『水俣』から『不知火海』まで 「展望」 2月号 筑摩書房
映画『水俣ー患者さんとその世界』を発表してからこの五年の間に、私たちは、その都度、とりのこしたものを撮ってきた気がする。勿論、一巻の映画で事足りる現実世界はなく、まして水俣病のように、十数年後にのこのこ行って初めてその根深さを思い知らされたような課題にとっては、今日も、過去も未来も、そして今日といっても日々患者さんとその前面に立ちはだかる壁との闘いが持続している問題であれば、一つの映画は何事かを描きつつもとりあえず”ここに筆を擱く”といった終りでしかない。だから気になり、のこりつづけた問題、さしせまって、映画のメディアとしてしておかなければならないものをとりつづけてきた。
映画『不知火海』の構想は、私がストックホルムの環境広場にフィルムをもって出席し、その帰路、一事情があって、パリの知人宅に一夏をすごしていた折、プロデューサー高木隆太郎氏との往復書簡の中で芽生えたものである。
ストックホルムの環境広場での上映のなかで、医学の側面の欠落は指摘されたし、その批判をうけて、それが今日『医学としての水俣病』(三部作) をつくるきっかけとなったことは他の機会にもすでにのべてきた。もうひとつは『不知火海』についてである。この映画を着想するのに、高木は日本でそのことを考えつづけていたし、私は国の外でそのことを同時的に考えていた。それが手紙で確認しえたとき、同じ映画の作業を共にしつづけたものの感性のふれ合いを感じたものである。
ストックホルムから始まった一連の上映の旅で、私は”先進国”といわれる国の人々のうけとり方と、発展途上国の人々のうけとり方との間に、原理的にかなりのちがいを見た。およそ近代化学工業を獲得している国の中でも、チッソの技術水準は技術オンリーの見方をすれば群をぬいた高度のものかもしれない。日本の中でも、チッソのアセトアルデヒドと全く同じ工程の工場は、新潟の旧昭電鹿瀬工場を含め八つあるといわれる。チッソはその中でずば抜けた生産量を誇ってきた。その生成技術は他の先進国といえども、水銀を触媒とする意味では同じであるかもしれない。それ故にというかそれに反してといおうか、”先進国”の人々が、自分の国の問題としてシリアスに受けとめていながらも、どこかに、衛生学的に、都市工学的に、あるいは医学的に解決できるものとしてのよりどころをもちつつ、啓蒙家的に、警世家的に、あるいは教育家的発想をのべているといったおもむきを感じとらないわけにはいかなかった。住民運動も日本の経験が特異であって、ラルフ・ネーダーのように突出したリーダーシップの下に、現代社会のゆがみを正すのに、かなり健全に動きをうちだし、社会の是正力というか補修力というか、いったん、世の中に警鐘を乱打すれば、つまり情報が正しくつたえられれば、自治体をうごかし、議会をうごかし、政府が政治力学としての一つの作用を貫通するといった民主主義の健在を予定しているような気がする。スエーデンの公害対策を現地で聞かされたときもそうだつたし、イギリスでも、反体制的知識人であり知的な映画人ノエル・パーチ氏とテームス川のほとりを歩きながら、かつて真黒だった酸素欠乏のテームス川に巨大な浄化装置をつくって、川のすべての水をクリーンアップし、最近魚が復活してきた・・・イギリスでは、そこまでの徹底性はもっていると、ひかえ目ながら、ロンドン市の仕事ぶりを聞かされたときもそんな気がした。
それにひきかえ、国連としての環境会議のおもむきをつたえる新聞によって、先進国の海洋汚染についての警告と共同対策事業の提起に対し、中国はじめこれから化学工場をどんどん建設しなければならない国家を、先進国の文明=新旧植民地主義によって発展した工業社会の結果をもって、発展途上国の自由な企画力、近代工業化の意義にたがをかけ、旧態のままに、”環境問題”をタネに押し止めておこうとするのか?帝国主義、経済大国の身勝手がそこに底流としてありはしないか?ということへの詰問をそこに私は読みとった。太平洋はじめ、外洋にタレ流すことによって、産業廃棄物を処理してきた日本と、海一つへだたった中国やマレーシア、シンガポールという地図上の認識を思い浮べただけでそれは分る。だが、水俣病は一体どんなものとしてうけとられているだろうか?私は”地球的”な人々にいやでも多く会った。そしてその反応を見た。概してインターナショナルな人間というより、コスモポリタン的な発想からの意見に出あうことがあった。例えば水俣を、地域の住民全部をひとしく殺す意味で、ヴェトナム戦争のジェノサイド(皆殺し作戦) と同じだとして憤激する青年。あるいは次の世代をおかし、人聞を根源から破壊する意味で、文明が人間そのものを滅亡に追いやる原爆時代、原爆下の生活の時代を告げる知識人、あるいは、反科学論的な視点から生命の生化学的単位にまでに分け入って、人間と自然との接点を説く学者、その他、未来学者的な発想や、世界連邦的な構想まで含め、いっしょくたにこのフィルムをぶら下げてきたにすぎない私にぶつけられた。すると私はどこかで醒めるのである。ショッキングな映画、烈しいプロテスト映画などと紹介されると、これでいいのかというおびえが足下からはい上るのである。そこでしきりに、平凡な不知火海の生活を思った。日常があり、自然があり、海があり、魚をとり、それを味わい、栄養としてというより食の美しさまでふくむあり方があり、それが一つの会社のたれ流した有機水銀によって、狂い死から短命まで、胎児性水俣病から、死産、流産の嬰児、何とも外に説明のつかぬ精薄様の子供を今日も生みつづけている不知火海、その静かな、あまりにも日常的日常の中からの水俣病をとらえなくては、このおびただしい諸説の浮遊をとめられないのではないか、と。私は前作でも”日常”をより濃くとったつもりでいた。しかし一株総会での社長と患者さんの対決といったエピローグで結ばれる映画は、どこかドラマティックなものを期待する人々の心に添い、そして一種の浄化作用をすませてしまったのではないか、と。たしかに運動そのものには映画は多くのスペースをさかないで作ったが、にもかかわらず運動の形象化が映画の一つの筋となってしまったのではないか?などあれこれ考え悩んだはての『不知火海』であった。
一方、高木隆太郎は、日本で上映活動の反応を手ざわりに、もう一歩、深いところへふみ出すには、不知火海に限って見つめ、そとからものを考え煮つめたいという思いが蓄積されていたに違いない。またひとつ、彼を水俣、不知火海にたえずかりたててやまないのは、彼が宇土半島の南岸の浜で育ち、まさに水俣と一衣帯水の不知火海から切り離されたことのない人間であったからでもあろう。その個人史的な側面は紙数に限りがあるし、私のうかがい知れない底があるので立ち入ることはしないが、期せずして、前作『水俣ー患者さんとその世界』を作ってしまった人間の”後遺症”としてののこり方から、何を新たにスタートすることで”後遺症”を創造物に転化していくかを迫られていたといえる。
この問、高木はある機会から、中国に青年学生訪問団の一員として訪問した東プロ(青林舎の前身) の重松良周、米田正篤の両君に託して、前作をプしゼントした。その機会に上映(北京・上海) もされた。その反応については公表されていないし、又聞きのまたぎきなので私の主観も入るかも知れないが次のようなものであったと思う・・・。水俣病とそれをめぐる闘争については理解できた。(以下ある映画専門家の意見としては) これを中国の各部門に見せたい。しかし、少し長いし、またこのままの形で、つまり中国の今日の化学工業の発展強化の運動の中に、そのまま何の解説もつけずに上映すれば、工業化即公害とむすびついてしまうだろう。中国でもこの問題に真剣にとりくんでおり、廃水処理を何段階かのプールで濾過し、最終水槽では金魚や鯉に全く異常のないところまで浄化・還元することに成功している。従って、日本資本主義の下ではこうだ。これを克服して実用化することが、われわれの事業だ、ーという風にこの映画を反面教師的に見せたいと思うが・・・と、私の推論を含め、ほぼ以上のようなうけとり方であったと思う。
また、附言すれば朝鮮民主主義人民共和国での上映の場合もほぼ同じニュアンスであった。これは訪朝した未来社の松本昌次編集長によって、私あてに託された朝鮮対外文化連絡協会参事キム・ウ・ジョン氏からのメッセージの一部である。「水俣病のひどさがよく理解でき、公害という問題が深刻な社会問題であることがよく分った・・・。この映画をみた労働者、婦人たちの反響は大きい。しかし、わが国には公害はない。それもキム・イルソン主席の秀れた洞察力の深さである。」とのべ次のようにつづいている。「・・・復活した日本軍国主義は、経済援助という名で南朝鮮に侵略しており、怒りをおぼえるとともに、断固戦わねばならない。」とし、終りを映画・資料の提供への感謝のことばで結んである。
私は社会主義建設中の国々が何より人間尊重で貫かれていると思う。一つ疑わしい汚染がおこれば、その工場の作動を全面的にストップする主権者の存在も知っている。しかし食物として、とくに魚介類を介しての有機水銀中毒は、まだ発見されて日の浅い疾病であり、病像としてもまだ研究の緒についたにすぎないといわれている。とすれば、政治体制での解決策のみでは計り知れない今後の進行を思う。大ざっぱには、二つのタイプの国の人の反応を見ながら、私は前作の映画だけで終ることは出来ないと感じたし、いまは人々が意見の根拠とすべきものを記録作業として可能なところから映画にしていかなければ相済まぬ事態だと感じた。
それも漠然とながら、不知火海の全体像を追求してみるという基本姿勢に求心的に導かれるのみで、映画としてのイメージはそれ以上のものではなかった。それが昭和四十七年までの経過である。
この一年半余『医学としての水俣病』と『不知火海』とそれぞれに一時間二十分から二時間半までの四本の映画を撮影し、まとめている。うち二本、つまり医学の中の『資料・証言篇』(歴史と記録を中心にしたもの)『病理・病像篇』(今日の研究を中心にしたもの)は昭和四十九年十月末に完成、『不知火海』は十二月末、医学の『臨床・疫学篇』は二月中に完成の予定であり、それぞれの海外篇、さしあたり完全な英語版の完成にはまだ数ヵ月かかりそうである。東京・目黒の民家のだだっ広い部屋、元ガレージを改造した一角に編集室をしつらえ、台所で食事をつくってもらって、朝から夜十時頃までの編集作業も、すでに七ヵ月をこえた。冷房が要るだの、暑さにフィルムが汗でべとつくだの文句をいっていた夏、近くの柿の木の色づきが浅いといっていたのに枯葉はすべておち、てっぺんの二個の柿が熟れきって、いまだに落ちないその梢の先と秋の空。そして本格的な冬のおとずれに暖房だの換気扇がないとガス中毒になるぞとあわてたりしつつ、暮しとも仕事とも分ちがたく棲息している。
二年に一本とか、せいぜい年に一本とか作るのがやっとだったのに、一挙に四本の長篇記録をかかえ、盲、蛇におじずのたとえのように、三十時間のフィルム、二百時間近いテープを扱い、それぞれの編集をしている。だから、一本一本のフィルムの残像が別の映画に重なって、七時間分の映画となって頭の中にあるようだ。私にとっては一つの必然でもあるこの重複作業は、しかし映画をつくるものとしてはその所業は、あるいは神に恥じるものであるかも知れない。何ゆえこんな事になったかといえば自分で言い出したことなので自業自得であり、プロデューサーの高木隆太郎を責めるととは出来ない。彼も、この映画をどんな形で上映普及しようかと、頭の中は、今四つの御神輿があばれぶりしているような状態であろう。先に完成した医学映画を二本、たっての希望もあって、十一月ジュネーブのWHO(国際保険機構)本部と、イラクのバグダッドでの水銀中毒の会議にもっていき、早く完全な英語版で作ってきなさいと注文され、眉根を寄せて帰国した。そして『不知火海』は一月二十三日から三日間、東京・神田の共立講堂での第一回上映会が決っている。しかし、何故、こんなことになったのか。
私たちは映画『水俣』にひきつづき、ニュース『実録公調委』をとり、ついで昭和四十三年六月、『水俣一揆』を発表した。これはもともと『不知火海』のプロローグとして裁判の判決からクランク・インしようと考えていて、もしそうなるとしたら通常、長くて十分位の一シェークエンス(場面) になるはずのものであった。しかし、三月二十日の判決から東京・チッソ本社での直接交渉、患者さんの泊り込みの闘いを記録する中で、この闘いの焦点を知ってもらいたいという気持がつよまり、一本の映画にして発表した。発表と時期を同じくして、一応、東京での三ヵ月余の闘争は終り、現地水俣での交渉に変った。この間『水俣一揆』はそれなりに短時日にまとめの作業を集中したので疲労感も重なり、『不知火海』の構想を、この事態の経過の上にたって改めなければならないと考えている間に、水俣病とはそもそも何かを端的に描くスライドもしくは映画がほしいということが、熊本「告発」の代表者、本田啓吉さんから出てきた。たしかに前作『水俣ー患者さんとその世界』はあまりに長篇であり、一個の完結した映画であり、教材として教師の主導する余地を時間的にはもちえないものであり、限られた教育現場には入りにくいものであった。
漠然とそうした教材も必要であろうと思いながら、改めて、医学的なデータや、歴史的資料性を最低そなえるものであるならば、その基礎的学習と計画を組まなければということになり、そのための行動を始めることになった。
今までの水俣とのかかわりの中から、私たちは病状そのものを患者さんから直接に知らされてきた。成人患者の場合、あるいは幼児期に急性症状をもった人、そして胎児性の固有の症状を体験的に、視覚的聴覚的には知ったつもりである。しかし医学的には殆んど知ろうとする努力をしなかった。「いったん消失した脳細胞は二度と再生しない」という絶対性に依拠して、そこから水俣病の本質を組みたててきた。そして、もう一つ、これは肉体的な病気という医学面のみの把握の切り口のみを語る「医学」への反撥があった。これは”社会病”であり、社会の病理の集中的具現であり、この症状をひきおこすねもと原因も、その悲劇的経過も、今後も発生を予知される根本も、すべて社会のやめる病理にもとづいており、その社会そのものを指弾する以外に、”水俣病”を見つめることは出来ないと考えてきた。
一方、数年前までは、医学の側も、建前として医学の専門カテゴリーに準拠しつつも、その発見と判断、ひいては救済に至る一連の医学者としての自由な働きを失い、水俣病認定審査会での医学的判断の局面に、非医学的配慮がうごいていはしないかという疑念が濃く、また、水俣病裁判の中で、証拠資料として提出を要求した弁護団の請求にもかかわらず、裁判の場にそれが出されるととはなかったという経過などから、医学もまた社会病理の一部になっていはしないかと考えてきた。
私の中にあるそうした疑念から、私自身、映画で医学的側面を描くことに熱心ではなかったし、医学者へのアプローチもそれまで通り一ぺんの事でしかなかった。だから、水俣病とはそもそも何かを、教育教材として扱うにしても、改めて医学についての勉強のしなおしと、医学者とのフランクなつき合いを獲得することからしか始まるものではなかった。
ちょうどその頃、熊本大学医学部の原田正純氏と回を重ねて助言をうけるうちに、興味のポイントは、医師としての原田氏の思考と行動の様式の上にひきつけられるようになった。回和四十八年七月頃のことである。
ある日、たまたま上京中の原田氏と話しをしているうちに、「私自身がいま水俣病に対する医学的判断について、迷いに迷っていることが一ぱいある。かつての教科書的な、ハンター・ラッセル症候群の型にはまらない患者、新らしい病像をもった患者にぶちあたって、いま医学的にすっきりとした判断を下せないでいる。との迷いそのものを記録映画にとったら、恐らくいまの水俣病の医学についての最も現実的な課題を描くことになるにちがいない」といわれたのである。
それまでにも、原田正純氏は、多くの研究者が法廷証人に求められて会社側弁護士側から請求された証人になっている中で、患者側のほとんどただひとりの証人として、きわめて重大な証言を行なった人であり、この数年間、日曜、休日をさいて、現地水俣の患者を看とり、水俣病を訴える潜在患者を個別訪問しながら医学と運動の接点を歩んでこられた人である。私たちが医学としての水俣病の映画をとる場合、彼のいかにも臨床医らしい医学者としての行動をフォローすることなしには何事も進まないであろうことは熟知していた。しかしそれまでには、医学者はすでに「水俣病」については研究しつくしており、その研究の適用の部分で、手びかえたり、沈黙しているものと推測していた。しかし、もっとも臨床体験ゆたかで、業績としての各先生の論文を精読し、現実の診断にあてはめて理論的にも高い水準にいるものと考えていた原田氏自身の口から、”迷い”の局面ばかりだという告白めいた述懐を聞いたときから、私は、自分の”医学”へのとだわりからわずかながら身をひきはがすことが出来た気がした。それは同時に、水俣病の医学のむつかしさもうかがい知れたし、その医学者内部のいわゆるセクトも、専門領域不可侵の世界であることも、ひいては医学が体制によって、そのどこが犯されているかも漠然とながら感知できた。
裁判の判決以後、私たちの眼にも医学の問題が前面に見えはじめた。判決の出るまで、言葉の上では、チッソは「すみません」というのみで、因果関係については、その責任を明言しないまま、裁判の係争上の問題として下駄をあずけてきた。判決は、その点を判断し、チッソに責任ありとして、慰謝料の支払いを命じ、その時点で、チッソは控訴を断念するという形で、その判決に服した。その後の東京での交渉で、医療と生活年金が闘いとられた時点で、その成果は、闘った患者以外にも等しく全患者に適用されるものとなった。従って、患者として認定されれば、補償については、ほぼ、裁判を闘った患者と同等の教済が得られるルールが一応形づくられたのだ。これは周知のことである。その頃から患者の認定それ自体、つまり医学的判断の”厳しさ”が誰の眼にも分るように変化してきた。”医学的良心”がときに逆用されたかたちで、”保留”患者を増やし、棄却患者を多く生み出す傾向が出てきた。医学者間の対立は局外者の私達の眼にも事ごとにうつるようになった。そして、それまで医学的権威ある判断から”分らない症例”として”保留”に附されるように、まだ医学として未解明という内実がうかがい知られるようになったのである。
私たちは、企画のために、水俣病に経験のある方々を歴訪した。東京では宇井純氏、白木博次氏、新潟大の椿忠雄民、そして熊本大学では、かつての水俣病研究班の世良完介元班長はじめ、各班員だった先生方を訪問、同時に今は開業している、かつての新日窒附属病院長で、水俣病発見の功労者のひとり故細川一氏の時代にいっしょに勤務していた医局員まで、数十名の方々に会った。その歴訪の中から、『医学としての水俣病』の構想がふくらみ、ついに対象とすべき映画のテーマとなっていった。始めは高校生用スライドづくりだった話がひきがねになりニヶ月後には、現状の三部作よりなる各一時間前後の映画であり、完成された”学術医学映画”ではなく、水俣病医学の映画による「中間報告」であり、一人にせよ、複数にせよ、いわゆる監修者方式ではなく、いっさいの表現の責任を映画製作者が負う立場で、異論も反論もふくめ、討議の材料としての医学的記録映画をつくることになった。
こうして、全く新しい一つのテーマ「医学シリーズ」を懐胎しつつある過程で、昭和四十八年六月より、不知火海漁民のチッソとの交渉は、原料港の海上封鎖をふくめ、正門、専用鉄道ゲート、他各門の原料、製品の輸送手段の封鎖を含む実力闘争が始まり、カメラマン一之瀬正史夫妻が現地駐在となり一方では明らかに映画『不知火海』への序走がはじまっていた。
そして医学映画も、夏休みを利用して現地で自主診察をはじめた原田正純氏の、いうところの「迷いの医学」を軸に撮影に入った。そして、諸先生方の協力のとりつけも順調に進んでいった。とくに、昭和三十一年より二年ほどの間に出現した急性期患者の記録は、当時水俣市の保健所長をしていた伊藤蓮雄現熊本県衛生部長と、熊本大学内科で、直接水俣病の現地臨床や病院内での症例を記録した徳臣晴比古教授や、病理実験で段階的に動物実験をくりかえした実証的研究者武内忠男教授の学用フィルムやスライド等、映像的にしか正確に把握しがたいフィルムが、裁判判決という一つの区切りもあって、すべて公開される情勢となった。
頃を同じくして、水俣病センター・相思社の建設計画が進み、その中に、文献・写真と共に、映画資料も半永久的に保存したいという機能上の構想も鮮明になるにつれて、映画フィルムのすべては、私たちの映画に有用であると否とを問わず、この際リコピーすることを青林舎として決定し、借用したフィルムを洗滌し、フィルム面の痛みを補修し、カラー ・白黒とも、そのまま複写ネガをとることにした。これらのフィルムは、例外なく反転現像フィルムといって、通常われわれの使用する、ネガを作り、ポジ画フィルムに焼つけるというプロ用の映画フィルムではなく、いわゆるアマチュア用の、そのままポジ・フィルムに反転されるフィルムであったため、天にも地にも、それ一本しかなく、複写する以外方法のないものであった。だから、私たちが望むクリアな画面ではなく、重要な学用フィルム程、何十回の映写により、満身創痍といった態の縦きずが入っており、それ自身、あと磨滅をまつばかりのものさえあった。しかし逆に見れば、研究のくりかえしをしのばせ、歴史にこのような形でしか記録しのこされ得なかったいわゆる原像的な水俣病急性死亡患者や猫の水俣病が、その土砂ぶりの画面の中に刻まれていて、そのフィルムの学術的価値をおのずと教えてくれていた。こうして全資料フィルムがコピーされることになったのである。
それらのフィルムの記録はほぼ昭和三十六、七年で終っている。とくに、その時期、胎児性水俣病の患児の記録は貴重なものだが、その時期で学用フィルムの製作は終っている。以後、研究的にも十年の空白があったのと照応している。そして、私たちは以後九年目にはじめて前作によって、水俣病の映画化に着手したのである。(その間勿論T Vの取材は間歇的につづいたであろうが、そのコピーと半永久的保存は全く別の収集方式が必要だろう。)
『医学としての水俣病』の企画書(昭和四十八・七・三十) がある。スタートに当って、何を意図したかが分るので、抜粋してみたい。これは諸先生の協力を仰ぐにあたって、各氏の判断の材料となったものである。
〇映画『医学としての水俣病』に関する考え方
A 水俣病は第一に”社会病”とみる
水俣病は、従来の人間の疾病、人体と病源菌の歴史とは、系の異なる、全く新しくかつ既成の病像とイメージを異にする化学中毒であり、”文明”のもたらした人間への反人間的リアクションであり、その破壊性は根源的である。しかも現在の水銀の大量使用は、すでに化学工業のマスプロの過程に組み込まれており、企業の生産活動の存否をにぎるまでになっている。
水俣病発見の二十年の歴史をふり返るときその原因究明は企業によってさまたげられ、県・国の行政でさえ、その隠匿に力をかし、その防止に至つては、今日に至るも根本的改善がなされ得ないでいることのうらには、水俣病が人体の病である以上に、決定的には社会病であることを物語る。
チッソの二十年にわたる防戦のプロセスには、水銀のもたらした”技術革新”、それによってもたらされる利潤があまりに大きく、仮に一部被害民に代償を支払っても、なお収支あいつぐなうに足るものであったこと、また水銀が化学工業にとっての成長の「鍵」的物質であったことを明らかにした。
したがって医学の面から水俣病をみる場合、ーその原因物質(毒)の所在を、未知のヴィールス発見と同じプロセスでつきとめ摘出することではとどまらず、その治療と処置についても、たえず”社会病”としての水俣病の認識にふれない限り、臨床も病理もその固有のサイクルを閉じ得ないで来た。(中略)
しかし水銀はもともと劇物、猛毒でありながら、残念ながら、化学工業とむすびつく一部の化学者、薬学者、技術者の面から水俣病の原因物質として明らかにされたことはなかった。またその使用・生産現場の労働者、技術者からの危機の呼応は当時極めて稀であった。まず”無機水銀は無害。といった教育をなさしめたものは資本の暗示力であり、これを支えたのは、人間を機械視する、あるいは、人間そのものの健康をみるのではなく、それを”労働能力”としてみる人間欠落の思想そのものである。つまり水俣病ほど、典型的にその毒、その有害物質についての非人間的・反人間的思考によって、長期にわたりその誤りが維持された例は少ないー(以下略)
B 第二に水俣病は「毒物中毒」であり、その最終的病像はいまだに明かでないとの立場にたつ
おそらく水俣病の病像の最終的把握には胎児性として生まれた患児(者) がその一生を終えるまでのすべての症状をフォローする数十年、あるいはその次の世代を含め、長年月の”実見”を必要とするであろう。しかもそれは認定された顕性患者の場合をとってのことであり、不顕性(註・その多くは潜在している) 患者の基盤的存在を考えるならば、(中略)臨床の線からも、病理の線からも、今日注視されている”疑わしい”病像についても正確にふれつづける必要が求められよう。いわゆるハンター・ラッセルの主要症候群のかげにかくれた、非典型的症状にメスを入れている現研究者の推理と予見の側に添いたい。
あきらかに「毒物」であることが、いつしか病原菌的なパターンに向っていないか、ゆえにあらためて、この「毒性」についてのイロハから映画をはじめたい。(以下略)
もう少し企画書の引用をゆるしていただきたいが、以上二項で、私は医学外の人間としての常識から知りたいことを知りたい、つまり医学についてのしポーターであり、確認者としての立場を冒頭に語ったつもりである。そして、次の一項は、『医学としての水俣病』の企画案としてかかれながら、私は『不知火海』への企画をも重ねのべている気がするのだ。
C 水俣病は全生物の生活連鎖に発生機序をもつ病気であり、生物内での濃縮と蓄積が特徴である
ー今日”水銀列島”とか一億総水銀漬け”とか言われている。しかし真に恐ろしい水銀のメカニズムは少しあやまれば聞きなれた”用語”の世界に収斂しかねない。これは医学者の実験を重ねたはてのイマジネーションのひとつであったはずである。(中略)
水銀がプランクトンをへて魚・貝類に、その摂取により魚類、猫類そしてヒトへの構造が明らかにされている。それは、またヒトによる自然系の破壊である。
あらゆる医学者の探究のむくいは、その病気の原因の発見がとりもなおさず、治療の発見につながることにあるであろう。それは医学者にとって、他者にはうかがい知れぬほどの歓びであるはずである。しかし水俣病はその趣きを異にする。治癒の途、全快の道は、その病因の根源=有機水銀を発見したときに絶たれたのである。その医学者の苦悩は『医学としての水俣病』を撮るわれわれの痛苦でもある。しかも水銀はその海への大地への拡散を終え、それが生物連鎖の過程に入り、ヒトの破壊に到達した今日の現実から、再び出発するのである。しかも、有機水銀が、その特有の濃縮と蓄積のメカニズムをもっていることを明らかにする以上、そのすべての因果関係の源流であるその毒の発生源、その発生について放置する人間達に対する焦点操作をも果さなければならない。その発生源への攻撃が、せめてもの防衛であり、今考えられる唯一の”治療”の前提であり、方法であって、他はテクニックの上の方便にすぎない。その点現在行われている不知火海漁民の工場封鎖、操業停止、排水口の封じこめは、まったく正確無比な対策であり、他により以上の方法は考えられないのである。
この映画『医学としての水俣病』では、医学と「漁民闘争」、医学と「SF」を並行して描こうとは思わない。想像力のペースはあくまでも”水俣病とは何か?”の究明におかれる。だが、その究明のはてには一つの(医学)思想の変革をせまる巨大な実在としての「水俣病」が存在することは予見できる。
「水俣病は決して治らない」という終末的イメージから眼をつむり、のがれることが出来ないところから研究はつづけられているし、この映画の対象世界は、その点で動いている。(以下略)
D 何故水俣病に焦点をしぼるのか(略)
E どの立場でとるか
くり返しのべたように、われわれは被害者ではなく、また医学の専門家でもない映画プロパーであり、映画としての責任を負うものである。今日までの数篇の映画製作において、たえず患者さんの場から物事をみつめようと努めてきた。しかし「スローガン」的に、政治性を出すことにはひとつの抑制を働かせてきた。それは人間がひとつの正しい認識に至ればその人間には必ず、実践力が生まれ出るであろうというリアリズムに立つからである。今も、ストしートに言うならば、水俣病は現代、始めて登場した毒物中毒であり、いかに不顕性とはいえ、その発生源を中心に生まれた総自然の破壊である以上、最終的には疫学的方法によって、その地域住民に対する総被害として、率直にこれをとらえ、毒の所在をつきとめ、その源を絶ち、ひいては、ひとつの企業、県、国に至るまで、糾弾し、制裁し、経済的にも、物理的Kも、これを追いつめ破壊し、水俣病が畢竟、治癒不能としても次善の策として取りうるものはすべてとるという立場にたって撮る。(以下略)
どうも今、読み返して、複雑な思いであるが、医学の映画をとるに当って、かなりの視点づくりをしてからでしか、重畳たる医学の世界にむきあえなかった当時を思い出す。そして医学映画をとるにあたって、私は過去の医学フィルムをいったん、その撮影した当時の撮った順につなぎ直し、そのカメラをまわすときの研究者の目標、その主要関心、その研究の手順、撮影の条件を逆に読みとることから始めた。おそらくはカメラずきの助手、講師たちが初めて十六ミリカメラをまわしたであろう。技術上ピンボケや、露出の狂いは随所にあるが、医学的に記録したいものを狙う点では、いつも正確に表現されていた。水俣病は、一瞬間をとる写真では捕捉できない症状をもっている。このことから少ない研究費の中からも映画で記録した。その価値は片々たる映画の枠をこえて、重要な価値をもっている。私は、ほぼ撮影時の時間順序に復元したフィルムにしてから、当時の記録者=現在の水俣病の第一線研究者に会い、そのフィルムを映写して、当時を追想しつつ、研究の道すじをのべてもらう方法をとった。今日、医学上の判断では、意見を全く異にする学者諸民も、中央政治、医学界の官僚の、チッソ側にたっての妨害、圧力に抗して、有機水銀中毒の発見に至った過程では、今日では失われた共同性をもち、その点、医学の初心がにじみ出て、心を動かすものがあった。その映画による研究も昭和三十七年頃に終り、以後は、個別研究の記録に入る。そして、昭和四十四年の段階に、当時の患者の殆んどの記録が再び映画で行われる。それは私たちの映画に収録する性質のものではなかった。一つのテストのパターンを全患者がしている。その同じシーンの連続であった。聞くととろによると、それは症度の軽重を判断するための映画素材であり、その記録は、当時、水俣病補償処理委員会による患者の補償に差を設けるための症度別ランクづけの資料とされる可能性ももっていたかも知れない。これは推論である。しかしこの推論の根拠は、映画の第一部『資料・証言篇』のために先にのべたように、旧フィルムを追体験してみて、そのフィルムの研究上の・きわめて高い質をいったん見てしまった眼には、それはあきらかに、一つの行政作業の反映のような規則的な、何のためにそれをとったか理解に苦しむパターンばかりであり、もしそれを必要とするなら、ある行政的判断者(それが医学者であったかも知れない)が症度を見わけるための判断素材であったろうとしか思えないのである。私は医学に素人であり、医学の映画の中では、私の判断はきわめてひかえめにし、医学者自身のコメントをそのまま厳密に附して構成した。しかしもとより、医学に二つの潮流が生まれた時期のただ中の撮影の仕事である。ある学者は第三水俣病(有明)について、否定の立場をとり、ある学者はその可能性について固執する。そしてそのベースとなる有明海の水銀汚染は政府のデータによっても明らかにされている。そのさ中では、医学の門外漢である私はその環境汚染の現実を不知火海に見据えつづけた眼でしか医学論争を見、きく外はない。
今回の撮影中に、有明海区の最も疑わしい患者はほぼ全員シロとなって裁定された。ある病理学者は、病理所見の正しさは死後解剖によってのみ立論が証明できるー逆に言えば、その時にしか学問的立証が出来ないという「病理学」専門領域固有の苦しさをのべられる。しかし先生とて何十例の水俣病の臨床体験をもち、臨床領域に立ち入るこを許されれば、症状から水俣病特有の症状を発見出来たかも知れない。臨床と病理が、あるいは疫学とが、それぞれ固有の専門領域の「相互不可侵条約」をつくって、領域の相互自由往来の方途がないのが日本の医学界の現下の慣習なのであろう。その慣習に研究が足をひっぱられ、一つの明快な進展を遮られているのを見ないわけにはいかなかった。そして私達の医学映画が、基本的な方法として、医学者の研究データはその医学者のジカのコメントによるという原則からして、データが発表されていない、いまだ秘匿されている第三水俣病(有明) についてはついに映画にすることが出来なかった。その悔恨は、次なる作業によって克服する以外にないであろう。それは私たちが医学映画をとることによってより明確になった表現で再度チャしンつする以外にない。その思いをつよめたのは、第三水俣病が環境庁で組織された委員会(水銀汚染調査検討委員会・健康調査分科会=昭和四十八年八月十七日、於東京)において、最終的判断の資料として運動失調のあり方をうつした八ミリ映画がひとつのキメ手になったという新聞報道(朝日新聞・昭和四十八年八月二十一日付) を見たことによる。それによると、「・・・熊本大学徳臣晴比古教授が研究班の報告したうちの二つの例につき、『水俣病の疑いはなく、老人性疾患である』との診断結果を示し、運動機能をテストした際に撮影したフィルムを映写した。五時間にわたる両者の激論に決着をつけたのが、このフィルムであった・・・」このフィルムがどういう役割をはたしたかがうかがえる。映画をとるものにとって、一つの立場に立って探求するカメラワー クであるなら、高度の資料性と共に、見逃しかねない特異な症例について、分析力をもって、より精密な表現に至れたであろうからである。かつて水俣病発見当時に果した映像(学用フィルム)の作業力が、いま八ミリで、しかも現実の患者さんを見ることなく、その画面だけで、シロクロが判断され、根拠づけられることに心痛まないわけにはいかない。かつて昭和三十一、二年には現場にあくまで密着した医学が、他の研究者に症状を分析しつたえるためにとり、その研究を前進せしめるに役立った学用フィルムが、今、現場、現実の患者に触わることなく、「委員会」の裁定の具に堕している気がしてならないのである。勿論、どんな八ミリであったか知る由もない。私の偏見であれば救われる。しかし、奇しくも学用フィルムを歴史的に見ることの出来た稀有の証人としての、これはひとつの直観で、動かしがたい偏見なのである。
さて、私は企画書にかいたことを実現出来たかどうかを検証しなければならない。まだのこる一篇『臨床・疫学篇』が未完であるので、感想の減に止めたいが、この医学しポートは水俣病研究の中間報告と規定したことは正しかったし、今後、研究の進展によって、補正、変更、撮りたしをして行くべきものとして、今日医学研究の総体は紹介したつもりでいる。しかし、「社会病」と冒頭に規定したことの重大さは、まだ充分に明らかにし得ていないうらみがのこる。たとえば目下の水俣病医学の問題は、慣行として二十年近くの実績をもつ水俣病認定審査制度そのものの存在を問うところまできている。もし医学が「社会病」としての基盤的認識を実践的に医学判断の基礎とするものなら、不知火海の総汚染と、そこでの食生活について、もっと実際的な人間的な、個性的な現場体験をもって当るべきだろう。子供が胎児性なのに、何故母親は脊推変形症なのか、あるいは同じ漁家として漁を競いあった家々の患者を、Aは「水俣病」、B は「保留すべき段階の患者」、Cは「他の病名で説明しうるから棄却」とピンセットで同じダイヤモンドながら宝石と工業用ダイヤによりわけるような作業の方法をするのであろうか。
その矛盾をテーマにしたのが”迷える医者”原田正純氏のケースワー クを中心に描いた『臨床・疫学篇』である。
原田氏の直面した臨床例は容易なものではなかった。立場上、恩師にあたる先生方が認定審査会の委員として、棄却し、保留しているケースばかりを映画で記録した。例えば、湯堂の漁家の主婦で、あらゆる点で完壁の水俣病であるが、視野狭窄のテストが、テストごとにちがう。つまり、これは見えるか、見えないか、という簡単なテストでも、たたみこまれて関われれば、一種の逆上現象を起すのも、また重度の水俣病のもつ精神障害といわれている。つつしみぶかいこの主婦は、「見えません」というひとことをいうにも、ぶっきらぼうで、刻々に「心因性」との疑いを深めてゆく医者にむきあってさらに気が動?し、答えはしどろもどろになる。それを医学的に判断すれば、「心因性」の視野狭窄、つまり嘘と紙一重の記録としてのこる。認定審査会は、書面審議であり、臨床医の報告を「信頼」してかかるシステムであり、せいぜい出る結論は保留にして、再検査という形になる。だが、この多発部落では、誰もが、彼女を水俣病と信じてうたがわない。
もう一つ例をあげよう。水俣に隣接する津奈木の浜部落に浜本亨さんという棄却されたケースの患者さんがいる。特に名を出したのは、一昨年来、環境庁に行政不服のうったえを出している方だからだ。元、綱子であり、今、小さな魚屋を営んでいる。との次男は精薄様の症状のつよいことから胎児性水俣病のうたがいがあり申請中だが、目下保留であり、おくれて妻も申請を出した。しかし、浜本亨さん自身が棄却されたととから、論理的にはこの一家の認定は複雑である。同じものをたべているのに一人に症状をみとめ他の一人に症状をみとめられないということは疫学のABCからいってもおかしなことになる。
浜本亨さんの場合、難聴、手足のしびれはあるが「脊椎変形症で説明出来る」という理由である。原田氏によれば、たしかに脊椎変形症もあるという。ただ視野狭窄があまりなく、末梢神経の麻痺も典型的ではない。これはいまの段階では患者の条件として不全である。しかし、それが水俣病と併発したり、水俣病がひき金になっていることは当然考えられるという立場から見てゆく。もう一つ棄却の外因と考えられるのは、病歴、個人歴の問診の際、彼は「魚はあまり喰べとりません」と答えたという。そのことが関りないとはいえない。映画で、私たちは、この一家のすむ浜部落二百一戸の調査から始めて、いわば疫学の真似事を見よう見まねでやってみた。彼の過去の仕事、食生活、近所の人の見た彼の症状の経過などの証言あつめである。延十日程の作業であったが、実に明々白々な事実が容易に、次々に出てきた。彼が三十代に網子として働いた網元は典型的水俣病で親子二代が死亡している。そとの魚をもちかえっていつも食べていたという。その綱元の発病時期に胎児性水俣病のうたがいある次男は生まれている。その後、魚屋となり、水俣の魚市場で仕入れた魚を行商し、そのための世間への気がねから「魚はくうとらん」と地元の人なら、あきれ返るようなうそを言ったというのである。「魚のあきないしてて、魚をくわんちゅうことがあるもんですか。うれのこりの品物ば、じゃ見むきもせんというんかと兄にゆうてやりました。何で嘘ゆうかち言うてやれば、そのときにはそのときの気持じゃったというでしょうが、商売や子供の将来を思ってうそゆうたというんです・・・」と実の妹(彼女も水俣病認定患者である)が言う。今でこそ、この浜部落も水俣病を口にすることが出来るが、それでも一つ町をへだでただけで、十年前の水俣とほぼ同じ状況なのだ。このケースの場合、ストしートに医学所見を出すわけにはいかない。すでに「棄却」という結論がいったん出されているからだ。原田氏は疫学的にみれば明々白々といいながらも、医学の先輩たちの「棄却」という判断をくつがえすために、何がキメ手かを探るのである。それが果してキメ手として有効かどうか私は知らないが、彼の妻の視野狭窄を計った結果、彼女のそれからは、教科書的な視野狭窄のパターンが見られた。素人の私たちではそれで充分足りると思えた。だが、この一事があっても、なお、現状では彼が臨床所見の上で、水俣病の特有の病像をとり出さなければ、「棄却」の結論をくつがえすわけにはいかないのである。
このフィルムは編集過程のまま、録音を附して環境庁の資料とし、環境庁の人々に見てもらった。その立証能力と資料性がどのように働いたか未だ明らかではないが、「やはり、現地に行って、実際を見てこなくては裁決出来ない」という合意を生んだことはたしかだ。
水俣病が発生以来二十年、病像がどんどん修正されなければならない時点である。にもかかわらず、旧来の水俣病の臨床像、とくに急性期の患者像を尺度にしての判断が主流をなしているのが現状のようだ。
こうした苦しい条件下で、胎児性様の子供、高血圧の一言で片づけられた患者の体そのものにむきあっている原田氏の仕事は苛酷にすぎるものがあった。新潟水俣病の場合には不全片麻痺は水俣病の五十パーセント以上の症例であるのに、熊本では血管障害として水俣病から除外されていたり、動物実験であきらかにされているように、全身病としての水俣病、つまり神経学の対象に限られることなく、経口摂取したものであることから、肝臓、脾臓、心臓等の諸臓器にも障害がみとめられているにもかかわらず、それは、既成の肝臓病、心臓病として「説明しうる」とする”引き算”的医学判断とまともに対決せざるを得ないのである。
この迷いに迷う臨床をテーマにする映画の中に今日の水俣病から疫学の思想、「社会病」の思想がどのようにうすめられてきたかをくみとって頂きたい。
映画をとり終えてから、さらに重大な医学上糾弾さるべき事件が去年夏より水俣で続発している。急増する水俣病を処理するために、インターン生まで動員して、俄ごしらえの検診部隊をつくり、申請患者の検診を行った。これは県の行政がどたん場でうった医学行政の暴走となった。武内氏、原田氏他、かつての水俣病研究者はさすがに一人も参加していない。これをいつか映画としてフォローしなければならないと思っている。
しかし、それにしても、長い映画として完成した。『医学としての水俣病』だけでのべ四時間半である。一つ一つに遊びはない。医学研究の現状までの中間報告としてまとめた意図から言えば、講義の実例サンプルにも、コンパクトな視聴覚教材にもならなかった。またも「有用の長物」を生んだのではないかをおそれる。
余談ながら、この事にふれて、高木隆太郎プロデューサーがヨーロッパとアラブの二地点で上映したときの話を思い出す。 WHO(国際保健機構)では、一本一本が長すぎる、一体誰に見せるためのものか考えて一時間以内に短縮した方がいい、内容は貴重なものだから全面的な協力は惜しまないというニュアンスであり、一方、アラブ、ブラジル等第三世界の人々は、長い短いを問わず、分っているデータをすべて見たいという意見であったと聞く。これは一つの光明であった。やはり第三世界の人々のうけとり方は先進国とはちがったのだ。これからオイル・ダラーを軸に石油化学工業をはじめ重工業型の国家へと脱皮しようとする国々の医学者、科学者が乾いた砂漠が水を吸いこむごとく、映画に対して強烈な関心を示してくれたことによって、同じ、日本の第三世界的領域に追いこまれている水俣病患者の、即ち病めるが故に映画のモデルになった一つの甲斐が果されたとしたら、映画を作るものとして、これほどつぐなわれる思いはないのである。
つい最近、アメリカの五大湖附近のインディオ居住区で湖の魚を摂取するインディアンに典型的な水俣病が発生していることを写真家ユージン・スミスの妻アイリー ンは報告してくれた。また今度、アラブまでフィルムをもっていったきっかけとなったイラクでは、公式数字をもってしても患者六千人余、死者四百五十人余という。日本の公式数字(認定された患者)をもってしでも熊本、新潟の三倍近くに及ぶ。この原因となったメキシコ産小麦にアメリカで殺菌剤=有機水銀をしみこませた種子は、イラクだけでなく、イランその他周辺諸国にも送られ同様の事件をひきおこしているという。やはり、第三世界から水俣病は発生するのだという黒い思いに駆られる。
紙数もほぼ限られた今、『不知火海』について触れよう。これは五年間水俣にかかわった私たちの行きついた映画的世界である。医学も行政も目撃しようとしないできた事実を撮ったものである。この『不知火海』は、先に企問書に触れて少しのべたように、発想の根というべきものは、広く疫学的世界と重なる。しかし、何より心ひかれたのは、水俣すらつつむ自然の賦活力であった。真黒なヘドロのある百間港のひき汐のあとに出来た水たまりに、十センチほどの稚魚をみたときの衝撃は大きかった。こんなところにも魚は帰ってきたのかという驚きである。三年前にも見ることが出来なかった。そしてまた、最多発地区月の浦の鼻の岩膚にカキの稚貝をみつけた。絶滅したと思われたヒバリガイモドキもたつた一つだがあっった。一人の娘を失い、一人が最重症の患者である少女の父、自らも水俣病である田中義光さんは夢中になって、カキの稚長をうってその鮮度をたしかめていた。その時、何とも滋味あふるる表情でその貝に語りかけているのをみた。海は復活しつつあるようだつた。毒と共にありながら、生きものが帰ってきたのだ。以来、私たちは不知火海への見方を変えることになった。水俣湾内はいまでも高汚染のままである。湾内の底魚はいまも高い水銀値を示し、武内氏によれば、回遊魚もふくむ十検体の平均をとっても0・三PPM 以上、底にすむ魚類は一PPM以上はあるだろうという。かりに0・五PPMとしても、五百グラムずつ毎日たべれば、約百日で最低発症値に達するという。その対策として、県は定置網を設け、湾内の魚を一斉に捕獲して、それをプラスチックの大タンクにつめ、いずれはコンクリートで埋めこむ予定を立てている。しかし現実には、湾に出入する貨物船や巡航船のために、網は中間二百五十メートルがそのためにあけられており、魚は自由に往来できる。つまり全く見せかけの汚染魚対策にすぎない。映画で何回かその捕獲現場を見にいったが、実に大物が不幸にして網にからめられている。それは一見して、鮮度を疑い得ない活きのよさである。カしイ、タコ、スズキ、フグ、イカ等さままざまである。
水俣湾内とそのぎりぎりの隣接海区には漁船の影もない。水俣市の漁協中、船を動かすのは汚染魚とりの役目だけである。それ故にかくも豊饒な漁場となったのであろうか。単に水銀滓だけでなく、チッソはありとあらゆる物質を水俣湾に流した。にもかかわらずこの湾の海流と湾の構造はこのように魚に快適なのであろうか。古くからの漁師が恋路島から丸島、月の浦にかけての漁場を誇ったのも、今はっきりと肯ける。そして、医学者の研究によれば、魚に入った有機水銀は、人と同じく、やはりその脳と神経細胞に蓄積され、その動き、鮮度、肉づきは、他の鮮魚と全く変らない。それはプランクトンの場合にも、ミジンコの場合にも、毒によって腐蝕も死滅もすることなく、生きつづけているからこそ、その食物連鎖が続くのだと指摘していた。つまり、水銀測定器で計って始めてその水銀は顕然化するのであって、魚の目常の盗は、太古からの魚についての好悪の判断の基準たりえた、美しいえらとすきとおった眼のままの、まさに活き魚であるのである。どうして毒魚として忌むことが出来よう。そう語りかけたくなる魚が湾内に群れているのである。
私たちは水俣から離れて再び水俣をみつめたい気がして、同じ不知火海の浜をたずねてみた。水俣病である限り死んだ海とみえた不知火海は、宇土、天草、御所浦の側から見ればまさに活況ともいうべき漁業がいとなまれていた。これは鷲きであった。医学の映画を撮りながら得た知識によれば、それはあるいは今も長期微量摂取による慢性型発症をひきおこすとか、かつてダメージをうけた身体にさらに水銀を加重することによって急性発症を見る危険性があるとか、おぼろげながら知っているつもりでいる。また、まさしくそうなり果てたと思われる患者にも会った。そして撮影し、その人々の食の歴史も現況も聞いた同じ耳と眼で、活況の不知火の漁業を見聞きするのである。それでいて、私たちスタッフの誰もが魚に魅せられ、どこにいっても、久しぶりの活き作りに箸をせっせと運ぶのである。すぐれた映画手法によってもあらわし切れない美しさをもつ不知火海のたたずまいと、そこになりわいとしてともたのしみとも分ちがたい漁夫をみているうちに彼らの生活感に同化されるのか、また、魚の活きのよさがうながす美味しさに魅せられるのか、どのすべても作用しているのであろう、何の怖れもためらいもなくなるのである。そこが指呼の間に水俣の工場の煙を望むところであろうと、位置を水俣からすこしでも引きはがしてむかいの浜から見れば、そこは都市のよごれ方を知らぬ天然の海があり、そとでの私の海ともいえるものが安堵感とともにあるのである。それは魚好きとか、焼酎くらいの肴好みとかではなく、そとの自然に、はるかなる先祖がそこに定住の思いをさだめた時に働かせたであろうような、直感的な愛着がよみがえるのである。今回、私はそれを自らを怪しむほど、感じとってきた。まして、天草の御所浦の人々のように、そこをこよなく愛し自慢する土着の人々であれば、私の”意外”こそ意外であるだろう。つまり昔同様食べつづけているのだ。そのときも、私たちは”医学映画”で深く刻まれたデー タを忘れ去っているわけではない、むしろ頭にこびりついてさえいる。しかし決して生理に浮上してこないのである。これは一体何なのかと考える。それがつまり人間のえらびとった、あるいは生れながらそこにいるとしても、心交しあった「環境」というものなのではないか。そこにタバコのすいがら一つ放りなげても気になる海があり、魚の寄らねば腹から何かこみ上げてくるわが海、わが浜としての「環境」ではないだろうか。その海のものを喰うのをやめて、チッソの海上封鎖にいくわけでは決してない。毒ある魚をくらい焼酎をくらいながら、チッソの「悪水」をせめたて、海を汚すなと工場幹部の胸ぐらをつき上げているのであろう。とすれば、不知火海の人々の「環境」まるごとの破壊への抗議の根っこはどこにあるのであろうか。それはそこに生きつづけ、漁業をいとなみつづけ、その魚を喰いつづけ死に至る、その全人生の実在こそ、チッソを恐怖させ、行政、医学を根本からゆすぶるものそのものなのではないだろうか。その行動の根拠はそのまるごとの生活そのものであることを不知火海は完壁な形で具現しているのだ。
三本の医学の映画をとりながら『不知火海』をどうしても撮らなければならなかったのは、医学が凝視すべき、その自然性に依拠してほしかったからである。原田正純氏は「へその緒でつながっている海とヒト」という表現で、不知火海と患者=漁民を語った。胎児性水俣病の最も深い理解者であるのと重ね思うとき、人は不知火海を子宮としてはぐくまれ、毒をそのまま受容した胎児であると言っているようにも思える。これは因果である。
この映画には「闘争」らしいものは何一つ出てこない。いわば静的な水俣病の世界とそれをつつむ母なる不知火海そのものをみつめたものである。
補償金をもらって、何が救われたであろうか。一家全滅の代償に数千万を手にした患者家庭に「社会病」としての水俣病の病巣はどんな形で進行していっているか。また、患者さんがどんな生命力によって各自の治療方法をそれぞれに発見し、うみ出そうとしているか。水俣病はいわば、公けにみとめられ、補償はされたが、そのあとこそ個人の業苦のみ残る。しかし業苦を認めつつ、そこにいかに人間的な理知の輝きがえらびとられたかーそうした一連の人間の個人史的闘争のいとぐちを映画はいく分でもとらえたつもりである。ことに、かつて、その身長、体重の過少、そして四肢不自由、表現機能の欠如といった胎児性水俣病特有の諸症状から、いくつになっても「子供」としか見えなかった少年、少女が、青年期に達し、明らかに強靭な意志を発揮しはじめている。長い間にからかわれ、おとしめられつづけた体験から、ひかえめで遠慮がちながら、いま精一杯、彼らの方からつき合いを求めはじめている。この映画をみて、幾分でもストしートなつき合い方を見出して頂ければ幸いである。私たちは彼らの中にゆたかな愛すべき人間を見たつもりである。と同時に、絶対に理解を超えた深部もみた。しかしそれとて、つき合いを求める彼らの表現の果てに知り得たことである。水俣病を生んだ同時代人として、これはどこかに水俣病の刻印として止めてほしいのである。しかし、それは陽性に展開しているのだ。
どうやら、私はいわゆる「終末論」と反対の地平にきてしまったようだ。なるほど、水俣という文明のもたらした極北をみれば、終末としかいいようがない。しかし、そこで自滅を願わぬ以上、自らの律し方、自らの意志で終末してゆきたいのである。その地獄にも人のかたちどった恐ろしさのみではなく、黒々としたユーモアもあろう。現実をまじろがずにみつめれば、海の底から生類の賑わいがきこえてくる。この声と和して、体制を恐怖のどん底におとし入れる策を計りたいのである。なお語りたいことはつきないが紙数を越えている。やはり映画で見て頂きたいのである。