書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第三章 ”水俣病かくしの構造” <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第三章 ”水俣病かくしの構造”

 ”かくれ水俣病”の悲劇

 昭和五十二年四月、不知火海総合学術調査団の活動は二年目に入った。当初から不知火海の広域汚染の実態に触れようと、対岸、天草への現地踏査が考えられていたが、一年間は水俣周辺のコネクションづくりに忙殺されていた。
 四月五日、その初めての目標の地を、御所浦島においた。私にとっては映画『不知火海』の終章となった地であり、以後訪れる機会もなく、そのあいだに松崎重一氏がひっそりと亡くなられていた。彼は先にのベた熊本県衛生研究所の毛髪水銀データにのこる九二〇PPMの最高値を記録された故松崎ナスさんの夫君であった。この人も水俣病に間違いなく、死後、その申請は宙にまよっているのではないかと案じられた。
 色川団長ほか、菊地昌典、宗像巌氏、石牟礼さんら一行十名とともにフェリーで処女地、御所浦島にむかつたが、一班は現存者で六〇〇PPMという被害をもつ重症者、嵐口漁港の藤野レイさん宅へ、そして一班は船をのりつぎ松島家(全村同姓だが) のある椛ノ木にむかつた。
 多くの水俣病患者の記憶のなかで、ときに原像のように立ち現れる特定の人の像がある。水俣では、私のばあい”生きている人形”といわれた故松永久美子さんであり、御所浦では故松崎重一・ナスさん夫婦である。かくれ水俣病の悲劇の象徴はこのお二人でその極点に達し、私の体に刻みこまれている。映画のなかで『水俣病ちゅうても何が水俣病か知らんでしょうが・・・風邪ならすぐ分るばってん』とのべられた重一さんも、当時はまだ杖をたよりに波止場まで私たちを見送られた。だが映画完成後、フィルムと映写機をもってスタッフが映写に訪れた一年後、『・・・天気のよい日は散歩もできた人とは思えないほど体全体が小さくなって薄暗い部屋に静かに横になっていた。映画を見てもらうことはとてもできないことをその病状の進行が示していた・ ・・映画のなかに出てくる、天草の四月、早朝、八幡の瀬戸に全船白帆をあげてフグ漁につどう数百隻の船団のシーンを話すと、ひかえめな老人は『こんな寝たままの格好で見ることができますか』といった。・・・ 破れ障子にそのシーンが映し出された。『オーツ』という悲鳴ともきこえる”ひと呼吸”を聞いた。唐紙に映える漁場の盛況に、老人の喚起力のつき動かされているのがわかった』と小池征人は病床期の最後の老人を語ってくれた(七七年十月『水俣』紙) 。
 狭い漁師道をたどり、訪れた同家に人気はなく、上りがまちは羽目板でうちつけられ、長女の婚家の三角町の住所を記した紙があせてはりついていた。かつて老人をみとっていた孫娘に消息を聞こうとした期待もついえた。山上の墓地にのぼると亡妻のトタンぶきの仮霊屋は鋳びはて、その近くに夫の墓も見つからなかった。川本氏らのつよいすすめで生前申請された重一さんだが、その亡骸は解剖に付されていない。かくれ水俣病のまま斃死され、一家流亡の悲劇がそのまま私たちの眼前にあった。
 毛髪水銀値を知りながら、なんの医事救済もしなかった行政の責任を問うなら、このように歴然たる証人はなかった。川本さんが国の放置を告発する国家賠償請求の裁判を起こそうと考えるのに、亡き父川本嘉郎太の霊とこの生き証人の悲劇が強い動因となっていたに違いない。一老人の死はまたも国の無責任をゆるすことになった。これはほかにるいるいとある天草・離島のかくれ水俣病者全体の命運を告げるものでもあろう。私はほぞを噛む思いであった。

 『不知火海を歩いてくれんですか』

 前にのべたマル秘の『毛髪検査表』発見(昭和四十六年五月) 以来、水俣の運動者の関心は不知火海一円に注がれはしたが、現実には手がつけられてはいなかった。水俣周辺だけでも難問山積だったからだ。はじめて水俣に支援者が入った昭和四十五年ごろ、患者数は百二十一人だった。支援の対象だった訴訟派はそのうちの二十九世帯にすぎない。のち裁判判決と川本輝夫氏らの休みない潜在患者の発掘によって、数千人単位の申請者となった今日、いかに支援者もまた増えたとはいえ、守備範囲としての人間的能力の限界をはるかに超えていた。
 しかも保留者や棄却処分者が続出した。棄却処分に対する上告手段としては行政不服しかない。そのための法律的手続や口上書作製は一人分で何十日もの聞き書きや手間が要る。法の枠組みのなかでの闘争は、あまりの繁雑さにまず諦念が先立つほどだ。これに加え、県の認定審査業務の不当な遅延・サボタージュを告発する、いわゆる”不作為裁判”(昭和四十九年十二月) が提訴され、ついで『申請者の多くはニセ患者』と公式発言した県公害特別委員長杉村国夫自民党県議への抗議行動を端緒に、患者を含む四人が逮捕され被告となった。攻守ともに法廷が主戦場となり、それに加え、川本輝夫氏の控訴審が東京高裁で継続中であり、熊本、東京と水俣からうって出る裁判闘争が幾重にも患者・支援者の肩にかかっていた。
 一方、患者の組織も、運動の中心だった訴訟派二十九世帯も裁判後いったんその陣形を解いた。そして活動の主力はいまだ救済されない申請者・保留者・棄却者といった、退くに退けない人びとによって担いなおされる過渡期でもあった。(患者組織は前述川本氏らの患者連盟、申請者協議会をその活動力で”最左翼”とするなら、民医連・水俣診療所系の『被害者の会』と旧訴訟派系、そして、”右翼”部分としてチッソのたのみとする一任派系、中間派系など大小十二派に分裂していた。)
 
 時に水俣の活動家の表情は暗かった。五十一年夏であった。私は水俣病センター相思社の責任者、柳田耕一氏と話しているうちに『水俣からばかり水俣病を見ないで不知火海全域から水俣を見なおして見たらどうか。ぼくがカナダでやったように不知火海沿岸をフィルムを見せて歩いたらどうか』と提案した。センターには私の主要作品は揃えられており、折にふれて上映されていることは知っていたからだ。少なくとも不知火海沿岸の巡回映画はセンターの若者たちでも可能だと思っていた。だが言下に斬りかえされた、『あんたがやってくれんですか。カナダばっかし行かんと。フィルムをもって三年ぐらい不知火海を歩いてくれんですか。』私は逆上して『俺のような東京もんでやれというのか、俺はもう五十歳に近い人間ぞ、あんたら若いもんでなんでやれんというのか』と一言いかえしたものの、彼の判断力と率直な心根を知る私には『勝負あり、私の負け』と思わざるを得なかった。提案には可能性がふくまれているものだ。彼らにできなければ、あと私たちが負うほかない。
 以後、私は白分たち映画スタッフでこの事業を始めるための勉強と準備にかかった。不知火海の沿岸の五万分の一の地図とにらめっこしながら、この映画行動のもつ意義と必要を反努した。それに要する期間と予算も立てなければならない。
 秋、水俣スタッフ全員でTVの芸術祭参加番組の仕事で糊口をしのぎながら、案をねり、あけて翌年夏には実行することを決めた。水俣の実情からだけでなく、今まで水俣病の情報も伝わっておらず、水俣病を忌みきらっていた不知火海の漁村に、映画をもちこめるのは『作った人間』しかないことだけはたしかだった。

 巡海にむかつて踏みだす

 あけて昭和五十二年、私たちはごく限られた範囲にむけて最初の私的アピールを書き送った。併せて協力基金も依頼する文書であったが、本心、海のものとも山のものとも確信のない時期にかいた、人びとへのプロポーズである。冗長のそしりを免れがたいが、その要旨を紹介させていただきたい。

 七七年五月十日
 『不知火海巡海映画班』活動計画書(九十日間)
 ー映画による苦海巡礼の意をこめてー
 『一映画人として、今なしうることは、自分たちの映画をもって、いまひとつの映画的現実をつくり出すことである』と、のべたことがある。・・・だが足もとを見るに、私たちは水俣病汚染地域の”暗黒部”といわれる水俣の対岸・天草や離島に映画をもちこんではいない。(中略)
 この二十年間、水俣病事件をその対岸のこととし、一方的に被害のみ受けてきた離島・天草の漁民にとって、水俣病の”運動者”への反撥は必至であろう。だが私たちは映画の作り手として、辛うじて映画をその地に持ち込める資格があろう。(中略)
 いうまでもなく水俣病には、何が水俣病であるのかの”合せ鏡”がない。水俣の多発地帯ですら患者と非患者は、お互いに身体の異常を話しあい、手探りで水俣病像を学びあってきた。映画『医学としての水俣病』『水俣病ーその20』はその学習材料とされ、この三月からの県庁すわりこみ闘争にあたり、患者自身の手で討論の資にされ、また川本裁判控訴審法廷で、立証物件として裁判官の判断資料のひとつとして異例の上映がなされた。このことは誰しも水俣病を語るにあたり、まず水俣病事件とその病像を知らなければ物事が始まらないことを物語る。(中略)
 この五月六日、患者連盟と申請者協議会は不知火海沿岸の全市町村長あて、次の行政指導を懇請する申入れ書を送った。その冒頭に、水俣病に対する差別・偏見をとりのぞく方策をとって欲しいとのべ、そのためにも『水俣病問題の正しい知識と情報を被害民(注、不知火海住民) に衆知徹底させ』てほしいとのべている。これはいかに汚染実態の情報・教育活動がなされないまま、水俣病二十一年の風雪のなかで沿岸住民が閉されてきたかを物語る。ゆえに私たちは、このいまだ一度も水俣病像が知らされていない汚染地帯に、その”事実”をフィルムで運びこみたいのである。しかも、上映条件の良しあしで上映地点を選ぶのではなく、水俣から半径三十キロメートル内の全漁家集落をすべてもれなく上映し、一カ所の空白地点をも作つてはならない。一集落十戸以上あれば上映する。目下その対象百三十三集落・人口約三万人を対象とし、六十三一地点の上映で包括したい。
上映地点(かこみは市役場、町役場所在地、かっこは離島部)
〈熊本県部〉
〇天草上島 四町、十八地点
 姫戸町ー牟田・永目・(姫浦)・二間戸
 竜岳町ー下貫・小屋川内・(高戸)・池浦・葛崎・大道・(樋島州崎・同下桶川)
 倉岳町ー(旭)・曙・宮田
 栖本町 古江・(湯船原)・白戸
〇天草下島 二市二町、十七地点
 (本渡市)ー船場・金焼・戸ノ崎・舟津
 新和町ー天附・大多尾・下大多尾・中田立・高根(横島)
 河浦町ー宮野河内・上平
 (牛深町)ー下平・深海・浅海・山浦
 御所浦町ー三島嶼、十地点
 (御所浦島) (本郷)・唐木崎・大浦・嵐口・外平
 (横浦島) 与一ケ浦・横浦
 (牧島) 牧本・長浦・椛ノ木
〈鹿児島県部〉一市十八地点
 東町ー四島嶼、十六地点
 (諸浦島) 葛輪・本浦・白瀬
 (長島) 薄井・三船・福浦・宮浦・脇崎・(鷹ノ巣)・市来崎・加世堂・火ノ浦
 (伊唐島)
 (獅子島) 片側・御所浦・幣串・湯ノ口
 出水市(桂島)
 計三市八町六十三拠点
 以上

 右アッピールにそえ巡海映画班のイメージを附記した。『海辺の映画会』と名づけ、主催者は御当地初見参の『不知火海巡海映画班』単独。安いにせよ入場料は大人二百円、小人百円とし、三万人住民中最低動員目標を一〇パーセントの三千人におき、四十~五十万円を現地収入として見込む。逆算して当面、二百五十万円( のち詳しく予算化して四百五十万円に修正) をカンパ目標とした。
 現地生活はテントまたは公民館、老人クラブなど、食事は自炊、全期間九十日、スタッフ五名とし、実状に応じて留守家族生活費を最低保障することもあるとした。班員は私のほか一之瀬正史、紘子夫妻、小池征人、西山正啓の五人である。そして道中志ある人の同伴、参加をよびかけた。

 予備調査者の報告から

 私をのぞく水俣スタッフはみな三十歳前後であるが、気はいたって若い。みな嬉々としてプランを楽しみ準備活動に入った。そのもつ流浪性は刺激的なまでに甘美な日々を思わせた。だが予備調査にとび出した一之瀬、小池両人の報告は、ただならぬ苦難の旅を予想させるものであった。
 六月上旬、彼らは挨と日やけで真黒になって天草と島々の下見にまわっていた。その時私は十五年ぶりに古巣の岩波映画で実質的に生活費カンパにあたるのだがTV『生きものばんざい』シリーズの仕事を得て、その『くるまえぴ』のロケ先で投宿していた天草・大矢野町、蔵々島の船宿で彼らと再会した。開口一番『映画をこの地にもちこむことは、例外はあるがまず反撥、抵抗こそあっても、とても歓迎されるものではない』という。
 彼らの要約はつぎのようなものだった。
 『まず予想はしていたものの、①これらの地に水俣病事件、病像がまったくもちこまれていない。その点圧倒的に情報”未到”の地であることが確認できた。②上映できたばあい、その正確な知識を得たことによっておこるパニックと地域の変動への予想は想像を超えるものとなろう。』というのだ。船宿で徹夜で語られた情報は、私たちを熱くするばかりであった。
 小池征人は元東大新聞研に学んだ日高六郎氏の門下生であり、集約力と表現力にすぐれ、一之瀬正史はこの海とのつき合いの最も長い生えぬきの水俣スタッフである。この二人がまとめた『予備調査報告=覚え書き』(昭和五十二年六月十七日) なるレポートを全文紹介したいが、大部のため割愛せざるを得ない。(のちの実地の上映の旅の中に折りこんでいくつもりである。) ただどのような感触と実情であったかの証左として、天草と鹿児島県長島にある東町の二町の場合をピック・アップしておく。

 例一、倉岳町
〇人口、男二千三百九十人、女二千七百十二人 計五千二人(千三一百四十五世帯)
〇漁業組合数、正会員百九十三人、準六十一人 計二百五十四人。
〇水俣病申請者一名のみ。当町は松島氏(元熊本衛研) の『毛髪水銀データ』ゼロ
〇漁協長の反応ー当初強い拒否反応、のち、上映のみようやく受諾
(まとめ)
 ①この町に感性的反撥として『水俣病事件』はあるが、昭和四十八年の第三有明水俣病事件(注、天草、赤崎地区に発生の疑いとされ、魚価大暴落のひきがねとなった) のパニックそのものに対する生理的な反応である。(ひるがえって考えてみるに、水俣病事件史のなかでの地元水俣漁協が、かりに水俣病による総被害を、ひとり水俣の患者・漁民に限らず、不知火海全域の患者、漁民、住民をつつむ同心円で把握し、沿岸三十漁協に問題を提起し、彼らと連帯していたら、その後のこの地域社会の動きも、いまとちがった形をとったであろう。)
 ②情報の未達、人的交流のゼロが、地域感情をいまは沈静化させているものの、上映活動後の波紋は激烈な形となるかも知れない。
 ③倉岳高校には離島御所浦島などから二百人以上が通学しているが、ここで映画『公害原論』(注、青林舎・前田勝弘作品) の上映は許されたが『水俣病ーその20年』は職員会議でその上映を拒否された。これは地域教育の一端をうかがわせる。
 例二、鹿児島県東町
〇人口、男四千二百六人、女四千四百八十八人 計八千六百九十同人( 二千四百九十四世帯)
〇水俣病関係、認定患者十二名(うち獅子島九名) ほか申請者約七十名(ほぼ獅子島) 。
〇町当局の反応ー町としては上映協力の音頭はとらない。『勝手にやるならやれ』と静観。
〇漁協組合長ー『組合長としてはどうという指令も出せない患者は獅子島にのみ出ていて、他地域に出ていないから、関心はうすく、皆、見に来ないのではないか。』(だから、無駄な行為になりますの感じで我われを牽制) 上映拒否の可能性も予想される。
〇各区長の対応
 伊唐島ー上映には理解。
 諸浦島ー上映協力。
 獅子島・幣串ー上映拒否『この部落からは水俣病患者は”出さない”ことにしている』と言明、となりの湯ノ口に出ている申請者群を『宝くじの当りをまっているもの』とつよく嫌悪。
 (まとめ)
 ①漁協のあり方、町でのその地位が東町全体の”水俣病観”を支配している。現組合長(宇都時義氏) の登場とともに販売実績急上昇中、他産業を抜いてトップ、養殖が主であるが”現役”の漁業として活況を呈していることから、これが町当局への圧力ともなっている。ひいては獅子島区長をして『患者を出さないことにしている』と強弁させる磁場になっている。
 ②町行政はまったく無策、町長が水俣病問題で町内、特に離島を視察した形跡もない。
 ③この地域も天草同様、それ以上に熊本県自民党県議杉村国夫の”ニセ患者”発言が流布され、具体的な肉声をもった”暴力”として地域感情を扼殺している。
 ④かつて水俣市にすみ水俣病像をかなり詳しく把握しているある銭灸師によれば、『百人単位の潜在患者群』の登場をイメージさせる。
 ⑤東町は矛盾した焦点の町だ。ここから不知火海に水俣病が逆浮上してくる熱い磁場だ。
 ー以上

 長文のレポートには人脈の見当と聞き書きメモがあり、上映行動予定地の反応がつづられていたのその結果、全体の三分の一がまずまずの理解、三分の一が、中立、三分の一が拒否反応といった全体図が把握できた。そして全行程中、二町のほか竜岳町(とくに樋島) 御所浦町などがもっとも潜在患者群の所在する爆心地であることがイメージできた。
 
 石原環境庁長官の水俣視察とその波紋

 第一回アッピールから折り返し、カンパと賛同者の声がよせられ、それにはげまされて第二回、第三回のアッピールと準備報告を送った。実質的に東京での事務局としてカナダで労苦を共にした大石裕子、私の娘亜理子があたり、岩波映画の旧友・秋山衿一、時枝俊江両監督が全計画終了までの責任者となって、後顧の憂いなく不知火海に赴ける素地はできた。車輔に色川大吉氏のユーラシア大陸横断の名車『ドサ号』が提供された。
 上映フィルムも、水俣病映画主要作品七本のほか、バラエティあるプログラムができた。TV 映画『いきものばんざい』中『海の生きものシリーズ』、また前記両監督から私の処女作『ある機関助士』の新プリントがカンパされ、カナダ上映のとき骨身にしみてその必要を感じた子どもむけのマンガも、赤塚不二夫氏の協力により『おそまつ君』三本、のちに、月岡貞夫氏より新作アニメーション『ピンポンパン・メドレー』が加えられた。私は『地熱のような支持』『マグマにぶちあたったような協力』とこの間の沸然とした知己友人の援助を表現したことがある。この行動プランが広く人びとの同意の中核部分に触れたものであったことを私は感得できた。

 こうした私たちの不知火海での水俣病の影を追う意図は、さらに輪郭を浮き上らせる動向が、真逆の体制の側から照射されてきたことは奇貨ともいえた。それは石原慎太郎環境庁長官の水俣視察とその波紋であり、川本裁判における控訴審判決が戦後裁判史上初の公訴棄却をかちえ、その判決文の要旨が、微妙に、しかも効果的に私たちの巡海映画にからんで来たからである。
 六月末、未来社の松本昌次編集長のはからいで、私は『未来』誌上をかり、つぎのように指摘した。ふたたび引用を許していただきたい。できうれば資料を追って当時の動きを再追跡したいからである。
 『・ ・・ひとつは石原環境庁長官の”水俣体験”です。すでに(注、昭和五十二年四月二十二日より三日間)現地水俣を訪れた彼は、”行政の怠慢と国の責任”をみとめ、陳謝しました。それらの言動のなかで、彼はしばしば二十一年間にわたる放置をのべ、この春から熊本県当局が国につきつけている認定業務の返上という、もつれにもつれた膠着状態を、(認定の) 新基準を発表することによって打開するという局面に立たされました。しかもそれは六月末までという期限付ですの石原長官の現地訪問は時期が時期だけに水俣に必要な新風と印象づけられたようです。
 また一方、六月十四日、川本(控訴審) 判決にあたり、寺尾正二裁判長は判決史上初の公訴棄却判決を宣告しました。川本輝夫氏とその盟友・後藤孝典弁護士が第一審から『水俣病事件全史をどう裁くか』をつねに前景とし、チッソ社員との取っ組み合いのときの傷害の有罪無罪論には目もくれなかった戦闘的姿勢の勝利と思います。しかしこの控訴審でははっきり『国の一半の責任』『国家もまた加害者』という字句が判決文に刻まれることになりました。昭和四十三年九月の政府の水俣病に関する公式声明が『工場排水に起因する』と認めただけの没主体的論理から、国の責任を認めるまでに十年の歳月がかかったわけです。しかし、相ついで国の責任がのべられた理由は何でしょうか。
 水俣病事件での『行政の怠慢』『検察のチッソに対する加害者責任追求の放置』『国の責任』などをもはや認めるにやぶさかではなくなったのだと思います。この背景には、水俣病を遠い過去の一過性の出来事、すくなくともピーク時は終息したとの判断に立って、まるごと『二十一年分の過去』の総決算という意志が無意識にせよ働いているのではないかというのが私のいまの疑問です。
 石原長官は不知火海の離島・桂島、獅子島を訪問しました。不知火海にまだ潜在患者がいるという認識に立つての行動だとしたら、これは今まで政府になかった視界に彼は入ったこととして評価します。しかし、それをも過去の汚染時の被害者でいまだ政済されざるものと見てはいないかということです。(中略)
 石原長官は自署名文のなかで『私はこの水俣病が一体何であるかを正確に理解しない限り、またその努力をしない限り、私たちの生あるうちに、(一つの時代が終り、次の新しい時代に移ったのだ)と、どうしてもいい切れないと思うのです』(『週刊文春』五月二十六日号ー()筆者)。しからば水俣病事件をどう理解するかにかかります。私は(今も生起している)水俣病を不知火海に予感するのです・ ・・ ( 後略) 』(『未来』五十二年七月号)。
 この一文にはまだ私の抑制が働いている。それはまだ石原長官の約束した新基準(昭和五十二年七月一日) 事務次官通達の発表前だったからである。
 四月水俣を訪れた長官の言行録のなかで、私が耳目をそばだてたのは、総合実態把握を言明した点である。
 『出来れば魚の汚染の範囲をその流通経過に乗るなどしてこの目で確かめたいと思う。水俣病の病理をはっきりさせることも困難だが、水銀汚染のメカニズムをも含めて総合的な実態は握がなされなければ、社会的病気としての水俣病のは握も、水俣病をわれわれが体験した意味も意義もないのではないかと痛感した』(昭和五十二年四月二十三日、『熊本日日』) と水俣訪問第一日にのべ、以後機会あるごとに”総合実態調査”をみずから力説したといわれている(『熊日』社説) 一だが七月一日に発表された”新基準”には、その”総合的研究の推進”の項目は以下のとおり。
 『総合的な実態把握のため、既存文献資料等を体系的に収集整理し解析評価を行うほか、必要な調査研究を行う。』
 つまり資料の見なおしといわれる最低の結論となった。
 私がかすかに期待をよせた国の手による不知火海実態調査はすべて空文に帰したのである。だがそれは私たちにとって火に油を注ぐことにもなった。

 汚染調査はなぜ水俣に固定されたか

 出立にあたって、私たちは水俣病全史のなかから天草・離島についての情報をふるいわけ、巡海映画に必要な資料を選んだ。とくに、この地での水俣病事件の波紋の起り方と鎮まり方を中心にデー タを洗った。おそらく、この天草・離島のこの問題の資料、情報も、故意ともいえる欠落だらけであろうが、それにもまして、私たちの拾い得た情報もまた落丁、だらけといえた。しかし、そのわずかの記録でも次のような脈絡を辿ることができる。”水俣中心”主義のかげで、天草・離島がいかに影のうすい存在であったかが分るのである。
 天草・離島について、昭和三十年代の『水俣病年表』(熊本大、公衆衛生、野村・二塚両氏編) によると、人体汚染に先行して発見できる点で水俣病の指標となるネコの狂死、魚の浮上についてはー
〇昭和三十二年二月~五月、離島・御所浦・獅子島(幣串・片側) に集団ネコ狂死発生
〇三十四年、上記両島でネコ大量狂死
〇三十四年九月、不知火海の北部五十キロ地点・八代市。天草下島南端牛深市のネコの体内・毛髪より高濃度の水銀検出さる(注、ネコ被害は不知火海の北限・南限におよんでいる)

 昭和三十四年九月、熊本水産試験所編『不知火海の概要と水俣調査中間報告』によると
 タチウオ、グチ、スズキ、ボラなど死魚の浮上漂着、およびその漂流の目撃地点は、天草上島の姫戸町以南、竜岳・倉岳・栖本そして上島部に属する離島(樋島、御所浦諸島) の全域にわたっている。
 一方、下島は、水俣病は上島に比べ間接的な被害が記されている。タチウオ以外の魚型のめだった痩せ方(新和町大多尾)、数年来の漁獲減少(牛深市・久玉) 、そして全般に水俣病事件の波をうけて魚価が二分の一に低落しているとされている。この『中間報告』で今日、注目されるのは、当時の漁協別被害調査の範囲が天草五橋で知られる大矢野島(北限) をのぞく不知火海・熊本県域内のほぼ全域に眼を配っていたことである。さらに熊本県からの横の連絡・要請により、鹿児島県も出水・長島でのネコの発症例を拾いあげるなど、両県の不知火海をひとつの海区とみなす広域的疫学調査の初動があり、そのフォローは不充分にせよ、昭和三十四年の十一月ごろまでは順調になされていた。
 ところがチッソの『いわゆる有機水銀説に対する工場の見解』(八月五日) 、東工大清浦雷作による『有機水銀説に対する疑問表明』(八月三十日) 、日本化学工業会大島理事による『海中遺棄の旧軍爆薬原因説』(九月二十八日) などの相つぐ世論操作と、通産・厚生省による熊大研究班への『結論の発表は慎重に』とする申し入れ(十一月十一日) 、そしてついに食品衛生調査会の最終答由『水俣病は水俣湾の魚介類中のある種の有機水銀化合物による』との説を公式確認する(十一月十二日) にとどめ、その水俣食中毒部会はその翌日、厚生大臣より解散を命ぜられる(以上『水俣病に対する企業の責任』、水俣病研究会による) というように明らかに企業と国との水俣病かくしの激烈をきわめたのもこの昭和三十四年後半であった。水俣病事件史のなかで、この年は分水嶺となり、以後、松島義一氏(熊本衛生研) ・鹿児島衛試による毛髪水銀検査を例外として、それまで不知火海全域にそそがれていた研究者、調査者の眼は、すべて閉じられたようだ。
 ご承知のように、この同じ時期、同じ過程のなかで、漁民闘争、患者すわりこみ闘争は急速に敗色を深め、漁民には弾圧と要求の約十分の一の和解金、患者にも、同じく要求の約十分の一の金額をもって『見舞金契約』をおしつけ、なお患者か否かを『慎重に、適格性をもって』認定する『認定審査制度』が発足する。昭和三十四年とはまさに”水俣病始末”の年であり、不知火海対岸・離島が半永久的に放棄された記念すべき年でもあったのである。
 以降、中央行政、中央医学界、日本化学工業会に対し、真摯撃に研究実演をもって抗した熊本大学・水俣病研究班も、学士論文や”ノーベル賞めあて”と一部に噂される業績作りに埋没し、チツソ内にあって、猫実験をつづけ、あまたの臨床記録をのこした細川一氏も、大勢には抗し得ず沈黙してゆく。そして昭和三十七年二月、熊大研究班の臨床の中心人物徳臣晴比古氏が研究論文『水俣病の疫学』において『昭和三十五年以降、水俣病は終息した』と医学見解を発表するにおよんで、このテーゼは牢固として生きつづけ、その後、水俣病はすべて後遺症なみのあつかいをうけ、患者百名前後にくくりつけられていくことは前にのべたとおりである。
 川本輝夫氏ら患者が国家責任を問う眼目はこの昭和三十四年の事実にもとづいている。ともあれ、この年まで厚生省、国立公衆衛生院が主導していた疫学的調査がその後、奇妙にも経済企画庁の主管下に移された。なぜ有機水銀中毒事件の実態調査が経済官僚の手にうつされたかは私の論じうるテー マではないが、以後形ばかりの汚染調査は水俣湾とその周辺海区に狭められ、いったん不知火海全域に放たれた眼が水俣の一点に固定されてしまったことは歴史の示すとおりである。

 ”一斉検診の結論”にむかつて

 ふたたび天草・離島に水俣病事件が衝撃的に浮上したのは先にるるのべた松島義一氏所有の『不知火海沿岸住民毛髪検査報告書』が陽の日をみた昭和四十六年五月以降である。この十一年、不知火海の死者たちについて誰もその原因を水俣病にひきつけて考えた人びとはいなかったであろう。それは故松崎ナスさんを語った故松崎重一さんの証言で明らかである。
 さて、問題は、この事態に対し、不知火海対岸・離島の人びとに、どのように失態回復の手が行政によってとられたかである。いま引用のわずらわしさはあっても、いわゆる『一斉検診』なるものに至るまでの、県・国の対応の跡をたどらせていただきたい。
 昭和四十六年五月二十日(『朝日』) 毛髪水銀データの秘匿事実”千五百八十八人中一一〇PPM以上九百五人”(この日からマスミの活動はスタートすることになる)
 同 五月二十七日(『朝日』) 県知事”当面一斉検診の計画はない”
 同 五月ニ十九日 竜岳町町立上天草病院に入院中の二女性に水俣病の疑い。
 (同病院の内科医長江頭洋祐氏ら自発的に動き出す)
 同 五月三十日(『毎日』) 竜岳町町立上天草病院、今後の調査にそなえ”水銀検査技術習得関係費として三百万円を国に要求”
 同 六月二日(『朝日』) ”すでに昭和三十三一年頃、御所浦で水俣病様婦人患者死亡”当時の町立診療所新甫三郎医師語る。
 同 六月八日(『読売』) ”姫戸にも患者か、水俣への運搬船船長ら二名に水俣病のうたがい”
 こうした新事実の波に対し、江頭医師(上天草病院) らのイニシヤティヴにより地元開業医にもよびかけて『天草上島南岸潜在水俣病調査医師団』結成(同年六月四日『毎日』)。
 そして当病院入院中の二女性の検診を水俣病にもっとも経験をつむ熊大原田正純氏に依頼、一方で上島地区の医院に保存されているカルテ一万枚の再点検に入る。これらは県より先行した運動であったようだ。
 同年六月十日(『朝日』) 』 熊本県、ついに一斉検診きめるー不知火海一帯で、”国が調査費に五百万円”厚生省公害部申し入れ”
 こうして、同年秋より一斉検診が始まる。その方法として第一次はアンケートによる記入で健康について本人からの訴えをひろい、それを分析して該当者を検診する(第二次検診)。これは地元医に委嘱しておこない、最後に水俣病の疑いののこる対象者を熊大神経内科等専門医がみる(第三次検診) という三段階のふるい分けがその骨子である。
 問題はその対象範囲だが、第一次アンケート実施は天草上島のばあい、竜岳、御所浦の二町だけであり、これに九州本島の水俣市、津奈木、芦北、田浦の三町の加わった、一市五町であり、その全住民八万五千人中、漁村地区の五万五千七百人への検診計画であった。これには畑作地、山間部の住民は除かれている。
 不知火海全体を意味するかのように世上喧伝された”一斉検診”の中味は『一市五町、五万人対象』と一くくりされ、傍目からは対象地区を弁別しにくくされたが、天草では、『毛髪水銀データ』の発表により、ぬきさしならないまでに耳目の集中した、あの竜岳・御所浦二町が対象となるのみで、下島はもとより、姫戸、倉丘町、栖本はこの計画のスタートのときから外されていたことになる。
 一方、この国・県のいわゆる一斉検診とは別に、学究的調査活動として昭和四十五、六年、熊本大第二次水俣病研究班(班長武内忠男氏) による三地区サンプル調査(水俣多発地区・湯堂、離島ケースとして御所浦・嵐口地区、そしてのちに第三次有明水俣病としてクローズアップされる対象漁家集落、天草有明町・赤崎地区) がおこなわれており、一方、原田正純氏ら自主検診グループによる御所浦・大浦地区、獅子島・湯ノ口地区、それに、民医連系の医師団による出水市桂島、獅子島幣串、御所浦・嵐口での患者発掘作業が、それぞれのペースでおこなわれており、のちに行政上の”一斉検診”の終了した地区から、多数の潜在患者を発見、申請させていくことになる(のちに詳説する) が、これらはあくまで学究者、または在野のボランティア活動または診療活動として行政とは別個の活動であった。
 このような国・県による一斉検診が三カ年がかりでおこなわれているさなかに、水俣病事件史に特筆される出来事があいついだ。
 (1)昭和四十八年三月二十日、水俣病裁判判決が下され、初めてチツソの法的に加害者であることが確定、慰謝料の支払いが義務づけられ、ついで七月、患者のチツソとの三カ月余の直接交渉により医療費と年金の保障へのみちが開かれた。
 (2)同年五月二十一日、熊大第二次水俣病研究班、有明海に『第三有明水俣病』の存在を確認と発表(次にのベる汚染魚パニックによる漁民闘争がおきる)。ひきつづき全国の水銀使用工場附近の漁村から水俣病様患者が続出。とくに大牟田、佐賀、長崎、徳山のケースについての判断を迫られた環境庁は、その訪問機関、水銀汚染調査検討委員会により順次『シロ』裁定とし、熊大第一次研究班の提示した慢性型、不全性水俣病の病像論の討議なく、問題をのこしたまま、いちおう”決着”させられる。
 (3)同年初夏より真夏にかけ、第三有明水俣病を契機に不知火海、有明海での魚は市場での取引を停止され、不知火海区三十漁協は海上封鎖をふくむチッソとの実力闘争に入る(水俣漁協は別途解決) 。二十数日間の実力行使にもかかわらず、その要求額百四十八億円に対し妥結額二十二億八千万円で惨敗( 同年十一月二十日)。のみならず、補償金をめぐる漁協指導者らの背任横領容疑で五幹部起訴され、漁民闘争は決定的ダメージをうけて終息。
 こうした昭和三十四年に次ぐ漁民の敗北に終った一連の激動のなかで、熊本県当局の二斉検診なるものは昭和五十年八月ごろ終ったとされている。そして五万五千人の検診の結果、水俣病と思われるもの百五十八人、要管理者三百九十八人とこみで公表されたが、天草および不知火海の離島で確定した患者はただひとり、竜岳町高戸の大西進さんだけであった。その後徐々に同町から十人の申請者が出されたが、保留処分が多いときく。ほかの町村からの一、二名ずつの申請者は元水俣市居住者ばかりで、地元天草からのそれは皆無に近い。
 泰山鳴動して鼠一匹という言葉があるが、昭和四十六年五月、毛髪デー タ発見で幕が開かれた不知火海汚染と潜在患者の層々とした所在への危惧は、この公的”一斉検診”によって文字どおり一人の認定患者を出すに止まった。この謎のような結末にむけて、私たちは天草にむかつたのである。