三月東京行動撮影メモ 『新日本文学』 5月 新日本文学会 <1973年(昭48)>
 三月東京行動撮影メモ 「新日本文学」 5月 新日本文学会

 今年の初めから、新作『不知火海』の製作にかかったのだが、そのプロローグともなるべき、「水俣病」始末のシーンが、中篇の『実録公調委(公害等調整委員会)』として完成した。名づけて水俣レポート1とした。あと2、3が作られそうな気がしたからだ。いま三月二〇日の裁判とその後の「三月東京行動」あるいは集団自主交渉といわれる患者さんによるチッソ主脳との直接交渉を撮影しているが、「二つの裁き」ともいうべきものとなりうるだろう。この中で、幸運にも歴史的な裁判と水俣病発生以来始めてといわれる直談判の模様を目のあたりにすることが出来た。前作『水俣ー患者さんとその世界』が作られた七〇年当時と比べて、患者さんの闘いの質はさらにくっきりと「人間なるもの」を確立する人間闘争としての色合いが濃くなっている。その恨源からの問責と闘いのエネルギーは、やはり、私の中にある小市民性をゆすぶるに充分であった。受難の歴史の連続は、常民ともいえるひとりひとりの漁民にかくまでの人間への洞察力と、情況の分析力、そして狂いの少ない対応を生ませていることに心底から畏敬せざるを得ない。
 裁判はいわゆる「勝訴」といわれているが、その局面は患者さんにとって当然有利に展開している。しかし、この勝訴が予感された裁判直前に、水俣でひとりひとりの患者さんにたしかめられていたことは、決して「勝った」といわぬという気持ちであった。それは今までの先行した三大公害訴訟、とくに、同様の有機水銀中毒症である「新潟水俣病」の判決に当って、一部にはすでに知られるように代々木の影響のつよいといわれる支援組織が、判決主文をみただけでVサインを送り、勝利感一色で新潟地裁をぬりつぶした。「くらしと健康を守る統一戦線の勝利」とする政党政派の論理をもって、その闘いを評価してみせ、「万歳」をくりかえし、患者代表を肩車をもって、ダシのように構内をねり、現金を用意した昭電本社内で、金が出されるや、「支援」のものが、会長の手をとり社長と握手させ、長い間の対立を解いてみせようという愚かしさまで演じた。新潟水俣病の場合、死者、重症、胎児性については請求にほぼみあった額を出したものの、重症・軽症のランクづけは露骨きわまるものであり、その値切り加減は最もひどい場合、五分の一、七分の一というものであった。このランクの思想があらわれたとき、公判廷でも深い失意が流れたにちがいない。裁判を終って出廷してきた患者さんの顔は暗かった。だがやがて、支援者の勝利のよび声の渦に巻きこまれなければならなかった。このことを水俣の患者さんは骨身にしみて考えたにちがいない。
 だが、水俣病裁判の結審以後判決まで、いわゆる弁護団グループは、勝訴を党派的にうちかためることに策動しつづけてきた。いわゆる熊本、福岡の代々木系の党員弁護土と、いつも白衣を制服としている民医連グループは、たくみにその党派的日常活動をともなって患者さんにむきあってきた。その成果を判決にあたって回収しようとするのだ。
 水俣市にある水俣病市民会議(以下「市民会議」と略) も水俣病を告発する会(以下「告発」と略) のグループも、ともに戦後の闘争をその最左翼で闘った人々が芯になっている。そのひとりひとりが、原水禁運動に見られるような被爆者を党派によって虫喰いのように荒している事実への批判として、支援闘争の原則をうちたてている。そこでは諸個人のひとりひとりの「内なる告発」をもって、自分のこととして闘うのであり、決して党派の活動を優先させることはしないことをきめて始めたのである。ただひたすらに「個別水俣」にかかわり、いわゆる「公害」批評家、「公害」専門家になって、いわゆる上ずみの流動をしなかった。四日市にもカネミにも新潟にも、患者さんが交流することには積極的であったが、支援活動家が、その公害全般に力をひとしく尽すということは出来ないこととした。熊本水俣病患者のあとについて、その闘いを保障するためにだけ活動を束ねて、焦点をしぼった闘争をつづけてきた。熊本告発のメンバーは、三十世帯の訴訟派患者の家族、家系、その生活状態から病歴、性癖までことごとく知っているのが、むしろ普通であり、その世話に当る現地活動家は、それぞれの家のミカンの種類まで、薬かけや、せんてい作業の中で熟知している。それほどのかかわりあいをもつことで、ようやく「患者さん」について口をきけるのだという或る徹底的なつきあい方をベースにしている。現在四〇〇名に近い総認定患者数をみるにいたって、顔も知らない患者、名前も覚えきらない患者さんを覚えこもうと足しげく工作しているのである。だが、このことは美談ではなく、患者さんへの支援の質が、当然そこまで要求しているものと理解しているからである。
 裁判の三年九カ月、代々木はかつて指一本染めることの出来なかった水俣病闘争に、弁護団グループを通じて始めて縁をつくれた。その後、民医連のパイプを「かくれ水俣病」の発掘の仕事を通じてもつことが出来た。現地に開いた弁護土事務所には、有力な党オルグが常駐し、事務員として、赤旗取材者、配布者として活動しはじめた。この「弁護士」という名目は、患者さんにとってある実体をもって重くのしかかる。ありていにいえば、つねに弁護士に対してひけ目をもっているのである。昭和四十四年、訴訟に追いこまれた二十九世帯の患者さんが一番おそれたことは、「裁判は勝つも負けるもすっぱだか」ということである。むかしから、損害賠償の訴えは、いつも原告の無知につけこみ、弁護士によってすっぱだかにされた噂を耳にしているのである。だから、弁護土をたのむに当って「金」のことがいつも気になってきた。民事裁判の場合、訴訟費用がかかる。その上、弁護士費用も当然はらわねばならないが、それがないことから出発せざるを得なかった。以来、「告発」グループが発起した県評、県教組を基盤とした「水俣病支援県民会議」が労働者のカンパ制度をつくり、弁護団グループも、それを諒として、患者さんの金銭負担ぬきで活動資を県民会議や告発によって支えられてきた。
 が、このことが律義な患者さんたちには、相済まぬものとして心にわだかまりつづけたとしても不思議ではない。ここには実は患者さんも弁護団も直接にはふれないできた。しかし、弁護団が患者さんにある意見を押しつけようとする場合、いつも「金のない中で弁護をひきうけている」ことをほのめかすのであった。一株運動への反対意見をのべるときもそうであったし、裁判判決(劇) の演出に当っても、そうした患者さんの弱みを刺すことを忘れなかった。彼ら弁護団は、勝利の「真の主役」として諸革新政党のボス(各党公害対策部)、労組幹部、公害運動の専門家、全国各地の被害者代表、そして自らの「革新的弁護団」をもって混成部隊をつくり、患者さんの大部分を裁判後、水俣での「勝利集会」に釘づけし、中央でそのショーを一部患者代表数名を推して水俣病闘争の主役の交替、イメージチェンジを計画したのである。
 ところが患者さんと市民会議、告発のグループは、裁判がどのような形をとって終ろうとも、このひとふしの闘いの終りにあたって、二十年間一度も直談判に応じなかった会社と対決し、その医療と一生のいのちの保証を求めるためには、チッソがかねて交渉の場合患者さんをひきずりこむ主舞台としての現地水俣ではなく、その本拠東京に着目、判決後、その足で東京にかけのぼろうとしていた。このことは弁護団を介して計画していた「劇」の破綻を意味したのである。判決前の一カ月近く、弁護士と患者さんとの救いがたい意見の不一致がつづいた。その討論の中で、弁護士のひとりは「私は北九州で百数十人の依頼者(註・顧客)をふりきって、水俣に転居し、あなた方のためにやってきた。(註・その献身ぶりを) どうか察してほしい」と善意のうりこみを計ったのである。
 だが、この動きを反面の手本として、患者さんはその真の欲求をとぎすましてきたといえる。裁判の判決を機に、東京行動をおこし、それに参加し交渉の主導権をとろうとする弁護団のうごきに最終的にとどめをさし、東京での交渉の主体を患者さんたちとし、市民会議を限ってその介添役としたのである。告発はその闘いを保障する威圧力としてのみ働いた。
 患者さんたちは、裁判所においても、東京で設定された集会、つまり弁護団が計画したすべての演壇に立って感謝をのベた。そのとなりで、告発グループは公然と水俣病闘争における党派的なのっとりをバクロしてはばからなかった。いままでの肉体的なまでのつながりから言えば、患者さんはその二つの対立するグループのうち、「告発」にとりまかれて、今後の闘いを考えることをためらわなかったにちがいない。にもかかわらず、正式の感謝はまずはじめに彼らの舞台から始めた。今まで水俣を訪れたこともなく、患者さんのことを何ひとつ知らない国会議員に頭をさげて深謝したのである。そして告発のグループは、それを患者さんの素朴な人柄として見守りつづけた。それに反して代々木のひとびとは、患者が自らひきうけたその分裂状況への対応の苦しさをみつめることなく、ポロが出なかったことをよろこびとして、形式的な闘争勝利の集会を終えた。三月二〇日の熊本地裁から三月二ニ日のチッソ本社前の二回の儀式はこうして終り、その日から、患者さん約五〇名による生命をかけた直接交渉が始まった。その場に終始つきそったのは、再び無党派の人びとであり、「告発」にむすびついた青年達である。患者さんの闘いを黙々と支援することのみを資質として洗いつづけている多くの青年たちにかこまれ、連日、患者さんは闘って疲れることがない。映画をとりながら、私はこの見事なまでの患者さんの闘いの質をとりだしてみたいと思っている。