あたらしい労働者映画の蘇生をねがって 記録映画『前線』上映用パンフ 3月 全逓信労働組合 <1977年(昭52)>
 あたらしい労働者映画の蘇生をねがって 記録映画『前線』上映用パンフ 3月 全逓信労働組合

 高岩仁氏の演出・撮影による記録映画「前線-封建制一〇〇年との闘い」に、私は構成・編集者として三カ月仕上げの作業にたずさわりました。充実した日々でした。性来、編集の仕事が好きでもありますが、彼のとった八時間余りのラッシュ(とったままの)フイルムを見たとき、この映画がひとつの運命の星をもっているように感じたからです。「恐らくこのフイルムは、日本のドキュメンタリ映画の系譜の中で、新らしい労働者映画ともいうべきジャンルを開くのではないか……」という直観がありました。

 かえりみれば、私が映画に入った昭和三十一年には、すでに「労働者映画」は過去のものでした。それを作って一時代を築いた映画人が一せいにPR映画に雪崩れをうって取りすがった背反の季節でした。やがて、私たちが会社をやめ、自主製作、自主上映の途のみを辿らざるを得なかったのは、他にドキュメンタリー映画を製作し上映する何の組織も見あたらなかったからでした。一部に共産党系といわれる映サや労映もありましたが無縁でしたし、また私たちにとって魅力的でもありませんでした。亀井文夫氏の戦後の仕事に旧産別や総評が支援したという話も聞いていません。大組織、大単産のその組織力と闘争・学習の資金もまた縁なきものでした。

 私たちのドキュメンタリーのスタートは、こういう状況の下で、旧労働者映画の否定から始めねばなりませんでした。組合で作られる映画が形式的な委員会討議で”大衆路線化”されたり、イデオロギーの絵とき的な発想パターンによる”武器”論に組することも出来ません。もとより作家はその主体を賭けて労働者とからまりかかわり、自ら「内なる委月会の論理」を作らねばなりませんが、決して”多数決”の創作はしませんでした。こうしたことから、二〇年余にわたって、私は”労組”映画否定の気持のまま凍結していました。その二〇年間はそのままPR映画の時代、政府による公報映画、そして何よりTVの全面的制覇の時代でした。この中で、労働者の矛盾とその闘いを描くものがあったでしょうか。われわれも非とすれば、映画に興味を失った労働運動の硬直化もまたこの不毛の二〇年の責を分つべきでしょう。新らしいドキュメンタリーの題材をふりかえると、私にとっては水俣であり、仲間にとっては三里塚であり、沖縄であり、在日韓国人、社会の底辺部のひとびとであり、ひとつとして本格的労働運動に正面からとりくんだ映画は生まれなかったのです。いわば巨大な体制からも、組織化された反体制からも落ちこぼれた人びとが主題でした。

 私たちが今回の映画づくりで分りはじめたのは、、その大単産の中ですら、仲間は相互に実態を交流できず、分断、差別の中でバラバラに各個撃破され、身心ともに未来への希望を失い、自分の人間としての存在を壊され坤いている人々の確たる存在でした。そうしたひとびとが現場にはたしかにいたことでした。組織内底辺というか、その仕事の中の最辺境というか、労働の現場には、他の誰の眼にもあきらかな疎外された人びとと同様の矛盾があったということでした。
 今日、昭和初期のような古典的労働着像は典型的には見当りません。大衆消費時代の中では外見的には中産階級的であり、マイ・カー、マイ・ホームのひとびとと変りありません。郵便局につとめている″市民″、鉄道にいっている″市民”聖職の”先生”といった幻の労働者像の穀の中に、どんなに労働者の実像が生き、血を通わせているか、何を叫んでいるか、それを映画としてとり出せるか、否かを、私たちはこの仕事を通じて問われつづけたのです。
 そのことを教えたのは高岩仁氏でした。この五年間近く、こつこつと郵政労働者、動力車労働者の記録をとりつづけた仕事「説得」「私たちと労働組合」「解放のみち」「合理化病」といった系譜によって、いまの「前線」が作られてきました。ここで彼がみつめつづけたのは、つねに労働現場の労働と労働者の実態でした。そこに記録されたものは、潜在している人間崩壊の前駆的病理や、合理化病のようにすでに霞出しはじめた、肉体の壊死でした。これを救うものは労働者自身の闘いしかなく、政治であり、革命であり、そのための理論であるという、底辺からつみ上げた結果としての映画的メッセージでした。こうして映画の対象として、再び労働者そのものをカメラの前に据え直す作業をしてきたのです。そのことは私にとって衝撃的ですらありました。
 
 組合運動の”組織”と映画作家との結びつき方はつねに容易ではありません。ときに金をはらう側、口を出す側と、製作費をうける