなことはいっちょもいわん人ですばい。よう喋りなさったなあ」と、私たちの作業をみて、ロケ宿の女主人、浜元フミヨさん(新たに認定患者となった)は感嘆してみせる。
それは非日常の流出を物語る。映画とむきあって、かつて人にいえなかったことまで表現しはじめた患者さんの変貌が、そこに映画として記録されはじめた。こうした足どりでのみ映画『水俣』は作られたのだ。
完成後、水俣で試写をくりかえしたが、誰もが、一回目の試写では自分の姿しかみないのが普通であり、二回、三回とみて、もしやこの映画は、「水俣病」のことを全国に知らせてくれることになるかも知れん、「ようでけとるでな」と映画の全体像に至るのである。映画に撮られたことで、あるいは不都合の起きた患者さんもあるかもしれないが、寡聞にしてそれを聞かない。むしろ「おるげの(自分たちの) 映画みたかな!」ということになる。この四月、泊りこみでの交渉のゆきづまりの中で、チッソ幹部に対し、「あんたら、映画みてくれたかな?」と問うたのに対し、ある課長以外の誰もみていなかったのを知って、早速「深夜興行」をチッソの会議室で開催し、社長に見せ、更にその感想を求めるといった具合になってきた。このことは作り手たちの手を離れて、映画が一つの実体をもってきたことを教えてくれたのである。
水俣病に関して、もしカメラやマイクなしにその地に入ったら、もっと自由に話をきけることもあった。それは一任派や近隣の漁民たちの声である。何度こころみても当時は失敗した。「手ぶらできたら語りもするが・・・」というので、こちらにはいつの日かは・・・という下心はあっても、いつも手ぶらで話をききにいった。そしてそのままであった。これが、次回作『不知火海』をどうしてももう一回撮らねばならない動機のひとつにもなっているのである。
今回、再び『水俣一揆』をとる中で、患者さんたちの顔ぶれをみるうちに、かつてカメラもマイクも峻拒したひとりの壮年の漁民に再会した。彼自らが、この一年のうちに一家はほとんど水俣病に認定され、自主交渉派として闘うように変わっていたのである。また、かつて撮影のとき行った、ひなびた海水浴場の「海の家」の漁家や、海ぞいの砂利道のそばで渇をいやした小さな酒屋さん、あるいは道しるべだった家々が、二年たって再び行ってみると、それぞれ水俣病に認定されたか、目下、申請中の人びとであった。その人びとが自ら進んで名乗り出たケースは少ない。むしろ、隠せるものなら隠しておきたかったと思える。
私たちが前作のとき日常生活のすべてにお世話になった浜元フミヨさんが、ついに働けなくなり、認定された。彼女が、チッソの島田社長にくり返し時けかけるのは「水俣病の判を消してください。この判をおされたばっかりに、私はいっさいの希望を失いました」ということばである。彼女は両親を狂い死にさせ、それをみとりつづけたひとである。実体は水俣病であろうと、それが認定された水俣病として彼女につきまとうことの方がはるかに、人間崩壊のひびきが強かったであろう。
一生のめんどうをみよと迫り、「二号でも三号でもいい、妾にして下さい。金ばすぐでも返します」といい切り、ついに「補償金で一生くえるはず」というチッソのことばに怒り、補償金全額を叩き返してしまった。金でしかつぐなえないとしつつも、つまるところ金ではないことを、患者さんは百の雄弁より鋭く示したのである。
この絶対性からのみ立ちのぼる闘いの質をみない限り、映画は出発しないことを改めてつきつけられるのである。これから次回作『不知火海』をとるのだが、水俣病を撮るには、その度に、すべてふり出しに戻ることになる。つみ上げた経験も人脈もほぼ無力である。それほど、患者さんの闘いの質は深く鋭い。根源からの問いは、いかなるシナリオにも予定できないものである。
その未知の”人間的なるもの”に再び会うことへのどうしょうもないわななきが、私たちの映画になりたいと切に思うのみである。それがまた、私たちの道の楽しみであり、生きる手ごたえともいえる。
今年に入って、離島の患者をたずね歩いた。天草の御所浦のある婦人は一〇年近く前の毛髪検査ですでに六OOPPMという最高に近い異常値の出た人である。その人と会って救われるものは何もない。元食堂であった荒れはてた家。いまはかつて客を招きあげた二階に老夫と住んでいる。「村八分たい」といって自ら忌中のように雨戸をたてた暗い部屋に寝ている。この人が、最近の毛髪検査で九OOPPMに達したことを教えられた。
「そりゃそうですばい。ずっと魚をたべとるもんですけん。わたしゃ魚がたべられんなら、死んだも同じですばい」。魚を食べるときの話のときにのみ、暗い部屋は灯の点ったようになる。
そして聞くものをその食の世界にさそうのである。ガラカプのエラの煮つけ、貝のうで方、たこのはらわた・・・。どんなに金がなくても、たとえ一〇円でも、漁の帰り船からその日その日の魚を得るのがたのしみで・・・という。
「体に悪かことは知っとるけん、好きじゃもんね。何でやめられるか。もう体に入った水銀は出てこんちゅうじゃろ。それならいっしょたい。好きちゅうことはじえったいやめられんもんですばい。これは業たい」
この話題だけがいつも明るく、笑いころげるに値するおはなしであり、私たちも心が和むのである。
次回作『不知火海』はこの重症の婦人が水銀づけの魚をむさぼりくらう、彼女にとっての美味求真を心ゆくばかり撮りたいものだ。それが私たちの映画の楽しみである。