書籍「逆境のなかの記録」 水俣病の未来像をさぐりつつ
「水俣病はもはや終った」などと私のまわりですら時に聞く。裁判とその後の自主直接交渉(昭和四十八年三月~七月)を終えたあとからである。たしかに、補償金にプラス年金を獲得して二十年に及ぶ法的なレベルに決着を求める闘いは一つの節をむかえはした。
その後一年、水俣を通りすぎる人々は、新増築ラッシュによってリゾート・ゾーンのように変った旧多発部落地帯をある感懐をもって眺めよぎる。そして、一つの歴史が終ったかのような思いにとらわれる。だがその言葉をよく反芻するならば、水俣病のもつ”関係”つまり一度それにかかわったものをひきつけつづけずにはおかないある関係がいかに深く、長く続くものであるかを知るものの声である場合が多い。裁判闘争が孤立無援の中で始まったとき、十年裁判を覚悟してその支援に立ち上がった人々がそのつきあいの濃さとそのどこまで意と心と体力を費やしても充分とはいえぬ関係に一つの区切りをつけたい、いわば”健康者”の側にある、あるゆとりが、この裁判後の一服の時期に冒頭の言葉をはかせたとしても無理はない。しかし少しでも水俣現地と、水俣病像を知った者ならば、これがあと十年二十年、あるいは二代、三代にわたって、この地の人々が負う病苦と業苦であるとと、そのリアリズムに眼をおおうわけにはいかない。
たしかに水俣病発生以来二十年余、漁民闘争あり、患者の孤独の座りこみ闘争(ともに昭和三十四年)あり、昭和四十三年九月の遅すぎた厚生省見解によって、「公害」と認定され、それに心をはげまされて、補償を求めるに至り、その一部二十九世帯が裁判へと事を起こした。この裁判闘争が、いわばすて身の「人命」を金にあがなっての方法を通して、「怨」を噴出させる闘いを生み出した。その過程で、ときに株主総会乗り込み闘争とか、非人行脚とか、厚生省、環境庁への訴求行動へと及び、ついにチッソ本社前のテント闘争、社長との直談判等、時に闘いの苦しさとともに、浄化作用、昇華作用さえともなうかのようなピークもあった。そして、それが昨年(一九七三年)春から夏にかけての一生を問う闘いに至って一つ節を終えたかにみえた。私にもそうみえた。
というのは、死者最高四〇〇万円という昭和四十五年五月の補償処理委(厚生省あっせんによる)の水俣病への始末にみられる「水俣土着民」への命の値段は、三年後、裁判をうった人も、息をつめて城下町や漁村のひだにひそんでいた人をもひとしく一八〇〇万円(死者) のレベルに引きあげた。これは訴訟派患者の闘いによってのみ可能であった。また昭和四十六年一一月から始まった、川木輝夫、佐藤武春さんらによる自主交渉闘争、チッソに鉄格子をつくらせ、五井工場での暴力事件をひきおこさせた根源からの闘争は、「厚生省次官通達」を出させるに至り、「疑わしきものをも救済せよ」と下達文書を発行させ、これによって、患者救済はいく分でも広く行われるようになり、いわゆる「新認定患者」を認めさせた(カッコをつけたのは依然としてチッソは新認定は水俣病にあらずという反駁の余地を今日も残しつづけているからである。それはのちに触れる)。そして、年金、医療費等をめぐっての執拗な闘争は、補償金のみで一切を始末しよう、あとビタ一文も払えぬと居なおったチッソに対し、不充分とはいえ生涯の保証という被害民との”関係”を結ばせた。この一連の交渉は、「告発する会」や「水俣病市民会議」の介ぞえがあったにせよ、基本的には、自らの病気の未来をだれよりも知る患者によって発起され、になわれ、決着がつけられてきたことである。そして闘争の結果、獲得した成果は、闘わなかった患者、闘い得なかった最も弱い部分の患者にも、皆ひとしく適用されることになった。それは以後、患者各派グループ内部に問題をいく分残したにせよ、水俣病闘争の中心の糸はそのようにないまぜられて一番たしかな糸すじになっているといえるだろう。
チッソは、昭和四十三年三月、判決の寸前控訴を断念した。これに似たケースとして新潟水俣病の際にとった昭和電工が先例となっている。チッソは、企業が補償の重荷のために倒産しかねないという危機感をふりまいて防戦につとめたが、当時の総資本のチッソへの蔭ながらのバックアップには極めて高度の政治的判断が働いていた。それは二つの動きに集約されるであろう。
一つは、チッソをしてあくまで補償当事者としての立場をまもらせ、その累が他企業、政治権力中枢に及ぶのを防ぐことである。そのためチッソの資産を譲渡売却の途をひらき、借金の金利をすえおき、切りさげ、資本に極めて強力なカンフルをうって当面の危機をのりこえさせるために手をうった。そして、「公害健康被害補償法」を次の公害闘争にむけての盾にすべく、全力をあげて、その検討、整備を急いだといえよう。公害型企業の出資、基金によって、損害を与えた患者への即時的救済の名分を満たそうとする「損害保険」的構想である。しかも障害の程度によって、特級以下一級から三級までの四ランクをもうけ、生ける屍が一〇〇%、「日常生活に、制限をうけるか、労働に制限を加えなければならない程度のもの」で、かつ「環境庁長官が定める基準に該当するもの」が一二〇%という格差をもうけ、且つ女子は男子の二分の一以下という性差別を内容とするものである。これらは、すでに「解決」をみた二大水俣病(熊本、新潟) やイタイイタイ病をのぞく、他の公害に適用するために全力をあげて成立させられようとしている。
チッソを正面きって防戦させながら、うらで公害病患者の大群をさばこうとした立案がいそがれてきた。政府は時をかせぎ「水俣病」はひとまず終ったといわしめる余裕を得たのであった。
いまひとつは「医学」なるものを通して、公害病をコントロールすることをこの間一貫して企図し実行してきたということである。私たちは今、「医学」としての水俣病を追求した記録映画『水俣病・三部作』を撮っている。咋年八月から始め、最終撮影は数日前に終り、いま仕上げ作業にかかっている。ちょうどこの一年、私たちは、医学がどのように水俣病に対応してきているのかをつぶさに見てきた。そしていまこの「医学」なるものが、自らの学問的権威を自らほりくずして、裁判以後の政治権力と歩調を合わせて、一つの患者処理システムを作り出そうとしていること、同時に新たな地区に水俣病が発生している可能性に学者としての眼をふさぎ、なべて「政医」ともいうべき動きをつよめていることに私はいきどおりを感じている。
たとえば水俣でも、新潟でも、事情は同じであると確信しているが、今は水俣の「水俣病」に限って話をすすめている。話は少し前にさかのぼるが、昨年三月、チッソ首脳と自主直接交渉の患者との日夜連続の交渉の席上、島田賢一社長のことばの端々にでたもので、今日、改めて重要な意味あいをもつものがある。
この交渉は、裁判判決後、ただちに上京して行われ、チッソは、長年、直接に責任者が会わない・・・つまり責任ある言質をとられたことのない・・・いわば第三者仲介方式の崩壊のただ中に行われたためか、一挙にボロボロと本音を吐きだした感があった。その中で、島田社長は、患者の年金、治療費、介護等の諸手当の要求の中で、それが認められない事情を語りながら、「今日、参議院の委員会によばれて、田中、福田、三木、中曽根さんのおられるところで、いまの患者さんの要求をのんで、もしチッソがそれを払えなければ、国が代ってお払いになりますかと私は聞きたかった。どうするんですかとー。しかし、それはのどもとまで出たが言わないできた。しかし、本当のととろ、そうですよ、私たちが払えなければ、国は見殺しにするんですか、患者さんをほっとくのですかと・・・」。こ のとき、私は社長の背後でマイクを把んでいたが、それが社長の正直さであることは分った。彼の思想構造、彼の脈絡、彼のスジからいえば、政府は、野党の追求の矢面にチッソをのみ立たせ、三木長官はさも患者の立場を理解しているようにいって点をかせいでいるが、チッソを倒産させ次にその結末をひっかぶるのは国家そのものになることを自覚しているのか、あなた方は! といわば閣僚の前に啖呵を切った気持をのべているのである。だからそれは、「ですからね、私がこれから出てくる皆さん患者さん方の要求をのむことは、いわば、今後国家が払う補償金の額を私が決めることになるんですよ。ですから、とても私が軽々しくおひきうけするとは言えませんでしょ、そうでしよ!?」という「心情」吐露につながるのである。これが、患者の腑には一向におちることなく、かえって事態を「被害者かな、加害者かな、あなたは・・・」と煮つめる結果しか生まなかったが、世界を別にしてみれば、チッソはまさに、全資本、全権力を背にして、矛盾し、懊悩し、危機にひきずりこまれる一瞬であったことが分るのである。そして島田は、「知る人ぞ知る」をたよりに権力に代って見事に耐えたのである。そして交渉を長びかせ、その間に、権力内の調整をとりつけ、要求をのむ形で危機脱出をねらったのであろう。
そしてその際、さらに(私にとって)重大であったのは、彼が今後出る患者の総数について、ほぼ概算をたてていたことである。
昭和三十年代の終りから四十五年まで、医学は患者を典型例に限ったため、一〇〇名前後から一二一名までに数年間とどめ得た。しかし患者数は数千、数万といわれてきた。これが次第に患者の闘いによってつきくずされてきた時期でもあったが、社長は席上、彼の見通しをのベ、それに見あった補償をするだけで精一杯、「それも今成算はない。まして、生涯の保証はとても無理」とのべた上、「私は一五〇〇人位の患者が生まれるだろうと思っています」と白状した。これは、新聞や研究者の通説のうけうりと見るわけにはいかなかった。チッソはチッソなりの筋道を通って、「患者」として認めざるを得ないギリギリの数の試算をすでに判決までに終えていたことになるのである。当時(昭和四十八年四月五日現在)認定患者数四五一名(うち死者七十一名)そして認定をまつ申請者六二八名、合計一〇七九名であった。つまり、あと認定患者一〇 〇〇名はふえるものとみなし、その根拠をかなり克明に洗っていたと思われる。今日、一年半後、申請者中、未だ認定されないもの二三六七名といわれているが、その後の認定作業は、遅々として進んでいない。隔月一回の審査会で各回七〇名前後、しかもその中で保留、棄却が半数近くになっている。世論の想定とはうらはらに、今日七〇〇名余しか患者として認められていないのである。にもかかわらずチッソは、その時点で一五〇〇名分の補償の試算をし、その支払い期闘をコンピューター的に計算した上で、交渉の席上にのぞんでいたことになる。これは逆にいえば一五〇〇名以上の患者を認めることは、企業の限界限度であり、認められない、認めないという居直った意志に切りかえる変化値として想定していたことであっただろう。しかもその後、交渉の中で、年金、療養費等を認めるに従い、患者の”発生”をさらに厳しくせばめたい事情に追いこまれていると見るべきだとしたら、そこで医学がどのような役割をはたさざるを得ないか誰の目にも漠然と所業の輪郭が浮んでこざるを得ないではないか?
私は資料や出典をあげてこの稿を進めるととも考えないではなかった。しかし私は論文や研究資料を書くつもりはいまのところはない。私ののべたいことは、「水俣病」をめぐる未来である。今日、本当に終っていないと感じる自分の中の苗床をそのままさらしたいのである。
私は医学に関しても科学に関しても、正直いって強くはない。精密さを欠くであろうし粗放な理解にとどまることも恐れる。したがって医学の映画を撮りすすめながらも、自分のその欠点にはつとめて補正し、原型資料、ナマの意見で構成し、水俣病の現状をそのまま呈示したいと努力している。
しかし、この一年、胸底に堆積しつつある怨念は、百例近い生きた人問、患者との交渉と見聞、その土地のありよう、歴史、現状とからんでの疫学的知識の蓄積といったものから、ほぼ確信に近いあるものがかたまりつつある。それをいま解放する作業の一助として、この一文をかりて、映画化に必要な行為としての心の中の整理をさせてもらいたいのである。
医学者とはそもそも何人であろうかと私は思う。大学の研究室や教授室をおとずれ、その部外秘にひとしい資料や記録をたずね、そして、医学的判断を聞いてまわる。それは神経病理の世界であることが多い。熊大助教授、原田正純氏との場合のように、現地水俣で、実際の患者との問診、触診、簡単な検査といった臨床的行動をとるときは、映画は生き生きと活動できる。しかし病理や医学的判断の場合、「水俣病」をめぐっての医学者の見解は、今日の現状に垂直におりなづんでいかないのである。
そこには、第三水俣病、第四水俣病といった、極めて国家的規模でパニックを起こしかねない大問題が、各医学者のひとりひとりの肩の上にあるのである。学問的良心にしたがい事実を事実のままレポートし、発表した学者が、今日いかに叩かれ、そのパニックを沈静せしめる学者が、いくつもの委員会の中で主要な座をしめていくことを見聞してきた。そしてその争点はいつも専門的な純医学論争の形をとって終るだけに、私たちが口をはさむ余地はほぼない形で結論づけられているのである。
たとえば、水俣病をどう見るかについて、病理学の所見が今日、ある程度はっきりした標本を作りあげている。「水俣病」と認定されないまま放置されていた人が死んだ。生きている間、臨床はそれに悪性性病による脳中枢障害だとして、水俣病とはみとめなかった。だが、その人の住いは、水俣の中でも長も高度汚染された百間港のほとりである。漁もすきで、魚も多食した人である。疫学的にみてほぼ、疑う余地がないとしても、臨床、つまり生きた患者を直接に対象する神経内科系の医師の判断が、病理学者の推論と矛盾する場合には、病理は解剖による症状のつきとめと証明によって初めて発言できるのであって、それは死んだ場合に限られる。
前記のケース(Tさん、昭和四十五年七月没)の場合、死後解剖によって、初めて水俣病と追認され認定された。その場合、通常は誤診といわれ、医師としての判断の正否が問われるべきだと思うのだが、水俣病に限って、その責任が問われることがまずないのは不思議である。まして、加害者がチッソとはっきりしており、被害者は生命、健康の補償をうけるべきであった人間の場合、その生前に得べかりし救済が受けられず、それのみか水俣病と訴え出て、それによって起こる社会的圧迫の下で、他の病因をもって処理され、病苦の上に白限視までされる状況の中での誤診である。それも疫学上議論の余地のないケースにおいてである。医師が水俣病に直面して当然考慮すべき疫学上の問題のネグレクトこそ誤診の起点ではないか?
これは私があえて”誤診”と善意の見方をした上での疑点である。しかし正直いって、医師の一部には、水俣病患者に対して、一定の基準を設け、それ以外は認めないとする医学判断が水俣病史の中で強固に作りあげられてしまっていると見ないわけにはいかない。
大学の中に一歩入って、講座制というか医局制というか、一人の教授に一人の助教授、二、三人の講師と数人の助手、といった構成が、独自、独立の医学的業績や、その医学的見解に対して、いかに排他的で、セクト的であるかを知らされる。水俣病発見史の中でも、共同して原因究明にあたったのは昭和三十五年頃までで、あとは各講座ごとに相互に業績づくりに埋没して、いかに相互に重複した研究を行ない、研究内容を片々たる競争心によって”企業秘密” 化されたかをおぼろげながら知らされた。
たとえば、水俣病をひきおこす原因が、さかのぼっては有機水銀であり、それが工場から直接排出されたものであることを証明することが最後の課題となっていた時期、一人の教授が工場から資料を得られないまま、貝の分析に数年をかけていた一方で、他の教室では、排液を手に入れており、ひそかに分析をすませていたといった不快な話がある。そのことは大学医学部関係者なら周知のことであるが、これを相互に公然と批判しあうこともなかった。それまで、衆目の一致するところ、原因はチッソの排棄物にありとしながら、その確証のつかめぬまま、補償も死者三〇万円と値切られ、その証明を心まちしていた時期に、ある学者はその業績中心主義から、他の研究者の「さいの河原の石づみ」のような実験を知りながら、とびこえて成果を発表した。そのようなことが、大学内のコップの中の嵐ですむならばよい。しかし、被害者が加害者を求めて探してゆく過程のただ中での話である時、それがいかに大学、とくに医学部、そして特殊には講座制のセクト主義に毒されていたかを思い知らされないわけにはいかない。そのことはひいては、共同研究の相互の関係をこわしてきたことにつながる。
水俣病像について、いま極端にいって、熊大内の対立が最も鋭い、それに力を得て、有機水銀の汚染地区として問題視される、有明海、徳山湾、の水俣病患者の”シロク口論争”を担う専門家間の全日本的レベルの論争も二つに割れているかの感がある。もし水俣病の発生の原地点の大学であり、その臨床例、解剖例も他に比べようがないほど多い熊大が、水俣病像について共同研究の実をあげ、今日的問題で一致点を多く見出していたなら、いま旧帝大系の学者によって、水銀中毒の新発生を当面、のばし、かくしておこうとするような策動に致命的なブレーキがかけられただろう。だが、いま事態は最悪のように思える。
水俣での患者の発生以前の生活については石牟礼道子氏や赤崎覚氏、そして最近では労組機関誌「月刊合化」誌上の岡本達明氏らのルポルタージュ、きき書きで辿ることが可能となっている。私はあまりに遅れて水俣にいった。しかしよそ者でもあり、特に汚染のひどい東京から行っただけに、確かに分ることがある。そこには、かつては稀にみる健康な暮しがあったであろう風土がある。貧しさもあろうし、非衛生もあったろうし、激しい労働からの早老もあったであろう。それはしかし、日本の農漁村の生活、そこに一生を送った平均的日本人の生活と比べるとき、仮に雪国と比較するにせよ、仮に瘠土、荒海の辺と比較するにせよ、水俣、とくに漁村部は、米作の平野が乏しい分だけ恵まれていなかったとはいえるが、いもと魚、それにはことかくことはなかったし、不知火海の内海のやさしさは夫婦だけでも舟を漕ぎ出せるたたずまいである。そこには、人工的食物チェーンに毒されない純粋の食と人とのつながりがあり、健康の基準があり、それに見合った労働の形があったはずである。
昭和七年チッソのアセトアルデヒド工場が出来てから、水銀は流しつづけられ、戦後にピークを形づくる。その時点に、いわば直撃型の毒害をうけたのは漁民であろう。私たちは今回、工場労働者にもその健康を中心にインタビューしたが、同じ市内にすみ同じものをたべながらも、工場労働者はいつもガスを吸い、水銀蒸気に触れて、いわば都市型公害そのものといえる病み方をしてきた人が多い。工場に隣接した民家で、ガスや粉塵のため呼吸器系統をやられた人々も多い。これも工場地帯型の公害被害であり、その歴史は古い。その点でチッソは戦前から人々の健康をうばい、そのことで富を作ってきた。しかし漁業専従の人々はそこはちがっていた。「私たちには一種の免疫があるとじゃなかですか」と元工員の老人は言う、そういう人も老化は早い。その通りかも知れない。水俣病が市民に少なく、漁家に多いことから、くさった食をたべたという説は今も水俣に生きている。「そういわれれば、にが潮(赤潮のこと) で死んだ魚は食べてもよいといわれてたもんで、当時浮いた魚もたべたこともあったなあ」と、正直な患者の中にはそう述懐する人もいる。だが、神戸大の喜田村正次教授によれば「有機水銀を摂取した魚は神経部や脳にそれを蓄積するのであって、ピンピンしており、鮮度も高い。それが有機水銀毒の特性であって、腐蝕毒やビラン性の毒とそこがちがう。またそういう特性であればこそ、プランクトンから魚に至るまでの食物連鎖が起こる。死んだ餌で食物連鎖は起こり難いからだ」という実験例からいって、漁民の多くはやはり、最も美味しそうな獲物を食卓にのせ、それ故に多食し、発病したことはまず間違いない。そうした健康な生活の純粋さのただ中に有機水銀が直撃型に作用したのが水俣での水俣病だったと思われる。そこにはいわば他の物質による複合汚染があったにせよ、いわば、生来の人聞の食生活と近代工業の毒性のジカのぶつかりあいがあり、故に、急性激症型とよばれる水俣病の原型のような病像があらわれたのだと思う。
いまは伝承化された古典的水俣病の病状は今回、私たちの映画で初めて全面的に公開されることになった。これは当時現地を三〇〇回訪れたといわれる熊大神経内科徳臣氏の提供によってフィルムとして記録にとどめられる。それは医学者の手によってしかうつすことの出来ない地獄図である。ヒトはのたうちまわり、吠え、悶絶してゆく。体力は失われないため、狂った神経によって操られる五体がけいれんし、ねじくれまわり、全力をふりしぼって死に至るのである。このショックを語るときの医師の追想はどの人も同じく敬虔であり厳粛ですらある。
だが、このピー クの病像の強烈な印象ゆえに、今日、ゆるやかに病状を発現してゆく慢性水俣病や遅発性水俣病、或いは加齢性水俣病に対して、いかなる反応をもつだろうか?それらは水俣病の症状を示しているにせよ、外見上時に沈静している時、めだった症状としてはあらわれにくい。ただ人なみの労働が出来ず、人なみの生活をいとなむことが出来ないといった障害をもってあらわれるのだ。
「医師たるものが、かつての急性激症型を見てしまったから、あとの軽症について水俣病視しないなどということはあり得ない」と反論はあろう。しかし水俣病を死者まで看とり、或いは生死をさまよったかつての重症者を肉身にもつ家族(その遺族もすでに殆ど水俣病となっているが) さえ、「最近の患者は、俺げの父や母と比べれば、元気かもんな」と複雑な思いをこめて言っているのとどとかで気持がつながっていないだろうか?
かつて熊大の水俣病研究班の班長であり、発見期に官製学者や政医をむこうにまわして有機水銀説を貫き通した老医学者に熊本でお会いした時、その方の話に典型的に、水俣病像のよかれあしかれ肥大化を見ざるを得なかった。
水俣病はこれこれの症状をそろえ、急性激症はこのようであり、あとも重症のまま固定化して回復していない。実に重篤な病いである。「それにつけても、この頃の患者は水俣病とは言えないものが多い。とくに潜在的水俣病(症状のひそんでまだ顕著でない水銀保有者ーかつての毛髪水銀値などよりみて健康の病気へのかたよりが水銀に起因すると思われる人々)という概念はあれは何ですか?顕在しているから病気であって、潜在は病気ではない。伝染病菌にふれても、発症しているから伝染病患者といえるので、発症しない人を潜在性患者とはいわないのと同じことだ。医学の常識である」といわれる。老医学者は更にことばをついで「補償金が出るようになってから、患者でもないのに患者らしくふるまい、検査のときにわざとふるえて見せるものがあるそうだ。一直線に歩けといっても、わざとよろけた歩き方をする。そうした練習をしている不心得者もあると聞く」といって慨嘆された。私はそれをただじっと聞く以外なかった。氏は何十例という患者の生死をみてきた人であり、その人々への心からの哀悼と、チッソへの怒りと、中央行政への反骨、それはいまもまっすぐに貫いておられながら、同時に今日の水俣病の諸問題には、直接触れておられないからだ。もう十年有余、患者の脈をとっておられない筈だ。この退役された老教授の水俣病像と現役の神経内科の医学者と共通の心理があっても不思議ではない。恐らく水俣ほど、有機水銀が純粋、典型的に出たところはないし、それ故に死から疾病像を掌握してきた。つまり、死、最重症、そして中等、軽症という疾病観から水俣病を見る構造から、心理的にとき放たれていないのである。旧患者の視点から新患者の病気の訴えをきくとき、旧患者の典型をひながたに、非典型例を冷ややかに見るという医学観、疾病観が、この二十年間に固定したように思えてならない。そうでなければ、熊大の水俣病研究の一つの中心の柱である神経内科の医学者たちが、今日、非典型的、不全型患者(すべての症状を具有していない症例患者)を認定しようとしない気持は理解が更に困難だからである。
いま水俣病は、かつての急性激症型のような型ではもはやあらわれないであろうといわれる。それに代って、大人には脊椎変形症とか高血圧とか循環器障害といった成人病と重なって出てくる例が多いし、幼児の場合、生まれながらの脳性小児麻痺そのものとしてあらわれてくる例が圧倒的に多い。それもすべて不知火海沿岸の漁村、又、そこと同じ魚をたべた町から出ている。一つ一つ疫学的に辿る限り、魚との食生活のつながりは今日まで量こそ変化があれ、まず欠けるところはない人々ばかりである。(不知火海の禁漁区は水俣湾のみでそれ以外は今日も自由である) そして成人の場合、労働や生活に重大な支障が出て初めて、知覚や眼が調べられ、水俣病の疑いが出てくる場合が多い。
そもそも農漁村のかつての老人には、神経痛も中風も珍しいことではない。水俣病の多発部落にあって、体の異常を水俣病の方に寄せて考えることを避け、どちらかといえば老人病で片づけたかった人々が多い。中には、漁協の幹部で、漁協員からは患者の申請はせぬ様にと肝いりどんで動いたようなかつての現役の漁民が、老齢化して皮肉にも歴然たる症状が出てきたという人がある。水俣の多発地帯の人々の老化は早い。平均寿命は男で五十三歳、女で五十二歳、全国平均より二十歳も早く死ぬ。こ のデータには事故死もふくまれている。熊大の武内博士(病理)によれば、交通事故や転落死も水俣病特有の神経障害、共同運動障害に由来しているものとみてまず間違いなかろうという。
だが、こ の人々の多くは現在、認定審査会によって保留、もしくは棄却される場合が多い。つまり他の病因で説明される所見だからだという一語にほぼつきる。とくに寝たきり老人で卒中の場合は全員「卒中」である。たとえその一家の中にすでに「水俣病」認定患者がいても「卒中」である。
老人と共に患者認定から系統的に外されているのは重症の身心障害児、主に精薄、脳性小児麻痺様の子供たちである。その母親が歴然たる水俣病であり認定されている場合は、医学的判断として水俣病とみとめる場合もないではないが、母親が一見病気と認められない場合、いかに魚を食べたと訴えても、家が漁村地帯にあるとわかっても、棚上げされている。ひとつには昭和三十七年頃一斉に発見された「脳性小児マヒ」といわれてきた胎児性水俣病患者の典型例といささか趣きが違うということが言われている。知能も運動もそろって犯されたかつての胎児性とちがって、その片方だけだったりしているから、他地方の脳性小児麻痺との区別がつき難いという理由で、目下研究段階であり、改めて新しい水銀の影響の発見方法が出てくればその時に照合する外ないーつまり現状お手上げ状況で凍結されている。
私たちがじかに触れた例で、最も残酷なのは、一家に二人、そのような子供が発生している。母親は水俣の出月から嫁した。最多発地帯である。いま現住所は、水俣市と鹿児島の県境で接する出水市の農村地帯であり、職業としては農民であって漁家ではない。しかし父親は近隣に鳴りひびいた夜づりの名人であり、どちらかといえば気狂いである。潮のひいた夜の浜で三本歯をつけた二メートル余の棒一本で小魚からかれい、たこ、なまこまであらゆる生きものをそのひとつの道具でとるのである。父親はとるのが好きで食べるのは普通の人なみだが、母親は魚が飯より好きという。「農家」であるが漁家の生活なのだ。それは地元なら誰しも知っている。その一家の子供は長男(二十六歳)が健康であるのみ、あと五人はすべて異常である。内三人産後死亡、残る二人が重症な脳性小児マヒである。医学上の救済として重症心身障害者手当が最近給付されるようになったが、この数年水俣病としての認定は滞っている。この場合、鹿児島県と鹿児島大は、熊本県及び熊大より処理が早く、ていねいだという実績をもち、認定についてもフェアだと自負しているのだが、この子供たちの場合、次の点で、デッド・ロックにのり上げている。つまり、脳性小児マヒと区分できる水俣病の特徴のひとつとして、視野狭窄や眼球運動異常、聴力や他の小児科的所見もとりたいとして入院を条件とし、その検査によって医学判断を下そうとした。だが、両親は入院を拒否した。「この子は白衣きた医者をみたら、怖ろしうてあばれるとです。ぜったい眼など開けきらん。それは親がよう知っとる。何故家にきて見て下さらんか、何故親の介抱の手の中、腕の中で診られんとか」。成程親の言うとうりである。生まれてからこの方、両親としか接していない。日夜、小暗い部屋に押しこめられて生存してきた兄妹である。今まで医師に接して怖いことばかりつづいた。注射をくり返しされた。しかも水俣病の目の検査は暗室で、あごとひたいを固定し、眼球をひらいで、動く光点を見たら意志的にブザーを押してその視野を記録するという、大人でも至難なテストである。この二人の兄妹にはじめから無理なことは分っているではないか? このケースについて、医学はどこで結論を出すのであろうか。
この点について熊大の眼科教授にただすと、機器的開発によって他覚的に視覚を検出する方法を開始する以外にないという苦悩をこめた返事がもどってきた。
一時的に全身麻酔をかけ、まぶたをひらいて瞳孔から光をさしこみ、網膜の視神経の反応を電気的にとり出しコンピューターにかけるという構想である。これを私のじかに触れた兄妹の仮死状の表情と重ねあわせたとき、私は医学なるものに対して気の遠くなるような、血の気のひくようなめまいすら感じた。
このように厳密な検査を以て、水俣病の主要症状が、程度は別にして例挙としては典型的水俣病のそれにあてはめなければ、水俣病といえないものなのであるか?そしてまた、検査の方法が、次第に機械化され、本人の訴えとは別に、ウソ発見器的探索法に傾いていかざるを得ないのは何故か?そして疫学とか、生活歴、労働歴、食生活歴が何故比重として軽視されていくのか?考えこまざるを得ないのである。
学問に純学問などあり得ようか。加害者と被害者しかない公害問題の中で医学だけが中立、客観の立場たり得ようか。一体水俣病をどこに依拠して研究してゆくのであろうか?
前出の原田正純氏は「水俣病の分らないことは患者に聞くしかない」「水俣病を学ぶには患者に学べ」と常に言い、その通り実践している最も臨床医らしい臨床医である。現地水俣での患者の氏への信頼はすこぶる厚い。つまりこの十数年、現地水俣から身を離したことがないのである。その彼が収集しているカルテ、そのカルテの中につまっている厖大な事実記録、症例は恐らく世界で最高、最良のものであろう。彼の大学医学部内の立場は、体質医学研究所の研究員であり、精神神経科の臨床医のほか、一切の講座制、医局制からつとめて身を離し、自由に水俣病ととりくめる立場を選んでいるように思える。また行政上の認定審査会とも無縁である。県の事務局からひそかに勧めもあるといわれるが、いまその委員会からも無縁である。そして一途に、多彩、多様に出現してやまない水俣病像を現地の患者と対面しつつ記録しつづつけている。私はいま映画をとりながら、彼の態度と彼の方法に依拠し、それを学ぶことで映画の方法もたてている気がする。
カメラとマイクを手にして患者の家や、患者を一堂にあつめた活動家の一室での診察に立ちあうとき、ときに胸をしめつけられる。
大学には立派な検査機器があり、ベッドがあり、看護婦の助力もあり、冷暖房つきの室もありながら、何故、冬も夏も、何一つないところで、せめて着衣をぬぐ患者に毛布をきせ、患者の心をなごませるために冗談をいい、ときに叱り、縦横の気づかいにくたくたになりながら、先輩上司の構成する認定審査会あての診断書を書きつづけるのか?県の検診が一応撫でまわした地区の患者を見なおすことは普通のことだが、時に彼の学んだ恩師の診断・審査の上「棄却」としたケースにかかわりづりあい、改めて診断記録を書かなければならないか、彼の仕事の背景をみつめていると、彼の手によってしか救われず、拾いあげられることのない患者像とその患者たちの存在が何人何十人となく重なって見えるのである。何と酷烈な日本医学、水俣病医学の現状であろうか?
だが、彼は水俣病のとらえ方からいって、水俣病像が決して完成、固定したものでなく、同一患者をみるごとに、どこか新しい変化を発見し、かつてからの疑問がとけるという風で「失われた環」を見出す人のように充血しているのである。
私は有機水銀中毒としての水俣病像はすでに医学者によってすみずみまで解明され、専門医ならば、すくなくとも水俣病像については疑問の余地なく、ただその臨床上の適用や判断の上で、いわゆる「専門家」としての特殊な立場で、判断操作をしているものと考えてきた。一つには先にのべた水俣病を死から逆算して考える疾病観、一つには心理的に最重症をあつかつてのちの軽症への軽視または無視、そして今一つ、残念乍ら、水俣病のひきおこす政治的・社会的パニックの自己規制、そして県、政府の水俣病始末への同調、こうした一連のファクターによって、知悉している水俣病像を、その都度、専門家として限定し、それによって、認定患者の果しない発生に対し、対処力を失うことを恐れ、臆した消極的な態度をとっているものと考えていた。水俣病が、社会の病いである以上、その病いをあつかう医師にも社会的圧力が加わらない方がむしろ奇異ですらあるからだ。
以上のことを立証せよといわれたら、一つ一つ事例をあげ、歴史的に記録されたものをもって証明できる。しかし私の最近の体験に限るなら、県当局も、環境庁も、つねに医学者の医学的判断を唯一よりどころとし、医学者を最も重視、尊重しているかのようにしながら、「医者」をたてに新手の水俣病の始末を急いでいる出来事をあえてのべなければならない。
八月十七日、環境庁にほぼ一年ぶりに大勢の認定申請中の患者が陳情に来た。川本輝夫さん(自主交渉を闘ってきた患者)が世話役となっているものの、訴訟派で闘いつつけた旧知の患者はひとりもいない。皆、新しい患者ばかりである。一言はなせば構音障害のわかる婦人、胎児性患者の祖父、旧漁協指導者、いずれも多発地帯の中から事情あって、申請を遅らせた人ばかりである。この人たちの要求のさし迫ったものは、いま水俣地区で認定を早めるためと称し、県と環境庁で作った「検討促進委」による乱暴な診察に対する抗議である。
まず水俣病かどうかの診察に当って、との検討促進委がどういう診察ぶりであったか、その陳述を拾ってみよう。医師はその大部分が、水俣病の患者の診察は初めてという初心者で、中にはインターンの学生まで駆り出されている。(この委員会の役割についてはあとにのベる)
(1) A (女性、大正六年生) 津奈木在住(水俣市の隣町)
この人は漁夫の妻、寝たきりの患者で入院歴九年、「目まいがしたり、手足がしびれたり、目も耳も遠くなり、頭がしびれてガンガンして、なんもかんも分らない悪い症状になりました・・・私の症状が悪くなったのでくり上げ検診をしてくれることになり、足腰立たない私をハイヤーでやっと連れて検診に行きました。足腰がかなわない患者になっておるのに、『歩きなさい』と医者がいいました。
主人が私のことを検診前に(註・歩けないと・・・)話を通しておるのに、医者が歩かせようとしました。立った時、すぐ倒れました。医者も看護婦さんたちもびっくりして起こしてくれました。残念でたまりませんじゃった・・・」(四十九年二月下旬、水俣・健診センター)
(2) E (女性) 芦北町在住(水俣より約十キロ北)
「耳鼻科の検診の時でした。検診医が機械を操作しながら『音が聞えたらブザーを押せ』といわれましたが、聞えないのでブザーを押さないでいると、自分が持っているボールペンを見せて、このボールペンを上に動かすときが音の出る時だからブザーを押せといわれましたので、私は検診医が、ボールペンを上に動かすたびに、耳に聞えなくてもブザーを押しました。検診医は女性で名前も分りません。控室に帰りこのことを話すと、前に検診をうけた人も私と同じことをさせられたそうです・・・」(四十九年二月、水俣・検診センター)
(3) G (男性)津奈木町
「・・・耳鼻科の検診・・・最初に医師が小さなビンに入った薬のようなもので、そのピンにはA、Bのレッテルが貼られてありました。が、器具は針金のようなのの先に脱脂綿を取付けて薬をにじませて、両方の鼻の穴に奥まで押込まれて痛さの為に涙は出るし、気分は悪くなるし、医者は異臭がするだろうと言いましたが、自分には一つも臭覚するととができませんでした・・・その次には口の中の検査でした。今考えてみると味覚の検査だったかと思います。何種類かの薬を容器に一様につけて舌の上にのせたり、舌の上をつついたりして『解るか?』というのですが、自分では全然解らんため、その通りにいいますと、医師は何度も何度も同じことをきくのです。『あんたの答えは信用できん』と大声で、自分に命令調で言いました・・・。
妻にも、眼の検査のとき、目印を見えるか見えるかと何べんも聞くのです・・・そして
『あんたがウソを言つてもすぐに解る!』と・ ・・犯罪を起こして警察に行って取調べされているような状態でした。最後には眼の中に医師の指がふれ、眼は真赤になり何日も薬で洗眼するありさまです」(四十九年七月三十日、水俣・検診センター)
(4) (女性) 津奈木町福浜
「・・・ 初めに女の人から視力の検査をうけました。『見えますか?』ときかれて『ボーとして見えんとですが・・・』とこたえると、まるで私がウソを言っているというように、いかにも疑わしいような、バカにしたような口調で『よくここまで、こられましたね』といわれました。来られないほどなら盲と同じで、わたしはまだ一人で歩くことはできます・・・次に目で追う検査、電気の球が動いて・・ ・検査の男の人は『皆が出来るのだから出来ないはずはない』といって何十ぺんとなくさせられました。・・ ・そしてバンソーコーで目を引っぱって開けさせられ、頭をおさえられたまま検査は五時まで(昼から)かかりました。・・・終っても目が見えず、検査室のドアにぶつかってしまいました・・・ 『四時間位は見えにくいから気をつけるように・・・』といわれました・・・。何とかバス停まで行き、行き先の地名も人に読んでもらって家に帰りつきました・・( 四十九年七月二十七日、八月三日、水俣・検診センター)
これは環境庁長官毛利松平殿あて供述書の一部にすぎないが、この他、知覚マヒを調べるため、普通は、軽いバネつきの針でつんつんしらべる程度だが、注射針でつつかれ、痛くないと答えると大きな注射針で同じ部位をつつかれ、体をみまわすと血が流れ出している。「大事な検査だから我慢しなさい」といわれ、「そんなにまでしなければ解らないのなら手でも足でも切って下さい」とつい叫んでしまった・ ・・という月浦のK等、枚挙にいとまがない。
この不信感に満ちた検査方法の構造はとどのつまり、患者の訴えを病者とみないで、「補償受給者」とみなす医学側のいやしいカングリの思想ぬきにはとても考えることが出来ない。そして患者をして耐えさせる強制力は相手が「医学者」であり、認定のために、必要な不可避の門としての構造を医学的検査として権威づけているからに外ならない。しかもこの陳情で明らかにされたことは、医師が患者の抗議に誰一人としてその所属と氏名を知らすことを拒んだというのである。
この検討促進委は、現在二四〇〇名にのぼる患者をさばくために、従来の認定審査会の能率を早めるためにということで急造されたものであるが、ここで明らかになったことは、寄せあつめの診療医に対し、ある神経内科医が、水俣病の検診方法の即成教育を行い、しらずしらずのうちに患者の訴えに対して不信感をもって対処するような心理教育をはかったとしか考えられない。そのことは初心者の罪ではなく、今日まで水俣病の歴史を担ってきた臨床医の思想そのもの、つまり、軽症を無視し、水俣病の進行性やその深部の障害を無視し、本人の訴えを無視し、その疫学を無規し、「あなたの健康被害は一六〇〇万の補償にあたいするか否かを医学判断しています」というに等しい非医学的因子で患者にたちむかつているとしか考えられない思想そのものにある。
ところで、果して、専門医たちは水俣病像について本当にその全貌をつかんでいると判断できるか、否である。
病理面から水俣病をみつめている熊大の病理担当武内忠男氏は第三水俣病の可能性を指摘し、去る六月七日環境庁で開かれた水銀汚染調査検討委員会・健康調査分科会(椿忠雄会長) で激論の末、「老人性疾患」としてその所見を否定された。だがこの武内氏の病理を通じての水俣病像への探求は、今日の政治力学に屈していられない程、大きな問題をはらんでいる。
氏の研究の詳論に立入る余裕はないが、環境庁発表の汚染度のデータと現実の不知火海の魚摂取の実態、そして水銀の体内蓄積とその半減期(註・氏は半減期を脳、神経等の場合二〇〇日余としており、七十日説つまり安全説につながる学説と対立している)からみて、不知火海、とくに水俣湾内外での新たな発症の可能性を指摘している。しかも、今日、かつて重大な汚染をうけながら顕然化に至らなかった患者が、他の疾病をともないながら、時にその疾病にマスクされて発症するという事例を解剖例から推定しているのである。「仮に、アル中であっても、水俣病がそれを死に至らしめたひき金になっているのではないか」「仮に脳血管障害であっても、水銀がその起因子になっていないか」「仮に高血圧として顕われ出ようと、その血管のコレステロール肥大に内臓臓器の水銀中毒が作用していないか」。こうした一連の考え方が一方にあるとすれば、もう一方にある、そうだとしてもこの病状は臨床的には「アル中で説明できる」「卒中で説明できる」「高血圧で説明できる」という現在横行する学説と比較するとき、どちらが、医学観としてより根源的であり、より弁証法的に物事をみつめようとしているかがわかる。
ある病理学者がいかに有能でも、不幸にも死者をもって検証しなければ、臨床家の判断をくつがえすことは至難である。水俣病者の声をもってすれば、「俺らが死んでみなければ、(解剖してみなければ) 水俣病とせんとか!」という直観的不安は、いまの水俣病の認定審査会の枠組みとその政治力学的作業力をみていると、まさに当っていると見ないわけにはいかない。
東大の白木博次教授は『一人の死者の出現はその地域に数百、数千の患者を生んでいる事は医学の常識である。医学が外の病因で説明しようとすればいくらでも出来るが、そこにはあとは疫学的な判断しかない』と映画で語ったが、そのことは水俣病患者の、不安にも不幸にも、秘かに心の中で覚悟として確乎たる負の信念と正対する考え方である。患者は、誰も水俣病たることを望みはしない。物事が政治や社会の壁にぶつかるとき、「何もいらん。元の健康にしてもどせ」という初めの想いに立ち返るのである。
白木氏も機会あるごとに述べているように、健康から疾病をみる・・・健康のかたむきから、疾病そして死を見るという医学概念が日本の医学には育ち得なかった。水俣病の場合正しくそれである。
ところで去年九月、水俣湯堂の一青年が急激に発症した。姉は惨死、父母とも水俣病である。当人は水俣病から逃れるように出かせぎに歩き、一家を作り、健康そのもののように働きつづけた。検査は一度もうけなかった。高所労働を要求されるトビ工、鉛管工として十年余。そしてある日急に発症した。一夜のうちに、酒席で体に変調をきたした。席上人々はお前の口は何だ、言うことがいっちょん( 一寸も)わからんと言った。生よいでボーリングにいき足がもつれて倒れた。その翌白から、ビッコをひき、構音障害とふるえに悩まされた。幼い子はそのドモリ、つかえる口調をまねて父につきまとった。彼は子供をはり倒した。妻はおびえ、父母は姉と向じ死に方を思った。母まで病状は進行した。彼は新車を買ったばかりである。左足がマヒし、アクセルは右手で介助し、ひざ部をもら上げて操作する。そんな不自由の身でも車に乗った。運転歴八年なのに、あっちこっちこすり傷をつけた。私たちは撮影のためと称して、彼を熊大の眼科につれていった。町の医者も原田さんも、十五年ぶりの発症、しかも急性激症型という古典的ともいえる水俣病はさすがに近年見たこともなかった。だが認定申請番号二四〇〇番台、少くとも機関(認定審査委員会) の精密検査までには早くて三年は待たなければならないと思われた。せめて視野狭窄の有無だけでも確認したいという原田氏の希望もあって、筒井眼科でゴールドマン検査器にかけた。その結果、不幸にもまざまざと視野狭窄が図形化された。
原田氏は「もしこれが水俣病とすれば・・・私は水俣病と思うが・・・・今までの水俣病の医学は根底からくつがえされなければならないだろう。年齢からいっても、臨床的にも卒中や血管障害の疑いは殆どなく、毛髪中の水銀値も平常人よりやや高い程度しかない。十五年前に水銀に汚染され、急に、しかも典型的に水俣病の症状が全部そろってしまっているとは・・・」。それは絶句に近いものだった。
水俣では裁判後、補償によって患者が出てくるようになったと一部の医学関係者は言う。それも一助であろう。それは結構な事ではないか。年月を経てもなお特異な中毒作用をやめない有機水銀である。それをたれながしたチッソは今日健在である。水俣湾のヘドロ中の水銀は未回収のままであり、いまも埋立ともしゅんせつともせきとめとも、水俣湾のヘドロ処理はその方法すら決まっていない。誰も火中の栗をひろおうとしない。どうして水俣病のみ「終ること」があろうか?死体は焼却しても人体が人間として生きる限り、患者の子どもが生まれ、更にその子に子どもが生まれ、毒の海と共に生きていくであろう。この水俣の終りなき構図は、日本のGNPが健康と人命を犠牲にしてあがなった結果である以上、そのGNPのすべてを、それを生んだ構造をすべて、人間、人命、その生命の上に返すことなしには、日本の全水俣化が進行してやまないのである。
(一九七四・八・一七)