逆境のなかの記録 『東京新聞』 1月31日付 <1975年(昭50)>
 逆境のなかの記録 「東京新聞」 1月31日号

 よく人からさり気なく「君は何故劇映画はとらないのか」ときかれる。「ドキュメンタリーはまだ若い芸術だし、やりたいことがあるから」と当たりさわりのない返事をする。問答はほとんどそれで終わる。しかし、私には記録という作業の中でしか足をふみ出せないところがある。まして水俣病のようにどうにもならないものごとを撮るにはそれしかない。
 私は、そうした私にとってのいわば”逆境”いわば”最下限”の状態での耐え方と歩み出し方は、物事の記録、それも明確な目的のない作業からしか始まってこなかった気がする。まして劇映画的ピークや爆発の本来ない現実世界、そして、映画の対象自身、いわば逆境下であり、最下限である場合が多いのである。
 現代の知識人にとって、精神的な逆境といえば三十年前までの戦争体験であり、或いは天皇制軍隊の組織内の生活であろう。しかし昭和三年生まれの私にはそれはない。敗戦前後の東京での都会人生活のなれの果ての体験が強烈である。一家が食べるものについてである。一升ビンで玄米を精白する方法。じゃがいもをつぶしてデンプンをとるやり方。そして電気の両極を利用したパンやき器とかタバコ巻き器のしかけ等の物の像などが、私の記憶の底にある。そのことからこみ上げての戦争体験がある。人間の果てしないいやしさも、また、ほのぼのといえるものもある。だがこれは記憶であって、記録ではない。
 いま私の手許に二十三年前の古ノートが三冊ある。獄中メモである。昭和二十七年、日本共産党の「軍事方針」のもと、小河内山村工作隊員となり、小河内=軍事的多目的ダム粉砕、山林解放の闘争の中で、官憲のわなにはまってのタイ捕であった。その時の、具体的な戦術には反対意見をのべつくしたが、決定には従った。だから未決中も「乙の闘争にいかに正当性を見つけるか」といった自問と思想的動揺があり、又個人的には恋愛問題も秘めていた。したがって、同じくその時、とらわれた四名の同士と、一見意気高揚に”獄中闘争”を貫きながらも、心中、逆境の思いがふり切れず、志操は時に最下限にずり落ちがちであった。
 その時のノートであり、完黙のため伏せ字的配慮を要したが、その分量だけは自分ながら驚くほど書きためられている。四百字詰めでおよそ三千枚以上。一行に二行分ずつ米つぶ大の文字でかかれたものである。今も、私自身面白いのは当時の官給品のメモである。
 「・・・再生綿のうすいフトン上下各一枚、一畳大の蚊帳、アルミ食器二、竹龍、小さいヤカン。木製便器、手桶二(洗面用、雑巾用)、箒、ハタキ、チリトリ。小机に渋団扇。私物の衣服二点。てぬぐい、歯ブラシ、ハミガキ粉、チリ紙ー以上」などとある。獄中にも蚊帳はあったという事がおどろきであった。ノートの記録の意味について、数行ある。「何の為に書くのかその答えに窮する。こうしてドキュメントをつづること、”文唖”を直すこと、偽りのない”筆”をつくり上げること。せめて”自由”をこのノートの中で営みたいとと。・・・鉛筆とノート、もし”私有”がこの独房にあるとしたら、それはこれ以外にはない。」と、或いは、今も適用することばでその趣旨をのべていた。
 だが再読してみて、人間、その逆境の中でかえって夢をつづらせ自己美化をせずにはおかないものであることも知った。恋を語り、革命的人間像をー。今、呆れかえる程の饒舌をもって延々、筆まかせの長文で埋めている。しかし多くの砂をかむような日々は、苦しみながら何事かを記録している。差し入れのアンパンを”分析”したり、食事のディテールが事こまかにかかれている。月一回の甘味の日「何といううずら豆のおいしさよ。唾液腺が異様に痛む。口の両わきからのどにかけて・・・」等とある。それもない平凡な日、一枚のボッシュの絵「手品師」というのか、それに約数千字の感想と分析の文章をかいている。内容は数十字で足りるが、むりやりに書きこめたーそうするより耐えることが出来なかった、そうすることだけが逆境を一日分先に送る必然の作業であったと、今にして思う。そして、”想い” の文章より、苦吟の時を、あてもない記録についやした部分の方が、より今日の自分とつながっているのである。よく「足ぶみしている」という否定的表現がある。それは、歩くべくして尚、足ぶみしていることをたとえているのであろう。しかし、足ぶみこそ、歩き方をみつげる前の能動的動作と思いたい。それが私にとっての記録行為なのであろう。もし、私が、劇映画より記録映画の方が好きだとしたら、それは、私のこの時の足ぶみの心に即した方法ゆえかも知れない。
 その後、映画の仕事に入ってからも、これに全く似た体験に出会った。丁度十年前になる。TV番組に水俣病を選んで、私は優秀なキャメラマン・原田氏と一しょに患者多発部落・湯堂に初めて入った日、私は部落の人々の嫌悪の眼を知らされた。丁度、水俣病は後遺症のようにあつかわれ、全く部落の中に封じこまれていた同和四十年の二月であった。ワイド・レンズで部落の全景をとっていると、一軒の庭先で主婦たちがさわぎ出した。私はそこにいた患児に気づかなかったのだが、人々は無断でとったとして激しく私たちを責めたてた。私は弁解の言葉もなくそれをきいた。その後から、完全に私は思考力もことばもまともでなくなってしまった。つまり壊れたのである。「水俣病をとる資格はない」という直感から、「映画をとる力はない。もうやめよ」という自分の声がとめどないのである。どこにカメラをむけることも出来ず、舟つき場の石垣の上に立ちつくした。もし、宿に帰っても、この金縛りの気持ちはとけない。もし、東京に逃げ帰っても、いま私を襲っているもの、行動と意志の大事な根っ子を打ちくだかれている以上、もう映画は二度ととれぬポンコツとなるしかないと思った。身うごきすることも、カメラマンとまともな話も出来ず、眼をあげて部落を仰ぎ眺めることも出来ず、ただおどおどと震えていた。この二、三時間。
 そのうちに伏し眼がちに見る海の底にすきとおって、しじまに光る、茶わんのかけらがあった。青いごすの、きれいな陶片である。「これに焦点が合うかな?」と言い出したことがきっかけになって、二人で海底のセトモノを黙々とあれこれ時間を費やして何カットも撮りつづけた。水俣病に何の関係もない画面である。それを撮ることでしか私たちは始まらなかったのである。つまり、足ぶみの記録でしかなかったのだ。しかしそのことでのみ、辛うじて映画作家としての根底からの挫折に耐えることができたのである。この体験からしか、今日までの水俣病とのかかわりも生まれなかった。セトモノのかけらの撮影の一ぶしじゅうは恐らく一生忘れないであろう。
 以後、私は逆境に立つと、このときのように身を処す。それが私のように想像力の乏しいものを記録映画にひきよせつづけていると思える。昔のノートをよんでも、”正義”や”論”を論じた部分はその時のあてどある世界をかたっているものの、事の本質をもって見れば、いまや色あせて見える。しかし目的も、前途も見えない日々、獄中で耐える手段となったダラダラの記録に出あうと、私には当時から今日までの時の距てをこえて、物と心の世界が相互にからまって浮かんでくる。肉体的記憶とでもいうのであろうか。
 韓国をひきあいに出すまでもなく、言論、表現の”自由”は身辺にもあきらかである。先が見えず、思想の物差しは定かでない。私も、世の中も逆境に見える。私たちの映画事つくりは更に輪をかけて暗い。しかし、記録の方法は私にとって、耐え方と、歩き出し方の基礎にまだある。夢や希望に何かを託すにせよ、その基底にある現実を記録しつづけることから始める他はないと思い定めている。