水俣病についての映画状況報告 『毎日新聞』 12月11日 毎日新聞社 <1974年(昭49)>
 水俣病についての映画状況報告 「毎日新聞」 12月11日 毎日新聞社

 作四十八年三月、水俣病裁判の判決があり、その後の患者さんとチッソとの直接自主交渉の記録『水俣一揆』をまとめているころから、この時期に、水俣病の医学的側面を描いた映画を作っておかなければという思いが強く動いた。
 それまで、水俣病にかかわりをもちながら「脳が黒くやけこげ消失し」とか「細胞がタコのイボイボのように丸くなって」とか、散文的にしかのべられなかった。もちろんハンター・ラッセル症候群とよばれる知覚障害、運動失調、視野狭窄、構音障害の外、難聴等ぐらいは現実の患者さんから知らされたし、文献的にも知ることが出来た。だが映画にそれを獲得出来なかった。
 ある患者さんから「うちの父の死ぬ前の写真(映画)をT先生はうつしていかれたつばい」とか「Iさんは八ミリがうまかで、よう撮らした」という話を、きいていたし、それをたどって、断片的には前々作『水俣』にも使用したが、それが全面的に解放される日を待っていたといえる。裁判のある間は「色々問題もあるのでテレビや、新聞などに出さないようにしようと先生方とも話していた」とI氏はあとで語られた。恐らく、水俣病の原像ともいえる急性期の患者の学用フィルムは、それだけで社会的に強い衝撃をあらためてひきおこすに足るものであったからだ。とくにI氏のように今なお水俣病の行政を掌握する立場にあったり、T先生のように第三水俣病のシロク口論争の一方の立論に立ち、その医学的発言が行政の根幹にかかわる立場にあったりする場合、フィルムの管理に個人的責任以上の対社会的判断があったであろう。
 医学が私有化されてはならないことは明らかである。同様に人類史上初めてのこの惨害の実態を秘匿することもあってはならない。そして、その発表のタイミングも政治的に操作されてはならない。事あらためて言うなら、この学用フィルムも、おびただしい写真も、大学病院や県庁の中に葬られることなく、発表さるべきである。しかし、水俣病の歴史の示すところ物事はそうなってこなかった。それを「隠匿」といい「密ペイ」といわれても仕方のないことである。
 裁判の一応の決着のあと、初めて、諸先生や各関係者からフィルムの公開についての応諾が得られた。一つには社会状況の変化があった外に、貴重なフィルムそのものの寿命が、いま手を入れなければ、破損しつくすまでになっており、その再生と半永久的保存は、いつに政府でも県でもなく、映画を仕事とするわれわれでなければならぬと思ったことが、事を動かしたと思う。
 裁判の終わりころから、有明海、徳山湾等に第三、第四の水俣病の危険があり、水俣病にかかわった日本中の学者が二つに分かれ、論争をはじめた時期、私たちのように非体制的な立場で、つねに患者さん側から物事をみようとする記録映画グループで、かつ「告発」運動の一員でもあるわれわれの立脚点は、時にある立場の先生にとってみれば異相のものであったに違いない。しかし、今回医学フィルムの公開に関しては、だれひとり拒否した方はいなかった。そのコメントには永い間の見解があり、固執もあったが、フィルムをすべて(十時間余)リコピーし、ネガを作ることには協力が得られた。感謝にたえないところである。
 私は水俣病の歴史的位置づけを原爆による放射能被害と同じほど重く見ている。そしてヒロシマ・ナガサキの場合、アメリカは、日本側で撮影した記録を十数年にわたって返還せず、その後も、日本政府の管理の中におかれているのを知っている。行政は、水俣病のフィルムについても、出来ればそうしたかったに違いない。私たちが、前作において痛感したのも水俣病の病像がいかに知らされていないかを自ら恥じたが故に、許された全患者を克明に撮りまくることになった。
 映画を撮る間に「水俣病」とは何かについての行政色の濃い医学論争がつづいた。とくに、汚染については何一つ底をさらうような抜本的対策のないまま放置されている。水銀はチッソ工場敷地そのもの、その残渣プール、そして百間港、水俣湾、ひいては不知火海全域に、今も推定約一千トンの水銀が拡散しつづけ、それによる長期微量摂取型の新しい形の水俣病の可能性が叫ばれてきた。この時期、一方では申請せずにうめいていた患者さんが次第に申請をはじめ、その数が一カ月に七十名に達し、行政が十数年、それをかくれみのとしてきた「水俣病認定審査会」がほぼ処理能力としても医学判断の力もその機能を失いはじめた時期でもあった。
 私たちは、この事態の中で、何が水俣病なのか?医学という特殊な学問の城砦の中に特殊に管理されている水俣病の病理、病像を患者さんの世界にもちはこび、聞きたいと胸中念じつづけた。もし、水俣病の病像がわが知識になったら、どんなに臆せず、正面から物が言えるだろうか。そんな事告考えつづけた。「知は力なり」とも自らに言い聞かせた。
 『医学としての水俣病』(三部作)と『不知火海』はこうした基盤的作業として、今日の水俣病を考える場合の討論の素材として役立てたいのである。
 ネガ・ポジタイプのフィルムではなく、反転現像フィルムのため、たった一本のプリントしかなく、それが何十回の学用試写、上映のため、すり切れ破損し、土砂ぶりの雨のようなかき傷の画面の中で、人が、猫が、マウスが狂い死んでいく。そのさまは、映画でしか他者に伝え得なかったであろう。素人の助手、講師らによって、当時の少ない研究費の中で撮られたフィルムは、その映画という方法を誤たなかった故に、世界的な業績となっている。この間、やっと完成した『資料・証言篇』と『病理・病像篇』をプロデューサーの高木隆太郎と英語版責任者、郡谷柄凌がイラクに飛び、世界保健機構(WHO)の会議で初公開した。イラクは有機水銀剤で消毒されたアメリカからの種小麦をパンとして直接摂取し死者六百名、患者は一説に十万名に及ぶといわれる。その地で上映され、とくに発展途上国の科学者に強い衝撃を与えたという。文明が人類そのものを死に追いやる段階に入った今日、文明化を急ぐ発展途上国の人々にこそ最も直観的にうけとめられたに違いない。とくに被害民は漁民に集中したことを貧しい第三世界と重ねうつして読みとったのだと感じないわけにはいかない。「水俣病の教師は患者さんである」と原田正純氏(熊大精神神経) は言う。映画は医学者のそれぞれの医学を、立場の異なるものをこもごもそのままのべたつもりである。しかし、その対象世界は患者さんであり、その現実の病像は究極ひとつのものであろう。今日、過去の医学観、臨床観の線上から同一地帯の病者を「患者」「非患者」と分けることが、最後まで疑問として残る。有機水銀によるまるごとの汚染という現実、これが一つも改められていないという事実からこそ医学は立論さるべきであろう。医学映画を作りながら、究極には別に新しく長篇ドキュメンタリー『不知火海』を製作している理由と動機はそこにある。歴史を予見する母胎、医学の依拠する母胎、政治のみつめるべき母胎、あらゆる発想の母なる海としての『不知火海』をいまいちど、まじろがずにみつめ直し、答えを背に負いたいのだ。