書籍「逆境のなかの記録」 演出ノート
映画企画案(昭和四十八年七月三十日)
”医学としての水俣病”シリーズ〈注・三部作の原型のため原題のまま〉
1 水俣病の病像(病理篇)ー有機水銀中毒とは何かー
2 水俣病二十年の記録(資料篇〉ー水俣病を発掘した人びとの証言ー
3 ヒトと水俣病(疫学・臨床篇) ーある臨床医の記録ー
企画・青林舎
プロデューサー・高木隆太郎
執筆責任・土本典昭
(注、この企画案は映画の撮影に先立ち、その製作意図と演出プランを明示したもので、協力医学者とスタッフ内部むけのノートである。これは撮影前も撮影中も基本的には変更しなかった。他の諸作品、たとえば「水俣一揆」や「不知火海」の場合にはこのような企画案はもたない。この一文を必要としたのは、錯綜する医学状況にむけて、一つの原点づくりを試み、この企画案にそって諸先生の協力の軸を作ろうとしたものである。したがって字句の修正はこのもつ資料性から殆んどしていない。映画の完録シナリオと対照されれば、映画製作の過程があきらかになるであろうー編者)
1 まえがき
一九七一年、東プロ(現・背林舎) で発表した長篇記録映画『水俣ー患者さんとその世界』(ニ時間四十七分)においては、水俣病の医学面、とくにその病理の問題は、全くといっていいほど欠落していました。その理由は、一つには当時の諸状況からみて、その発表の機がいまだ熟していないというスタッフの考えがあり、いま一つは、この映画では、患者さんそのものの記録に視座をすえるという表現方法をとったことにあります。同時に、事、水俣に関する重厚なテーマは、必ず”次の映画”を連作せざるを得ないーとくに医学の問題は、次の機会を待つことにしていました。
上記映画は一九七二年よりストックホルム(スウェーデン) を初め、世界十一カ国で公開されていますが、その反響として、やはり医学面・科学面の欠落を補うものを作ってほしいという要望が残されました。また日本国内ではその声はさらに直接的・具体的にあり、われわれの企画をむちうつものでした。
昭和四十八年一月以降、水俣病患者の”処理”をめぐって、映画としては『実録・公調委』『水俣一揆ー一生を問う人びと』と、主として社会的事実に的をしぼっての製作が重ねられてきましたが、いまようやく、全力をあげて”医学”に力を注げることになりました。
本年(昭・四十八)六月より七月にかけて、宇井純氏(註・東大助手) 白木博次氏(註・当時東大教授)椿忠雄氏(註・新潟大教授)原田正純氏(註・熊大助教授)、および教師の立場から本田啓吉氏(註・熊本一一高教師、水俣病を告発する会代表) らに直接御教示をえました。その内容は印刷にし発表したいほど厚味のあるものでしたが、諸氏の御協力は、ひとえに視覚化さるべきもの・・・映画・スライドの必要性を説かれての上のことであり、ここに映画企画案としてまとめ主せて頂きました。おそらくは一知半解のそしりを免れず、誤りも少くないと思いますが、次に出来るべき映画のイメージをつくるための叩き台としてまとめたものです。以下”案”であり、この配布は御協力いただく方、スタッフの範囲にとどめます。
2 映画『医学としての水俣病』シリーズに関する考え方(註・A項よりI項までの九項目に考え方を展開した)
A・水俣病は第一に”社会病”とみる
水俣病は、従来の人間の疾病、人体と病源菌の歴史とは、系の異なる、全く新しくかつ既成の病像とイメージを異にする化学中毒であり、”文明”のもたらした人間への反人間的リアクションであり、その破壊性は根源的である。しかも現在の水銀の大量使用は、すでに化学工業のマスプロの過程に組み込まれており、企業の生産活動の成否をにぎるまでになっている。水俣病発見の二十年の歴史をふり返るとき、その原因究明は企業によってさまたげられ、県・国の行政でさえ、その隠匿に力をかし、その防止にいたっては、今日にいたるも根本的改善がなされ得ないでいることの裏には、水俣病が人体の病である以上に、決定的には社会病であることを物語る。
チッソの二十年にわたる防戦のプロセスには、水銀のもたらした”技術革新”、それによってもたらされる利潤があまりに大きく、仮に一部被害民に代償を支払っても、なお収支あいつぐなうに足るものであったこと、また水銀が化学工業にとって、成長の「鍵」的物質であることを明らかにした。
したがって、医学の面から水俣病をみる場合、その原因物質(毒)の所在を、未知のヴィールス発見と同じプロセスでつきとめ、摘出することではとどまらず、その治療と処置についても、たえず”社会病”としての水俣病の認識にふれない限り、臨床も病理も、その固有のサイクルを閉じ得ないできた。水俣病にかかわった医学者、科学者の足跡をみるとき、社会病であるが故に、たんに医学の分野に没頭することを許されず、たえざる社会化と公然化をもって医学の壁を破りつづけなければならぬことが分るのである。
しかし水銀はもともと劇物、猛毒でありながら、残念ながら、化学工業とむすびつく一部の化学者・薬学者・技術者の面から水俣病の原因物質として明らかにされたことはなかった。また、その使用・生産現場の労働者・技術者からの危機の呼応は、当時きわめてまれであった。まず「無機水銀は無害」といった教育をなさしめたものは、資本の暗示力であり、これを支えたのは、人間を機械視する、あるいは人間そのものの健康をみるのではなく、それを”労働能力”としてみる人間欠落の思想そのものである。つまり水俣病ほど、典型的にその毒、その有害物質についての非人間的・反人間的思考によって、長期にわたり、その誤りが維持された例は少ない。
したがって医学として、単にひとつの疾病として水俣病をみる医学プロパーの立場とともに、一方、社会的病いという哲学的解析の道をも求めざるを得ない。ゆえにわれわれが映画で『医学としての水俣病』をとり上げる場合、先進的医学者・研究者が放射しつづけている”社会病”としての病像の根底的把握にまず着眼しなければならない。ひとつの病理現象をみる場合にも、その被写体のどの病変・どの部位をみるにせよ、そこに全人体、全人間を復元する想像力をもたねばならず、その追究にあたって、その被害に対する加害者という、社会的複合体として「われわれ」を浮び上らせざるをえない。
医学について素人であるわれわれが水俣病を映画であきらかにするためには、あくまでも知的に実証的に追究した結果が、観る人の間接体験となって、必ずや実践的でアクチュアルな反自然・反人間的思想との闘いにおもむくことをねがう。おそらく、この”社会病”という概念を共有する立場が、この映画の生成の共通基盤となり、医学に新らしい哲学の芽を見出すモメントとなろう。
B 第二に水俣病は「毒物中毒」であり、その最終的病像はいまだ明らかでないとの立場にたつ
おそらく水俣病の病像の最終的把握には、胎児性として生まれた患児(者)がその一生を終えるまでのすべての症状をフォローする数十年あるいはそのつぎの世代を含め、長年月の”実見”を必要とするであろう。しかもそれは”認定”された顕性患者の場合をとってのことであり、不顕然(註・その多くは潜在している)患者の基盤的存在を考えるならば、今世紀からはじまった、類的人間の総破滅の予兆期から露頭期への過程にあたると位置づけられよう。したがって、臨床の線からも病理の線からも、今日注視されている、いわゆる”疑わしい”病像についても正確にふれる必要が求められよう。いわゆるハンター・ラッセルの主要症状のかげにかくれた、非典型的症状にメスを入れている現研究者の推理と予見に添うことである。
あきらかに「毒物」であることが、いつしか病源菌的なパターンにむかっていないか。ゆえにあらためてこの毒性についてのイロハから映画をはじめてみたい。
そもそも、最初に、この有機水銀が激しい毒性をもち、人間のもっとも人間的なる部分を選択的に破壊し、他の毒物ならば、もっとも潜入困難な脳中毒、神経をおかす物質であるという、他に比をみないその特異な毒性を克明にあきらかにする必要がある。死亡率四十数%とは、水俣病発見期の急性激症の続出した時期の多量の毒物摂取による死のパーセンテージであったとしても、いま”生存患者”の体内にある毒物の死に至らせるまでの道程がどのようにあらわれているかを可視的に見たいのである。その一個の肉体(患者) が医学者に訴えている各因子は、その内臓や胎盤にいまだ”不顕性”として残留し、隠れているともみられるのである。その毒性の究明に徹底的でありたいのである。
C 水俣病は全生物の生活連鎖に発生機序をもつ病気であり、生物内での濃縮と蓄積が特徴である。
今日、”水銀列島”とか”一億総水銀漬け”とか言われている。しかし真に恐ろしい水銀のメカニズムは少しあやまれば、聞きなれた”用語”の世界に収斂しかねない。これは医学者の実験を重ねたはてのイマジネーションであったはずである。水俣湾と不知火海に日本列島の水銀化の縮図をみるという(白木博次氏)アプローチは、水俣から日本をみる逆照射的見方をさらにすすめて、すでに顕然化された有機水銀中毒=水俣から総水銀のたれながされた列島=全日本へと科学的予見の線をひかれたものと思う。その見地をうけてたつとき、われわれは病理・疫学・臨床のとらえてきた自然とヒトを含む全生物についての生態学的なアプローチに立ちかえる必要性があろう。
水銀がプランクトンをへて小魚・貝類に、その摂取により、より大きな魚・猫そしてヒトへの構造はすでに明らかにされている。それはまたヒトによる自然系の破壊による。
あらゆる医学者の探究のむくいは、その病気の原因の発見が、とりもなおさず、治療の発見につながることであろう。それは医学者にとって、他者にはうかがい知れぬほどの歓びであるはずである。しかし水俣病はその趣きを異にする。治癒の途、全快の道は、その病因の根源=有機水銀を発見したときに絶たれたのである。
その医学者の苦悩は『医学としての水俣病』を撮るわれわれの痛苦でもある。しかも水銀はその海への、大地への拡散を終え、それが生物連鎖の過程に入り、ヒトの破壊に到達した今日の現実からふたたび出発するのである。しかも有機水銀が、その特有の濃縮と蓄積のメカニズムをもっていることを明らかにする以上、そのすべての因果関係の源流であるその毒の発生源、その発生について放置する人間たちに対する焦点操作をも果さなければならない。
その発生源への攻撃がせめてもの防衛であり、今考えられる唯一の”治療”の前提であり方法であって、そのほかはテクニックの上の方便にすぎない。その点現在行われている不知火海漁民のチッソ工場の封鎖、操業停止、排水口の封じこめは、医学的にも、まったく正確無比な対策であり、他により以上の方法は考えられないのである。
この映画『医学としての水俣病』では医学と「漁民闘争」、医学と「SF」を並行して描こうとは思わない。想像力のベースはあくまでも”水俣病とは何か”の究明におかれる。だがその究明のはてにはひとつの医学思想の変革をせまる巨大な実在としての「水俣病」が存在することは予見できる。
「水俣病は決して治らない」という終末的イメージから眼をつむり、逃れることが出来ないところから研究はつづけられているし、こ の映画の対象世界はその点で動いている。もし”人間”に復元力があるとしたら、こうした終末的な病理のメカニズムに対するあくなき探究がつづけられていること自身に、新たな人間(医学)思想の芽ばえを見いだし、それに依拠するほかないであろう。
”人間のあるがままの健康から何が奪われたか、それをしかと見、それを防ぐ医学が生れるにはあと百年かかるであろう”という学者の意見は、こうした思考あっての復元力への基本的信頼とみたいのである。そこには水俣病の病理にみるその破滅性を究極まで知りぬいた人の中に、にんげんとしての闘いが同時に展開されねばならぬと思うからである。病因究明から治療の途へと辿り得た今までの”医学”の道すじを根本的に転換せざるを得なくさせるのが他ならぬ”水俣病”である。今までのようにその症状の特長から、対症療法的に適応する”医学”ではなく、この症状の特異性から、逆ににんげんの総体をみ、にんげんとかかわる自然の総体の異常へとメスは進まざるを得なかったー。数十トンの貝も数千匹の猫も、それゆえに供養の対象となったー。有機水銀のメカニズムをみると、貝すらも選択的にその神経節をおかされており、猫の狂死が人間のそれと酷似しているという自然世界の病いもヒトの場合と同じ重さで映画は表現しなければならない。それにはわれわれ記録者が被害と加害のコンプレックス体として、その矛盾をバネとし、表現者としての自分をこの自然系のあらゆる検体にむきあわせることである。
知る過程をつきつめると真実の発見にいたる。認識にいたる。その先に”警世”の論理をおくか、行動の原理をおくかーセンセー ショナリズムにいくか、おのれの自然性の再獲得におもむくかーそれはこの映画のスタイルから内容のすべてにはっきりかかわることである。
D 何故、水俣病に焦点をしぼるのか
当然のことながら、今後、水俣病は他の数種類の公害物質と複合し、多様な非健康状態をともなって顕然化するであろう。いわゆる四大公害物質、水銀・PCB ・カドミウム・BHCのなかで、何故とくに水銀に照準をあてつづけるか。それはほとんど、われわれのこの数年の映画の作業が水俣病への継続であったことに規定される。しかし主な関心はその象徴性にあるといってよい。有機水銀の傷害は人間の人間なる部分、動物の最も動物たる部分を冒し、濃縮と蓄積をへるものであり、そこにはいやおうなく根源的な変革を余儀なくされる問題が集約されている。しかもその汚染の原理が端的に明快に、人為的・物質文明的に根拠をもち、技術主導、工業優先のパターンによるもの、つまりわれわれが作り上げてきた現代資本主義の源流そのものからのたれながしであることにある。
現実には水俣ばかりでなく有明海などにも見られるように、水銀はPCB、カドミウム等と複合しつつ登場している。その多因性疾病のなかから、水銀、とくに有機水銀のみを抽出することは、ある不自然さを免がれ得ないかもしれない。だがわれわれのいまもつ力量からは、水銀ひとつに傾注し、そのもたらす悲劇について、今の段階で映画として描きうるすべてを描くことであろう。PCBは全面的な生産中止においこみえたが、水銀については、全日本苛性ソーダ工業会によれば昭和五〇年時に五割の設備(工程) 変更すら結論が出ていない、水銀触媒への固執はなお根強いのである。まして水銀ヘドロの処理についてはその方法論さえあきらかではない。つまりこれほどあきらかにされた毒性にたいして、いまだ技術論で処理しようとしている段階である。こうした実状を許しているのは、ひとつにはわれわれの感性の鈍化でもあるにちがいない。いつの間にか”水俣病”が手垢にまみれ、新らしいことでもショッキングなことでもなくなり、マスコミの意識操作によってその鮮度をいつしか失っていることではないだろうか。
われわれは映画というその限られた能力と守備範囲を考慮しつつも、上記のような観点にたって積極的に”水銀”に固執したいのである。おそらく”医学映画”を通じて発見される有機水銀のメカニズムとその社会病の病理原則は必ずPCBにもカドミウムにも本質的に通じるはずである。なにより映画をとる作業、その映画を普及する仕事により、われわれ自身がもつ、ふるい水銀とのなじみを洗いおとし、水俣病の原点にたちかえって、医学の実態とむきあうことである。そうすることにより、映画は医学の仕事をフォロウしつつ、それとは別に映画そのもののちからをあらためて帯びることができるだろう。
E どの立場で撮るか
くり返しのべたように、われわれは被害者ではなく、また医学の専門家でもない。いわば映画プロパーであり、映画としての責任を負うものである。今日までの数篇の映画製作において、たえず患者さんの場から物事をみつめようと努めてきた。しかし「スローガン」的に政治性を出すことにはひとつの抑制を働かせてきた。それは人間がひとつの正しい認識にいたれば、その人間には必ず実践力が生まれでるであろうというリアリズムに立つからである。さらにストレートに言うならば、水俣病は現代、はじめて登場した毒物中毒であり、いかに不顕性とはいえ、その発生源を中心にうまれた総自然の破壊である以上、最終的には疫学的方法により、その地域住民に対する総被害として率直にこれをとらえ、毒の所在をつきとめ、その源をたち、ひいてはひとつの企業、県・国にいたるまで、糾弾し、制裁し、経済的にも物理的にもこれらを追いつめ破壊し、水俣病が畢竟、治癒不能としても、次善の策として取りうるものはすべてとるという立場にたって撮る。
だが、このことの困難の連続が水俣病の歴史であり、究明にあたった医学者の苦難の歴史であったことも知っている。いまでこそその道程が、結果物としての研究資料・記録として残され、一定の評価を得てはいるが、この間の難儀の背後にある人間、人命軽視の巨大な流れはいまも変ることはない。今後も水俣病の発掘にあたって、おそらく現代の総公害・総健康異常のなかからあらためて”水俣病”をとり出すことへの政治的な諸反響はあろう。歴史的な水俣病裁判判決いご、水俣病の「行政的始末の段階に入った」とする風潮をみれば分ることである。今後の不顕性や他の疾病の形をとってあらわれる被害民にたいし、「純粋な水俣病かどうか」とか、「この人間の水俣病は、最低補償千六百万円に値するかどうか」というかたちで、つまり水俣病と認めないことで、その補償救済のみちをとざし、企業の支払い能力を云々し、その出費を防ごうとするのが、資本のこれまでも、また今後も一貫する方針であろう。
そのことを考えるとき、われわれは汚染された生活空間の被害民の立場にたって、病理・疫学の現代の研究事項に、よりスペースをさかねばならない。医学者のもつ想像力に映画的に正確に応えうるものでなければならない。その点この映画は、医学者の立場に添いつつ、その実証的、科学的な部分と、映画個有の感性的部分を有機的にむすぶことにより、かつて例を見ない質の表現をかくとくしなければ、映画をつくる意味は半ば失われるであろう。
F 記録・資料としての水俣病をいかに扱うか・・・いかに歴史として今日にとりだすか
(シリーズのうち”資料篇”と関連して)
水俣病の全記録はたとえ一枚の写真にしてもいかに貴重か言をまたない。水俣病二十年の歴史は、諸個人の手でその責任において記録されてきた。したがって、その記録・資料について最も正確にコメントできるのは他ならぬその記録者以外にはない。歴史的な映画フィルム、写真をもってする”資料篇”は水俣病にかかわった人びとの証言集でもある。その水俣病と出会った当時の回想・記録の意図、その事実の説明を中心に、その人と水俣病との”関係”をインタビュー、述懐・コメントをもって不可分に構成し、水俣病の歴史をたどろうとするものである。
前水俣市保健所所長の八ミリ映画が、昭和三十四年十月二十一日、国会で上映され、大きな衝撃を与え、国会議員の初の現地視察をつよくうながすきっかけとなったように、すでに社会的な力を発揮した例もあり、徳巨晴比古氏(熊大教授) の臨床記録は新潟水俣病の裁判に物証として提出され、すぐれた証言力を果たしたと聞いている。さらに昭和四十七年、ストックホルムで発表された原田正純氏の胎児性水俣病患児の認定時(昭和三十六・七年)の臨床記録は、世界の医学者に雄弁に水俣病をつたえた。こうした、医学の手になる映像資料がどのように高い価値をもち普遍性をもつかはのべるまでもないであろう。
また写真では桑原史成氏(フリー写真家)の体系的な水俣病のドキュメントや、その後の塩田武史氏(フリー)の長期の記録作業は汚染された地域社会の生活全域の記録であり、病状そのものや死者の肖像を記録するとともに、その社会的背景や運動まで克明に記録している。これらの発表までには長い時間をへなければならなかったにしても、映画フィルム・写真記録は、水俣病二十年の内側の記録として、それを記録した諸個人の思索と行為の外化として存在し、可視的なものとして残されている。オリジナル・フィルムは消耗している。その物理的耐用年数・その記録者の高齢化からみて、一度は力をあわせて、再コピーし、そのコメントをつけて資料とし、生きた歴史としなければならないだろう。”資料篇”はそのようなものとして企画されるものである。
また二十年間の資料にそのつど登場する患者を時間的にタテにつないでみるとき、その症状の変化、リハビリテーションの効果、その精神の年代的な変貌のあとをたどることも可能であろう。たとえば胎児性重症患児、半永一光君の場合、その父親をふくむ一家の歴史とともに、家族、主治医、特殊学級教師のそれぞれの証言や、診断、観察、療養日誌などにより胎児性患児としての十数年、その間の、感性、知能、運動能力、神経作用の今日の到達点をあらためて見ることも可能であろう。
また公文書によく行政者によって記入されるように水俣病とは「病状は固定、もしくは軽快」(公調委への申請書より)するものなのか。青・壮年別でありながら症状が、緩慢にときに急激に悪化し、かつての資料と比較した場合その病像の進行が一目瞭然たるものもあろう。
この資料篇はそれぞれの記録者の歴史的作業として、もっともふさわしい形でのこし、今までの行政の水俣病始末の歴史に対置したいのである。
G 水俣病に関する”決定版”の映画をつくるのではない
われわれは水俣病についてほぼひとつの病像をもっている。にもかかわらず、目下「水俣病とはなにか」という日々新たな闘いがある。それにふれる研究を撮りたいとのぞんでいる。水俣病の病像探求のプロセスを今日見なおすとき、その底は深い。この映画も当然過程篇であり、中間報告篇であり、数年先になってみれば、落丁だらけの本のごときものであろう。したがってこの映画自体も、新たな”資料” の一部に組みこまれることを願って作られるだろう。
医学の専門的な分野、より高度な分析過程においては医学者・科学者間に、見解・学説の微妙な相違点も予想される。それはそのままのこし、かつての八ミリ映画の記録者、医学用フィルムの記録者のしごとがそのまま資料化されたように、この映画も現時点の記録資料としたい。
したがって統一見解は強いて必要としない。ゆえにそれを領導するような「監修」の形でなく、「執筆者」を明記する資料集のような形でありたい。その際、映画の責任はあげてスタッフにあり、その社会的な批判のすべてを負うこととしたい。
G 誰のためにつくるか
この映画の対象は専門家だけでなく、水俣病にかかわろうとするすべての人びとにむけられる。前作『水俣ー患者さんとその世界』の海外需要からみて、欧州、アメリカ、オーストラリア、中国等の諸国に究極には普及されるであろう。
医学をテーマとする以上、医学・化学等の専門的知識なしには分らない概念やカテゴリーがあるであろうが、その難しさをさけて作ることはしない。しかし映画は映画であって、直接体験でも、専門書でも臨床カルテでもない。主として水俣病に関する医学者の思想の感性的、可視的表現をもっぱらとしよう。われわれが医学の側面から水俣病をみようとする上で、作り手のわれわれがもつ疑問や追究に、ある徹底性をもつ限り、映画の本質は見るひとに必ずつたわるはずである。
最後に自戒をのべる。
映画をつくるにあたって、われわれ自身がまず、よってたつ基本は”警世家”的映画にしないこと。”客観的”な説明映画にしないこと。ぶあつい経過をへての「結論」、公的「資料」となったものの最終段階を映画として横どりすることなく、つくり手であるわれわれが追体験し、その上でひとつの結論にたどりつく・・・そうしたプロセスの表明を映画とする。
「調べること」「学ぶこと」への敬虔な態度と、以上の主体的な姿勢が保持されるならば、それは必ず映画表現とその方法に像を結ぶであろう。それへの共感を基礎に、映画はそれを求める人びとのものとなるのではなかろうか。
「水俣病のことは患者さんにきけ」という原田氏の態度をわれわれも原点とすること、それ以外、何もない。
1映画の形式
(a) 十六ミリ カラースタンダード・サイズ
(b) 上映時間 各一時間
(c) 同時録音方式
(d) 日本語版ののち、英語版を作成することを考慮に入れる。