書籍「映画は生きものの仕事である」 水俣の旅は、映画の旅であったー新装版あとがき <2004年(平16)>
 書籍「映画は生きものの仕事である」 水俣の旅は、映画の旅であったー新装版あとがき

 ここに復刻された『映画は生きものの仕事である』(一九七四年) は私の最初の本である。
 きっかけは二十年来の友人であった当時の未来社の編集長、松本昌次氏に強く出版を勧められたからだ。松本氏と市民運動誌「告知板」で知られる建築業の庄幸司郎氏と私は一九五三年四月の第三回参議院議員選挙で駆り出された運動員として短期間だが夜の屋台で餃子とカストリで語り合った仲である。私は日中友好協会本部勤務で共産党細胞から派遣されたが、党員であった二人は半失業者、その活動性を買われて、平野義太郎無所属候補の街頭宣伝に立ち働いた。その後、松本氏は未来社に庄氏は零細な土建業に携わった。以来、消息は掴んでいても、いっしょに酒を呑むこともなく十数年、「未来社に松本あり」ということは知られていた。埴谷雄高、花田清輝、武井昭夫、井上光晴などの評論をほぼ独占的といえるほど次々に出版していた。この二人は私が岩波映画で飯を食っているらしいとは思っていたが、七一年に発表された『水俣ー患者さんとその世界』の作者のツチモトがあの選挙の行動隊長だった土本典昭とはすぐには繋がらなかったという。そうであろう。復党した共産党では元全学連系の分派扱いであったが、彼等は、私をいずれは政治活動の道に進む人間と思っていたからだ。事実、日中友好協会本部はほぼ全員が党員であり、日中国交回復運動それ自体が真っ赤な党のフラクションと誰もが思っていた。選挙運動期間の毎晩、新宿の屋台で三人の塊はよく喋った。社会、政治一般ではなく松本氏の文学論に身を託した。私は合槌を打っていたにせよ、文学や、まして映画の世界には暗く、それらには程遠いキャラクターと理解されていたに違いない。
 その後は夜の新宿でしょっちゅう顔を合わせた。お互いにそれぞれ働き盛りになっていた。歌舞伎町のバー、ナルシスは「青の会」の溜まり場であり、新日本文学系作家、評論家のそれでもあった。ただ、採録シナリオだけは活字にしておきたかった。文学評論家になった元全学連の委員長、武井昭夫氏の縁で「新日本文学」にページを割いてもらい、『水俣ー患者さんとその世界』と『水俣一揆ー一生を問う人びと』のシナリオも活字にしておくことができた。出版の七四年前後、私は次回作『不知火海』『医学としての水俣病・三部作』に取り掛かっていた。すべては松本編集長と米田卓史氏が引き受け、校正以外はひとまかせだった。だがこの本の出版を境に私の生活が微妙に変わった。ものを書く意味が次第に分かってきたのだ。四十代なかばにして文章開眼をしたのである。なんと遅い話だろたう。
 ものを書くということは全学連時代に「日本学生新聞」の発行名義人であり「全学連情報」の担当であったので、多少は埋め草のようなものを書かされた。が、中央機関誌「学生評論」には佐藤経明、力石定一など、そうそうたる学生理論家が健筆を振っていた。その当時の論文は”国際派(分派) “ を代表し、日本の共産主義運動を左右する理論的力量を備えていたと思う。私は感服しながら全学連事務局の実務に没頭していたに過ぎない。そしてその後の党の分派闘争の渦中にあって、いつしかものを書かない癖がついた。早大除籍後三年を本部(中央) で活動した日中友好事務局の経験はさらに”方針書”などを書かされることを忌避する性向を強めたのみだ。例えば地方では、日中友好運動をやるだけでアカとみられ、警察の公安に付け狙われる活動家にとって友好協会本部からの通達ひとつが指針と受け取られる。地方の有志は大陸に縁のある高年齢の方が多かった。その方々にむけて、実践経験の乏しく、まして中国の知識も乏しい人間が中央本部に座して、机上での作文を書くのは、不相応なことに思えた。ここでも実務だけに限る生活を送ったが、ただ学生時代からのジャーナリストへの志望は消えなかった。それがドキュメンタリーの仕事に繋がると実感したのは映画の世界に入って、十年近くたってからの事だった。それまでは遅い再出発を取り返すべく映画職人に埋没した日々であった。
 一九六〇年前後は高度成長に向かう巨大企業のPR映画が全盛の時代だった。いわば”前科もの“の私でも、労働力として潜りこめる余地が短編映画界にはあった。二十八歳になり、数年越しの許婚との結婚にメドを付けるため、岩波映画製作所に安定の職(といっても嘱託の名の臨時雇員だが) を得ることができた。その私を水俣の映画発表後「あのつちもとであったか」と一転して私の仕事を、本作りの視点で見直したという松本編集長の判断が、こうした経過を辿ってきた私にとって、いかに唐突だったか察して戴けようか。
 松本氏や米田氏に求められ、活字になったもの(新聞、週刊誌、機関誌類) を始め、未発表の覚書から広報チラシに至るまで、あらゆる草稿を提出した。シナリオ二編を除いてもかなりの分量になった。それというのも映画作りの環境が一変し、個人署名で書いたものがかなりに及んだからだ。それまで監督に起用されてからの作品は会社が広報や宣伝、そして売り込みまですべてやってくれた。むしろ、作家の突出を敬遠する岩波映画の社風もあって、監督の名(例外として『不良少年』の羽仁進氏) を売ることには抑制があった。それは映画が集団の製作物であり、ひとり監督が代表として署名性を持つものではない筈だ、撮影、録音、照明なども包括して、”岩波映画製作所作品“ であらなければならないという社風があった。クレジット・タイトルも右記の一枚という徹底的な様式が普通であった。このため『佐久間ダム』や『遭難』の演出者、高村武次氏や、『夜明けの国』の時枝俊江氏などはその作家の名を不当に知られていない。個人署名で文字化したり、文章を発表する機会がない事情にもなる。だが私の場合はフリーであり社員ではない。だから映画第一回の『ある機関助土』からクレジット・タイトルを出して貰った。フリーの権利の主張だった。とはいえ、映画作りに専念することができたともいえる。しかし自主製作の場合、全く違うのだ。
 『水俣ー患者さんとその世界』は東プロ製作作品である。それは東陽一の『沖縄列島』の製作のために作られた個人プロであり、実質は氏とともに働いた岩波映画のプロデューサー高木隆太郎が経営責任を持つ映画同人集団である。そこでは何につけ、できることはやらなければならなかった。製作情報から原稿依頼のすべては作家の私、金つくりは高木と分担し、しやかりきに走った。その中で映画論の依頼もあったり、作品論も随伴した。それも上映の一環として引き受け、何とかしてきた。それら二、三年のものをすべて漏らさず収録しようという。その編集者の意図はすべて"お任せ“ にした。

 一九七〇年は”公害元年“ とも言われ、水俣病事件を牽引力として、日本の高度成長の負なる暗部への着目と批判が起こった年である。それに先立つ二、三年は大学闘争が既成の価値を恨源から問う闘いが繰り広げられ、世界的な反戦・反ベトナム闘争、反人種差別、女性解放など人権闘争のうねりと共鳴しつつ、日本独自の病根が問われた戦後の転換期でもあった。一方では大阪万国博覧会に見る日本賛美の国民的な昂揚があり、一方に弱者の呻きが露呈する。その模索のなかで手渡されたのが三里塚の空港反対闘争であり、水俣病事件だった。
 六九年、石牟礼道子さんの『苦海浄土ーわが水俣病』が登場した。これは水俣病事件史にとって画期的な出来事だった。十数年の長い受難に耐えた無辜なる人びとの悲劇が、やさしい方言で語りだされ、深い作者の恨みが流れて澱むことなく読む人の心を浸すのである。そこにはチッソの存在も有機水銀の症状も克明に記され、もの語りの振幅は広く、深さは現代の病める社会の根源に達していた。これには息を呑んだ。再思三考を迫られる芸術的な発光体だった。
 これを映画化できないかと誰しも思うであろうに、映画界から不思議にも、セキとして声が出なかった。ただこの本の登場を待ち望んだ熊本の「水俣病を告発する会」から、ひとり熊本県人である高木隆太郎に絞ってドキュメント製作の慫慂があったのである。では映画で果たせるものは何か。私たちにいかなる表現が可能か。チッソの城下町で、チッソの労組を含む市民の殆どが患者に背を向け、チッソの破滅を心底おそれている裟婆にいかにしてカメラが入り得るのか。仮名ならともかく、すべてを写し撮る映画に患者はいかに登場し得るだろうか。逡巡し、尻込みする問題は山積していた。石牟礼さんの『苦海浄土ーわが水俣病』を精読したなら、その文学・文体がいかに永い苦吟によって書かれたかを理解できる。それだけに、ベストセラーを逃がさない映画界も息を呑んで佇むほかなかったと思う。これに比肩する題材はアウシュヴィッツ、広島、長崎しかない。そして現在進行形の事件は水俣しかなく、その以て手本とする映画はない。
 この本の中核をなす撮影記録はその手探りの試行錯誤の末に、ささやかな旅程を終えてのよろこびに支えられて吐露したものばかりである。しかし、その正直な告白に水俣に映画として関わらなければ見えなかった発見を記述したつもりである。苦労話やいわゆる裏話をしている余裕はなかった。すべて撮れたものを介しての撮影記録であり、この映画に必要な方法論の解析であり、撮る、つまりキャメラを回すことで変化した彼我の発見を書いた。だから撮影予定はまず書いていない。撮りたいとは思うが、撮れなかったらそれを記録したほうが良い。それが報告の意義だと考えたのだ。
 この映画ではじめて意識化した撮り方の工夫がある。はじめに、私たちには、対象の”病者“ にレンズの焦点を合わせるのではなく、その前景に母の像があり、娘の像が見え、漁師像が、人間像が見えた時シュートしようといった合意があった。かりに何日待とうとも、撮るとなれば数分で済む話だ。その待つ時間は自主製作だからこそ許される。これが企業やT V局の仕事では容易なことではない。しかし”やらせ”には同意できない。
 「名刺カット」という最初のワンカットの表現も、このロケでの工夫のうちである。ずばり核心に入りたいが、その前に相手の撮って欲しいものを撮る。そのワンカットを名刺カットと名付けた。例えば、水俣病の話よりもっと話したいこと、それが自慢のメジロであった時はまずそのメジロをあれこれ撮る。それは名刺に勝るこちらの証明書であり、映画固有の通過儀礼なのだ。それから本題に入る。だれにしも自慢やひそかな誇りがある。そこに一見無関係のようで、相手の本質との脈絡が見える。そうしたカットがシーンに豊かさをもたらすのだ。もっとも真剣にその撮影に打ち込んで撮った上での話だが。
 また水俣病患者、その訴訟派を撮影する場合、映画の完成尺数から逆算すれば、典型的な対象が撮れればいい。しかし、誰が水俣病患者の典型であるか。こちらの選択で良いのかと思う。だから全員を漏れなく撮影することにした。それを患者の総会で計った時に、みなの安堵の顔があった。人並みが良いのである。勝手に選んでも文句はないかも知れないが、はじめに選別ありき、という話はないのである。編集の時、声だけ使ったり、その表情のアップだけで、語りをカットしたりもした。しかしオーケストラ風に混然とした患者群の総体像は画面に残したつもりである。
 さまざまな被害者を撮影する場合、まず一番象徴的な胎児性患者を撮りたいと思う。一度、そうした機会があったので胎児性患者上村智子さん宅に来た十数名の小学校生徒のお見舞いにまぎれて、母親の許しを得てキャメラを向けたが、見事に失敗した。異常な大人数の訪問に怯えて、美しい智子さんが白目を引きつらせ、無言の抵抗をしたからだ。それが痙攣に苦しむ胎児性患者像として、写真に撮られ、さも素顔のように流布され、苦々しい思いをしたものだが、こちらのキャメラも同じ失敗を犯したのだ。
 そこで一塊りである被害者をその個々の状態に合わせて、撮影しやすい人、その難しい人に分け、その最も困難な胎児性患者を最後にして、外縁から順次に取材していくことにした。「誰はもうインタビューされたか。次は? 」とアンテナを張っている患者の噂話をむしろアテにして、遺族から、軽い症状の成人、次に重い老人、そして青年期の多感な患者と、順次撮影していった。最後に、最も取材をきらっている重症の胎児性患者智子さんとその家族の家にキャメラを運べたのである。
 結果で言うのだが、この智子像はあらゆる映像の中で傑出して美しい肖像になっていると言える。それが演出上の発見だった。
 この撮影順序は或いは普遍的なドキュメンタリーの方法論、ある種の定式になるかも知れない。さらに考えたい。私の対象としたのは映画撮影を必要と認めた訴訟派である。撮影は全員一致だった。しかし特に、まっさきに撮影対象に選ばれることには抵抗があるのだ。かといって皆が撮影を許したならば、ひとり忌避することもないだろうと悩む。「しかし私には私なりの言いたいことがある。他の人の言えない話もあるのだが・・・」と。その時、共同体の全体と個を子細に見極めなければならない。”個の尊厳“ とはそんな細部に宿るものではなかろうか。そうした思案から作り出した水俣ならではの演出方法だった。それは患者として裁判に参加しただけで肩身の狭い思いをしている孤立した少数者へのアプローチとして的確だったと思う。撮影を断られた事は一回もなかった。
 だがこれがドキュメンタリーの普遍的な方法とは言えない、一本一本の映画が違うように、一回かぎりの方法かもしれない。それを試す機会は私には今後は少ないだろう。さきにドキュメンタリーの方法論、あるいは定式と述べたが、それには撮影環境が条件である。自主的な映画製作でなければできない事を知っていて戴きたい。
 
 さて、この本が私の人生の折り返し点になったことを述べた。これから数冊の著作を出すようになった。"非文字“の人生ではなくなった。同時にこの本で結果として映画論のようなものを書き出した。それは個人史的には期を画するものである。
 この本の末尾に記された文章の初出のページを見て欲しい。採録シナリオを別として、章に分けられているが、全三十三の論文のうち、映画『水俣ー患者さんとその世界』以前の文章はたった二編に過ぎない。編集者松本氏は「この際、すべて載せよう」ということでチラシまで含めたが、その二編はその五年前に映画運動誌に書いた『留学生チュア・スイ・リン』の撮影報告、「プロセスの中の《作家》として」(「映像芸術」、六五年) と、当時学生の必読文献と言われた「朝日ジャーナル」に、私の体験として執筆を求められた「「小河内山村工作隊」の記」(七〇年) だけである。いかに”禁欲的“ だったかの証左であろう。
 あと三十一編は撮影の前にメモ書きしたアッピール「映画『告発・’70水俣』(原題) 」のチラシのほか、すべてロケ中の撮影報告と、映画完成後、その公開に向けての宣伝を兼ねた情報活動、そして少なからず、水俣問題についての時々刻々の報告である。これを書いた時期は川本輝夫さんの未認定患者発掘運動の先見性への言及は不十分である。また、つぎの著『逆境のなかの記録』(七六年) の中身である映画『医学としての水俣病・三部作』(七四1七五年)と『不知火海』(七五年) で追った汚染の広がりの全体像や急性激症の病像の影に隠された不全性水俣病や慢性水俣病については、その予感しか書かれていない。
 この映画を撮り始めたとき患者数は百二十一人だった。しかし第一次水俣病裁判後、爆発的に潜在患者が浮上した。「水俣病とはどんな病気か」が、漸く普及を見たTV 、そして新聞であきらかになったからである。それがあと今日まで連作を促した事件史に繋がっている。それは別の機会に詳述したい。
 今回、復刻版への後書きをと求められ、はじめて卒然と見えたのは、私の映画論なるものは、水俣映画とその文章活動のなかから産まれたという事実である。映画生活十数年から二十年近くなって、はじめて撮影報告と並行して映画論が独立して語られるようになった。それが三年前の『パルチザン前史』(六九年、小川プロダクション) を解剖しながら、あるいは水俣映画のストックホルムでの上映に始まるソ連、ドイツ、イギリス、パリなどでの巡回試写旅行での自作の再点検の文章から語り出されている。つまり、文字、言葉の世界と異文化体験を水俣映画を仲立ちにして、はじめて展開しだしたようだ。
 水俣映画、例えば『水俣ー患者さんとその世界』は英語版を作って、はじめて海外に出せた。その効果は計り知れない。ストックホルムでの第一回国連環境会議にたまたま出席した周思来は部下に映画を見るように命じ、その報告を聞いてから環境問題全般のみならず、特に旧満州の松花江の水銀汚染への取り組みを指示したという。「文明の毒が人間をジェノサイドする時代の予兆だ」という認識が共有できたことで映画を運んだ意味があった。しかし、西欧の映画人に、これを映画としてどう見るかといった設問を投げ掛けたことも事実だ。たとえばチッソの株主総会での患者と社長の対決を”再現劇”としか理解できず、他のドキュメンタリーのシーンとの差のない処理をどう理解するかといった、答えに苦しむ疑問もでた。クリス・マルケルは胎児性患者の少年が、「自分の体がこんなになったのはチッソが毒を流して、海の魚をかあちゃんが食べて・・・」というシーンはセリフの準備なしに撮れるものだろうかと、語ったという(本書一七九頁) 。
 この本の題名にもなった長文の「映画は生きものの仕事である」(雑誌「展望」、七二年)や日本のドキュメンタリーの西欧のそれとの比較論「ヨーロッパ通信」(未発表書簡) などは、映画の旅をしてから自覚され、意識されたものである。そして映画を語る場合に自分以外の作家、作品批評で映画論を展開したことは、小川紳介の『三里塚ー第二砦の人々』(七一年) の一編のみである。しかも映画関係者の滅多に見ない公明新聞の文化欄であることに苦笑する。いまや少し知られる六〇年代の岩波映画の同僚との映画論議の集団「青の会」についても、まして畏友黒木和維の作家・作品論もない。いま当時の資料の乏しさに困惑しているほどだが全く自分の実作以外に興味がなかったといわれても致し方ない。ナルシスト(自己愛者) とも思っていないが・・・ 。そしてこの性向は殆ど今も変わっていないのではなかろうか。もう今から"批評家“ になるには遅すぎる。
 おもえば私にとっての映画学校は「青の会」であり、その修行の場は「水俣」であった。映画のいわゆる師匠はただ羽仁進氏だけ、別格に瀬川順一キャメラマンがいるが、あとは「青の会」の仲間とスタッフ以外ない。去年(ニ〇〇三年)、ニューヨーク州で合宿したフラハティー・セミナーで、水俣映画三本と『ある機関助土』、『ドキュメント路上』を見てもらった。その論議の合間に「あなたの学んだ映画監督は誰ですか?」と新進のドキュメンタリー作家に間われたことがあったがとっさには亀井文夫氏と羽仁進氏しか浮かばず、後が続かなかった。倣慢に思われないかと慌てて「それにジガ・ヴエルトフ!」と言ったが、笑殺された。
 しかし、故にというか、成り行きだったというか、映画学校らしいもので後進に語ったのは七〇年代のアテネ・フランセで開議された映画講座だけである。その時の校長格の倉岡明子さんに頼まれ、大津幸四郎氏と久保田幸雄氏という水俣のスタッフで講師陣を作った。そこから卒業製作で『東京クロム砂漠』(七八年、山郎伸貴、若月治) が生まれた。それはよろこびだったが以後、映画の先輩らしく映画論を教えることはなかった。だいたい「ドキュメンタリーとは? 」といった命題にいまも口ごもらずに答えることが難しい。せめて自作を語り、質問を受け、それを手掛かりに映画論の展開を試みるが、実はその論の原形は、殆ど萌芽的にこの『映画は生きものの仕事である』に出揃っていて、それ以上のものはないのだ。つまり、この『水俣ー患者さんとその世界』と、あえていえば『パルチザン前史』を作った数年に獲得した映画的思考を超えないのである。だから、この本の復刻は私にとって永く待たれたものであった。発行が一九七四年だから丁度、満三十年ぶりのそれは再刊される。随分、ひとにあげたが品切れになって永かった。

 最近、ドキュメンタリー映画にはいわゆるシナリオがない事は当たり前になったようだ。ドキュメンタリーは劇映画の歴史と構造を引きずっている。DVカメラの登場で個人映画の秀作がでるようになった。
 劇映画でのシナリオを製作進行係はどう読むだろうか。シナリオは撮影期間を決め、スタッフ(俳優) の陣容を、機材やフィルムの許容を定める目安として不可欠なものであろう。予算の下図でもあろう。劇映画が創作上、シナリオ第一主義であることは正しいかも知れない。しかしドキュメンタリーはそのプロセスを異にする。予見が破壊され、筋立ての予定調和を食い破る。その因子は現場での発見性と対象との関係の深化と変革であろう。それがドキュメンタリーの未知の旅にも似た醍醐味であることは誰しも共有していることだ。この本の論考の中で、ドキュメンタリーを旅に擬した論理で述べている。ひとつの山を越えて、次の道を見つけ、そこを辿ってまた山を越える。そうした不可逆なプロセスを「映画は生きものの仕事である」の末尾に述べ、”撮った順に編集する“必然性を陳べた。
 「かなり意識的に、撮った時間序列とシー ン序列を、主体者、作家の旅の全行程として、そのまま陽にさらすことを、過渡的にせよ一時期の方法として私自身に強いる。したがって、撮影の日々に、シナリオから編集まで、映画の生成のAからZまでが重層し混沌をなしていなければ、出産に至らないのである。(・・・) そして私は女であり、母であり、ときにワギナそのものに似ている。十月十日の日が要り、その順序は崩せないのである」(本書一三六頁) 。これはその後、三十年、基本的に私の映画の癖になっている。撮ったままに繋ぐーこれほどシーンごとのドラマ性に忠実な方法をまだ見出せないでいる。もちろんシー ンの強弱も緩急もある。しかし撮った順には、”そう歩いた、そう歩くしかなかった“ という内的ドラマの軌跡がある。構成上、多少の順序の組み替えはするし、インサートカットは自在に入れたりする。だが、大筋は撮った順に賭けることになるのだ。
 この本の半分は二作品の採録シナリオである。完成したあとシナリオを起こし、採録シナリオとして映画とセットにしておきたい。とくにシンクロでインタビューで構成する作品ならばなおそうでありたい。娯楽作品ならビデオを借りて観ればいいが、ドキュメンタリーは”考えるための道具としての映画“ の性格が際立っている。反芻したい。それが映像の反復ならビデオでいい。しかし、映画は感性と悟性の芸術である。悟性が言葉による思考である限り、映画の採録シナリオにはフィルム(ビデオ) を作るのと同じに力を費やし、楽しんでいいのではないか。また映像を巡る批評学や、その資料としての引用が、画面本位のかつてのドキュメンタリーより飛躍的に多用されるであろう。クロード・ランズマンの『ショアー』はインタビュー映画である。そのシナリオは日本語でも完壁を期して作られ、そこから、証言者の発言がいろいろな文献に引用されている。同時録音は状況、風姿、表情と音声、そして言語を一体化し、疑う事を許さない事実性を持っているとされる。作者のコメントで綴られたナレーションは詩であり散文であり別の価値であったりする。
 著作『ショアー』。これは日本語版(作品社、高橋武智訳) を手にしての話だが、例えば有名な理髪室でのアブラハム・ボンパ、仲間をガス室に送り込む前の散髪を語る囚人の理髪師の証言は映画でみるにしくはないが、しかし採録シナリオは、言葉、その文字の紙上での並べ方というか、詩句のように改行と段落を自在に駆使して、画面の主人公の絶句や沈黙まで想起させる。こうした映画と文字の独自なあしらいを見るとき、ドキュメンタリーの採録シナリオは、それもまた映画であると思わざるをえない。
 ドキュメンタリーのその資料性が文字化によってさらに活かされることはなんと魅力的なことではないか。私の場合も、このなかのシナリオは患者の言葉として、文献に引用されている。記録映画の言葉が資料として位置づけられるようになったからであろう。

 この『水俣ー患者さんとその世界』が、今にしてというべきか、欧米の古典映画の映画祭や環境問題に関わる市民の映画サークルでの上映が復活している。水俣のような急性激症は二度と発生しないであろうが、この九〇年代から地球規模の海洋、湖川の水銀汚染による母胎から胎児への影響には、WHOなどを通じて改めて警告が発せられているからだ。数年、十年単位で生きる長命な魚、鯨類は、食物連鎖による濃縮を経て、かつての水俣の汚染魚の数値に達している。まさに二十一世紀はこの映画から水俣を見つめつづけることになろう。「二度と他者にこの苦しみを味わわせたくない」という水俣被害民の記憶と祈りを、私は十七作目の私家版ピデオ『みなまた日記ー甦える魂を訪ねて』で描いた。この映像から、水俣病の半世紀を考える、その道具としてのビデオとして見て戴ければ幸いである。

 最後に、私にとって最初の本であるこの『映画は生きものの仕事である』を世に送り出していただいた未来社の元編集長・松本昌次氏と米田卓史氏、今回この本の記録性を再確認し復刻へと導かれた未来社のみなさん、担当の中村大吾氏、また、この新装版のデザインを進んで引き受けてくださった鈴木一誌氏に心からの感謝を捧げたい。そして、亡き妻、悠子と、映画同人シネ・アソシエの共同者、妻、基子の二十年の助力に、ありがとうと申し添える。(ニ〇〇四・六・一)