『東京クロム砂漠』由来-講師のひとりとしてのフォーカス 『東京クロム砂漠』上映用チラシ 7月 <1978年(昭53)>
 『東京クロム砂漠』由来-講師のひとりとしてのフォーカス 「東京クロム砂漠」上映用チラシ 7月

 ”映画学校を卒業する”とはどういうことか、何をもって卒業と証するのか、これが私の世にある映画学校経営への批判であった。所詮徒弟制度しかありえないとすら考えてきた。フィリップ・フェラン氏と倉岡明子さんが創設したフランス映画教育式の映画技術講座についても同一視していた。その私に高等科の講師を依頼されたとき、私は「社会に独り歩きする作品を作れたとき、それが卒業ではないか」と無限大のような所論を吐いたが倉岡さんは動じなかった。私は試みに私の作りたかった墨東六価クロム禍の新聞スクラップを見せた。倉岡さんはその百枚に近い切りぬきを全生徒に配り、これに挑戦してドキュメンタリ映画を作るかどうか真撃に問うた。彼女は高等科の生徒諸君に映画技術コース創設以来の情熱を賭けて、以来三年に及ぶ映画製作を背負い、生徒諸君も卒業への途を探り歩いた。鈴木志郎康、大津幸四郎、久保田幸雄、浅沼幸一氏ら講師できめたことは”一歩も現場に行かないこと”だった。生徒のラッシュ・フィルムの徹底研究と批評を軸として、映画論、ドキュメンタリ論を討論する三年だった。だからこの作品は映画に全く一年生だった青年たちの独自につかんだ表現の全過程であり、私たち講師の手伝ったものは一尺もない。音も編集もしかり、生徒たちの全き作品として生まれた。私にとっては”学校で映画が作れるのか、いかに卒業するのかの問いの答えを求める仕事でもあった。この三年は学校の一年間という時間割をはるかに越え、それを破壊して撮りつづけられた。映画の体躯の見えはじめたいま、私たちはむくいられたと思っている。だが、生徒にとって真に”卒業”であるか否かは、今後、世にこの作品がひとり歩きだすかどうかであり、観る人々に訴えるかどうかである。その卒業にむけて、更に上映活動にチャレンジする若き映画人にひたすらはげましと批判を期待するものである。