羽田澄子作品25年-その半生としごとの記録 『羽田澄子・人と作品』 3月11日 羽田澄子の映像個展-その記録映画25年個人史- <1977年(昭52)>
 羽田澄子作品25年-その半生としごとの記録 「羽田澄子・人と作品」 3月11日 羽田澄子の映像個展-その記録映画25年個人史-植民地を故郷として

 羽田澄子は1926年1月3日,中国・東北の大連市に生まれる.父・勗(つとむ)母・淑子.父は当時,日本人のための官立弥生高等女学校の博物教師,とくに植物学に専心、寡黙で家の中で口を利いたことも稀であった.母は朝鮮育ち,大連の神明高女を出ている.羽田澄子にとっては,故郷とはアカシャの並木道,煉瓦の建物,そして乾燥した澄んだ空気であったという.4才のとき一時,日本に父の転任にしたがって帰ったが小学校5年のとき再び大陸・旅順に行く.父が教鞭をとる旅順高女に学ぶ.

 ”教育”に反撥しつつ

 母は当時としては,ひらかれていて,旅順では数すくない「婦人の友」友の会の会員であり,羽仁とも子の思想を羽田に伝えていた.
 当時良妻賢母を育てるための女学校教育の中で,国粋教育と無縁な婦人解放を説いた羽仁もと子著作集に接して,進学を自由学園にきめる.当時の”教育”への反撥は,のち映画に入っても”教訓”的要素への潔癖感となる.

 自由学園へ

 戦時下の1942年,女学校四卒で単身,東京の自由学園にゆく.満16才.これより3年間,全寮制の中で学ぶ.羽仁説子・五郎両氏の生活指導を受ける.(男子部に羽仁進がいたが在学中に交流はない)「どこに居ても必要な人間になれ」という自己教育の思想を叩きこまきれる.家庭の教育と少女期の自由学園の教育とがつながり,自立をつよく自覚する.倫理的生活は寮での生活でも養われる.寮での食事,炊事,学校の掃除と在学中の記憶は専ら生活規律の肉体化であった.3年生のとき中島飛行機で旋盤工として学徒動員される.
 幼いころから絵が好きで美術学校にいこうかと思った程だった.手先の仕事は一向にその旋盤もいとうことなく,熱中すらした.日毎粗悪になる鋼質材の低下を知り,日本の戦下の衰弱を予感する.彼女も愛国精神を植えつけられた一人であった.

 「旅大日本人共産主義者同盟」

 敗戦の年の3月,卒業,工場で働きつづけたいと思ったが,羽仁吉一氏に「こんな戦争のためにひとり留るな」とひとこと言われ,大連の父母の下に帰る.旧満鉄の中央試験所の実験助手として働く.この大連帰りから彼女の青春時代が敗戦後の激動につながる.
 ソ連軍の進駐により日本人の植民地社会は解体される.旧満鉄にひそんでいた旧左翼がよみがえり,延安からの日本人グループも加わる.そして唯一許された日本人労働組合が結成される.満19才の彼女は始めは職場支部のオルグになり,学習会や婦人部の組織に没頭する.石堂清倫氏や土岐強民らの直接指導の下,共産主義者たらんと志す.日本人労働組合は金持ちから財産を没収して日本人難民の食糧を調達し引湯を完了するという活動のため,激しい敵対関係をはらみつつ,帰国までの数年間,日本の情報と切りはなされたままの大連で,階級斗争をつづける.彼女は当時は非合法の組織であった「旅大日本人共産主義者同盟」青年部のメンバーとなり,日本人の第1次の引揚の終った1947年はじめから,組合の婦人部長として活動する.組合活動のなかで,ビラの文案書き,リーフレットの起草などでどなり散らされながらアッピール書きを教えられる.この満19才から満22才までの4年間に,青春時代のエネルギーを燃焼させた.

 ひとつの戦後史のうらで

 今やはじめて告白するというが,帰国に当たり,彼女は上級の日本人指導者から,秘密情報部員の任務を与えられ,そのための訓練をうける.帰国しても日本共産党の組織につながることを禁じられる.大連に日本人残留者の激減した1948年7月,帰国船で帰国,船中で天然痘発生のため一ヶ月舞鶴で監禁生活を送る.その間,右翼グループから数回リンチに会う.……この頃の羽田澄子の展望は「じっと耐え,女子工員として紡績工としてでも働き,女子労働者のサークルを作ろう」という空漠とした設計をもつ以外なかった.だが一向につかめない”特殊任務”なるもののためにそういう生き方は選べなかった.植民地に生まれ,敗戦下に共産主義を全身でうけとめた4年間の終りは「一つの節,ひとつの人生の終り」と感じられ,いつ連絡されるか分らない”任務”をまつという奇型的な”政治的”人間として凍結された.

 映像とのであい 1950年

 岩波映画に入る機縁については彼女の文章にゆずる.「教育映画」と聞いて気がすすまなかったが,岩波映画の初期に始まった岩波写真文庫の編集の仕事には興味をもつ.写真界の新進思想家・故名取洋之助氏の下で,羽仁進,長野重一,薗部澄,東松照明,故織田浩民らとともに仕事をする.写真を文章の下僕とするな,写真をして語らしめよ」と叱汰される.構成,取材を始めから責任をもたされる.写真の記録性,表現性についての選択力をいやでも育てられた.
 当時岩波映画は故中谷宇吉郎博士の研究の映像化に功あった故吉野馨治氏,現社長小口禎三氏の下に,小村静夫,藤瀬季彦,加藤公彦吉田六郎氏らカメラマン・助手が中核に,羽仁進,高村武次,時枝としえ氏らがいた.科学映画が初心であり,「雪の結晶」「霜の花」の下地の上に「凸レンズ」が第1回作品として登場しようとしていた.1950年のことである.

 新しい記録映画の模索期

 羽田澄子の25年はそのまま岩波映画の25年であり,戦後日本の記録映画として表裏につながる.彼女の映画の処女作「村の婦人学級」(1957)第2作「古代の美」(1958)頃までは,社会“教育“として占領軍政策の強い推進力により,日本の文教政策も一応進歩的映像の発展を許したハネムーンの終りの時期であった.
 科学映画を主流とした岩波映画が社会的視野をもつ作品,ドキュメンタリー映画の開拓といった方向を歩み出した上に,羽仁進氏の登場は決定的であった.旧文化映画の衣がえにあきたらなかった若い世代は,「教室の子供たち」(1954年)の完成をまった.羽田も演出助手として働いた.いわゆる起承転結を大切にという旧作劇術と無縁に,対象の変化を映像でクローズアップし,作者の創作力を刻々に深めていくといった映画の文体は彼女を刺激してやまなかった.上記の二作品は彼女らしいその実践の開始であった.

 ”産業映画”の奔流に面して

 時期を同じくして,大PR映画がやってきた.「佐久間ダム」(高村武次)の完成は,日本の復興に対して“プラス“のイメージを下敷きに技術と科学の握手の記念碑として映像化された.この成功は,岩波の科学映画的思考のピークであるとともに,のちに雪崩をうって岩波映画に流入したPR映画全盛時代の幕あけともなったのである.
 TV時代も同じ時期に始まった.岩波映画の科学映画として「楽しい科学」シリーズがあったが,基調は電力,鉄鋼,化学といった日本の独占の再生期の“記録“と謳歌となった.

 夫,工藤充氏のこと

 羽田にとって,いま夫である工藤充氏の岩波でのプロデューサーの仕事とのかかわりは大きい.「教室の子供たち」「絵をかく子供たち」「動物園日記」「法隆寺」(羽仁進)「町の政治」(時枝としえ)と羽田の二作品「村の婦人学級」「古代の美」が彼のプロデュースであるのをみるとき,文部省視聴覚課の担当官の彼が職を辞して岩波映画に一つの潮流を作ろうとしたことがうかがえる.事実それは岩波映画に社会派の胎動をもたらした.だが巨きな時流はその体制内での製作の志を押しつぶしていった.工藤充氏の失意の中の辞職は,いわば象徴的といえる出来ごとであった.その彼と1959年に結婚した.

 ひっそりと10年にたえる

 「古代の美」完成以後,約十年,彼女は殆んど演出の仕事をたった.専らシナリオと,時に編集・構成の仕事であった.病いを得て,映画の現場には耐えられなかったからだという.名取洋之助に教えられた構成力が激しい職場の中で病身の彼女を支えたといえる.しかしPR映画の制約はまずシナリオに始まる.そのシナリオで守るべき最後の一線は何か,良心的な意図をいかにちりばめるかが問われた.しかしそれは所詮,自己弁解的な守勢でしかない.演出以降仕上げにはかかわれない分業の仕事であった.砂をかむような空白の日々の中で,劇作家秋浜悟史,同じく清水邦夫,文芸評論家入江隆則氏らが新鋭な映像を夢みながら外の世界に所を得るべく去っていった.

 ”第2期”を準備しつつ

 「編集の仕事は大好きだった.私の夢中になれる最高のしごとでした」と,この間,彼女を支えたしごとを語る.「風俗画」(1967)で演出家として再起したのは41才のときである.肉体の盛りははるかに超えていた.この間に,幼ないときからすきだった物の美,美術の世界への先祖帰りがじわじわと行なわれてきたようだ.「去年マリエンバードで」(アラン・レネ)による映画的世界,そして黒木和雄氏の「海壁」「とべない沈黙」にみる1カットの表現力のすばらしさ,土本の「ある機関助士」のダイナミズムに学んだという.

 編集のこと

 岩波映画で編集の神様といわれた故伊勢長之助氏のモンタージュの衝撃力とリズム感には根源的に生理的に異和感をもっていた.1カットの訴えかけてくるものの連続こそ映画の対話性ではないかと考え,編集上の習作を貯えていた(南極大陸越冬記録等).
 「私の編集はいつもみぞおちにずっと落ちたら仕上がりなの.他のだれでもなく自分の生理に落ちついたところ,それが編集のメドです」と語る.その習練の上で「風俗画」からセキを切って,第2次の羽田澄子の創作が始められたのである.「風俗画」「狂言」「法隆寺献納宝物」そして「薄墨の桜」はこうして連作,発展をみせるのであった.

 分らない「画」を求める

 理性的具象的な物への追究の一方,彼女の興味は「絵にならないある感じ」の獲得を希求する.明確なテーマ性や端的な表現を生命とするカメラマンからは一時理解されにくかった.だが,女の生理までとらえる美の総体を画面で切りとるのに,映画ではレンズ・フレームしかない.彼女のカメラマンと一の出会いと求めあいが始まる.西尾清氏は彼女が始めて得たそうした質のスタッフであった.

 「私は異邦人……」

 羽田澄子は51歳,いま始めて現役性を自覚している.政治活動の青春の一つの余生のように選んだ映画の世界のなかで,確実に,ひとつの創造が手づくりされ始めてきたようだ.それは幼年期からの美への憧憬だけではない.日本人への回帰という彼女の出生の条件から洗いはじめた原衝動と,50年の歳月が彼女におしえた自己像の結びめである.
 「……私は外地で生まれて西欧的な教育と生活環境でアンデルセン・グリムの世界に育てられた.日本の文化の伝統には無縁だった.大連から引きあげてきて始めて『日本』をみて土着の文化のひとつひとつに驚倒していた.25才になって,映画を通じて更に深く日本の農村をみつめたとき(村の婦人学級),私はそこに入れない『異邦人』だと思った.その『異邦人』を自覚しなかった時の作品は,むりに自分で解説し,同化しようとしていた.だから失敗した.私は『風俗画』で私も日本人の血をもつものと思った.『もんしろちょう』(68)で映画のあたらしいスタッフ・ワークをみつけた気がした.そして映画作りに快楽をみいだした.しかし私は異邦人でしかない.ならば……『異邦人の眼』で私の日本人の所在をみていくことしかない.『薄墨の桜』は私がそのままでは同化し得ない地縁を自覚的に表現しつつ,日本人の歴史をたてに生きた1000年余の桜の生命力を見つめようとした作品だ.私ははじめて,日本が見えるかも知れないと思う」
 羽田澄子の半生が映画に見える.一連の代表作のナレーターは期せずして女の声でばかり語られている.手つむぎの吐息のような映画の世界.これが映画でなくて何であろう.
(1977.2.22)