書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 終章 新たな課題を重く背に <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 終章 新たな課題を重く背に

 上映運動への反響
 
 昭和五十二年十二月二日、帰京してほどなく私たちは、友人倉岡明子氏の好意で、氏の差配するアテネ・フランセ文化センターで報告集会をもち、二百人ちかい参会者を得た。
 だがこの四カ月の見聞が有効にある作業力をもつにはどうしたらよいか、その銃口を施政者にむけたくも、まぼろしを撃つようで頼りなく、心あせるものを感じていた。すでに水俣から最終の現地アッピールを友人・知己の諸氏には送っていた。
 『前略、当地水俣も十一月半ば、温州ミカンの収穫の候、ときに膚寒むの日々となりました。この間、歩いた漁家集落、百三十三地点、六十五カ所、予定個所はひとつ残さず上映、のベ七十六回『海辺の映画会』を開き、計八千四百六十一人に観ていただきました。
 住民たちが、ある感慨をこめて『これからは島の流れも変るばい』と話しあう声をきき、私たちはその疲れをいやすことができました。私が水俣にこころ虜われて十二年、現青林舎(旧東プロ) に拠って八年、その間十数本の水俣病映画を発表しつづけてきましたが、その作り手たるものの手でしか、今日、この不知火海の漁家集落に映画を持ち込めなかった状況こそ、水俣病の社会病たる証左でしょう。そのことをわきまえての映画巡礼でした。
 にもせよ、歩き終って心せくのは、国による汚染実態総合調査を、どのような経路で、彼らにその実施を迫るべきかです。(中略)
 なんと不知火海は広かったことか。
 なんと汚染された僻地・離島の漁家集落への道のりが遠く感じられたことか。水俣病情報未到の地、それはいつに行政者、県・国の作為による情報の遮断、その防潮堤ゆえであり、水俣とその眼前の島々とのあいだで操作された、人為的時差によるものでした。』
 こうした想いをスライド上映に託して、ぶちまけるのが精一杯だった。そして別表のように会計報告し、キャンペーンの一旦終了をのベた。
 (なお、東京および全国の支援のほか、この機会に現地に合流された方々、次のとおり。〈順不同、敬称略〉)
 〔不知火海総合学術調査団〕色川大吉、日高六郎、鶴見和子、綿貫礼子、桜井徳太郎、宇佐美承、谷川孝一、羽賀しげ子。
 〔個人〕秋山衿一、西山えつ子、井田ひろ子、大石裕子、土本亜理子、小林真理子、富山妙子、伊藤惣一(以上東京より)
 〔水俣〕石牟礼道子、角田豊子、塩田武史、砂田明、鬼塚巌とそのご子息、山上徹二郎、藤本寿子、吉永利夫、島崎敦子。(医療) 浴野成生、堀田静穂、柳田耕一、花田俊雄、近沢一充。
 〔報道〕大熊一夫(『週刊朝日』)、塩田武史(『アサヒカメラ』)、田沢健次郎・勝山カメラマン(『科学朝日』) 、宮本成美(『社会新報』)、田上猛(『毎日』)、福家康宣(『朝日』鹿児島支局)、福山満雄(『南日本新聞』) 、末広善行(『熊日』論説委員)、野村正明・宮崎泰明(NHK九州本部) 。
 (関連キャンペーン)
 〇十月八日、熊本市民センター『海辺の映画会』と報告(三百名)
 〇十一月十二~十四日、天草・本渡第一映劇『不知火海』三日間上映(延べ千名)
 〇天草東高、天草工高での全校上映
 〇十一月十六日水俣病センター・相思社、『活動家にむけての報告集会』三十名。以上。
 水俣の一部には『あとのアフター・ケアのこともあんまり考慮しないで、水俣の体勢に充分連絡もなく飛び出して。あとどうフォローするのか』という正当な批判も道中耳に聞えてきた。まったく今回は東京で提起し、資力をそこに求め”他所者として、勝手にやった”ことは弁解の余地もない。『はじめに行いありき』の性来の暴発性の起因するところであった。だが上映行動・即・水俣の医療活動、支援活動と即時的にネットすべきものとして考えたならば、とても人口三万人の地帯の巡海行動は提起できなかったし、それにむけての先行的予備行動であったと許していただきたい。
 私たちは川本輝夫氏や水俣病センター相思社の活動家、水俣移動診療所それに水俣での患者発掘活動に地道な経験をもつ谷洋一、伊東紀美代に至るまで、具体的な人脈図と、当面検診をまたれる人びとの名を伝えてきた。
 かねて快速艇をもって天草、離島をまわりたいと計画していたセンターの若者は『こりやますます船がいるなあ。足の早いやつが』といさみ立った。
 川本氏も本渡市、御所浦、獅子島と歩かれてはいたが、全体の人脈図には感謝された。水俣市中心部によどむ運動批判の市民風潮、退行した患者諸派からときに”孤立”を感じている川本氏らに対し、対岸離島の人びとがテレビの窓を通して患者の主張と闘いを告げる患者連盟・申請者協議会の活動にどんなに注目し、励ましを受けているかを、知ってほしかった。それは患者自身が天草にいけばすぐに分ることだが。

 天草・離島の人びとからの声

 あけて一月、『展望』編集長・勝股光政氏の決断により百五十枚(五十ページ) 一挙掲載で『不知火海水俣病元年の記録』を発表させていただき、その十数部を環境庁長官、公害対策部、熊本県知事、県公害部長、元熊大水俣病研究班の諸先生に、あと百部ほどを天草・離島の知己、文中の登場者に送った。すべて本名であり、その反響と批判を首を洗ってまつ心地であった。熊本県公害部長浜田一成氏よりお札のハガキをいただいたほか、行政からは予想通り黙殺された。
 だが反響はすぐ返ってきた。
 上天草病院の水俣病に対する”感度不良”を余儀なく文中責めることになったが、岡崎禮治氏は『・・・二点をのぞきまったく正確なレポートです。一つはベッド数の間違い。現在百七十床です。いまひとつ、検診がままごと的とはひどい、一人一時間はかけたはず、なお、御所浦の地元医への描写はいささか酷です。・・・これは初めての全体の報告であり、文献として価値あるものとして後のちまで残されるものとなるでしょう。病院内でまわし読みをしています』といかにもフェアなご返事をいただいた。
 熊本大学、第二次水俣病研究会班長の武内忠男氏からは、現地でみる患者の病像や発症時期の問題および疫学上の諸指摘につき、氏がまとめられた環境庁への英文論文『慢性発症水俣病の病理とその病理発生』でのべていることによって裏付けられるものだとし、『資料的な遺産』となる旨の篤い手紙がよせられた。
 文を交してみると、天草の区長諸氏の流麗な字体とその書簡の折りめ正しさに驚く。姫戸町牟田(第一日目の上映地点) の久保則義氏もそうであったが、いつも焼酎のびんを離さなかった御所浦の”辺境”長浦の松田八百年氏の達筆達意の手紙には心うたれた。
 『私の心は、甥の松田俊輔(胎児性で死亡) 、叔父・幸造、叔母・キクエ一家三人の悲しみをこの目で見て参っています。これまでも、何かと、親や兄弟、そして他人の目、取った魚による生活等、結婚等による、自分の思ったことを言えなかった今までの実態。御所浦二百人の人(注・申請者) が目覚める時がきています。というのは貴殿の映画によって云々』とのべられ、末尾に、また夜這い談義をしましょうと結んであった。
 道中、もっとも緊張関係にあった鹿児島県東町の漁協組合長、宇都時義氏のそれは、自分の談話ののった『朝日新聞』鹿児島版の切りぬきをそえた切実なものであった。その新聞談話には『水俣病の原因もこわさも私は理解している。だから土本さんの真剣な眼をみて、その姿勢には云々。だが同時に、私は東町の海のきれいなことも信じている。だから上映してほしくない、とはっきり言った。本当は私の一声でやめさせられた。非協力でとどめたのは彼の熱心さに負けて譲ったのだ』とあくまでフェアプレイで語っている。そして手紙には魚価暴落との闘いをふりかえり、『水俣病のことは口に出すまいと心に誓いながら、貴殿から話があったとき、またもやと思いました。(地区から) いくらかの意見はききましたが、騒ぎがなかったのは幸いでした』とのべ、末尾に『今度はフリーでおいで下さい』とあった。
 後日談になるが、四月、私たちは石牟礼道子氏と宇都氏を再訪した。彼は一夕、全員を料亭にまねき、大きなハマチの生き造りを出して私たちの度胆をぬいた。そして、童話とも寓話ともつかぬ宇都ばなしともいうべき比喩で、弱者の漁民の生きるみちを一時間余にわたって説いた。そこには、東町漁民だけしか念頭にない彼の真情があらためて私たちをも衝ちつづけるのだった。

 家系のよごれをとらんば…..

 天草はその後、変っていった。ひとつには伊東紀美代さんたちが、処女地、牧島の岩本真美ちゃん( 胎児性) とその両親など五人を申請に立ち上らせ、御所浦各集落の被害者はじめ竜岳の森一族も、原田正純氏とその熊大若手グループでフォローしていた。さらに昭和五十二年の夏から秋にかけて、民医連系も大量の医師団をとくに御所浦町に投入していた。そして翌五十三年秋、向島の申請者は五百人に達していた。(三年前まで、わずか十一人の認定者しかいなかった。)
 嵐口の島田旅館のゆきえさんによれば、『NHKの『埋もれた報告書』(昭和三十四年の水俣病始末を追った記録、芸術祭大賞受賞作品) の再放映もあったでしょうが、ちょうど同じとき(昭和五十二年十一月)、そこにお医者さんも大勢きおらして。映画じゃテレビじゃで御所浦は風つ通しのほんな良くなりましたですよ。』
 今回の巡海映画のなかで象徴的事件であった森一族を再訪すると、一家、一族が相ついで申請にふみ出していた。町当局も何もいわないという。あの暗かった森一族に、生気と輝きがよみがえっていた。家長の利則老は『カケイなあ、家系の問題が大事じゃあ。これ(申請すること) でカケイのよごれを取らんば』という。『家系』ー私はこのことばを逆なニュアンスで耳にすることはあった、『水俣病になると、家系に傷がつく・・・』というふうに。だがこの森家は傷とよごれから這いでようとしているのだ。水銀に汚染されなければ、本来、健全な家系であった。このことをいま水俣病のせいとして申請することで申し開きをしようとしている。その”家系”の再興と復権の意思表示が、何をもおそれない”わが水俣病”の申請であったのだ。かくれ申請者のパターンが、この窮迫のどん底から破られたと私は感じた。

 次なる映画への展望

 昭和五十三年四月。私たちは久しぶりにカメラをもって海況の特殊撮影をすべく、水俣湾のほとりを訪ねた。水俣湾の汐流の動きをその干満差を微速度撮影することで視覚化する試みだった。朝から日没まで、数秒から数十秒に一駒(1/24秒) でとると汐の干満が三分ないし五分ほどに圧縮される。机上のプランでは、汐日が最汚染の湾奥部から湾の外へ、さらに天草方面へと視覚化されるはずであるが、春は南の風が吹きつづけ海面のしじまは汐目を逆方向に攪乱する。そのため引き汐のはずが満ち汐のように映像化されるという失敗も演じた。
 もし専門家の海況調査のテクニックとドッキングできたら、こうした徒労はより省かれるであろう。
 だが映像固有の表現による調査・資料の集積は必須であろう。その点に私たちの次なる映画への展望を賭けたい。
 一、海況・海流の実態を把握すること、前に仮説としてのべた、海のなかの川の流れがもしあるなら視覚化し、汚染の”同心円”伝説、遠いところは汚染が稀薄という”自然の稀薄力説”の正否を問いたい  二、魚類、貝類、プランクトンの生態観察とその周遊の記録。人と魚、その実生活と漁場にみる生活圏を観察したい。
 三、不知火海沿岸の人の往来と交流の歴史的変遷と今日の実態の把握。とくに人口移動をみたい。昭和三十年代、数万の漁民、海村集落の住民が都市に移動したといわれるが、県外の申請者は熊本県人のばあい三百八十人にすぎない。実態は一万を越えるともいわれる(川本輝夫) 。
 四、不知火海水俣病像の映像化。
 ーこうしたファクターをもとに、調査そのものを映画化したいが、撮すべき対象としての総合調査行動が完全に怠られている。だが、巡海映画をしてしまったものの背にした責任から、私たちは逃れることはできないだろう。

 水俣病・反動の年を迎えて

 昭和五十三年は水俣病について反動の年として記憶さるべき事件があいついでいる。チツソの”倒産”効果を脅しとする策略的な株式上場の停止、補償金の県債実施などをめぐる患者総数枠をせばめようとする政治的意図とそのキャンペーン、そして仕上げが七月三日の環境庁の新事務次官通達といわれるものである。
 認定基準として『水俣病である蓋然性が高いと判断される場合』の真意は、昭和五十三年末で五千数百人に達した申請者の認定・救済を狭める意図以外に何があろう。また死者について『認定に資する新たな資料を得ることが見込めない場合は認定できない』としている。不知火山海の層々たる死者群になんの”医学的資料”が与えられていたろうか。私たちが巡海行動で確認しえたのは毛髪水銀の致死量所有者すら見放してきた事実である。
 天草・離島は行政の犯罪の歴史的事実の堆積する”犯行現場”でありつづけているといっていいすぎだろうか。
 さらにこの本が上梓されるころ、第二次水俣病裁判の判決が出されていよう。棄却処分者を主体にした医学論争が鑑定の名でおこなわれたものであるが、この判決では、前例の補償金にかわるきわめて低額の補償金システムが出されようとしている。『水俣病とは認めるが、その慰謝はこの程度であろう』として、あるいは一件数百万円といった新たなランク分けの思想が公然と登場する気配が濃い。この方式もまた今度の不知火海対岸・離島の被害者を対象としているであろう。こうした一連の動向に対し、五十三年夏より百三十日にわたり、熊本県庁前での患者による坐り込み闘争がつづけられたが、県の厚顔ぶりはその背後の国と企業の患者切り捨ての大命題にささえられ、いっそうエスカレートしたようだ。私は正攻法のみの闘いに無力感を覚える。彼らは善意ながらも状況の逼迫ぶりに胸をいためる水俣市民、不知火海漁民らをして患者の闘いの足をひっぱる役割をさらに期待しけしかけている。本来、ひとつの被害者であるはずの申請者、健康被害者を分裂させ、相争う日を準備し、いま時を稼いでいるように思える。そして今、不知火海の対岸・離島、そして水俣周辺にさえ層々と所在する潜在患者の登場以前に、この相争う図式を完成させようとしているようだ。過去の国家的犯罪にあきたらず、今後、将来にわたる不知火海沿岸住民相互間の暗闘をしかける戦略の時代が登場してはいないかどうか。いまだれの手で不知火海の被害の全貌をつかむかが、水俣病の新たな始末の動向を決する『鍵』に思える。
 かつて、私は不知火海水俣病とのベ、その元年を指したまま針がとまっているとのべた。そして不知火海水俣病とは水俣の水俣病、つまり古典的急性、亜急性の水俣病と異なり、慢性型でその出現に時間差をもつものとする新たな着眼によってみつめられるべき不知火海の水俣病の病像の意味に加えて、人類史上初めての大規模汚染に、さらにかさねられた人為的、つまり政治的社会的汚染ともいうべき病像を、この不知火海水俣病の上にかたどって見るからである。