天草の死者とあって-H先生への手紙- 『水俣』 第117号9月 水俣病を告発する会 <1979年(昭54)>
天草の死者とあって-H先生への手紙- 『水俣』 第117号9月 水俣病を告発する会 <1979年(昭54)>
 天草の死者とあって-H先生への手紙- 「水俣」 第117号9月 水俣病を告発する会

 H先生、この夏、二週間はどのかけあるきですが、巡海映画の旅以後の二年間の変化を訪ねての旅の御報告をしたいと思います。医学には門外漢ゆえピント外れの観方もあると思いますがおゆるし下さい。
 一番変ったと思ったのは、竜ヶ岳町、姫戸町、鹿児島東町などから、かつて七部会(不知火海漁協連絡会)の不文律であった「水俣病を出しちゃならん」というきめが崩れていることです。これにはあの毛髪水銀データ(昭36~38年・県衛生試験所の秘トク資料)で九二〇PPMの世界最高の蓄積者を生んだ御所浦町から六百二十名もの申請者が続出したことが大きいと思います。実人口六千人前後のこの町にとって十人にひとり、家族でいえば多分三世帯にひとりはどの最激甚汚染・申請者出現地になっています。それでいて、御所浦の魚の値段が一円たりとも下落していないことに、まわりの町村は事態の変遷を感じていることでしよう。水俣病問題が漁師の生死を決めた時代はすぎたかに見えます。「病気は病気、さかなはさかな」と別建てに見るリーダーがふえています。
 「もう水俣病患者で申請したい人は、そうしろといっとります」(竜ヶ岳町長)という。しかし一方「あれは後遺症だ。水俣あたりの魚なら別だが、この辺の魚はいまはくったってどうと

るかたわら「しかし魚は泳いでさるくでなあ」と不安もまたあります。しかし、まだ武内忠男先生(熊大医学部)が病理的に追及され、その存在を大きく推定されている、微量の水銀の日常的に長年月たべつづけることによる慢性的全身病の病像をもつ有機水銀中毒のイメージはもち得ていません。ここらで「ありゃ水俣病らしか、申請してみてはどうかと思う」というほどの病人は聞けば水俣あたりの亜急性患者と同等程度であり、ここらにもあったと思われる急性激症の人は「脳・神経の病気」として昭和四十年前後までにすでに死んでいます。
 その点、津奈木、芦北、出水の患者さんの出現の度合、ひどさのていどとはどれほどのちがいもないと思います。
 見るに見かねてまわりが申請を考えはじめたうらには、病人家族の医療費負担の苦労が一番です。地元の医師、かかりつけの医師では治らず、船で、車で、三角や水俣、遠くは熊本市の病院まで、鍼灸医にもいき、思案の果てに大分の祈祷師にまですがったーそのため百万はおろか、数百万円もこの十年、二十年につかった 「……とてもサラリーマンの月給では出来んほどの金をつかいました」(深海の病児の父)という例は少なくありません。「せめて医療費なりと申請してただになれば…」ということが顕然化してきたのだと思います。
 今回、私の天草ゆきの旅の最初に思い知らされたのは続続と患者らしいと思われる家がこの二年に葬式を出していることです。姫戸、竜ヶ岳で訪ねようと予定していた六名のうち四名が-まだ五十代、六十そこそこの人が「水俣病らしか」まま心不全、脳血管障害といった絶命時の症状でなくなっていました。
 私たちは思わず言いました。「あと十年たったら、水俣病らしい人は全部死に絶えるだろう。自然消滅を行政は手を披いて見てやりすごすつもりか」。
 H先生、先生も新認定基準に医師として反対の意向であることはよく知っています。死亡患者の切り捨て案はいま天草、離島で現実に有効にその思わくを貫徹しているようです。このままでは、天草・離島の患者群のビラミッド図型の頂上部は欠け、慢性、全身病の健康被害者のみのこり、ついには「水俣病患者は特例の微々たる人びとのみ」といった 結果になるでしよう。
 鹿児島県出水市の東町、私が巡海映画の報告でその強大な養殖業の成功ゆえに、水俣病患者の出現にブレーキをかけてきた、東町漁協の組合長宇都時義氏も、組合長再選(この春)を機に「今後、水俣病に圧力をかけない。申請は自由意志にまかせます」といわば百八十度の転換を宣言したと私に氏は語りました。また樋島下樋川の桑原勝記漁協長も「下樋川で、まず二、三名がその気になって申請の口火を切れば、あと多くの人が浮んでくると思う。……自主検診でも何でも、こんごは私は受け入れるつもりです」とかたった、この点では変りつつあります。
 しかし漁民社会のトップの座が態度を変えても、一般の被害者・漁民の意識を、上からかえることは全くできないことは明らかです。地縁社会への忠誠心、補償金への嫌悪、お上(国・県)への気がね等、情報の二十五年の途絶によって、固くなって委縮している住民の水俣病観を変えるには先生方のみならず、多くの人びとと天草とのつながりが出来なければ、不可能でしょう。
 しかしゆっくりと変る外ありません。それとて、私には「手遅れ」とか「あとの祭り」といった苦い思いなしには、この進行とかかわれないと思うのです。
 天草・離島の歴史の、もっと大きい「切りすて」の連続のなかで、水俣病事件としての「切りすて」を洗わねばの思い切です。
 H先生外、真に水俣病とかかわる医学者の方がたの今後の御努力に、私もそっていきたいと思うのみす。(一九七九・九・二五)