「海辺の映画会」だより-不知火海沿岸漁村巡海上映の旅① 海辺の映画会「不知火海巡海映画活動」-趣意書- 5月10日 不知火海・巡海映画班
この八月一日から、私たち水俣スタッフ四人は、天草・姫戸町牟田部落を皮切りに巡海上映をはじめた。今日まで約二週間、十一回、延千五百人の住民に水俣病映画を見せてきた。そして旅程はやっと竜ヶ岳町樋島に連したにすぎない。あと三ケ月かかって天草上島・下島、更にフェリーで鹿児島県長島へ、そして十月からは離島に船をチャーターしての巡海上映をつづけるつもりでいる。
一行はカメラマンの一之瀬正史、小池征人、西山正啓 (新加入)に塩田武史カメラマン、「週刊朝日」の大熊一夫記者の六人である。十日には不知火海調査団の一行十一人と樋島でクロスし、情報の交換をし、はげましあって、別れたばかりである。
テント四張りを準備し、自炊体制をととのえ、移動中の基地の役目をもつフォルクスワーゲンのキャンピング・カー(色川大吉氏提供)外二台の車での巡業で、切りつめた装備で動きはじめたが、世の情けで、いままでのところ、公民館、青年クラブ、小学校休育館、お寺の一室と雨露をしのぎつづけている。
日課は午前中の移動-といってもバス停二つ分位ーとポスターおき、のぼり六流を会場にたて、午後、区長や漁協にあいさつまわりして、全戸ビラ入れーこのビラ入れで、住民の顔がすこしずつ見えてくるーそしてそそくさと夕めしをとって、七時半より好天の場合は屋外上映、そして九時半頃より、人々や世話役とショウチュウをのんでだべり、あすの準備を語りあって、それぞれにエア・マットや毛布にくるまって、ぶっ倒れるようにねむる、といったことのくり返しである。
一ヶ所一日のつもりが、欲が出て、少し入口の多い町役場所在地(姫戸・姫浦)や潜在患者のあると思われる竜ヶ岳・樋島の下桶川部落では二日、番組がわりで上映したり試みている。
この巡海上映の要は、どの集落も落さず順にしらみつぶしにやるというところにあり、困難やめんどうがあっても、スッ飛ばすことはしない。だから、押かけ女房的に訪ねてきた私たちに、あえてことわりが出来ないらしい。というのは明らかに、今どき「水俣病」のことに触れてほしくないという漁協当局(それは町当局でもある)の意向の露骨な地区でも、「あんたらの話はキレイじゃばってん、あつかいに困っとる」といった応接態度が返ってきている。自分たちの作った映画です。ぜひ見てほしいと思って東京からやってきましたというと、何とも気の毒のような、申訳ないような、それでいて、「人の気も知らないで……」といった情なさのまじった表情で、場所を提供し、全戸に知らせるため、有線放送で、「今夜七時半より、水俣病の映画会がXXにおいてもようされます・…・・」と流してくれるのである。
不知火海の汚染源は水俣だけでなく八代のそれが大きいことも知らされたが、何といっても、有機水銀のおそろしさを知っている人たちがいた。昭和三十四年、漁民闘争のとき水俣市立病院に当時の急性激症、胎児性患者を目撃した漁協幹部たちがそれである。思い出しても身ぶるいがすると語ってくれる。だが、その惨状を映画で改めて見せるとなると、水銀被害の最大の難儀であった魚の市場からのボイコットや、ただ同然の魚価の急落という昭和三十年代の数年間と昭和四八年、第三有明・水俣病時の二度にわたるパニックが痛く、辛く、思い返され、何とも上映に積極的協力が出来かねるといった工合になるのである。それは当然の反応であろう。
上映会場が一時間ぐらい前から子供たちで賑わいだす。とんだりはねたりする一騒動がマンガ映画の上映でしずまる頃、ゴザや座布団をかかえ、団扇をもった大人が集まり出す。しかし壮年・現役の漁師は少ない。圧倒的に婦人たちである。男たちは今さら漁民稼業がやめらるるかと顔をそむけている。その女房がひそやかに画面をみつめている。その子供たちが猫や人間の狂い悶えるのに 「アレ!」と眼をまるくしている。
この映画行動を何に集約するのか。その点で私たちは性急さを怖れる。いま、水俣病とは病気ではなく工場の毒による中毒だ。このことを充分知ってもらいたい。天命でも悲運でも、遺伝や家にまつわる業病でもなく、不知火海一帯の汚染であり、皆、集団的に犯されたことなのだと説いて、人々にそれのしみ入るのを願う。だがあきらかに、人々は、ここに水俣病らしい人が居り、死んだことを、おくびまで出しかかっている人も稀にはいる。当然、居よう。昭和三十五・六年の県試の毛髪水銀データで明らかなことだ。
「あんた方はいい映画をもってなさる。うちの爺ちゃんも、あん映画の人のようにもがいてさるいて死くなられた。…すんませんでした」と頭をさげてゆく老婆を見送って、私達はしばし絶句するのみであった。(続)