書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第二章 カナダへー巡回移動映画の旅 <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第二章カナダへー巡回移動映画の旅

 自主上映運動と”党派の論理”映画は作れば配給業者により全国の映画館で上映されるというわけには、『水俣』映画のばあい、いかなかった。とくに借金ばかりで作った経済的問題でいえば、作り、見せ、回収するという住復運動が必要不可欠である。つまり広く見せることのほか、自立も再生産もないのがルールであろう。
 昭和四十六年一月に発表した本格的長篇第一作『水俣ー患者さんとその世界』(二時間五十分) は全国的な水俣病裁判支援の波に支えられ、東京、熊本、とくに大阪長征社の持続的活動によって、四、五年間におよそ百万人に近い観客を得たと思われる。ついで裁判直後のチッソと患者の生涯の補償をめぐる『直接自主交渉』の記録、映画『水俣一揆』も各地で上映された。
 しかし『不知火海』(二時間四十分) と『医学としての水俣病(三部作)』(全四時間半) の上映にはかつてない苦戦を味わった。その最大のファクターはやはり水俣病裁判の判決による運動の一サイクルの終りと反公害闘争の潮の沈静化の時期であることによる。しかしこれは映画を作るときから充分想定していたことであり、とくに『医学としての水俣病』は決して大衆的な映画ではなく、この水俣病発生以来の二十年間の医学的財産を集約しようとして作られたものであった。
 だが意外なファクターが真横から『医学』映画に矢として放たれた。たまたま完成時、東大教授であり脳の病理学の権威として著名な一医学者に対する糾弾運動が、東大精神科医師連合(以下、精医連)の手で組織されていた。その完成試写には彼らも招いて上映し、批判と上映運動にあたっての意見を求めたが、事態はあっというまに『上映阻止』の方向をとり、全国の大学医学部系にある同系統の友好団体に、映画上映の阻止をよびかける回状がまわされるなど、水俣の映画上映運動としてはまったく予期しない障害にぶつかることになった。
 それは当初から堅牢な”党派”の論理との闘いとなった。争点は、その学者の二十六年前の手術における医学的モラルを糾弾する趣旨であったが、同氏の水俣病の病理病像上の実験と理論は、患者が『全身病』であることを訴えている現状には、好個の裏付けとなる業績であったし、私たちにとってはきわめて映像的であることで不可欠のテー マであり、貴重なシーンとなっていた。この水俣状況ぬきの批判と、”実力行動”に対して、私は怒るよりも前に暗然たる歴史のワツパ(ぐるぐるまわり) を感じた。批判されていた一医学者の”過去”とは昭和二十四年、当時七歳の重症の脳性小児マヒ患者に対する二回の開頭手術にあたり、それが”生体実験”であり治療ではなかったとする同じ医学者よりする証言にもとづくものであった。その真相究明のための公開討論に対し、当医学者が出席を拒否したことから、事態は硬直し、そのため精医連が同氏を告発していた。
 私たちの映画撮影はその告発(昭和四十八年十一月提起)以前であったし、問題を知るにおよんで、一映画作家として、この『告発』の問題には関心をもつことを表明し、精医連に対し映画の特別試写を組むから、公開討論をして、この映画への意見を出してほしいと申し入れた。だが『映画試写を見るにおよばず、当医学者に対する態度表明として、そのシーンのカットあるのみ』という強硬意見で終始し、映写機・フィルムをすべてセットしたにもかかわらず拒否された。私たちの『映画全体の構造を見、水俣病をめぐる今日の医学の問題として討論し批判してほしい。今までの全作品歴の重みをかけている今回の作品に対し、少なくとも”見るな”というボイコットは不当であり、表現の自由の侵害である』という抗議は、上映会ごとに実力で無視され、その出入口でのもみ合いまで演じたものだ(昭和五十年四月、岩波ホール上映期間の二十日間など。)さらに、その一方的”フンサイ”指令は熊本大医学部の自治会から水俣の移動診療所にまで通達され、『医学としての水俣病』は一番上映してほしい被害地帯にまで精医連のしたたかな中央指令部的効果をもつ文書が回送されることで公開を阻まれた。辛うじて私たちのよりどころとなったのは、患者代表の川本輝夫氏はじめ活動家たちの『これは今の水俣に必要な映画だ。いったい資本主義社会に生きていて、誰が手のよごれておらんものがおるか。この上映反対は水俣病闘争への反対とみなす』という断乎とした意思表明であった。(そしてこの一連のフィルムは今、水俣病センター相思社の手で学習用上映に使われている。)
 その後、私たちには分らない理由で、ある時期(ほぼその一年後) から攻撃はやんだ。その後お会いした精医連のある中心的活動家の『あのときはタイミングが悪かった・・・』と謎のようなことばで私にひとこと語られることでうやむやとなっておわり、やがて私のなかのしこりも流れ去った、じつは映画は独自に上映の力を回復し、確実にこの映画を必要とされる人びとのなかに入りはじめていたからでもある。だが新生児としてスタートしはじめたばかりの映画にとって、この一年の風波は痛かった。
 自主上映運動には大量の大衆参加が願望されているものだ。その不特定の観客を党派的に”争奪”もしくは”閉塞”するにあたって、一番手っとり早いのは”政治”の側、セクト党派の側からのエゴイスティックな線引き、または仕分けである。私の映画はかつても今も既成左翼政党系の一部映画サークルや労映から『反党分子の作品』として規定されがちである。だがそのばあいは、私の創作態度に、既成左翼の映画への批判が根づいている以上、私には少なくとも予想はできた。その機関紙による筋ちがいの批判にも応える力があった。しかし私が共鳴すらしていた精医連系からのボイコットと上映粉砕行動なるものによって『医学としての水俣病』の上映=表現に打撃と消耗を与えられたことはなんとも辛いことであったと記しておきたい。まさに旧左翼的体質の再現であり、『歴史はくり返す』という暗然たる思いに加えて、非敵対的矛盾を敵対的矛盾とあやまる稚劣で硬直した党派・セクトの理論の再現と受けとったからである。

 以上のように”水俣”映画の上映運動は必ずしも平坦ではなく”党派の論理”に暴力的にまきぞえになることはあったが、本来の市民運動や政治的活動とくみあって上映されてきたことは、その後の経過が物語っていると思っている。何より映画の提起した現実の水俣病問題自体が深まりこそすれ熄むことなく持続されてきたからであり、映画のもつ”不備”と”欠点”を患者や上映活動家がこれを補いつつ活用するという映画と上映の新しいパターンを芽ばえさせてくれたからである。私たち自身、上映現場に手伝いにいったり、あとの討論などで水俣と映画について語る多くの日々を体験した。

 映画ー作るものの眼と上映するものの眼

 「”映画監督”なるものは映画をつくることに専念するものだ、公開にあたって挨拶ぐらいはするにしても、本来的には芸術家として身を持しているべきだ。」こんな”常識”も聞かれる。しかし私たちがしたことはときに映写機を廻すことであり、会場の椅子をならべるといったことまで含む上映活動者としての仕事であった。そして観客は『テレビ以来、映画にお金を払って見にきたことは二十年ぶり』といった、久しぶりに映画を見ることを選んだ人びとが多い。テレビでは得られない被害者の声、水俣病の歴史と現実にあえてスクリーンを通じてむきあおうとした人びとに出会い、語りあう時間を持つことになる。それは動員の数ではなく、質を得る生きた作業である。私たちは芸術家としてでなく映画をつくった責任のあるものの活動としてそれを歓迎したし、全共闘的運動の映画の世界での新たな展開ともうけとってきた。これがなぜ共通の同時代性をもち得ないものなのであろうか。

 そうした思案のさなかに、昭和五十年七月、カナダから、水俣病の危険にさらされているカナダ・インディアン代表五名が日本の水俣を見学に訪れた。それが機縁となって、同年九月から十二月末まで、翌五十一年五月末から七月初めまでと二回にわたり、のべ七カ月間におよぶカナダ・フィルム・ツアーすなわち水俣の映画をもっての全カナダ横断上映と、汚染したインディアン居留地をめぐる上映旅行に旅立つことになった。有機水銀汚染はついに世界的に出現しはじめ、日本のミナマタの経験が何より求められるにあたり、患者代表の訪問と討論、その経験交流に併行して、映像によるミナマタ・ディジーズの学習上映が不可欠のものとして組みこまれた。
 
 私はカナダ以前にもストックホルム環境広場(昭和四十七年二月) に英語字幕版『水俣ー患者さんとその世界』をもって訪れ、重症患者の浜元二徳氏や、胎児性患者の坂本しのぶさんとその母ふじえさんの三人と組んで、一方で国連環境会議の進行に並行して、人民サイドのミナマタ・キャンペーンをおこない、その会議の終了後、モスコー(ソ連)、ベルリン、ハンブルク(西独)、ロッテルダム(ベルギー)、パリ(仏)、ロンドン(英) とまわった。だがこのときは、私はまだ私の映画作品を”芸術””日本のドキユメンタリー”としてヨーロッパにその成果を問うという野心のあったことを告白しておきたい。ロッテルダム映画祭で銀賞を得たのをはじめ、スイス、ロンドン、スペインの各映画祭で各種の賞を得、第一回モントリオール世界環境映画祭でグランプリの栄誉にも輝いた。これがバネとなって英、仏、豪州、アメリカでの上映ルートもできるようになった。しかしこのときのフィルム行脚は、決してカナダでおこなったそれと同じではない。むしろ映画作家としての力量を西欧の映画界にも問いたいという気持が半ばを占めていた。そのあとの半ばは、映画がやはりミナマタを訴えかけてやまず、また西欧の人びともミナマタを自国の環境問題への教訓としてうけとめ、私と彼らとのあいだに運動的連帯が生まれないではいなかったのであるがー。

 『医学としての水俣病』を求める声

 私はこの旅行で、水俣病の医学面を描いた映画をヨーロッパ各地の専門家から求められた。そしてパリからプロデューサーの高木隆太郎にはじめて『医学としての水俣病』の構想を書き送った。もともと不知火海生まれの高木はただちに同意の旨を返書してきた。彼にとって郷土、不知火海・水俣の課題は彼の人生を決定したほどの執着である。しかし、彼にしても私にしても、ミナマタ病=有機水銀中毒が世界に続発してくるものとは考えてもいなかった。ただその文明批判をこめたミナマタ映画が現代世界をつきさすだけの人類の共有する問題と確信はしていたものの、即時に、医学の参考・学習の資料として求められるような世界的連続発生は予想もできなかった。
 イラク、アメリカ(ニュー メキシコ・プエルトリコ)、ブラジル、イタリア、スウェーデン、フインランド、そしてカナダと、水俣病の発生もしくはその危険性が伝えられている(宇井純『住民を結ぶ旅』筑摩書房、参照)。これに対し、先発国日本はその水俣病に関する研究資料を世界に配布し、その予防措置をうながす医学的文献交流をしていただろうか。政府の手では皆無にひとしい。ただ昭和三十年代末に、熊本大学水俣病研究班の報告『水俣病』の英訳本が世界の一部学者の手に渡ったにすぎない。
 この英訳本の基礎となった、赤表紙の『水俣病』通称”赤本”といわれる医学書は、いわば急性激症型の典型的水俣病についてまとめられたものであり、今日、長期にわたって微量の水銀を継続的に摂取することによって起る慢性水俣病については昭和四十五年以後の研究で知られたものであることから、この本にはふれられていない。にもかかわらず、世界的な水銀の環境汚染のパターンは今日の不知火海の水俣病の主なあらわれ方と同じく慢性の型をとって出現しており、その点、日本からの旧文献はすでに時代とのズレを生じていた。この点、映画は最新の研究と問題意識を描いただけに、当然、今日の水俣病を想定してのアクチユアリティをもっているといえた。
 プロデューサーの高木はそうした国際的需要をみこして、日本語版と並行して英語版の製作をいそいだ。彼は昭和四十九年にはイラクの大規模有機水銀中毒事件をテー マとする国連保健機構の水銀中毒シンポジウムにその医学フィルムを携行し、あるいは中国、朝鮮民主主義人民共和国に贈呈あるいは携行したり、最近もアメリカの汚染実態に照らして、カー ター大統領に緊急に贈呈したりしてきた。そしてこれら一連の出費は、すべて青林舎の自発的な自己負担であったーといえばあまりに犠牲的献身に受けとられよう。じつはこの『医学としての水俣病』英語版がゆくゆくは世界各国で購入されることを期待しての先行投資として考えもした。だが水俣病に関して、いかなる国の政府の反応も、その情報吸収にきわめて不熱心であることが分ってきた。決して日本の政府だけではない。

 イラクのばあいはメキシコ産の種小麦を政府が輸入しイラク農民に配給した際、それが有機水銀剤で防虫措置されていることについての注意義務を怠ったことから大量中毒事件をひきおこした。(病院に収容された重症者六千五百三十人、うち死者四百五十九人、ほかに十五例の胎児性水俣病患児を発生させ、総被害者、数万人といわれている。〔『食の科学』昭和四十九年九月号水銀汚染特集、若月俊一氏論文より〕)
 プエルトリコの水銀体温計工場からの廃棄物汚染にせよ、州政府の誘致計画にもとづいており、カナダのばあいものちにのべるようにナショナルプロジェクトを遠因とし、企業=国家の共犯関係がどのばあいにも共通していると思われる。したがってその中毒事件の発生原因と責任の追究のホコ先は、企業のみならず国政府、行政にむけられるし、被害者と同伴する告発者の運動は、反企業・反資本にとどまらず、反国家、反物質文明まで串ざしにする性質のものとして各地とも共通していた。
 西欧諸国が身障者や難病問題に示す先進性に比べ、こと、公害病に対しては、実態の公表に消極的であり、かならず仲介者的委員会をもうけ、”一般福祉政策”の枠のなかで対処しようとするのも、公害問題が洋の東西を問わず、そのうちにはらむ、反企業、反国家・対・住民=被害者との根源的敵対性を感知しているからであろう。それら各国政府がどうして水俣病映画を積極的に公開し、みずから警鐘をうちならすであろうか。まだ私たちは寡聞にして、フィルムを贈呈した中国での一般公開の動きも聞かず、その地におもむいて試写し、関心を喚起してきたソ連はじめ社会主義国での反応も耳にしていない。社会体制のいずれを問わず、その管理体制の掌握者側に、この水俣問題を広く人民のものとする内発性は今までのところ皆無のようである。一方、これを求める人びとは被害をうけつつある各国の住民たちであった。
 イラクの農民をはじめ、アメリカ・ニューメキシコの黒人労働者、プエルトリコの体温計工場の現場労働者、ウルグアイのサン・サルバドルの河口の漁民、北欧の湖沼漁民、カナダの半猟半漁民のインディアン、みな生活民であり、地ゴロの人びとである。これに不知火海の漁民、新潟・阿賀野川の流域住民と有機水銀汚染の発生を重ねあわせると、それまで環境に共存共生しその地の生物ー魚介類を摂って生きてきた、もともとの生活民の世界に、外部から割り込んだ近代文明の毒素、化学産業の廃水による侵略型の社会病像が浮き出してくる。いずれの国であれ、食物をマーケットで選択して買い求める都市型生活者ではなく、自然と共生した原住民であり、奇しくも第三世界の近代化にともない、工場と隣接することを余儀なくされた人びと、あるいは、大国内の少数被差別民族=第四世界の人びとのあいだに出現している。
 水俣映画を求める声も、じつはこれら辺境民であり、侵略され、差別された人びとからなのである。このことは先のスウェーデンのストックホルムや西欧での映画行脚ではいまだ得られなかった体験であった。

 カナダに水俣病が・・・

 昭和五十年春ごろ、カナダ・インディアンの水俣病汚染のニュースがはじめて新聞紙上にあらわれ、ついで日本の学者による『世界公害調査団』(団長・都留重人のほか、宮本憲一、宇井純、原田正純の各氏ら)が現地にいき、臨床的研究、環境調査をおこなってカナダ・オンタリオ州政府に水銀汚染の重大さを警告した旨が『東京新聞』などに連載された。(昭和五十年五月二十~二十九日『われら地球家族』、『中日新聞』『美しき地球のために』同年六月七~十七日)
 発生地点はカナダの中央、楯状台地といわれるオンタリオ州西北部、マニトバ州との州境に近いイングリッシュ、ワビグン両河沿岸のカナダインディアン・オジブエ族の二居留地、グラッシー・ナロウとホワイト・ドッグであり、その千人余の住民に水銀汚染の危険が報じられた。汚染源は百キロ上流のドライデン製紙工場(その附帯設備の苛性ソーダ工場で触媒として使われた水銀) であり、一九七〇年までの約十年間に毎日二〇ポンド、約九トンの水銀が同水系に流出されていた。
新聞紙上でつづられる報告・・・
 『雪上機でドライデン(町名) の上空へきて目を見はった。茶かっ色のパルプ廃液がワビグン川に流入し、附近一帯は煙で広く汚されている・・・ドライデン工場は、その生産量クラフトパルプ年産六万五千トン、全生産量年間十九万一千トンである。従業員計千三百七十人、年間給料一千万ドル以上である。小さな町に占める工場の役割は大きく、一種の”パルプ城下町”である。 ・・・・川は全く専用排水路とされている・・・その下流にはインディアン以外に住民はすまず、飲料水源ではないということで放流しているのであろうが、湖と川の連続した内陸部の水郷であるだけに、どこまでも被害がつづくという感じである。・・・私たちの印象ではドライデン公害事件は十五年前の日本をみる感じであり、カナダの方が日本より、国家が企業を守る姿勢が強く『企業国家』といってよいかも知れない』(宮本憲一、五十年四月二十二日付『東京新聞』、現地からの報告)
 『・・・調査団が車と雪上飛行機を乗りついで踏みこんだオンタリオ州のインディアン居留地『グラツシー・ナロウ』(人口四百五十人)『ホワイト・ドッグ』(同七百人) 両地区はこの水銀汚染で生活基盤を破壊された典型的インディアン集落だった・・・ここでは、水俣でも新潟でも患者発生の前ぶれとなった『狂死ネコ』が現地活動家の手でフィルムに収められていた。オタワの政府研究機関では、猫に両地区でとれた魚を食べさせる実験が行われ、過去三年かかった四十八例のネコ実験は全部狂死するか、失調が現われていた。日本の調査団にとってこれは仰天するようなデータだった』(唐木清志特派員、同年五月十六日『中日新聞』)
 『カナダにおいて禁止されたはずの汚染魚をインディアンたちは食べつづけている。食べた彼らの毛髪に五〇~一〇〇PPMの水銀があり血中に〇・二八PPMの水銀が見出されているにもかかわらず、まだ”典型的な患者が確認されていない”とか”血中水銀は高いことは認めるが他の病気で全部説明がつく”とか、”発病する血中水銀の値がいまだ不明”とかいっているのは身の毛がよだつ思いだ。・・・典型的な急性水俣病が発見されたときにはもう決定的に手遅れなのだ。そのときは、その底辺に多数の胎児性患者とその十数倍の非典型、慢性患者が発生している・・・』(原田正純、同年六月十二日『中日新聞』)

 彼らの現地調査にはアメリカに帰国中のアイリーン・スミス(故ユー ジン・スミスの妻であり写真集の共著者である日系米人) が最初の情報の受け手であった縁で、現地活動家ジル・トリーさんらと一緒に全コースつきあっていることは聞いていた。五月頃、そのアイリーンから、七月十七日、二つの居留地代表で日本のミナマタ見学団を組織し訪日するので、訪問の一部しじゅうを記録映画として撮ってほしい旨の国際電話がかかってきた。『彼らが帰国してから報告するのに、言葉だけではむつかしい。ぜひ訪問記録を映画にして持ち帰らせたいと思う。・・・『医学としての水俣病』の英語版は間に合うか。できていれば水俣に入る前に、きちんと学習用に試写してほしい。いま懸命に日本にいく航空運賃を調達している・・・』
 夫・故ユー ジン・スミスとともに水俣に住んで写真をとりつづけた彼女が、カナダを含む北アメリカで、水俣病についてのエキスパートにならざるを得ず、運動家としての責任をひとりで背負っていることが、深夜の受話器から伝わってくる。
 だが悪条件下の『医学としての水俣病』上映で体力、資力を使いはたした私たち青林舎に、急な数百万円の製作費の調達はとても無理だった。私はすぐに友人のあるTVプロデューサーのI氏に電話をかけ、窮状を告げ、同氏のドキュメンタリー番組のなかで枠をとってもらい、そのプリント一本を放送後、報告用に持ち帰れるよう依頼した。I氏はTVドキュメンタリーの草分け時代からの苦労仲間であり、ほぼ即答をもって願いをかなえてくれた。こうして『カナダ・インディアン水俣訪問の記録』(TV国内放映用)と現地報告用英語版フィルムが作られることになった。フリー記録映画作家に対する、TV局内管理者となった旧友の善意に心から感謝しつつ受け入れと撮影の体制をととのえることができた。

 カナダから日本への旅

 『水俣病はまず見ることからしか始まらない』とよく言われる。
 アイリーン・スミスさんは、その原則通りに学習の方法をたて、結果としてカナダから日本への旅となった。カナダ水俣病が海の汚染ではないところから、水俣だけでなく内陸部の汚染ケー スである新潟・阿賀野川(新潟水俣病) の二地点を見学コースに組んでいた。理想主義的ともいえるこの配慮に満ちた見学プランは、二週間のなかでは目一ぱい・・・、しかも亜熱帯に近い日本の夏、その猛暑の土用から始まった旅のなかで、北方からきたオジブエ族代表をクタクタに疲れさせたのだが・・。
 そして日本の歓迎側、患者連盟と『告発する会』は全行程の旅費、滞在費等五百万円余を短期間にカンパなどでまかない、日本の『水俣病闘争』の質を、彼らにひそかに心意気として示したのだった。私たち映画班は、映画をとる一方、映画を見せるレクチャーにも立ち合った。英語版の映画を見ていた彼らは、時にチッソの登場に足をゆすり、患者の闘いに目をみはり、そして胎児性水俣病患児に言葉を失った。
 観おえて『われわれは二ドル五〇セントで恐怖映画を見てきたが、いままでにこんなに怖ろしい映画を見たことはない』とのべ、つづけて『わがカナダ政府は、このフィルムをわれわれに見せないできた。いままで水銀問題はすべて隠しつづけてきたようだ。われわれは帰ったらこの映画をすぐわれわれのインディアン(人びと)に見せるよう提案したい』と若い曾長代理格のトム・キージック氏が居並ぶ仲間に同意をもとめた。私は、『いや、それは無理だ。カナダ政府は、まだこのフィルムの所在すら知らない。だから、今後の問題だ』と訂正したが、次の言葉につまった。彼らの念頭にはこの種の映画は当然国境をこえ通いあうもの、日本の政府からカナダ政府に受けわたされ、カナダの一居留地ででも、見られるべき便宜をもってあるものー と考えているようだ。私は一瞬、輸出、輸入などと考えをめぐらしたが、この二、三年の経験からみて、なんの実現性も期待できない。『いずれ、近いうちに、このフィルムをもって私たち自身がインディアン居留地を歴訪しなければならなくなるだろう』と最終の結論をひそかに思いさだめなければならなかった。
 水俣の患者ももともとは漁民である。彼らと狩猟民族であるインディアンとの交流、その感性的共鳴ともいうべきものはまたたくうちにでき上った。感激屋のトム・キージックは『言いつたえではおれたちの先祖は五千年前にアジアからアメリカ大陸にうつったといわれる。それはきっと日本からだったに違いない。それはたぶん確かだよ』と川本輝夫さんに同意を求めるのだった。そうしたときの患者さんたちの相好はとろけるようで、兄貴らしい気負いさえ見せるのだった。
 代表のなかには日本では酒が自由に手に入ることから、サントリー・レッドの小瓶をズボンのポケットに入れ、いつも陶然たる夢見心地で終始した初老の曾長もいたが、若いインディアンは疲れや暑さまけをかくすようにして学習や見学に足を運んだ。二、三カ月あとに初めての子どもをさずかるトム・キージックは胎児性患者と会ってつよいショックをうけたようだ。『もしおれの子どもが、眼も見えず、口もかなわなかったら、おれは銃で報復する。』と言い放った。
 当時、カナダ・インディアンの青年運動はアメリカのインディアン運動、とりわけ一九七三年二月からのサウスダゴタ州ウンデッド・ニー での七十日間武装占拠闘争につよい刺激をうけ、その直接行動の理念がカナダにも波及していた時期でもあり、一九七四年夏、このトム・キージックらも、ライフル銃をもってもっとも近い観光都市ケノラのア・ニシナベ(オジブエ語で人民の意) 公園に立てこもって州政と対峠した。かれらの掲げたいくつかのスローガンのなかに水銀問題も含ませてはあったが、主要な目標は失われた旧居留地の権利回復と積年の人種差別への抗議であった。水銀問題の恐ろしさは、日本にきて初めて知った、つまり死につながる終末的被害としてー。
 『水俣の患者と被害の範囲はカナダと比べられないほど多く広い。私たちはごく少数の部族です。二つの居留地あわせて一千余人しかいない。年々滅びていっています。かつては武器や酒やいろんなやり方で殺されてきた。今度は水銀で皆殺ししようとしているのかも知れない。私たちは五年間、政府に対策を求めてきた。しかし何もしてくれない。日本のミナマタの人間は、すぐにこれだけの旅をさせ、まるで王様のようにもてなしてくれた。・・・』
 彼らは誰彼なしにその窮状をのべる。そして私にむけては『ぜひフィルムをもって、われわれの兄弟たちに見せに来てくれないか』と頼んだ。
 
 カナダへーはじめての巡回移動映画の旅

 八月初めインディアン一行の帰るあとを追うように、第二次世界環境調査団のうち、医学陣(臨床・疫学関係) 一行が二居留地での本格的検診と疫学調査に入った。メンバーは宮本憲一団長他、原田正純、藤野札、赤木健利の各医師および中西準子、飯島伸子ら研究者である。(この調査報告は『公害研究』七六年冬期号に特集)
  この際、原田、藤野氏ら臨床チームは現地住民八十九人を検診した結果、その七〇パーセントになんらかの自覚症状を発見、聴力障害四十例、知覚障害三十七例、視野障害十六例をみとめ、最も厳密に症状をとっても『最低七例にはメチル水銀中毒の疑いがある』(同誌十三頁) としていた。(これはつつしみ深く氷山の一角を指摘したものにすぎないだろう。)
 昭和五十年、この一年間の日本とカナダの水銀汚染をめぐる人の往来のはげしさは水俣病事件史のなかでも特筆すべきことであった。九月には患者は代表団をつくり、川本輝夫、浜元二徳、浜田岩男氏の患者とその付きそい大石裕子、森田明博氏の五名を二十日間カナダに送った。
 私とカメラマン大津幸四郎は、映画を見せにいくことは決めていたが、撮影したい誘惑にもかられた。だが二人で携行するフィルムは七本分計四十キロに近く、その上映行動を想定するだけで、十二分の仕事量だった。そこで帰国後報告用の八ミリカメラだけ携行し、今回は次なる映画(がもしとれれば) のためのロケハンと割り切った。こうして二十日の予定の一行とともに羽田をたった。夏なお残る九月十五日であった。これは大津にとっても私にとっても、初めての巡回移動映写の旅であり、しかも、その旅の保障は今回の旅に同行来日した女性ボランティア、ジル・トリーさんの一通の手紙でしかなかった。そこにはのベ三カ月におよぶカナダ上映が計画されていた。
 『患者と共にある二十日間の上映は、中心地ケノラおよび各居留地にされたし、以後十一月末までの六十日間、全カナダ主要都市の横断上映および、州、国政府の厚生省、保健部門、および各地インディアン友好団体、各医科大学、宗教団体、および青年学生団体を対象に、バンクーパーよりモントリオールまでの運動のための非商業的上映に協力されたし。当地での移動、宿泊は考慮するのでご安心をー』というものであった。なお、そのための通訳にはバンクーパー在住の日本人女性・園田和子、三輪妙子氏の二名が同行するとあった。その文面では、水俣映画のキャンペーンは、あたかも全カナダにすでにのろしが上っているかに思えるほどだった。だが、カナダ・インディアンとその支援者グループからは、手厚く招かれるとしても、カナダ政府から見れば、しょせん、私たちは招かざる客であり、好まざる映画搬入者であろうと考えていた。

 水俣も神々のやどり給うところのように美しい。それ以上にインディアンの父祖伝来の地は静謐で優美だった。最初に訪れたオンタリオ州の汚染地、グラッシー・ナロウとホワイト・ドッグの二居留地は楯状台地といわれるゆるやかな起伏と、氷河がえぐって作りだした川と湖が森や丘を島や岬のようにみせていた。その沼沢に野生の稲の穂がのぎのように水面につき出て密生している。世界でここにしかないといわれるワイルド・ライスだ。流速ゼロに近いワビグン河、その湖ともおぼしい岸辺にホワイト・フイツシユといわれる鱒科の四十センチほどの魚が棲んでいる。岩盤の上にひと皮うすく堆積する土は背の低い樹木しか育てない。いきおい彼らは狩以外は湖に魚を獲りにいく。白夜につづく繊細な白樺や落葉樹林のたたずまいは、ここでの生態系が枯葉の葉脈のように脆いものを感じさせる。真夏の太陽によって万物が萌えいずる不知火海とちがって、厳冬を基調にしている生物の世界に思える。それだけにいったん水銀の流れこんだばあい、この水と森の世界の自然浄化力では長い年月をへても環境を旧に復することはむつかしいであろうとおもわせた。
 一九七五年九月十九日、ホワイト・ドッグ訪問。以後二週間の現地訪問がはじまった。患者代表をむかえるインディアンたちの心づかいは水俣でのそれに劣らないものであった。日の丸の小旗をつくり、かえでの落葉をのりでつけたカナダ国旗を手に手に、子どもたちは到着した水上飛行機を出迎える。女衆は炊き出しに大童であった。居留地にまだ酒はもちこめないこともあって、アルコールぬきだったが、インディアン娘の鈴の衣装をまとってのベル・ダンスや狩人の舞など、つきることない歓迎が居留地とケノラのインディアン組織によってもたれた。春・夏と二度にわたる日本からの調査団と医師の検診によって作られた信頼感と、伝えきくインディアン代表団に対する水俣・新潟での歓迎ぶりなど『地球の反対側からの友人』に対するあけっぴろげな友情は同行の白人ジャーナリストの度胆をぬくものだった。『彼らは日ごろはのんだくれで粗暴で、とてもこんなまとまったもてなしなんかする人間たちではないのだが・・・』といぶかるほどだった。そのインディアンの日常にも、また触れることになった。
 人口六千余人の観光の町、ケノラのホテルに映画上映のベー スをおいて映画会活動に専心していた私たちは、居留地を出て町に出る彼らの素顔をみることになった。日雇いのしごとで金を手にしたり、また生活保護が給付されると、彼らは居留地から車をつらねてケノラの町に出てくる。数十キロもはなれているが、ここにしか政府公営の酒店はない。そして私のいるホテルに近いリキュール・ショップに直行し、バーボンをかつて、その路上でラッパのみをはじめる。そうした彼らをその窓からいやでも見るのだった。夜は夜で一カ所だけインディアンも出入りできる酒場に陣どり、夜明け近くからは路上にごろねで、朝、リキュール・ショップの開店時間までまどろんでいる。町に出ると、すでに私たちのことはインディアン社会では知れわたっているためか、誰彼なく握手の手をさしのべ、ロレった口調で友情こめたあいさつをささやきながら、すえたアルコールの息をふきかけてくるのだ。こんな彼らを『なんで水俣病なものか。アルコール中毒であることは彼ら自身でも知っているはずだ』とケノラの市民は言う。
 こうした白人の先入観の町で、私たちの作った映画がどのように説得力をもつか、上映プランを考えないではいられなかった。事実、泥酔状態やアル中の症状と水俣病とでは神経症状や共同運動の上でそっくりな共通点がある。たとえば構音障害にしても知覚の鈍麻にしても、あるいは千鳥足状の歩き方、よろけなどの平衡感覚の失調など、外見上区別がつきがたいのだ。はたして、私たちのもともと日本国内むけに構成した”国産の水俣病映画”がこのカナダの、しかもインディアンのもっともアル中の増大しているこの地区で、どれほど有効か不安であった。(居留地の上映にもまして、周辺の白人社会での上映に力点をおいてほしいというのが活動家の要求でもあった。)

 『猫は決して酒を飲まない』

 映画は『医学としての水俣病』の第一部、”資料・証言篇”がメインであった。この映画の描く、工場↓海の汚染↓魚介類の汚染↓人間とつづく有機水銀の侵入と食物連鎖の関係。急性激症で狂い死ぬ直前の病状、胎児性患者の出現。これらの典型的シーンは否応なく初めての水俣病体験をみる人に迫るものであったが、それが当地のインディアンの健康破壊の実情とはストレートにむすびつかない気配だ。
 あれこれの上映方法をこころみるなかで日本とカナダの水俣病の共通項としてもっとも雄弁だったのは、ネコの病状の日本版・カナダ版の同時上映であった。前にもふれたように、ジル・トリーさんはインディアン部落の飼い猫で”腰のぬけたような”歩き方をする一匹の黒猫を八ミリで撮影していた。さらにその猫の死後、脳・内臓・毛にいたるまで病理解剖と水銀値分析が明らかにされていた。(このカナダ・ネコのサンプルは、トロントのフィシャー 博士の依頼により熊本大学・武内忠男氏により追試的に病理実験され、ネコ水俣病として、最多発期の水俣で発症したネコよりもカナダ・ネコの脳中水銀値が六倍も高いことが明らかにされ、カナダ水俣病の疫学上のキメ手のひとつと見なされていた。七五年六月のことである。)
 このカナダ・ネコの八ミリを活用して、私たちは十六ミリと八ミリの二台の映写機で並べて見せるといった、いわばマルチ・スクリーンを試みた。こうした映像での証明力は予想以上の効果をあげた。日本の水俣病ネコの歩行失調と、カナダネコのそれとの完全な一致は、インディアン=アル中説を沈黙させたのである。
 それにしても初めて知ったインディアン居留地の貧困と荒廃は旅行者の私の眼にも回復不能に思われるほどひどかった。理由として、この十数年のあいだのインディアンの生活の他からの変動因子があげられる。彼らのライフスタイルがカナダ政府の電力開発による居留地の移転で変えられ、白人経営の最高級の観光ロッジ経営の下で現金収入のガイド業に転換されたこと。新たな囲いこみの目的で作られた新居留地では、かつての野生の生活圏内で過不足なく大鹿やビーバーを捕え、ワイルド・ライスや野生の植物にたよった自然との共生の生き方であったものが、勢いスーパーマーケットと日雇い労働にかえられた。その混乱に追いうちをかけるように水銀汚染による漁獲禁止、魚の食用への規制措置により、自然採取にたよる暮し方が完封されたうえに、健康被害がしのびよって来たこと。ーこれら生活と精神の両面にわたるパニックによって、アルコール飲用者、中毒者が急増したと思われる。水銀問題に責をもつ指導者層や、精神性の高いスピリチユアル(祭事につかえるインディアンの宗教家) やクリスチャンといった一部の人びとは酒について自制していたが、がんらい、酒を作り出さなかったインディアン文明であれば、彼らの肉体と生理に、アルコールはなんの免疫性もコントロール性もそなわっていないのであろう。いったんのみだせば、もはや三日酔、四日酔となり、凍死や衰弱死の寸前まで、あるいは荒っぽく留置場に入れられるまで飲みつづける。彼らにアルコールへの有効な歯どめがあるとしたら、彼らの誇りをとりもどすこと以外にない。つまり彼らの野生の生活圏での剛毅で誇り高い生き方そのものの回復しかないように思えた。
 ともかく、この五、六年のあいだに、殺人、過失死、自殺などがカナダ平均の十倍(最高発生率ともいわれる) の”殺人犯罪の首都”と白人から汚名を冠せられている地帯での上映である。そしてこのケノラの街での水俣病=アル中説のイメージ・チェンジができなければこの地のインディアンの水銀汚染問題はその流れを変えられないというのがジル・トリーやインディアン活動家の一致した意見であった。ー中学校の二校、ハイスクール、公立病院、教会、社交クラブなどで、私たちと浜元二徳さんは、訴えと映画会をくり返し、この町でのべ千九百四十八名(全人口の三分の一にあたる) 人びとに見せることになった。『猫は決して酒をのまない』から始めて、水俣病の全貌を解く質疑応答でおわるという毎日であった。その結果、いくらかの効果があらわれはじめ、会場で運動費にとドネイシヨン(教会風の寄付金) がよせられ、ときに二〇ドル紙幣まで見受けられた。

 ためされた『映画の力』

 もっともくり返し上映したのは居留地でである。病人、老人以外の全員が上映会に参加し、会場の小学校体育館は大にぎわいとなったが、映画会というより時ならぬパーティといった機会にうけとった幼児や少年たちは、小むずかしい映画と見破るや、とんだりはねたり追いかけっこに喧嘩という、映画効果の成否に神経を配る私たちにとっては最悪の上映コンディションになった。いくら婦人たちが制止しても時とともに喧騒はクライマックスに達する。”ああ、マンガ映画をもってくるべきだった。ミツキーマウスでも日本のTV 劇画でもー”
 子どもたちを排除して大人だけの映画会などこの居留地では不可能である。全員参加の気持に駆られるイベントである以上、どうしようもない。その子らに『静粛に』とどのように言いきかせられるだろう。呆然たる私たちに気の毒そうにインディアンの世話役が子どもを叱りつけ、ひっとらえるのだが、また一段とうるさくなるだけである。だが、彼らも、時折、画面にみとれる時がある。激症の患者のシーンや”猫おどり病”といわれた狂いネコのシー ンになると、瞳をこらす。私は大津に『一カットでも心に刻まれればいいよ。俺らのガキのときもそうだもんなあ。それでいて一生覚えているじゃないか』などと気やすめをいうのだった。小学生のころ、校庭でみた『蜂の一生』の脱皮のシー ンや、衛生映画の黒いバイキンのウッヒッヒと胃袋のなかで勝どきをあげている奇怪な幻像を思い出していた。
 結局、同じ映画を熱心な婦人や活動家のために何度もくり返し上映することにした。ときに英語の分らないインディアンには一節ごとに映画をとめて、話が分ってから先に進むといった上映方法もとった。五人だけの上映会や、数種のフィルムから患者の闘いの部分をピックアップしてその二十年の流れを語るといったシーンをつないでのモンタージュ上映もした。映画を映画として最大限活用したいとき、作り手自身が自分の映画をとぎれとぎれにし、ときにバラバラにすることもあると知らされる破目ともなった。だが患者の報告でも語り切れない水俣病、すでに写真での情報はアイリーンの手でなされていたし、水俣見学のインディアンの報告もあったとしても、映画ほど有力な伝達手段はないこともまた知らされたのである。言葉としてでなく、また絵や写真といった静止的で問いかけてくる表現でなく、映画は、言語の相違をこえ、映像文化の深い浅いといった度合いの差をこえ、人間の感性に共鳴し、同時的な映像体験をひとしく分ちもたすその独自の作業力をあらためて認識できたのである。もとより直接体験にまさる認識はない。その点で、映画は『たかだか映画』であり、『せいぜい映画』である。この映画体験をフィルムと、その作り手と掛算で訴えるとき、観る人をして、私たち作り手の訴求力と映画を作った情動とによって増幅され、一種異常なほどの共鳴板の高鳴りを生むものなのである。これは映画プラス会ではなく『映画+ショウ』ではないか。代理者による上映とまったく違った作用を生むのであった。
 また、ときに、私の映画は彼らにとって生理的に長すぎたようだ。一時間半、ときに二時間あまりのフィルム上映では最後までのこる人は三分の一にも満たないことがしばしばだった。テレビとちがって、過度ともいえる集中力を強制する映画に慣れなかった。都会での白人観客のばあい、英語版でぐいぐいひっぱっていけたが、インディアンのように英語上の文盲率八〇パーセントの大人・婦人・老人たちは、再通訳のオジブエ語の乱射にさらに疲れはてたようだ。ともかく、一人ぬけ、二人ぬけ、三々五々、映画会場を去る人びとの後姿を見ながら、私の映画の一見悠よう迫らないテンポにみずから狂おしくなったものだ。また、それだけの長尺物を見終えた人たちですら、上映後の質疑で、水俣病のABCをもう一度語り直さなければならず、日本でなら常識的な項目についてもより詳しい説明が必要にも思えることがしばしばだった。
 話はとぶが、このときの質疑応答のメモを整理し、帰国後、カナダ・ケベック放送と共同製作で、英・仏語版『ミナマタから世界へのメッセージ』(四十分) という水俣病の入門篇と考えるT V映画を製作した。これは、カナダでの百十日間におよんだ全上映旅行の体験なしには作れなかった私のはじめての”質疑応答映画”であった。(昭和五十年のカナダ・フィルム・ツアーは、一部アメリカを含め百十回上映により百二十日間、一万二千人の観客と討論する旅となったが、そのあらましはすでに文章にしたので省略させていただきたい。〔『展望』五十一年七月号『カナダ水俣病の問うもの』参照〕)

 第二回目のフィルム・ツアー

 翌昭和五十一年六月、カナダ・バンクーパーでおこなわれた第二回国連環境会議を機会に、カナダ・ケベック州で新たに汚染の発見されたクリー族の居留地をめぐる第二回フィルム・ツアー に川本輝夫氏と通訳大石裕子氏と私の三人はふたたび四十日間の巡回映画の旅を体験した。
 州都モントリオールから北に千キロ余、いまもビーバー・大鹿猟で生計をたてているクリー族(七千~八千人) が主な被害者である。発生源はまたしてもドムタールという製紙工場であり、その附帯設備の苛性ソーダの工程から放出された水銀によりワスワニピ河流域が汚染された点オンタリオ州のケー スと全く同じである。バルボー博士による千八人の検査の結果、血中水銀一五〇~二〇〇PPMという危険値をもつ患者が四十八人(内白人十人) におよんでいた。
 クリー族の次期指導者といわれるサイモン青年と、彼のもっとも信頼する在モントリオールの日本人写真家、清田昂氏の二人の強い要望で五十人、百人と点在するインディアン集落をめぐる映画会の旅であった。そして十数日間は車とテント生活による野営の旅であった。
 夕暮、馬アブと蚊の大群が人畜みさかいなしに襲う。映写機の光源めがけて蚊柱の立つなかで、頭の髪の地膚から手足の先まで虫よけの練り薬をぬりつけてフィルムを廻した。自炊生活はそれなりに楽しかったが、トイレもバス、シャワーもない生活であった。インディアン自身、仮住いの小屋生活であり、ところによって建っている白人の経営するドライブ・インが文化のシンボルにみえた。
 五年前北欧ストックホルムの国立大映画科の豪華な映画会場で各国代表を招いて始まった国際的移動映写の旅は、北限に近い人口数十人の居留地の古い礼拝堂での上映で、その果てもきわまった感があった。
 川本さんにも疲労の色が深かった。しかしその身を省みることはなかった 。『水俣病がなければ終生あいまみえることのなかったあなた方インディアンと私たち水俣病患者・・・』という言葉を彼は好んだ。『カナダまでにも水俣病がおきたときいて、やって来ました。私たちの体験した水俣病を、広く世界に知らせる努力をしてこなかったために、こんな美しい土地にすむあなたがたにまで水銀の苦しみを味わわせることになり、心痛んでなりません』そして魚をたベひかえてまず自分をまもって下さいと訴えた。
 『映画と実演ですタイなあ』と笑いながら修業僧のように難苦を甘んじている川本さんをみて、私は訊いた。何があなたをこういう形で動かしているのか、と。『わしゃ、自分の青年時代にできんかったことをいまやっとる気がするなあ。学校もろくに出んかったが、水俣のえらか共産党のひとのまわりで革命とか何とかいっちゃ、考えとったばってん、この年になるまで、そんころの夢は何ひとつできんじゃった・・・』と川本さんはいう。
 かつて水俣で文化運動を軸に共産党細胞を生き生きと動かしていたリーダー谷川雁(のち大正行動隊)や若き日の石牟礼道子、赤崎覚、そして合化労連新日窒労組の委員長であった岡本達明氏らとともにあった昭和二十年代後半、川本氏は無名の革命家群像のひとりとして生きたかったに違いない。
 白いオーロラの変幻万化する白夜の地で、テントにひそかにもちこんだ汚染魚のマスを刺身にバーボンの盃を傾けながら、夜のふけるまで、彼の若き日の話をせがみ聞いたものだ。
 
 この二年間、二回、百六十日におよぶ異郷カナダでの巡回映画の旅は、映画で何ができるかを分らせてくれたし、私の映画の未熟も悟らせてくれた。広い世界に、映画フィルムが”独りあるき”していくものと考えていた既成の海外配給の夢と、映写機のもとで、直接外国の住民と相かたり、伝えるものの胸底から次つぎとせきこみ上げるなかで、映画の力をみずから謝したいまでに自分の映画にたすけられた、この紙芝居的規模の上映と、いずれの価値に重きをおくか考えさせられた。一映画作家として、映画を生きた形で肉体をもって観客の前に提供できたときの充実感はあらゆる労苦を忘れさせるほどである。そしてこの現場体験の肉からさかのぼって映画づくりの原点を改めて発見したいという作家の欲求にもつながっているのである。映画生活に入って、二十年目に得たこの”飛躍”が、一時の幻となって失せないためには、今ひとつ私にはしなければならない次の修業時代が来ている気がした。

 不知火海巡海にむかつて

 昭和五十一年初冬、私にすでにそのための好機が訪れていた。それは色川大吉氏と石牟礼道子氏とのあいだであたためられていた『不知火海総合学術調査団』の発足であった。これに先立つ数年前から各専門分野の研究者による学術的な研究グループが、その日本の近代化再検討の作業を『思想の冒険』(筑摩書房) に結実させていた。そのグループの今後の課題を不知火海の百年の歴史と今日にむけようとするものであった。色川大吉氏のほか、石田雄、市井三郎、宇野重昭、内山秀夫、桜井徳太郎、菊地昌典、小島麗逸、鶴見和子、水野公寿、最首悟、宗像巌、山田慶児、綿貫礼子、日高六郎、田村紀雄、宮本憲一、宇井純、原田正純、それに石牟礼道子ら各氏で、社会学、民族学、歴史学、宗教学、哲学といった人文系から生物学、医学をふくむ文字どおり学際的共同研究で、そのスパンを五年から十年におく壮大なビジョンであった。
 私は水俣・不知火海の次の映画を構想するためにも、この人びとと共に歩きまわりたいと思い、その手伝いを買って出た。私にできることは車での案内と現地の人びとと各氏をひきあわせることくらいである。だが次なる映画のために、私にとってこのように恵まれた調査の季節をもてる幸せはほかにない。

 カナダの旅をおえて帰国してから、すぐに私はカナダの体験をもとに、英・仏語版『水俣から世界へのメッセージ』に更に手を加え、映画による問答集を意図した『水俣病ーその20年』(四十二分) を製作した。これには初歩的な水俣病の歴史と病像から、今日の医学的問題点に触れた概説を横糸に、企業と国の責任を問う患者の主張と闘いをたて糸に編集したものである。それまでのオリジナルな十本の作品は、この入門篇につづいて見てもらいたい、まずは機動力のあるフィルムを欲しかった。
 はからずも長々と私の水俣病映画の十数年の私史をのべることになった。だがこの不知火海総合学術調査団の発足と、最新作の中篇『水俣病ーその20年』の完成によって、私たちが不知火海のかくれた水俣病患者とあうべくして計画した不知火海巡海映画活動は、その着想の一歩手前までの準備ができていたことになる。だが着想までに以後一年を費したなんとまどろい歩みだったことだろう。