書籍「映画は生きものの仕事である」まえがき
「・・・ あるところで、ある出来事があった、そのあらましはかくかくであり、その情景はしかじかでした・・・ 」と部落、部落をあるく口説のたくみな行商人のように、おのれの巷談をひさいで歩き、生計がたてられれば、何と楽しいことであろうと時に思う。六年ほどまえ、シベリヤのツンドラ地帯、ヤクーツク共和国を訪れたときのことを思い出す。隣の部落まで百キロ以上お互にへだてるヤクーチャ人の部落で、私はいたれりつくせりのもてなしをうけた。話しの聞き上手の人々にかこまれて、日本のことを語った。その折、古老はいうのであった。「ここは地の果てで、旅びとのおとずれるのは稀です。その人の運んでくる話を待ちこがれているのです。旅びとがきたら他国の話をせがむのです。その話をきけるたのしみにくらべれば、この御馳走はまだ足りるものではありません」と。
私は映画で、そでうした諸国噺がたりのようにあれたら、それがどんなに自分にふさわしいかと思ったものである。あきないの品物を背負って、離ればなれに暮す人々をへめぐって語りつづける、それはかつての富山の薬売りに、越後の瞽女に、夜祭の香具師に似ている。うそかまことか定かでないが、その話に耳をかたむける心やさしい人びとにとりまかれて、話しが出来たらよい・・・だから、私は記録映画を作る作らないにかかわらず、決して寡黙を好まず、喋りはじめたらとめどない口舌の徒であり、一方、人の話が面白く、根ほり葉ほりきく詮索ずきの人間である。それを人に伝えるのがまた嬉しい。映画がとれないときは写真ででも、テープででも記録したい、その用意もないときは身ぶり手ぶりまで真似ても、人に事を伝えることにいいしれぬ喜びを感じてきた。それを何より映画でしたいのである。ときに文章でも伝えようと願うけれども、それは自分の領域外のこととしてきた。文章を書くことの厳しさについていささかは識っているつもりである。そして映画の場合イメージをペンで書きつくすことで、それなりに果てることもあるのである。映画に始めて入りたての頃「映画の人間は映画だけで伝えればいい、”物書き”にはなるな」とやや昔かたぎの先輩から聞かされて、「なるほど」と納得するものがあって以来、理窟ぬきに書くことを避けてきた。
いま水俣についての映画のシナリオ採録集と文章を一つの本とするにあたり、改めて読みかえし、ああまた一つの饒舌を生んだという感がこみあげる。
ここに収録したのは、水俣にかかわって以後の四ヶ年に書かれたものであり、この時期からしきりと文を書くようになった。それは映画の自主製作、自主上映の際の必要欠くべからざる文章としてかかれたものが主になっている。「・ ・・どんな映画をなぜ作ろうとしているのか、・・ ・ひとつの仮定をもっているが、どのように変えさせられるか、・・・予期せぬ事から映画の行方はどうなるであろうか・・・映画はどう完成したか・ ・・」つまり、映画づくりの模索のときから、中間報告、完成から上映までの、不完全ながら私たちスタッフの記録であり、作品の生まれるまでのプロセスのありままの表現となっている。小論はときに演出ノートであり、シナリオであり、口上であり、宣伝文句であり、フィルムをもっての上映行脚の記であり、旅日誌であり、また私の自問自答として書いた映画論ノート等、一見混沌をなしてつながっているが、それぞれは乾いた干物でなく、相互の間に水気を含んだ神経繊維があって、ひとつをひきあげれば、他がずるずるといもづる様にぶら下ってくるような全体性はもっていると思う。それはこの本の文章のすべてが、その映画の仕事とその生活の話であり、すべからく映画を芯に絡まり吐き出された必要不可欠の文章化の仕事で、それは映画の作業の一部であったからである。簡明にいえば、シナリオ以外の文章は、私たちの映画のための「呼びこみ口上」集といえる。その「呼びこみ口上」を、ほかならぬ作り手の私自身が、人の口を籍りずに、私自身でやってきたのである。それだけに本人にとっては真剣勝負であった。手管にみちようが、いささか誇大であろうが、私たちの等身大の力量で自分らの映画を語ったつもりである。読み返して、矛盾や「分裂」もあらわであるが、弁解も言いのがれもない、すべてはここ、組上にあるのである。
このまえがきも、この一書も、次なる映画のための、またひとつの「呼びこみ口上」でありたいと思うのである。
(1973/9/1)