書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第四章 水俣は都だったー天草上島でー <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第四章 水俣は都だったー天草上島でー

 不知火海への旅立ち

 昭和五十二年五月十日『不知火海・巡海映画行動』発表から七月末、天草入りまでの約八十日問、水銀柱が上るにつれ、カンパや支援も熱いものになった。そのしめくくりとして、七月二十一日に『不知火海を語る夕べ』を開いた。一人五千円会費のなかみはあらかたカンパである。こうした大人の企画には色川大吉氏が、そのベテラン的手腕を惜しまれなかった。
 石牟礼道子氏の講演、熊大・原田正純氏の医学報告、後藤孝典弁護士の”川本控訴審・公訴棄却判決の意義”が主なプログラムだった。そして当日の日本学士会館ホールは三百人の参会となった。
 原田正純氏のスライドをつかつての不知火海一帯の潜在患者の所在の医学的推論と現在の認定制度の矛盾を指摘されたスピーチは、久しく鳥瞰図的に水俣病状況を聞けなかった東京の支援者だけでなく私たちにたいする実践的な助言でもあった。
 石牟礼さんは不知火海学術調査団と辺境の人びととの遭遇のしかたの劇を解き明しながら、『水俣の浜べの人びと、天草やまして離島の人びとが都からの人びととまじわるということはおそらく生涯に一度か二度、それはキシユとのめぐり合いでした。とくにその海辺に生れ海辺に生を閉じる女のひとたちは、みやこびとが種を落してくれるのを・・・どんな種か存じませんが・・・待っているのです』と、はなしをほぐしながら、『僻地・辺境から立ち去っていった島びとは、なかなかもどることはありませず、”文化”を島にもちかえるということはありませんでした。忘れ去られた土地、おきざりにされた島じまにとって、都からの文化がもちこまれるとき、ひとびとの心はいかに華やぎふるえることでしょう。そのさびしい、しいんとした海辺のひとびとがいかに人の訪れをまちのぞんでいるか。映画をかついでいかれて、お会いになるのはそういう人たちでございましょう・・・。』その”さびしい・ ・・しいんとした“ということばのひびきは石牟礼さん白身が海辺の女に化したようであった。

 七月二十七日、出発スタッフ一同は川崎埠頭にあつまった。奇しくもその日、青林舎・高木プロデューサーは石原慎太郎氏の求めにより環境庁長官室で長官以下四十名の関係官に『医学としての水俣病』『不知火海』の試写会を催していた。政府の映画の学習試写は昭和四十七年七月におこなわれた小山環境庁長官の単独試写以来二回目である。長官らの見るフィルムと同じものを、この日から不知火海の住民に見せるー同じ映画のなかから住民はどのように国の怠慢を学ぶか、興味あることだった。
 車輛三台でたかちほ丸に乗り込む。一台は色川氏のドサ号(フオルクスワーゲン、キヤンピングカー 仕様車) 、もう一台は小池の宣伝車仕様の昭和四十二年製ブルーバード。それに私のホンダ360。前二車には”海辺の映画会”とのブルーの貼り文字が人眼をひく。それぞれに満載の機材と生活具。
 映画会用=のぼり六流、映写機、スクリーン、ござ代りのシー ト六帳、合計十一本の映画プリント。宣伝用ポスター・パネル七枚、一万二千枚のちらし、ハンド・マイク二台、携帯用カセット・ステレオなど。
 調査工作用=各種リーフレット、書籍、『水俣』紙、『不知火』誌、贈呈用日本魚類図鑑ポスター(三井信託銀行) 他、『毛髪水銀デー タ』全コピー、七年分の水俣関係新聞スクラップ、他学習文献十数点。
 生活用具=テント三帳、蒲団、毛布七~八名分、エア・マット五、寝袋四人分、蚊帳、雨具に折畳み机一、同椅子四、他、炊事用品ー電気釜からガスコンロ、携帯用プロパン、氷用冷蔵箱、それにアルミ製食器等三十点、
 これらをつみこむと三台の車に乗員のスペースがやっとであった。

 船中、宮崎焼酎『ひえつき』を二本カラにしながら、五月ごろ、まだ夢のプランであったときからこの日までの事態の異例のスピードとスピリチユアルな展開に、こもごも感慨をこめて謝しあった。
 予備調査で好意的な対応を示してくれた未知の天草の人びと、その点と点を地図につなげながら、ここに身を託すほかはない、あくまで他所者として頼っていく人脈はそこにしかないことを思う。
 石牟札さんの歓送会の挨拶を思いだす。『都の人はいなかに同化しようなんて思わないほうがいいのです。都会のままで・・・ キシユの流離というか、キシユとして、キシユ的宿命として生きて下されば・・・ 』。田舎に同化しようと思うな、これは分った。だがキシユが騎士か、奇種か、ならば”奇種の遊離”なのか、旅の最後までそれが分らなかった。

 最初の上映ー姫戸町牟田部落で

 真夏の不知火海は南島沖縄の原色の風景にもつながっている。空は青く高く、太陽はさえぎるものなく海と緑の島を灼く。魚類・藻類すべてが群然とにぎやかに生きるようである。水俣の対岸天草に車を走らせながら見る不知火海はすごみのある美しさをみせていた。海との生活をあやしむことなくくらしてきた人びとだ。知らないですませることができたら、水俣病の映画など見ないですんで欲しいとすら思う。夏休みで子どもは浜辺に貝をとり、小舟をあやつって遊んでいる。間近い旧盆を前に、島の浦々は他の季節よりひときわ開放的になっていた。
 最初の上映は水俣北方三十キロ地点、姫戸町(人口四千三百九十五人) の北端、やっと海ぞいの自動車幅の切り通しができて町とつながった離れ部落、牟田からはじまった。百五十戸、四百五十人の漁家集落である。昭和四十七年夏の集中豪雨と山くずれで、山すそには巨石がごろごろとあり、それをわきにのけた台地に新築間もない公民館があった。
 私たちの巡海映画は熊本県版の新聞、テレビにとりあげられ、数社が取材にきていた。牟田の人ぴとにはそれだけでも好奇ある事件であったろう。
 演歌調のテープとともに女声の案内が流れるが、車中どこにも女性はのっていない。のぞきこむ女こどもが目にするのはむくつけき男どもばかりである。一之瀬君が声をはりあげる。
 『牟田のみなさん、おはつにおめにかかります。私たちは巡海映画班です。たのしい海のいきものの映画、マンガ映画などととりあわせ、私どもの作りました水俣病の映画をご覧いただくようやってまいりました。本日、よる七時半より、公民館前の広場で映画会をいたします。お子さん、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、皆々さま、おさそいあわせの上、おこし下さい』
 会場に風林火山ふうののぼり旗をたて、カセット・ステレオで演歌をボリューム一杯にあげる。そして、チラシを戸数分だけ、とき、ところを朱ペンで書き入れ、戸別訪問に入ってゆく。なんとか旅芸人の艶と色気をまねた精一ぱいの化粧ではあった。
 予備調査ですでに協力を約していた浦本保隆公民館主事は彼もまたおもしろがっての協力ぶりで、本来、手続きのむつかしい町内各公民館での異例の宿泊許可から各区長への協力趣旨説明の電話連絡をすませていてくれた。『あんたらのやりたいのは辻説法でしょうが。ちがっとりますか・・・親鷲の辻説法・・・ 。わたしゃお助けするよ。』
 十八年前、ここは熊本衛生研の毛髪検査の要請を蹴った町である。そして水銀汚染で魚がうれなくなり、二度の漁民闘争に漁協は船団をひきつれて『チツソ攻め』に加わっていた。
 浦本氏の案内で、公民館を訪れると、たまたま町内部落対抗ソフトボール大会での連敗反省会がたけなわ、すでに呑んべえたちの大声とびかう酒宴となっていた。
 『あんたら、なにが目的で来なさった』と世話役の中年の米屋が皆のききたいところを代って訊く。『映画をみする、そこんとこは分っとたい。じゃが、経済ちゅうか利得ちゅうか。こげんこまかとこに来らしても金にゃならんとばい。女房も子もおらるっとかな。東京から。奥さんば東京において、なに、三カ月とな。いくらあんたのまらが長かちゅうても、ここから東京にはどとかんとばいの』ボクシングのジャブのような小あたりの質問攻めである。『水俣病の映画つてな。あんたらが作りなさったちな。気色の悪か映画じゃろもん。人のくるとじゃろか。』やがて勢ぞろいした大男のスタッフ三人を見て『あんたはよか配下もっとらすのう。あんたらのしとるのをみとれば、熱意は分るなあ、自分のためにするとじゃなかもんな、大の男がこれまでにしとくれやすっち思えば、やっぱりくるとじゃろ・ ・・。あんたが大将な、いくつな。四十八とな。ああ年じゃなあ。口の悪かばってん、出世はそこまでじゃな』となぐさめてくれる。この人にも来意がいくぶんつたわると天草の人のやさしさだけがのこる。商売ものの十五キロの米一袋をカンパし、近くの家に初風呂をしつらえさせ、会のあとは一しょに小銭を勘定し、『一万円つてあるもんかな・・・ 一万六千六十円、ほう・・・ 』などと、みいりのよしあしを案じ顔でみてくれるのだった。天草の人の心根のやさしさを予想はしていたものの、この人びとの底なしの人の好さへの信頼はのちのちまで、私たちの天草での対人関係のベースとなった。

 『もっと水俣病ンところ見せろ』
 
 調査活動の基本動作は各戸へのビラ入れである。区長宅の玄関わきのマイクで区長婦人が『教養を高めるために、ぜひご覧下さい』とおめいて(叫んで) 下されば、二個のスピーカーで全戸に聞えているものの、ビラをもって、上りがまちをまたぎ、家のなかで、ひとびとにビラを手渡し、立ち話を一こと二ことかわすあいだに何かが把めるのである。
 『貧富の差はあまりない』とか『子どもが多いところを見ればあまり出稼ぎは多くなさそう』『寝たきりの老人がいる』などの報告が一時間後には交換されるのだ。
 ここ姫戸町では漁業は天草でここだけといわれるガネ( かに=ずわいがに) の養殖( 一キロ三匹相当千五百円) を特色とし、この八月は水俣沖から群泳してくるといわれるボラ漁が盛りであった。海の汚染については、視覚的にはニ十キロ東方の対岸、八代市のコンビナートや大製紙工業の汚悪水の方が眼前のこととしてあり、水俣はむしろ関心としては引力圏外にあった。『八代の漁民は背広をきとるからなあ、もう漁民の気持はもっとらんと。球磨川からのよごれがひどかで、どもこも。』
 その八代市のコンビナート汚染に加えて、昭和四十七年の大風水害が海岸線を変容させていた。局地的集中豪雨だったが五十三名もの死傷者が出たという。よく震災前と後とか、戦前・戦後というのと同じ意味でここでは大水害の前とあとが分たれていた。山麓の漁家はつぶれ、二戸あたり五百万円前後の特別融資(集団移転特別措置法) による”文化住宅”にかわり、政府の災害救助法と離島振興法により流泥と岩石はそのまま埋立地造成の地ならしにされ、沿岸道路、漁港が拡張された。そのため磯の魚礁はいたるところ漬された。県がその土砂を浚渫し、水俣湾のヘドロ処理の埋立にもっていくという噂が流れ、ここでのヘドロ処理問題はこうした実益とむすびついての話となっていた。
 この二月、助役から無競争選挙で町長となった赤穂万寿雄氏は新町長としてのういういしさと、水俣病についての処女性が重なって、町内に滞在中、ナイーブな理解者に終始した。
 初日、日没におよんで野外のシー トは満席に近かった。幼児(学齢以前) をのぞく大人・子ども百二十五人。実質部落人口四百五十人の三〇パーセント。私たちが平均一割動員とふんでいただけに、好調のすべり出しと読んだ。プログラムは『おそまつくん』『いか(生きものばんざい)』私の処女作『ある機関助士』それに本命の『水俣病ーその20年』全二時間である。子どもたちはよろこんでみていたがやがてあきはじめ、機関車の映画のころは集中力がなくなりとびはねはじめた。都会とちがって、天草には機関車、つまり鉄道がないのである。水俣病の映画がはじまると、前の席は魚市場のまぐろのように何十本と寝ころぶ子どもの体があったが、その後方に大人がじっと水俣病の映画に見入っていたのが救いであった。婦人と老人が主だ。壮年の漁師は夜の漁に出ているものが多かった。『おんなじ熊本になあ・・・』とつぶやくが、やはり対岸の火事といった距離感がここ牟田にはあった。上映後、それでも感謝のまなざしで頭を下げ下げ帰っていく人たちを見送ると、例の男たちはすぐ焼酎をさし出し、ふたたびかまびすしく批判しはじめた。
 『子どもたちにはマンガの一本もやりゃそんでよか。もっと水俣病ンとこ見せろ。『いか』のや『機関車』のってせんちゃよか。テレビではみられんようなのを見すれや。ひとはなんちゅうても水俣病の映画ば見るるちゅう気持ちで来るんじゃけんな。はっきりせろ』と談じこむ。やはり私たちの映画会は”水俣病”の映画会として大ぴらにやれとはっぱをかけているように聞こえた。
 『おんなじ熊本県人がじゃ、あんな苦労しとるとー。わしらも熊本県人じゃが、そこで涙をしぼるような映画をしてくれれば、みんな心から泣くがなあ』ともいう。水俣病は彼岸の悲劇であり、私らの映画にセンチメンタルな激情を求める声もあった。どうしてここで劇映画とドキュメンタリーのちがいを釈明できよう。
 初日、私たちはあまりに多彩な反応に整理のしようもなく、次の部落上映へと移動をはじめることとなった。

 八月の天草の午後は、太陽が万物を焦がすように中天に燃える。東京は雨つづきの夏であったようだが、天草は夕立ちのほかはいつも炎天つづきであった。漁師もだれやみといって、昼の焼酎のたすけをかりて一ときまどろみ、酷暑の真昼をやりすごす。農夫もタ風の立つまで休む。そのときが私たちのいちばん繁忙で肉体労働の集中するときだ。
 朝の食事が終ると荷を車につみ、ひと岬分、バス停一カ所分ほど移動し、什器、夜具を下し、とりあえず簡易水道の水を頭からかぶる。地表にはわせてあるビニール水道管からはいつまでも湯のような水が出てくる。氷をかうには町一カ所の鮮魚商までいかなければならなかった。看板にときとところを書き入れ、スピーカー車で一巡しておめき(叫び)、ビラを入れる。食事担当の西山が魚をしこみ、夕食の下ごしらえをする。人手をわけて、一之瀬と小池は、次の部落、次の町当局への連絡、部落、区ごとの長、世話人へのあいさつまわりと一ときも休むときはなかった。
 そして日没とともに二時間、あいさつと上映、むすびに『ここで泊めていただきますから、ぜひ話しに来て下さい。焼酎はいつもありますから』と誘うのだが、めだつことがきらいな天草人の気質か、映画が終ってついで”懇談会”といった想定にはなりがたかった。みた人のうち一人が、ひとことでも感想を言ってくれれば大満悦といったなぐさめであった。
 野外映写は涼しさがとりえだが、蚊柱ごと襲う薮蚊の群は大敵だった。強力な映写機の電球、レンズをめがけて、襲ってくる。なかにはフィルムにくっついたままベチャンコになった蚊がスクリーン一杯に大うつしになったりする。体じゅうに蚊よけのスプレーをまき、客席に十個近い蚊やり線香をたいての防衛策をとるのだが、無駄に近かった。海からの東風かぜは夏のあいだじゅうつよく、海辺のスクリーンはゆれにゆれる。その固定のために、丸太をくんでのとび職まがいのスクリーン張りも計算になかった労働だった。
 それでも夜十時すぎにめしとおかずができると焼酎で乾盃してその日を総括する。自分たちの作った映画を再点検する必要に迫られる。プログラムとして自信のあった『ある機関助士』は最低ランクに落ち、水俣病映画のどれをどのように組んで見せるかを案ずる。段取りの話が映画論になり、表現論になって眠るのは夜半一時、二時。半裸の体に蚊よけスプレーを吹きつけてまどろむ。朝五時、漁村の時計がわりのめざましサイレンが鳴る。こうしてあっという間に姫戸町四カ所の六日間はすぎた。

 渾身で語る教師がおり・・・

 陸はへだて、海はつなぐという言葉がある。不知火海沿岸をつなぐ自動車道のできるまで、集落と集落のゆききは船であり、その横へのゆききより、むしろ人は対岸の八代・佐敷と海を縦わりにゆききするほうが多かった。とくに姫戸の魚市場は対岸八代市であり、いまもパチンコをしに船で八代にいく。よりにぎやかな町と漁家集落をむすぶ糸が不知火海を何十本とよぎっているようだ。集落ごとに地元漁場に微妙なちがいがあり、漁法も独自性をもって分れていた。
 出稼ぎか地元本位か、その暮し方も、バス停一つほどの距てだが劃然とちがう。それぞれの集落に町議員はいるが、実態は町内会長が各集落に三~四人ずついて、税金の徴収実務をかね、それぞれを独立小国のように差配していた。親族の網の目は細かく、どの一端に触れても他の端にひびくといった生きた共同体を漠然と感知できた。それだけにひとりの観客といえども、その伝播力は底知れず、水俣病への反応のわずかの違いも、その部落の固有の事情を秘めているものに思えた。こうした牛歩のような巡りあるきにとって、不知火海は広く深い未知の大陸のように見えるのである。
 牟田のとなりの永目部落(約百戸、三百人) はかつて運搬船を専らにすることで栄えた村だった。地元の石灰岩を水俣にはこび、水俣からは杭木を北九州、長崎に、そこから石炭をつんでまた一航海といった内海運航の仕事も、昭和三十年代の炭鉱閉鎖とともに衰え、いまは都会に出た血縁をたよっての出稼ぎ、しかも盆・暮だけしか帰らない半移住型で、専業漁家はわずか二戸にすぎない。団地の公園で上映したがいわゆる精薄児様の少女が気になる。
 ここでの動員百三十七人、不在人口をさしひけば実質五〇パーセント動員だ。前日の忠告にしたがい、試みにマンガのほか、長篇『水俣ー患者さんとその世界』の上映をテストしてみる。二時間余の上映に耐えたのは半数だったが、残った人の喰い入り方は倍化した。なかでも数人の女子高校生の鑑賞態度は砂地に水を注ぐようだつた。『もう感激しちゃったわ。ここで映画をみられたなんて』という。私の知人の松島高商の教師角田豊子先生の教え子だった。角田さんはかねがね石牟礼道子さんに私淑し、文学修業中の才媛である。『あん先生、現国(現代国語) で『苦海浄土』をならったとき、水俣の胎児性患者をみてきた話や二時間もして下さって・ ・・。天草の海をあんたらの子どもにどう残すのって泣きながら言われて。みんなも泣いたわ。』ああ天草だと思う。揮身で語る教師像があり、それを素手でうけとめる教え子がいる。

 やはり平穏ではなかったー姫浦で

 姫戸町の役場所在地、姫浦。なんと艶な名の漁村であろう。四百戸、千二百人。一帯の中心らしく、中学校、郵便局、保育所、母子健康センター、そして近年進出したプラスチック船の造船所ヤマハ天草製造所のある町である。水害後に新設した元釜公民館に宿をかりたが、その裏隣が町長宅で、朝食から夜半の風呂まで奥さんの心づかいは親身であった。上映のあと、風呂を上ってビールをご馳走になりながらの話に、『姫戸町は子どもに肝臓の悪か子が多かと思うですね』と夫人は感想がわりにいう。映画のなかの動物実験で、水銀が脳に侵入する以前に、肝臓に強く沈着するシーンが強烈だったようだ。中学生に肝臓が多いかどうかは分らなかったが、ビラ配りで、ここにいわゆる侏儒や精薄の多いのに気づいていた。近親結婚のせいだろうか。
 ふるくから二間戸と並んで網代のあったここ姫浦は漁師色の濃い町である。漁協組合長の発言力はつよい。この町の郵便局につとめる長尾春生氏は全逓組合員であり、牛深生れの他所者だが、郵便の仕事を通じて町の人に通暁していた。『ある七十歳の老人は水俣病らしかと皆でうわさしているが、その兄弟が組合長、むすめむこが鮮魚商で、『水俣病のなんのっち言わずに死んでもらう』と寝たきり老人の世話をしている』などと町の影の部分を知らせてくれた。
 町長夫人はかなりな気づかいをかくしていたようだ。取材に同行の『週刊朝日』記者、大熊一夫氏に『漁協の反撥を考えると映画会をどう扱ってよいもんか戸惑いました。町でも海がよごれるって、洗剤やビニールを流さんようにしようとか、食品公害のことはやりましたが、水俣病のっちは人は誰もいいませんもんね。けれど命あつてのことですもんっち思って上映に協力する気になりました。あんたらが帰ったあと、何かのあおりはきっとありますばいと思うとります。』
 これをうけるように公民館主事、浦本氏もいう。彼は地元の庄屋の出で、釣人用の町内随一の旅館の当主でもある。『わたしの旅館も第三有明水俣病のころ、マスコミにさわがれて、旅館に客足がばったり。『きれいな海をとり一戻そう』とは大乗的にはいえても、小乗的にはいいきらん。わしが映画に協力するにしても、『おまえは人生意気に感ずるでいいかも知れんが、何千人ものこの町にすんで海でめしくっとる人間の生活の土台はどうなる』といわれればどうもこうもならん池に小石をなげただけってあんた方はいわるるかも知れん。しかし池のなかのわしらは、たて前と本音と分けきらん人間じゃが。石を身をふたつにしてよけるわけにゃいかんもんなあ。』
 やはり平穏ではなかった。町の内実は映画会のために予期以上の波紋を生んでいたのだ。答えには窮するほかなかった。もうひとつの答え方として、この町で入念に二日にわたって映画会をすることにした。多くの人に水俣病の実相を知ってもらうことで、この人らの孤立感を外延から支えるほかなにができるだろう。
 二日間に二回の一般上映と町役場での職員むけ上映、町長夫妻、婦人会、老人会幹部に『不知火海』を特別上映した。延べ四回、三百五十八名が集まった。
 そのとなりの、合併以前は独立した旧村であった二間戸(二百戸、六百人) では、海ぞいに走る口コミのためか、百五十人収容できる公民館に倍以上の三百二十人が殺到し、急拠、会場を野外にうつすなど、村あげての夏祭りのようなにぎわいを見せた。浦本氏も喜色を満面にうかべて会場整理に汗だくであった。

 水俣病”棄却”がもたらしたもの

 この二間戸の上映会で、終了後、物言いたげに近づいてきた初老の婦人にであった。かたわらを気にしつつ、早口で、その夫の”水俣病”を訴えられた。彼女としては申請して、専門のお医者さんに治療してほしいが、息子と嫁が頑として許さないという。せききったような語り口の下から焼酎のにおいがぷんとにおった。切ない思いを酒の助けで吐き出すようであった。家の夫に話をしにきてくれというのだ。
 姫戸港につき出た丸山の岬は海面すれすれまで石灰岩がけずりとられ、美しい町のなかでもっとも風致を害された一角である。明治四十三年以降、チッソ工場のカーバイトの製造原料としての石灰は天草各地や八代湾大築島からのそれに依存してきた。ここ姫戸からそのための運搬船は昭和四十年代半ばまで賑いをきわめたようだ。また水俣からはその山間部から堅牢な杭木が積み出され、往復ともに稼ぐことができた。妻子と水上生活をしながら、不知火海から九州各地へ荷とともに漂流し、港を碇泊地とした一群の人びとがいた。その世帯数、船舶の数は定かではないが、いまからは想像もできない繁昌だったという。
 大水害後の埋立地の新居にすむ堀江充松さん(六十二歳) は、妻しずのさん(六十歳) とともにいまは息子の世話になっている。姫戸町で最初に水俣病と名乗ったことで批難の的となったためか、私にはじめて会ったその眼はきつかった。妻の軽挙妄動をとがめる気配で、しずのさんはおろおろと身のおき場のない風情であったが、さいわい嫁は子どもを保育所にひきとりに出ていて不在だった。『いっそ水俣病じやったら、まだよかったんですよ。それが”棄却”じゃちゅうところで、騒ぎばなんで起こさんならんとか、ちゅうことになって・・・ 』(堀江しずの)
 聞けば、昭和四十六年六月、あの毛髪水銀データ発見につづく新聞、テレビの潜在患者探しのなかで、町のうわさから読売新聞の記者が彼をみつけ、水俣市立病院に診察をうけるようにすすめられ、近所の堀江要八(故人) さんとともに、入院のうえ検査された。 ・・・このところまでを新聞は特集的に報道した。二日間の検査のうえ、二人とも結局、病名不詳のまま、水俣病ではないと、本人の信ずるところによれば、”棄却”されて帰ってきた。病院にいくがいくまで、自分の体の変調と不自由は水俣病以外考えられなかったので”棄却”されるとは思わなかったし、その後の批難になんの心の準備もなかった。しずのさんの実兄が姫戸漁協の組合長であったことから、苦情は人一倍身にこたえたという。
 『わしゃ昭和二十二年十月から四十二年三月まで二十年も水俣通いしとっとです。六十トンの運搬船、太かやつでした。荷(杭木) のあつまるまで一週間でも長いときは二十日も、百間港の田中製材所のある岸壁に船をつないで暮しよっとでした。船の上でめしをたいて。海の水でお米ばといで、それで炊いて。海のうわつらはギタキタしたもんや油が浮いとりましたので、さっとすくって澄んだところでめしばたいてたべよりました。魚は舷におる。釣ってたべる。女房は小さな伝馬舟を下して、しょっちゅう恋路島(最汚染の無人の小島) にいって、カキうって、ビナとって、おかずにもってきよった。わしの水俣におるころ、水俣病の騒ぎになりましたでしょうが。魚をくって水俣病になるといいよりましたなあ。そんころ、わしゃまだ元気じゃった。『病人になるちゅうなら、わしが一番まっさきじゃ。なんの、魚で水俣病になるもんかな』ちゅうとりました。そいで百間の床屋(尾上光雄氏) が水俣病じゃって聞いたとき、うそじゃと思った。わしがこれだけ百間の港に入りびたっておってなんでもなかもんに、どげんして夜ぶり(夜釣) して魚喰ったくらいで病気になるかなと半信半疑じゃった。』
 これは床屋の尾上氏の発病年月日から推定すれば昭和三十一年十月前後である。その後、正式の漁獲禁止も衆知徹底もなく、まして運搬船稼業であれば三十四年の”漁民騒動”とも縁がなかったであろう。『魚がおるし、浮かっとったもんで、たべた』という。その堀江さんにしびれが出てきたのが昭和三十六年、四十八歳のときという。次に腰痛と足のけいれん(俗にいうからすまがり) がおこり、高血圧(二百二十) が重なるようになった。地元の竹中医院でも病名は分らなかった。だが自分の思いあたることとして水俣湾での二十年の生活から水俣病以外考えられなかった。そこへ読売の記者が来て、水俣の市立病院というヒントを得て、もう一人、同じような具合の要八どんとつれ立って、病名をきめてもらおうと思ったというのだ。
 ちなみにこの時期、裁判も判決に至っておらず、補償金など夢にも知ることのなかった時期である。『年とるごつひどうなって、毎晩、なんべんとなくけいれんして、それが五分、十分と長うなって寝つかれんごつある。』電気バイブレーターを身辺から離さないでいた。
 
 天草の海辺の人びとを、その現職で漁り人とわかつことはむつかしい運搬船の船長も、天草二関戸網代の漁家にうまれた生粋の漁民であり、水俣に停留しているときも、日常することは漁であったろうし、妻も漁家の娘として育ち、無塩の魚や貝をとるのは天職であったろう。恋路島、水俣湾での生活は、最汚染の月ノ浦漁民と寸分違わぬ濃厚汚染の経過である。堀江さんは『なんの、人がなんといおうと、わしの暮しを知っとるものは、誰でもほんとうは、わしが水俣病っちことは知っとらすとですよ。』
 昭和四十六年ごろの水俣市立病院で、誰が堀江氏の診断にあたったかは、ほぼ、氏の語る記憶で推察はつく。水俣の患者たちに話せば即座に、その医師に”あたった”不運を告げられただろう。当時、のちに認定された多くの患者が、堀江氏同様、水俣病とだけは診断されずに来た。だから、最近の運動の力でかりにほかの病名の診断書でも、『水俣病のうたがい』として申請できるルー ルをこの経過から作り出していたのだ。
 問題は水俣市立病院の診断で”棄却”され万事休すと本人が誤解している点である。もしこの時点、水俣病患者の組織に相談するようとりはからわれていたら(新聞記者はその点、どう処置したろうか)他の病名の診断書でも、水俣病の申請ができ、認定、棄却のいずれも、審査会の専門的検診をうけ、審査によって、法的な拘束力をもつ認定審査委員会の結論が出される手順を知ることができただろう。
 しかしこれは天草のこの圧倒的情報不足の地で孤立している人のもともと思いつけることではない。『水俣ですら”水俣病”と診断書に書いてくれる先生はめったにいませんでした』と初歩の知識をつたえ、水俣病センター相思杜の資料『申請の手引き』を渡すと、彼は呆気にとられ、ようやく納得するとともに、長くだまされつづけてきた苦渋が顔いっぱいにひろがった。
 もはや遅きにすぎたであろう。いったん地元に知れわたった『水俣病じゃなかったそうだ』といううわさをうちけす余力は残っていないようだつた。六年間の空白はそのまま既成事実としての”棄却”を強いたであろう。
 『わしゃ息子にも信用をなくしとりますでなあ、水俣病のことじゃ。もういちど、申請してみる、かくかくじゃでやりなおすちゅうことの理屈は作りきりません。どうもこうもひどうなって、ぜんぜん動けんごつなれば、また考えることもあるかも知れんばってん、いまは辛抱せにやしようなかと思うですたいなあ。』
 彼は人格的にも首の根をへし折られているようだつた。
 
 『天草は奄美や沖縄とおなじよ』

 不知火海を南北についてみると、瓢箪形にくぴれ、南は外洋の影響をうける海域、北は球磨川からの淡水の混じったあま汐の海域と分けられ、プランクトンの種類も北は内湾型の類が多く、南はオイトナ・シミリスが多いなどはっきり区別がみられるという(熊本大理学部教授、弘田礼一郎氏) 。そのくびれの部分に竜岳町樋島がある。かつて島であったが、二年まえ、高戸との瀬戸に樋島大橋が架けられ孤島性から脱した水俣沖からの潮流は樋島南岸につきあたる。そのため下樋川の海辺は流木、ゴミ、流れ藻、それにプラスチック廃棄物がうず高く打ち寄せられている。
 小池、一之瀬の予備調査によれば、竜岳町は
 『人口 男三千四百三十人、女三千七百十二人、計七千百四十二人(千九百二十一世帯)
 漁家人口 六百三十人(就業人口二千九百六十二人中一二・一パーセントにおよぶ)
 医療施設①総合病院 上天草病院(百五十八床)
 ②個人病院三(七床)
 『毛髪水銀データ』あり(ただし計八十七例)。うち最高一六七PPMを含め五〇PPM以上五人、水俣病申請者計十人』である。
 天草上島で唯一『毛髪水銀デー タ』が残っているにせよ八十七例は当時の人口八千五百人のわずか一パーセントにすぎない。私たちが今回調べたところ、四〇PPM 以上の被爆者は八名にのぼった。(その消息をたずねたがうち四名死亡) 八名とは全検体の一〇 パーセントにおよぶ。もし全町民人口に敷桁すれば八百人に該当しよう。

 キリシタンによる島原の乱以降、徳川家光の命により直轄天領となった天草。その総代官鈴木重成はこの竜岳町を砥岐組の属領、上砥岐とし、寛永十八年(一六四一年) 以降、二百三一十年間、鎖国日本のなかのまた鎖たれた地域を形成してきた。慢性水不足のうえ急斜面の地形で農業は微々たるものにすぎず、勢い漁業を主にして生きのびてきた地である。
 八月七日、竜岳町に入るころ、旧盆が近づいていた。”天草の五反百姓”といわれる段々畠では早生種『天領』がはやばやと刈入れの時期をむかえていた。九月には脱穀をおえ、秋口から他国に出稼ぎにいくのにみあって育生された早場米という。真夏のなかに黄金色の秋があった。
 昭和二十九年、旧村高戸、樋島、大道が合併して竜岳町(昭和三十四年町政) となったが、旧三村漁協は合併を好まず、以来十年余、割拠し、昭和四十五年、いったん合併したが、近年樋島漁協がふたたび独立していた。漁民の動向は町よりも各旧村の共同体の利害としていまも生きている。
 高戸とその向い側、樋島の州崎には小型造船業や商業がみられるが、あとは漁業にのみ生きる集落が多く、昭和三十四年の不知火海漁民闘争の天草の主力軍勢はここの人びとであった。そして樋島の桑原勝記、大道の宮川秀義両氏の逮捕、さらに桑原氏の下獄という犠牲を生んだ。
 桑原氏のすむ樋島の下桶川部落(百六十三戸、八百五人) は天草のなかではひときわめだつ九五パーセント漁業者という純漁村である。ここにはおそらく百人単位の水俣病の伏在を予想させた。たまたま八十七例の毛髪水銀データが再発掘されたことで水俣病問題の焦点の町となり、天草で離島、御所浦町とともに、一斉検診をおこなわざるを得なかった経過があっただけに、水俣病問題についてはかなり屈折した意見を関係者から聞くのであった。そのなかで強く感じられたのは天草にとっての肥後、対岸熊本、八代、水俣との歴史的社会的断層の意識であった。
 『天草もんは熊本の人間には心をすっかりぜんぶは開かんとですけ天草は奄美や沖縄とおんなじですよ、根っこのところでは。長いあいだ代官支配だったでしょうが・・・』と竜岳に入るにあたって、姫戸町役場の浦本氏は、今後予想される抵抗感に彼の注釈をつけて見送ってくれた。姫戸できかれた『同じ熊本県人じゃで』という県人意識はたてまえのものであると言いたいらしかった。
 傑出した町の年表を載せている『竜岳町勢要覧』によれば、代官の宗門改め、鉄砲改めおよび年貢米は旧三村で三百二石九斗八升と過重な貢租を課せられ、そのうえ宗門改めが幕末までつづけられ、明治五年にしてようやく郡内踏絵廃止令が出されたとある。キリシタンの乱以後二百三十年、幕府の天領天草は叛乱の民として監視され、収奪されつづけてきた。
 熊本県人として、僻地医療十数年の”よそもの”竜岳町立病院長岡崎禮治氏は『天草は先祖代々キリシタン戦争で日本民族に一度は亡ぼされ制圧されてきた土地でしょう。ここは細川藩の直轄地でなく幕府の天領だったところ。戦争のときまっさきに矢面に立たされて死んでいったのもこのあたりの人たちなんです。出稼ぎの島、からゆきさんの島、日本の底辺に生きのびてきた人たちなんです、もともとここの人たちは。お上のなさることは何もかも疑いの目でじっと見るところです、水俣病でいちばんいためつけられ、漁業で痛いめにあったのもここの人たちじゃないですか。その人たちは名乗って出てはこんですよ』と土地の人の心を読んでいた。
 前町長であり、竜岳漁協組合長、辻本市之助氏は病も軽くなって会ってくれたが、すでに上映地点の漁民の声をあつめて、私たちの映画会に意見をもっていた。
 『あんたらのやり方はキレイすぎて、文句もいいならんが・・・』と前おきして、町長の自分ですら申請をすすめても頑としてはねつける漁民の村で、いかに『海辺の映画会』などとまぎらわしいもってきかたをしても、水俣病の映画会だと分っていれば誰が進んで協力できるものか、自分も不本意だとのベ『天草の漁師かたぎからいえば腕一本で魚をとる。人をだましてもいい漁場でいい水揚げをあげる。それを誇りともたよりともして生きてきたんですよ。公のお上からのおめぐみや、水俣病で金や思恵をうける気はない。まして、”告発”のなんのって、徒党をくむのはまっぴらです。あんたもその系統ではないでかな。』
 こう問うときの彼は、異質のちん入者として私を問責するまなざしであった。それでいて、雷雨もよいの空を案じ、中学校体育館で泊るつもりの私たちに、邸内の離れにとすすめ、その夜、上映会に訪れた夫人に寸志の金品をつつます心づかいを忘れないのである。

 水俣エゴイズムへの深い不信

 水俣はなんといっても都だった。チッソ会社あってのそのぬきんでた繁栄をまぶしくその彼岸に見つめていた天草もんの残影のなかで”いまになって騒ぐ水俣もん“をみるとき、とくに水俣漁協の身勝手なこの二十年余の言動を回想するとき、彼らに対する憎しみはチツソ憎しよりはるかに語気がつよまるのである。
 『昭和三十四年の騒動あとの交渉で、わしらがやっと一億受けとったとき(要求額十億円) 『これは不知火海漁協の衆の分で、水俣病漁協とは別だ』と寺本知事がわしらに語ってきかせた・ ・・。』当時天草漁民を背負って立った桑原勝記樋島漁協組合長の回想である。『・ ・・ところが水俣漁協の組合長のMが熊本県漁連の会議室にきて、テーブルの上に土足をのせて『水俣にいくらか回せ、水俣が被害の本家ぞ』というた。わしやおどしにやのらんじゃった。『水俣の市長ばよんでこい。おまえらはとうに他の漁協に知られんように手打ちして、金ばもろうとるじゃないか』といって追いかえした。ほんに水俣漁協はきたない。補償補償でくいつなぐ衆じゃ。会社あつての漁民じゃもんな、職工といっちょも変らんです。』ちなみに桑原氏は体をはつての喧嘩では誰もかなわない巨漢である。
 たしかに昭和三十年代前半の漁民闘争は、水俣漁協の単独妥結というチッソの仕掛けた分裂の歴史につづられている。同じ被害者としても都水俣の特別扱いを不知火海漁民に無理じいしたと桑原氏らはにがい思いを反努する。
 この相互不信のパターンは昭和四十八年の第三有明水俣病パニックによってひきおこされた第二次漁民闘争のときにも再現した。不知火海三十漁協の統一交渉に先立ち、水俣漁協百四十七人は一人平均二百七十二万円、総額四億円で単独妥結をし、そのチッソとの協定文書にわざわざ『水俣漁協は今後も、補償未解決の不知火海三十漁協とは行動をともにしない』との一項を付したものをのんだ(昭和四十八・七・十六『朝日』)。一方、ずるずる解決をひきのばされ苦境に立たされた不知火海三十漁協(五千人) のそれは一人平均四十五万円余(水俣漁協のそれの六分の一)総額で二十二億八千万円にしか達しなかった。問題はその額の差異より、漁民同士をへだてる両岸の人びとの心の断層がより開いたことだろう。事実、二十年余二期にわたる対チッソ漁民闘争を通じて、水俣漁協はついに二度の共同闘争もしなかったのである。

 こうした歴史的経過から、漁民根性の点で天草の漁協幹部が水俣もん、とくに水俣漁協の幹部たちを評価するとき、どうしようもない水俣エゴイズムと、それへの不信感を抱くのである。これを健康被害としての水俣病を考えるばあいにも、たとえ病気が伏在しようと、水俣もんとひきかえ天草もんの患者への処遇はひとつちがうだろうという疑い、その逆差別の意識が根づよくあると思える。その損得から見れば『水俣病』と名乗ることにどんな救いがあろう。漁業全体を損うより、水俣病をかくして死んでくれと暗に納得ずくの天草人の世界がありはしないか。キリシタンの踏絵の歴史以来つちかわれ、いまも水俣病とオーバーラップしているかに言われる『かくれてめだたず』の精神構造の把握からだけでは、今の水俣と水俣病へのいかんともしがたい異和感と拒否性を解くことはむつかしいものに思えた。これを企業、行政の分裂支配の面だけでとらえるのはやさしい。しかしもう一つある不知火海の漁民・被害民・住民の人為的差別の動因として直視すべきではないだろうか。

 『おるもおまえも水俣病たい』ー下桶川で

 全旅程の十分の一を消化したころ、私たちはほぼ連日の移動のなかにも、いくらか余裕をつくりだし、四囲の風景にも眼くばりができるようになった。竜岳町でも公民館やお寺に宿泊でき、テントやキヤンピング・カーでの宿営はしないですんだ。もっとも区の公民館(青年クラブ、老人の家) では、雨戸をあけ、風を通してから酒のカラビン整理、トイレのふき掃除と、一宿一飯の恩恵にこたえて清掃につとめた。『おれたちの泊るところはきれいになるってほめてもらいたい』などといいながら、見まわすと、かつての青年団行事の記念写真が昭和三十年代から四十年代の青年団の内容をものがたつて壁にかかっている。近年、これらの青年は部落から出ていって、これらクラブの主がいなくなり、ほとんど、葬式のしたく、まつりの準備の場所としてしか使われていないことが分る。
 だが旧盆が近づくにつれ、都会風の帰省客がめだってきた。名古屋、大阪、北九州ナンバーの自家用車に土産物と子どもを満載してさっそうと実家に帰りつくもの。便船で両手に大きな紙袋をいくつもさげて埠頭に降りたつもの。彼らを待つ家では、衣服の虫干しがはじまり、煮物の匂いがこもり、魚の都合をつける才覚などで老母たちははなやぐ。天草はいっせいににぎわいだした。
 野外上映用にあてにした学校の校庭や神社の境内、部落の中心などは、ソフトボール大会、盆おどり、相撲大会などの会場にしつらえられ、私たちの映画会のスペースはとれなくなった。陽気でご祝儀気分のお盆に、水俣病映画はお化け映画大会のように”おそろしか”もので、こちらとて気がひけ、その二、三日間、部落のお盆につれそいたかった。

 下桶川(百六十三戸、八百五人) 、ここは樋島の先端、不知火海の瓢箪のくびれにある。船と棲家、網干場と道の区別がない。カスバのように入りくんだ迷路にお互いの生活空間があけっぱなしに面つきあわせている。亜熱帯の港のように、裸の男たちが潤歩し、子どもは自由に群れて、一部落は一家庭のようにつながっていた。
 青年たちは、平常、沖縄列島あたりまで七隻の大型漁船(十九トン) で出漁し、めったに部落には帰らない。水俣病事件ののち、県・国の漁業転換計画に応じて、外洋漁業をとり入れて、ここは天草でも異色の漁業構造改善を試みていた。その五十人の青年の半分ほどがお盆に帰省していた。
 つね日ごろより開放的になった雰囲気のなかで、青年研修所という名の元若衆宿風の家に寝とまりを許されたが、青年たちは、留守宅に入りこんだ私らよそものに決してとけこもうとはしなかった。『水俣病になれば嫁はこん』と信じているようだつた。だがひまをみては”水俣病”と人びとのうわさにのぼる家々を訪問した。
 ここで昭和四十年前後の数年間に故人になった人たちは『中風』『神経痛』とは思えぬ苦しみ方で死んだようだ。組合長の桑原氏は『おそらくみんな水俣病だったでしょ、わしのおやじにしてからそうじゃったろ』と、こともなげだ。町会議長や漁師の最高幹部としての生活二十年の氏に『毛髪水銀デー タ』を見せると、意外にも氏にして初めてだった。眼で人名とPPMを照合しながら、『いやあ、ようでとるなあ、これは。PPMの高か人は、みんな魚つ喰いじゃった。こんなものがあったすか』とあかずながめ、『まあ、水俣病にかかったとしても、本人、家族があげんまでいやがれば、出すわけにはいかんでな。しかしみんな知っとります。誰がちっと水銀らしか・・・、はですな。』
 訪れる家で、ふすまひとつへだてて寝たきりの老父に会わせようとはついにしなかったが、ご本人自身舌のもつれている中年漁夫野口さん自身、この二、三年、五十五歳の若さで脊椎が曲り、心臓を病み高血圧が重なって体重が二十キロもへって廃人一歩手前であった。
 五歳から舟にのった生粋の漁民である。『チダイののべなわでは相当のもんじゃった』そうだ。そのエサのエビは百間港でとり、はえなわ釣りは水俣の港のまわり、恋路島のすぐ沖だったという。とれた魚はそのまま水俣の丸島市場に上げた。『わしのような”水俣がよい”の漁師なら水俣病にはとうになっとるはずたい』というが、彼は、けいれんし、もがき狂って果てる急性劇性の水俣病患者像しか頭に思い浮べられないようであった。口もとのねばり口(ゆっくりとした幼児語のような発音) も前歯を抜いてしもたからという。すべてを水俣病をうちけす方向で語るのだ。
 毛髪水銀データ中四〇PPMの八人のうちのひとりは、ここでも釣上手のひとりだったが、凪の日、舟べりから落ち、舟底にへばりつくようにして死んでいたという。舟を手足のようにたくみにあやつる漁師には考えられない最後である。これも『水俣病じゃったろうもん』として事々しいはなしにはならなかった。

 宿にはいつも子どもが私たちに意地わるするのをたのしみに入りびたっていた。それが遊び方なのだろう。それにまじって、陽気で大声のよたよた歩きの中風らしい老人がいる。子どものつけているあだなはそのものずばり”水俣病”である。この”水俣病”の山中吾市さん(七十二歳) のチヌつり仲間だった安井福吉さんは『おるもおまえも水俣病たい』と体のきかんことを慰めあい、どっちがひどかか競い、冗談のいいっこをしているうちに去年死んだと、私たちを笑わせる。そのうちに、突然うしろにのけぞり、したたかに後頭部を床にうちつけ、全身性けいれんを起して床をうちならしだした。眼をむいて棒立ちになり、うろうろするばかりの私たちに詫びながら、部落の人たちは頭を低く保ちいかにも慣れたかつぎ方で老人を家に運んでいくのだった。
 こうした老人たちの体躯は、豊かな不知火海に生まれ、海の魚や藻で育ったせいか本来すこやかで骨太、しかも長身である。この巨木倒るる光景は原色の漁村のなかで残酷にすぎた。
 四十九年三月に夫を亡くした白浜チヨさん(七十三歳) も淡々と十年間もがき苦しんだ夫のことを語っ。あっちこっちの医者にいき、おまじないまでしてもらったがむだだったという。その彼女も手をさすりつ放しで、しびれているという。『老眼ちゅうんじゃなく、物が三つにも四つにも見えて、男か女かちっとも分らんとです』という。『こん家ももう寿命ばってん、水俣病にかかって家のつくれば、ここじゃうるさかでな。うちん息子がやかましかです。』その話の小一時間ほどのあいだ、出稼ぎの息子夫婦といっしょに帰っている孫(中学二年) がききわけもなく奇声をあげ、物をなげ、二歳児のように家中せましとあばれていた。この下桶川生まれである。難聴で神経がおかしく、北九州の脳神経病院に半強制的に収容されたこともあるという。胎児性水俣病の疑いははたしてないであろうか。”天草・御所浦に胎児性患者は出ていない“と、たとえ天草が汚染されているにせよ水俣とは格段に稀薄な人体被害だとする例によくひきあいに出されるのがこの言葉だ。はたしてそうだろうか。

 竜岳町長にはじめてあいさつに伺ったとき、町長はつとめて磊落に応接してくれた。現町長田中弥太郎氏はつい四カ月前の町長選挙で助役の座から出馬、対立候補の前町長・辻本市之助氏と、町を二分する過熱した”政治闘争”の末、辻本氏をやぶって町長にのぼりつめた。スローガンは”あけっぴろげの明るい町政”である。『そう、この町内からひとりの申請者も出すなって時期はたしかにありましたなあ。昭和三十四年ごろのひとときはですね。つい最近(昭和四十八年) も漁民は魚が、つれなくなるから、ぜったい水俣病を出すなっていうものもたしかにおりました。わしやそれ(魚) はそれ、これ(水俣病)はこれとオープンにいまはやっています』と屈託なげである。
 水銀データの原本はおもちかとの質問に『あれは見たな、いまどこいつたっけな』と記憶をたぐる。目下出ている十名の申請者のリストを拝見した。そこに一斉検診で最後まで残り三カ年にわたり順次申請した患者名が記載されていた。明治・大正生まれの患者にまじって最下段にもっとも遅れて申請したM・H嬢(樋島・州崎) は昭和三十一年十月生れ、まさしく水俣での胎児性患者の続発期と一致する。『胎児性は不知火海を越えていた』のだ。予備調査報告『竜岳町における水俣病の爆心地のイメージとして樋島はある』(小池、二之瀬) とした確度は一歩さらに高いものとなった。
 
 樋島・下桶川では二日連続上映することにしたが、ともにしんみりしたあと味の良い映画会となった。夫を亡くしたチヨさんは二晩とも来て、身をのり出して急性期の患者の登場シーンをみていた。「うちん人といっちょう変りませんじゃった。やっぱ水銀じゃったと思うたなあ、あればみれば。あんた衆はよか映画ばもっとりなさる」と霧のはれたあとのような顔になって頭を下げるのだった。

 離島・樋島に生きる『不知火の相撲』

 不知火海のなかの砂たる小島のはずれ部落にも百年祭をむかえた不動神社がまつられていた。それがお盆と重なって、例年より盛大な相撲大会をやろうと、帰省の若者たちは、新埋立地での土俵づくりにいそしんでいた。ここには若衆宿の指陣系統が生きているのか、見ていても小気味いいほど、きびきびした労役がまとまりよく運ばれていた。
 折しも、夏期合宿で水俣滞在中の不知火海学術調査団の一行が下調査と陣中見舞をかねて訪ねられた。鶴見和子さん、綿貫礼子さん、羽賀しげ子さんに加わり、石牟礼道子さんにさきにふれた松島高商の角田豊子さん。これにアメリカ人マイクを加え、色川さんや民俗学の桜井徳太郎さん、日高六郎さんら総勢十一名。異色の人たちの訪村である。みんなも、この原色の漁家集落がいたく気をひいたようだ。『ここには二十年前の水俣がある。』
 ご婦人たちは魚を求めさしみごしらえで、上映後の大盤ぶるまいの夜を準備してくれるのだった。おそらくここ下桶川は、不知火海の漁家集落の一典型として今後調査の対象となるであろうなど、夜のふけるまで話がつ手ついた。

 八月十二日、全部落あげての相撲大会の目、若衆の作った盛り土の土俵と四本柱、丸太ぐみの桟敷と漁具の大ビニールで作った天蓋は全部落の人びとと客人を収容する広さと頑丈さをもっていた。闘いあう裸の男たちに老若男女の声援が休みない。正面桟敷に、むかし海軍相撲五段、東京本場所でも実力関脇とうたわれ、搭乗していた軍艦霧島の一字をとって『霧ケ里』のしこ名をもつ巨漢桑原組合長が総帥、その両側に年寄衆、それに連らなって近郷の”親方衆”が客人となっている。入口では受付が『ご寄進なん万円なりい』と大声をはり上げ、途切れることなくつづく。一場所百万円以上のご祝儀という。
 幕あい、神に奉納の赤ん坊の『泣き相撲』がおこなわれた。その一年間にうまれた男子に厚手のふんどしと向う鉢巻をしめさせ、土俵の砂に十何人ところがし、その泣き声を競わせる男の子にとっての氏子入りの儀式であった。
 東西の乱取り勝ち抜き合戦が昂奮のるつぼのさなかに始まる。鍛えぬいた中年世代が、力より技で青年を転がすと、婆さまどもから狂ったような拍手がわき、どよめく。ときに実の父と息子の対戦になると声援は最高潮に達する。粘りに粘る四つ相撲のうち、まわしがゆるもうものなら、女どもの矯声は言いたい放題になる。こうした豪快なエロスが湯気のようにたちのぼるのだ。
 かつて水俣の八幡神社が相撲の名場所だったという。伝えられる不知火海の相撲はこの離島樋島に原型のまま生きつづけていた。