天草からの手紙-拙著『わが映画発見の旅』によせて- 「水俣」 第116号7月 水俣病を告発する会
私は不知火海水俣病元年と副題に名づけたことを分ってもらえたかどうか、不安を抱きながら、天草の人の反響をひそかに心待ちしている。水俣だけの水俣病という思いこみを打ちくだくために、新潟水俣病、徳山水俣病という言い方を念頭におきつつ、ゆるやかに長い時間かかって不知火海沿岸の人びとを冒した有様水銀中毒-熊大武内忠男教授が二十年余かかって追及しておられる慢性・不全性水俣病の現場でもある、水俣対岸の天草・離島の病像をあえて不知火海水俣病と呼び、しかもその元年-或いは零年というべきかーと言いたかった。
私は著書にすべて実名を記した。その天草・離島の登場人物百余人と各町村の長に計二百冊の本を一カ月がかりで送付した。
”非汚染地”牛深市深海の胎児性様患児の子供二人をもつ長松季利さんは、あえて彼だけN氏と記したのに、写真を出すなどへマをしたのだが彼の手紙にこうあった。
「私共、重症児を二人も持つ親として、世間様に御迷惑をかけておりますが、絶望から立ち直り、毎日の生活の中で、自分の持てる能力を最大限に生かして地域社会に少しでも貢献できればと思って居ります。今夏は近年まれな不漁と、合わせて燃料費などの高騰で苦しんでおります。……不知火の空より今後の貴殿はじめ皆様方の御健勝を祈念致します」
明眸の二少年のかたわらで個人史を語られたまっ黒な氏からの「おゆるし」の印と私はうけとった。
離島御所浦の白倉幸男氏は半ば失明の身である。夫人の代筆で
「せめて印刷の香りだけでも匂わせて戴きたいと思い手さぐりで一枚一枚頁をめくってみました。そのうち家内が読み聞かせる事を楽しみにしております。
いただきし著書の印刷匂いつつ目を病む吾の生命昂ぶる」
と一首そえられていた。
二千円の切手を礼状と共に送られた姫戸の久保則義氏は巡海映画の第一夜の区長である。この第一夜の住民の心のうごきを物指しにしてその後の百余日を踏みだしたものだ。「……然かも慣習の違いや言葉の不明瞭などに悩まされつつ住民との対話に、又綿密な調査に、良くぞここまで調べが出来たものと感堪するのみであります。竜ヶ岳、倉岳、御所浦など近町の知名の人びとの名前など出て興味は倍加されます。……せめて一人でも多くの人びとに著書を回読させて、公害に対する理解を深めることが先決ではないかと思います」こうした手紙や葉書が数十通届けられた。
熊本県知事沢田一精氏や浮池一基水俣市長からは何の音沙汰もないのは当然であろう。
かつて巡海映画に苦渋一ぱいの表情をかくさなかった前竜ヶ岳町長辻本市之助は、氏についての記述の中で町長選挙は敗れたのではなく勇退したのだと御訂正をいただき恐縮した。その一文に
「当地は昭和二十三年頃までは、全く外部との交通機関も船以外は無く、現在町の各部落間も山を越すか船かの全く孤立した部落であった訳で、近親結婚、性病等によるか存じませんが、可成り現在の水俣病的患者が多くして、吾々子供の頃は「オロンベ」「ナエ」と称し、さげすんだもので、貴殿の挙げられているひとの中にもその様な家系があるのです。そこで一般に水俣病に対する違和感が多いと存じます」とあった。にもせよ原田正純氏はその典型的水俣病をすでに拾い出されていた。私は誤りのお詫びをかね、まだ天草に通いつづけますと書き送った。その返事に氏は「なんと申し上げましても、水俣病の発生の原因は、まざれもなくチッソですから、仮りに日本農業の発展速度が落ちても、チッソは潰さねばならぬ企業であると思いますので、頑張って貰わねばならぬと思って居ります。
一句、梅雨晴チッソ(公害)
の街に煙見る」
私はこの本の行方をおって、この八月三週間の天草の旅に出ようと思う。(水俣・大和屋旅館にて)