映像による思考者 -カメラマン・大津幸四郎のこと- 映画『鴎よ,きらめく海をみたか・めぐり逢い』パンフレット 1975/7/1
カメラマン大津を,岩波映画で知ってからはや20年近い。スタッフとして「パルチザン前史」や水俣の一連の仕事をともにして足かけ七年になる。
だから,とかくなじみすぎたものの話しになりがちなことは許していただきたい。彼の撮ったショット(画面)について,私は良いとか,よくないとか,またOK・NGといった対し方はない。「始まったな」とか「見えてきた」とか「どうしようもなくなった(程,対象とからみ合ってきたの意味)」とか「あ,はねた!」とか言う。カメラワークの成熟度と発展の形容なのだ。一つの作品ごとに,彼のカメラワークはあたかも幼児のよちよち歩きから足腰のしっかりした少年へ,そしてみずみずしい青年へ,更に苦渋にみちた大人に,そして一つの成熟に至り,全力をかけて最後のショットを産み出して果てる。一つの生きものの営為というか,一本の映画の中で,彼の一生ともいうべきものを彼との仕事の中の全フイルムに私は辿ることになる。彼のカメラが一つの峰をこえた時,映画の内実もそこで終るのがふさわしく,又,その順序のままつづることが,映画スタッフの足どりをそのままのこす映画の流れともなる。従ってエンド・マークは,彼のとったラスト・ショットとほぼ同じである。
たとえば『パルチザン前史』(’69)の中で,寒空の中,放水車でほぼ破砕された時計台上の数人の全共斗のとりでの上を,機動隊のヘリコプターが威嚇降下をくり返すのを延々ととらえた望遠ショット。『水俣-患者さんとその世界』の中で,はためには地獄とも患われる,胎児性水俣病の四重苦の長女を中心にして,そこにある夕餉の一ときを,あのように気高く,静謐(ひつ)ともいえる映像を生んだパンショット。また『水俣一揆』でチッソ社長と患者さんの集団的怒号の中で,ふっと自ら薄幸の余生に沈思する女性患者の凄絶な美をとらえたアップ・ショット。そして最近では『不知火海』の中で,海辺で主治医に脳の手術を問いかける少女の背中だけをみつめ殆んどカメラマンの内的心理そのものを昇華させたような厳密なカメラポジションと一回性しかないカメラ・ワーク。それらはすでにドキュメンタリー・カメラマンとしての大津幸四郎のピークを形成している。そうした映像をみるとき,私はいつも「ああはねたな」,「ああ針が振りきったな」と思う。編集者としての私には,鋏を入れれば血か体液が出てくるほど,こわいフイルムになっているのだ。
この『鴎よ,きらめく海をみたか・めぐり逢い』の中の,たとえば高橋洋子が,はじめは乾いた,他人のようなO.Lでしかないようなとり方から,やがてむれるような,汗ばむような触感をにじませた女に撮ってゆく。勿論,演出・演技のなせるものであるだろう。しかし私には,そこに大津らしいデティールをみる。
この映画で三分の二以上に手持ちカメラを使ったと彼は語った。ドキュメンタリーを作っている場合には,あえて奇としないが,劇映画の場合はどうであろうか。彼の手持ちカメラという方法の中には,彼の映画的体質,映画的思考の過程がすべてこめられていると思う。
記録映画の場合,動きの約束などはまずない。対象のにんげんが,カメラにむかって語り,あるいはそれを意識し,そのシュートの間じゅうに人間的に動き,歩む。そのすべてのありようを予測してカメラ・フレームは対象の自由を活かし切るものであろうとする。その時,カメラマンもまたひとりの人間の身と心の処し方として,必然的に生身の体でカメラを支え,その両手の中にカメラのすべてを作動させようとする外ないのだ。三脚とか移動事とかクレーンとは無縁の世界なのだ。
「彼はルーペを見ながら考える」という評がある。彼にとってカメラを手にする前には,多くのカメラマンにありがちな機械自休へのアニミズムも,映像フェティシズムもないように見える。カメラとは彼を何ものかに駆りたてる思索の道具であろう。ルーペを通して物を,人物を見つめ,呵責なく無機的に回転するフイルム音に耐え,対象の凝縮にむけて自分をかかわらせていく。「何が見えるか,何を見るか」……そのシュートの時間の中に,思索の一切をこめるという撮り方に固執する彼は,それしか観客につたわらないであろうカメラマンの主体そのものをバラしているのだ。
この『鴎よ,きらめく海をみたか・めぐり逢い』の抑制されたショットとショットとの間に,単にドラマ化するカメラワークより,むしろ,ドラマの基底の現実をその物質世界とその反映をとらえようとする記録眼がよりつよく働いているように思える。若者を決してなじませない都会の無機的風景にそそぐ彼の鋭角的な画質は,やはりドキュメンタリー映画カメラマンとしての大津幸四郎の主体そのものから発しているのであろう。