書籍「映画は生きものの仕事である」 ほん『映画は生きものの仕事である』ーその題名の本音についてー
近く一冊の本を初めて出版することになった。未来社の松本昌次編集長の強いすすめに服したからである。彼とは二十代、まだ行方あてどないルンペンの頃、縁あってH氏の参議院議員選挙で東京地区活動の担当として古トラックで一緒にかけまわったときからの知己である。以来二十年近いつきあいであろうか。つねづね「字が描けないから映画をとっているんだ」ときいた風なことをいって、論や批評から身を避けていたが、独立プロにこもって、自主作品を作るようになってから、映画そのものより、映画によってかかわる対象世界について語らざるを得ない破目になり、この四年ほど書きつづった文章が三十数篇になっており、また、水俣についての二本の採録シナリオのまとめもあって、ついに本の形をとるにいたった。思っても見なかったことであり、恥かしいことでもある。
私にとって、映画の構想をねりにねるということは全くなかった。その点、この本の生まれ方とよく似ている。かつてルイス・ブニユエルが「私は用意していたシナリオや、どうしてもやりたいという映画などはない。たのまれたり、プロデューサーにすすめられて作って来たにすぎない。」という意味のインタビューの応答をよんで、彼ごとき作品歴の作家においてそうかと大いに共感したものであるが、私の場合も、当時、人に聞かれても「全然次回作がありません」と判でついたように返答していたので、大いに意を強くしたように思う。構想五年・・・:とか、あたためつづけたシナリオなどいう偉い人を見ると首うなだれてしまう。次回作という場合、私にとってはすでにもう幾分か産卵して、足を一歩ふみ出している時が多いので、それが完成すれば作品となり、未完成なら中絶であって、つねに本篇づくりしか身辺にない。それはひとつには記録映画であることに理由があろう。いま『不知火海』という二年後位に出来上るかも知れないフィルムが一部分、撮影ずみであり、そのあとに出来るかも知れない『下北半島ーむつ小川原の人々』も一時間半程、『日本公害列島』についての必要資料の収集もスクラップで約四〇冊、写真で百枚近くになっている。どれも食いかじりで水俣の映画の一つの節の終りまで冬眠している。しかしこれは出来るだろうと楽天的である。何故なら、そこに登場する人びとの顔かたちは、なじみのものとしてあり、すでにつき合いが始まり、その一部はフィルムになって記録されているからである。これが幸いにつづけば映画になることになる。もし誰かがそれを撮るといえば、提出する気でいる。一過性の出来事、ある時期でなければ隠れたり消されたりする現象がある。それをとったフィルムにはすでにある一定の位置がある。これを消すわけにはいかない。できれば人びと(偉い人を除く) の間にフィルム資料館でもあれば、そこに所属されるものでありたいと思う。
本の題名をつけるときに、最近作の『水俣一揆』という題名はどうかという意見もあったが、私は篇中の一文の「映画は生きものの仕事である・私論・ドキュメンタリー映画」としてもらった。ひとつには水俣について、私はまだ果していないことがあり、そのために、今年の秋から来年にかけて三種の医学映画をつくり、あと『不知火海』にかかる。まだ駄目なのだと思ったからである。一方「映画は生きものの・・・」というのは本音である。「芸術家」のものでも「ひとりの作家」のものでもなくまさに生きものの仕事と思いたいからである。という自分も、どこかで「作家というもんはなあ・・・」等とオダを上げたことはあるが、ついもののはずみとか、作るということの意味にアクセントをつけていった場合である。下駄つくりが足にすいつくような下駄をつくる仕事に心を傾ける、物つくりの仕事がときに遊びと同じ境地になっていることに驚く。労働と遊びとの渾然一体を成就した人の生き方に心を奪われる。そうなりたいと思うからだ。
私は今までの作品はすべて私の苦闘によって切りひらかれたといった態のものではなかった。突然ある会社やTV局から降って湧いたように与えられたものや、人とのつき合いが絡まり合って映画づくりに入った、そして撮った、出来たというものばかりである。「一生にこの一本が出来たらナア」というものは一つもないし、考えめぐらしたこともない。その都度私は映画の出来るまでのプロセスとつきあい、その中の苦楽をむさぼってきた。一作ごとに対象となる人々の生活とその世界はその現実のゆたかさと、ダイナミズム、そしていつかは爆発をとげねばならぬ矛盾に満ちている。その予感をこの眼でたしかめることが出来るのは至福のことである。ただし、それは、いつの場合もいわゆる、下積みとか下層とかいわれる人々に限られる。ハイライトの中の人物には決して心ひかれない。処女作『ある機関助土』の場合にも、助士の方が労働の実体を解析しうるものとしてあったし、『ドキュメント・路上』(これは警察庁交通局の指導映画ということであった)も、交通違反なしに働けないタクシー運転手をテー マにした。京大全共闘の映画『パルチザン前史』も全く三百人の最小グループであり、白ヘル、赤へルの大群の下では席も与えられない部隊であった。しかし、やはり私の今後の映画づくりの対象世界をはっきりと決定したのは水俣とのかかわりであろう。私は患者をみるとともに、その生活者としての漁民をみたし、患者になっていなくても、すでに社会から遺棄された人びとを見てきた。かつて失うべき何ものもないプロレタリアートなどといってきたが、いま必ずしも生活実感として組織労働者のことを指すとは思えない。失うべきものがありすぎて闘いに立てない場合すらあるのではなかろうか。しかし体制からはじき出されたこの人々の中には本来的な無産の人々の心が蓄積されている。しかも、そのあまりの苛烈な貧しさゆえに、人間的である。きれいごとの人間性ではなく、まるごとの人間がある。私はそういう人々に出遭うために、計画的に旅をしてきたつもりはない。しかしおのずとそうなった。つまり「これは本物だ!」と感得できる対象世界はまた同時に、映画的なものが確実に存在している場所なのだ。
映画のもう一つの基本的要因は、スタッフである。私はあえて映画=スタッフ論というのだが論には理がいるものらしく、今度の本にもいろいろ試論はのべているものの、まだ論理に至らない。つまりは一本一しょに映画をつくろうよということに落着してしまって、どうもいけないが、これは私にとって映画づくりの大変に重要な根本義である。スタッフは横ならびの構造で、どのひとりをとっても彼の映画、おのれの映画でなければ成就しないものである。一将功なって万骨枯るの類の壮絶な鬼才、巨匠のたぐいは恐らく、宣伝部の、あるいはブルジョアごのみの惹句であろうと思いたい。すばらしい映画の場合、その全過程にスタッフワークのピークがあった結果であり、いかに巨匠とはいえ、その凡作のプロセスには、時にむごたらしいまでのスタッフの亀裂・崩壊が底流している筈だ。とくに記録映画の場合、現実にひとしくむき合ったスタッフひとりひとりの感性と認識、その対象世界のかかわりの違い方こそパン種であり、それをスタッフ全体でこねまわし、あたためてパンにすることが出来る。「監督」とはそれが出来るように心をくばるものと思っている。「監督」に頭をあずけ、感性を供託して歯車のひとつと自らを規定する映画屋はスタッフではない。その意味で、私にとって、映画とは類まれな領域の仕事といつも感謝に耐えないのである。私の性分にあっており、快楽そのものなのだ。勿論辛いこと苦しいことがないまざっての上であるが、同じスタッフと何本もの仕事をしてきで、共通に体得していることは「ボチボチやれば突破できる」という、展望の有無にかかわりなくもつ前途への楽観が支えとなっている。その楽観のよってもって保たれる母胎は、映画がむきあっている対象世界であり、とりもなおさず、人びとの所在である。「水俣にとけこんで・・・」といった言われ方がある。そうとも言えなくはないが、とけこんだら映画は出来ない。関係を結ぶことであると思う。こうして出来てくるものが一つの映画とすれば、それは生きものの仕事としか呼べないではないか。
このところ、医学映画のために、熊本大学の諸先生が、昭和三十年代前半に水俣病をつきとめるために行った実験ー、猫・ラット・うさぎ・ひよこ・犬等の中毒症状のおびただしいフィルムを見つづけている。猫のふるえ、もだえ、歩行不能等の断末魔をみていると、猫にすまないという気持になる。そのうちに魚にもすまぬとなる。ミジンコもさぞ苦しかったであろうと思う。生きとし生けるものが苦しみ死んだ果に人間が倒された。人間だけが助かる生態系などあり得ないのだ。猫塚、魚、エビ塚、わかめ塚、貝塚が作られなければ不当だと思う。生類の呪いが映画にどうあらわしたらよいのか、いま皆で話しあっている。私は学生時代からコミュニストとして生きようと考えてきたし、今もそう自分では願っている。しかし時に宗教にも心ひかれ、ヤマギシズムにも傾心する。そして、現状全くの無党派の人間であり、映画として政治のみを語ることは決して出来ない。私はいま誰もが政治をかたる上で根拠とすべき現実をあるがまま呈示したいと思っている。映画美学もモンタージュも主要な関心ではない。ただの属性にしかすぎない。時に非政治的すぎるとか政治について語るのを避けているという正確な批判が注がれるであろうが、それは私のドキュメンタリーの方法の上の未熟であって評者の誤解では決してない。人々が生きものの仕事として革命をなすという形をさぐりあてた時、私はどうなるであろうか。
一九七三・一一・二