書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 映画でなすべきことは何かとは何か -あとがきにかえて- <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 映画でなすべきことは何かとは何か -あとがきにかえて-

 『その苦しみがわからんという苦しさ』
 
 いまもってなお、映画で水俣病を撮るほど『映画とは何か』『撮るとは何か』を考えさせられるテーマはないと思う。水俣病そのものは難儀と苦悩の絶対値をもち、相対的に見る視点を許さない。苦あれば楽あり、夜には朝がある。冬には春の訪れが来るといった希望の糸は断たれた世界である。映画をとっても、親密に交わっても、愛しても、その病気そのものは消えることも軽くなることもない。当方から理解できるものではない。『あんたらに患者の苦しみが分るか』と問われれば、『その苦しみが分らないという苦しさが分るか』と反論したくなる。そう言い合うとき、私はもっともかかわりたくない人間に会ってしまったのだと思ったりする。
 でいながら、私は患者の心を探り、身を寄せ、その相関わる関係性から『私の患者像』を描いてきた。視点もそこにおいてきた。しかしカメラとマイクのある日常はあり得ない。撮影をみとめ、そこで物を語り、全身とその肖像をさらすとき、すでに非日常的な時間であり、ある意味でその対象となった人の表現ですらあるのだ。患者の側でカメラをとるばあい、私は感情移入をつとめて避けてきた。カメラとしても音楽としてもナレーションとしてもである。その人の表現にまるごとむき合って感応し、対話し、応答することを観る人にうながす作法をとってきた。私は患者の全的理解者でも代弁者でもあり得ない自分をそのまま露呈してきたつもりである。愛するともかかわるとも異る位置である。
 運動者は決して表現のためにむき合うことはしない。その人の心をなごませ、悩みを分ち、力づけ、その人のできないことを助ける。”私なるもの”を空しくすることで、生きている患者の生きざまのなかにその自分を埋没させる。映画はそのどのひとつも即自的には不能なのである。離魂術師であり暗示にかける霊媒であり肖像を盗むものであり、その総体でいわば”ペテン師”にもっとも近い。”ペテン師”の詐術は一回性であり異常な倒錯をともなう。しかし私なる”ペテン師”はそのつきあいの連続性のなかで、その平常な雰囲気のなかで、長い持続とかかわりによってその対象者の表出をうけとめるに値する撮影・記録者になるのである。したがって撮ったものをより純化し、より対象化することによって、より本当の像に還元したいと思う。本当の像とは彼にとって非日常の世界でしかありえなかった撮る撮られるの関係をまるごと含む日常の姿であり、その人でしかない質感とディテールである。
 水俣病患者に沸々とある怨念や、疎外感、被差別の心、そのはてしない絶望は、彼があらわすことを望まない限り片言隻語も表出しない性質のものであり、一方、表出を決意した以上、その人の演技と言葉の魂ふるいの世界に入ったのである。私が純化し、対象化し、本当の像に還元するといった意味は、その表出のみを切りとって同定することでなく、日常から非日常へ、非日常から日常への時間のプロセスをできうる限りとどめたいという思いなのだ。そのことで私は長いつきあいぬきに水俣病とかかわれず、”ペテン師”にいつ立つか知れない演出者の自分をペテン不能な”関係者”にまで持続しつづけなければならなかった。
 私は文中にもすべて本名を記させてもらった。これは私が水俣病にかかわると決めたときに越えねばならなかった峰である。文字とちがい写真と映画はその人をまるごと撮り、その表情、表現についてはとられる側は意識できずすべて撮る側で始末できる点で、私は彼らの人格についてのオールマイティである。この映画特有の表現性ゆえに、私は映画での実名性を文章の上でも踏襲することになった。
 私が水俣病にはじめて触れた昭和四十年春、私はNTV”ノンフィクション劇場”『水俣の子は生きている』ですでに実名性を宣言していた。篇中、熊本短大の学生がまだ運動のほとんど起きていない時期に声をからして街頭で訴えたであろう活動実態をその部室で撮影した資料を作り、患者発生図をパネルにし、視覚的な宣材を作っていた。そのなかに、写真家桑原史成氏の胎児性、小児性患児のクローズ・アップの写真が幾枚もあったが、そのすべてに黄色いビニールで眼かくしがほどこされていた。医学書にも〇田×子といった配慮がされており、プライバシー上なんら責めるものでもなく、患者の気持をおもんばかつてのことであったろう。だが私は理屈をこえたある情動に駆られて、カメラを据えた上で、そのテープをはがし、眼の像のあらわれるシーンをとった。それは桑原史成氏があえてとったであろう”眼”であった。故松永久美子さんの眼であり、坂本しのぶさん、半永一光君の眼であった。テープはかさぶたをはぐ思いでゆっくりとはいだ。テープは粘性の音をたてて印画紙からはがれた。
 このとき私は冷静ではなかった。異様に興奮し、ただ剥したかったからはがしたといっていい。しかしこのときから、私は患者のプライバシーなるものを破ることを映像的に宣言したのである。その五年後、『水俣ー患者さんとその世界』で数十人の患者を登場させ、とった患者はひとりも落すことなく位置づけた上にそのひとりひとりの患者番号をつけ、背番号を背負った人間とされていることをスーパーで焼きつけて示した。このとき(昭和四十五年) 患者数は百二十一名であった。
 こういう思想的葛藤を強いる点で水俣ほど私にとって厳しいフィールドはない。水俣はつきない創作方法の源泉なのである。私はドキュメンタリーの修業者として水俣を選んだ作家であり、したがって、いつも未完成であることを端的に告げられる対象世界なのである。またこの描いた世界が観られるなかでどう磁力をもち、その観客の感性にどう影響するかを巡回映画で痛く知らされた。やすりにかかる人工宝石のように私は恐れもした。またときに映画人としての浄福もえた。取材の舞台不知火海が発表と上映の最重要な舞台であるといったかかる種類の映画は私にもめったになかった。だがこの場に私は安住を許されるだろうか。

 患者を憎み、チッソを想う人びと

 第一作『水俣の子は生きている』(T V用) のあと五年の空白をおいて作った『水俣ー患者さんとその世界』は患者の側に立って、その四カ月の関係性ともども一つの表現世界として世に示すことで、一定の意義と役割があった。その後医学の映画三部作も、全体性、網羅性を志す点で成立し得たかも知れない。とくに前者はチッソを憎み患者を想うことだけで貫けた。しかし今、じつは患者を憎み、チッソを想う人びとのほうが不知火海の実権者なのである。その人たちに映画を見せることに心を砕いたが、その人びとは絶対に見ないことで意志の表示をしたのである。私はもし見たら、映画に心を動かされるはず、などと言うつもりはない。私は彼らの感性を信じ、『知は力なり』の楽天主義に立つのだが、その人びとにとっては映画と無縁に立つことで、つまりみないことで水俣病問題の圏外に身を保ったーそのことをいま批難できないのだ。不知火海が最重要な上映の舞台であることは、水俣病映画にとって今後も変ることのない命題でありつづけるとしたら、この人びとと映画でかかわりをもつにはどうすればよいであろうか。

 別の系統の話をひき出してみよう。『水俣一揆』という映画をとった。その撮影対象に当然チッソ首脳も主役のひとりであり、なかでも島田賢一社長は焦点の人であった。二台のカメラのうち一台は島田社長の応接と答弁を追った。私はマイクをもって島田社長と久我正一常務のはざまにいて、テープをとめているときも、明りようにその息づかい、つぶやきまで聞きつづけた。応酬のうち大半は患者の抗議であり告発でありねがい、とどのつまり怒号であった。私はとり終えて映像のなかの社長を見ながら、個人の領域をこえて社会の矛盾の渦中に引き出されたひとりの老人の声を聞かないわけにはいかなかった
 『あんたは何かに変れるじゃろ、わしらは患者でなくなりたいと思っても変れんのじゃ』『あんたは逃げてゆかるるじゃろ、這っていけるじやろう。わしらは患者のこの苦しみから這って去るきはできんのじゃ。』
 事態は被害者と加害者に別れ、中間はなく、あらゆる矛盾は善と悪、健康者と病者、資本家と漁民・患者に分極するなかで、その価値区分で描く限り善玉悪玉のドラマ以外何ものでもない。私は編集にあたって言葉少ない社長の言語は極力ひろったつもりである。社長のモラリスト、信心のあつさ、潔癖といった資質もにじみ出した。にもかかわらず水俣病事件史の負を背おう当面の資本の代表者として、人間の城にひびが入り、こわれ、機能停止し、そしてついに”逃げて去るき””這って出る”人間しか演じられなかった。この歴史の審判ともいうべきもののもつ間尺の長い評価に立つとしても、彼は患者に敗れるべくして敗れ、人間的に崩壊したのである。私は彼のなかにも”私”を見、”私”と私の葛藤にまでその映画を高めるべきであった。しかし私にはそこまでの才覚がなかった。彼に対しても実名と実の肖像をとった以上、私にはそうすべき責任があるといま考え到るのである。

 挑戦したい未知のドキュメンタリー

 今後も私は水俣・不知火海を描くにあたり患者の側に立つことにかわりはない。しかし、彼らのみを描くことでなく、むしろより多くのスペースをその反対者、その障壁となって立ちはだかる人びとにむけなければならないだろうと気づく。『本心いえば、わしはチツソはもう憎んどらん。水俣病、水俣病とさわいで、わしら漁民の生活を脅やかす患者を憎んどります』と東町の宇都組合長は言った。この四月再会し、彼の心からのもてなしの席上であった。私はそれを耳のなかにうけながら、すこしも彼を責める気はなかった。彼をしてそこに立たせている東町漁業者の生活の未知の部分を知り、宇都氏の人生観をききつくさなければ、私は歴史的なスケールで見る地点に立てないであろうと感じた。そして宇都氏のような人びとの声を聞く映画づくりを試みたとき、不知火海の人びと、とくに漁業者はそのプロセスに共感をもち、彼らのほうから水俣病映画に近づいてくれるだろう。
 私がさきに患者の闘いが正面作戦、正攻法の時代ではなくなったとのべたのは、私の映画も、敵の後背地を調べ、その退却路をたつ、新たな視点を映画としてももたねばならないと思ったからである。
 一、歴史的な尺度での人間への信頼、二、映画人としての独立、三、そして何より、科学をもって四囲のデータをかため、その科学を表現としての芸術に高める力量がなければ、私は無限の相対論にはまるであろう。いわゆる通常T V局の客観的報道なるもの、Aの意見、Bの意見をならべるといったものと劃然と区別されるファクターは、右の三点のほかに、両者ともに正負にせよ関係を持続しぬく覚悟であろう。このような質の映画がいまわたしの挑戦したい未知のドキュメンタリーなのである。それはその映画を運ぶ地を不知火海に決めてはじめて見えた模索の糸である。そのためにも、私は不知火海を私の新しい映画方法論の主戦場としつづけるほかないのである。
 不知火海には水俣病の歴史よりさらに長い歴史が可視的にみえる。水俣病患者もそれに内包されるほどの人びとに加えられた暴虐がある。それは近代百年がこの地に強いた貧苦、過疎、挙家離村、逃散、疫病、その放置、老人孤独地獄、共同体の死滅過程といったなかに水俣病はその惨苦の近代化をたてに貫く毒のまっ赤な糸である。それはそのすべてにかかわる毒の神経繊維のように不知火海の全体躰に迷走しているだろう。
 一方、人びとが相争う場となっている不知火海にいまも魚と共生の世界があり、他方、人の手で魚を作る海の独占産業が台頭している。そのいずれも魚とひとの関係である以上、水俣病患者を敵視する構造からぬけ出られないのだ。だがこの背景に、水俣病の歴史を重ね、その科学を描き、この不知火海の現在、過去、未来をとらえられたら、それは国と資本はしょせんこの地の人びとと相容れざる世界であったことが浮き出てくるのではなかろうか。
 日々闘いがあり激突のある水俣病事件の今日性からみれば、なんとも迂遠な映画づくりに見える。しかし、そのような旋回の対極に、あるべき現実の先端がみえる気がしてならない。