書籍「逆境のなかの記録」 映画と現実のかかわりについて <1975年(昭50)>
 書籍「逆境のなかの記録」 映画と現実とのかかわりについて

 映画が、あるいはドキュメンタリーが、現実の認識をいささかでも補うものでありたいと私はねがっているものの、それがどこまで果せるかについてはいつも迷うしかない。まして「現実変革の武器」といった仮定に組することはできない。やはり、それを出来れば契機のひとつにして、実際の体験、直接の行動におもむくものであればそれで充分である。このテレビ、週刊誌文化の中で、情報は過多ともいえる量をもち、その”質”は変転する現実の内実の一側面だけ切りとり、”現実”より興味ぶかくさえ描かれる。直接体験への一歩の踏み出しを求める態のものではなく、間接体験で充分すませられるものとして、情報は流されてくる。投書、あるいは視聴者参加という”フィード・バック”論も、情報による世論操作のひとつとしてしかいまは機能を許されていない。「マスコミの責任」というとき、現実の変革については、つねに彼岸に置いての話であって、直接体験を記者なり、カメラマンが代って”体験”してくるのであり、観る人読む人に、「その場にいけ」とか「その人々とつながれ」という真の変革へのモメントは指示しない。「責任」とはその範囲での情報上の”正確度”に限られているようである。映画にせよ写真にせよ、ルポルタージュにせよ、ある現実に対し、たかだか何事かがなし得るものであり、何事は”直接体験” ”直接行動”のみによってしか知り得ないものではなかろうか。そうした隔膜を自ら知らなくてその個有の役割をどうして自覚出来ようか。私の水俣に関する一連の仕事にしても、映画を見ただけで、現実に赴むくことなしに、気のすむ、あるいは自足できる映画ではない。やはり肉眼と肉体で相むきあわなければ、その映画での認識は運動しないであろう。

 昭和五〇年、夏は、私にとってはカナダ・インディアンの人びととその映画化の仕事にあけくれた。文明の病理、資本主義社会の根源的病理としての水俣病を、あらためて、地球半周のかなたの人々によってその思いを確かにされた。カナダの一夫人からの手紙が緒口で、二年前から現地に飛び、以来、日本の研究者と患者との交流に腐心してきた写真家アイリーン・スミス(ユージン・スミスの妻であり協同者である) のことが心につよく灼きついている。かつて水俣でそれぞれ仕事をしていた時、私たちは映画をとり、スミス夫妻は二人で写真をとり、互いに同じ現場で顔を合せてきた。同じカメラアングルを譲り合ったりする瞬間に、”仲間”を意識してきた。だがその時は、表現者同士であった。しかし、今回、インディアンを引率しての彼女はオルガナイザーであり、通訳であり、彼らにとっての水俣病の学習のリーダーとして、私も舌をまくほどの八面六臂の活動に明けくれた。写真家ではなかった。その彼女が、日本での仕事に一つの区切りをつけ、帰国の直前、九月六日、神田の全電通会館でのあいさつのことばほど、私の心にしみ入ったものはない。彼女は冒頭からこう話し出した。
 「私はカナダで水俣病のことを色々話してきました。写真集も見せ、何百枚のフォトで説明してきました。しかし、今度、彼らが水俣に足を運んで、実際に見たときの彼らの新鮮なおどろきは大変なものでした。一つの見たことが何百枚の私たちの写真よりもつよいものでした。・・・私は、何て、オロカナことを・・・写真で分ってもらえるなんて・・・思っていたのは間違いと分りました。やはり現実を見てもらって本当によかったと思います。」このことの言い出しはじめから、私は予感もあって一語一語をとり出す彼女の表情に釘づけになっていて、「オロカナこと」という一ことをきくと共に大きな嘆息を発しないわけにいかなかった。同じ表現者としての諦念ともいうべき辿りつきかたであり、同時に、彼女が実践者としてひとつの事を完壁にしおえた充実感によって、はじめてそのことばが形をとったものに思えた。だからといって、彼女は決して写真をやめることはないと信ずることも出来たのである。表現者としては辛い思いで自らの隔膜の所在を知った以上、さらに自覚的な方法で表現と現実、認識と行動の関係を洗い出していくであろうと思ったからである。
 映画が、あるいはTVも含め映像表現が、形、音、色という感性の多くを求めるものであっても、それは映画体験にすぎない。そのあとに行動への模索の開始を期待し、実際の関係をむすぶことへの希いまでしかその思いを托し得ない。もし強烈な闘いとクライマックスが映画にこめられており、そこで自給自足でき、行動への胎動を、虚像的に空想妊娠的にすませるものとしたら、それはドキュメンタリーとして、あまりに劇化されたものではなかろうかという疑問が残る。作り手の私たちにとっても、映画をとる作業を一まずどこで終えて一本にしあげるかが問題であり、「さしあたってひとまずここで筆をおく」といったものであり、筆をおいたときから現実はさらに進展し、ときに爆発してゆく。その時をカメラとして、撮影行動として逸することの方が多い。唇をかむ思いがするのはそうしたときである。ただ、これと同質の現実を必ず次の機会にとるであろうという一片の可能性と、決心をもとに断念するのである。だから、映画は現実の闘いを予感するとしても、その予感を、観る人の心の中にも分ちあえる認識の骨、現実の岩盤を正しく提出できるかどうかに私はかかわりずらう。そしてドキュメンタリーの場合、運動が顕然化した時にしか、運動は記録できないことが多い。だが運動が潜在化せざるを得ない時の状況、その現実の構造を描くことで、時期を得ての爆発がまさしくその過程から生まれたものであることを直感的に理解しうるだけの運動性はフィルムにとどめておきたい。私たちのこの二年間の『医学としての水俣病』『不知火海』はこのような思いを心にしずめて辿ってきた。しかし、そういう思いがみる人びとに伝わったか否かは、別の点検を待たなければならない。
 「告発」のあとその志をついで出された「水俣」(運動機関紙)にのった「観る側の作業を待って完成する映画」の文章は私たちの『医学としての水俣病』について、運動の現時点から批判した。
 その批判(熊本・水俣病を告発する会・水俣病研究会メンバー 宮沢信雄氏)を紹介する前に、現時点での運動と医学との「敵対」についてのべておこう。それは映画『医学としての水俣病』のもつ運動との関連性そのものをも指摘しているからである。
 すでにシナリオ全文、及び、この映画をつくる経過やその立場については拙文を参考にして頂きたいが、この映画に登場する医学者はたしかに水俣病全史のなかで良くも悪くも足跡をとどめ、今日にかかわっている人びとである。その学用資料と見解を恐らく大衆的、映画的にははじめて公開したものである。しかも、その撮影期間とタイミングは恐らく裁判判決以後の数ヵ月間しかなかった。
 大まかに言えば、その病理・病像は、水俣病認定制度の生んだ歴史的な歩みの結果、一部委員の手中におかれ、二十年にわたって公開されなかった。患者としては、人間の病いとしては未曽有の疾病であるために、「水俣病とはそもそもどんなものか」という合わせ鏡がなかったのである。歴史的裁判の終息はやはり一つの節であり、はじめてわれわれの映画への協力が得られた。数ヵ月の撮影の終りとともに、再び医学は行政の手によって、再編成され、水俣病像を過去の研究の段階にとじこめることによって、患者の”認定”を限ろうという”再構築”の時期に入った。時期として昭和四十九年四月以降であり、とくに八月に、認定促進の名の下におとなわれた約五百名の大量検診は医学の名に価いしないものであり、今日もそのデータを認定に使うことをやめよと患者さんは強く訴えつづけているものである。かつて、映画で少くとも真撃に水俣病像の深みとその全身病的な臨床把握や、疫学重視を示唆した学者さえその新認定制度に決定的批判をつきつけることなく後退し、患者はまともに行政の医学者操作による「水俣病否定のための医学」とぶつかることになった。これが四十九年四月以降の基本的対立であり、全国的には有明海、徳山湾、佐賀、長崎の第三、第四の水俣病様疾病もすべて「現時点ではシロ」という結論づけにむすびつけられた。こうした流れの中で、かつての研究を提出したこの映画の協力者の一部もこのシロ説に組し、他の”進歩的”と思われる人も後退するという水俣病闘争史中の暗転もまたあったのである。また、撮影開始時には、熱心な協力者としてのみ認識していた学者が、一ヵ年余ののちには、その学問的業績もふくめ、かつての脳外科手術における”脳ロポトミー”を糾弾され、その資料ともども記録作業できないような情勢も生まれていた。変転極りない医学であるとともに、水俣病史をつらぬく医学の壁もまた幾重にもかこい直されたことを実作の過程で知らされたのである。
 当然、映画の発表時の現実の運動との阻誤がいくつかあらわれた。その最大のものは、熊本県の認定制度にあらわれた医学の反動化との闘いに同時的に、真正面に対応してないという批判である。その批判は宮沢氏によって代表されていると思う。つまり、編集している一年の間の現実の激変の中で、”医学”に対する糾弾性が相対的に弱く、焦点を今日にしぼっていないとする意見である。たしかに、患者の発掘と救済をすでに過去のものとみなしている某教授が、昭和三ニ・三年頃に行った映画による臨床記録を再構成して”研究史”のシーンを作り(第一部『資料・証言篇』)、そのコメントはその教授が担当している。その時期のコメンテーターとして、以後の研究史には二度と登場はしていない。そして、新らしいアプローチを行っている医学者の研究にその歴史をゆずっていくようにしてある。今日、その医学者が何の役割を新たに担うにいたったかは記録していない。「それでは日本の医学がすべて正しい足跡をとどめてきたと短絡はしないか」という氏の危倶はあたっていよう。だが私としては『病理・病像篇』『臨床・疫学篇』そして長篇記録『不知火海』という私にとっての映画の立体像としては必ずや分ってもらえるだけの記録はしたつもりでいる。だが現実の闘いとの隔膜はまたも私の未熟ゆえに残っているのである。
 宮沢信雄氏は、大前提としてこの映画『医学としての水俣病』を「この映画は『水俣病医学の真実』を露頭せしめた。水俣病のおそろしさは有機水銀によって脳細胞をおかし、溶かされて、いわゆる急性激症といわれるようにバッタグルッたり生ける人形のようになったり、生まれながらの胎児性水俣病があらわれたりすることだけではないーある意味でそれ以上に恐ろしいのは二十年来汚染にさらされ確実に影響をあらわしながら、放置されたり、”水俣病でない”といわれたり、”研究が進んでいないからはっきりしたととは分らない”といわれたり、現にしていることである。これが医学における水俣病の実態である。この三部作は、そのような医学不在とそれによる二重被害者ともいうべき、患者の存在を提示している」と一定の位置づけをしたのち、次のように批判している。しかし、何故、そのような状態が招来されたかについてである。「それを考えることは観る人にまかされている」。そしてその実例として彼は詳細に当面の問題点との脈絡をつけてのべている。
 「たとえば、『資料・証言篇』で、急性劇性患者の悲惨さについて語る徳臣教授が、何故その後、ハンター・ラッセル症候群に固執して追跡調査をやめてしまったか。同じく病因究明に大きな功績を残した伊藤元保健所長が、何故その後、県衛生部長としての潜在患者発見を怠ったのかーそれこそが水俣病の社会病理であり、認定審査制度という形をとって被害者を救済から遠ざけ、医学をゆがめてきたのだ。」 その「なぜ」という前に、名を挙げられた人々の役割についての私の知るところは宮沢氏とほぼ同じである。そのため熊大での教室占拠も知っており、患者による直接抗議行動も知っている。もしその力で、この公的所有に帰さるべき”学用資料”が解放されるだけの力量が運動にあったら、私たちはその運動の中から、この資料を患者の側にもち運ぶことが出来たであろう。当時の運動の力学が、この資料の公開を当時のスローガンの中心の柱としてたてたのではなく、医事行政における彼らの反患者的役割についての指弾に焦点をしぼられ”学用資料”までに及ばなかった情況の下で、映画、映像による資料の取得はまして不可能であった。むしろ、そうした緊張関係の中で、彼は資料を更に秘とく出来た。これを全的に私達にもちはこぶのは、別の系の、『医学としての水俣病』の製作への志向のみが針の穴のように細いメドであった。ゆえにその限定性も、運動上の部分性も承知の上の作業であった。
 更に批判は「更にまた、医学はなぜ患者の側に立たず、認定審査制度にとりかこまれる形で行政に立つのか。本来の医学とは全くかかわりのない、各教室間のナワバリや対立が、なぜ水俣病という現実を前になくならないどころか、むしろ尖鋭になるのか。なぜ新潟と熊本では水俣病に対するアプローチのし方が異なり、救済のされ方が異ったままなのか。なぜ熊本第二次研究班(筆者註・この映画の主な登場者としてこの時期にまだ現役であった) が立派な成果をあげながら、いやむしろあげたがゆえに、立ち消えにされたのか」私はくりかえし”なぜ”に傍点を付した。この疑問こそ、映画のみならず現実の運動も、そこに迫るための闘いをつづけるための核心であろう。常識をこえ、理解を絶するために”なぜ”と問責しつづけてやまない。そしてこれこそ、現実にまだ克服できていない水俣病闘争総体の課題であり、今後の長い現実変革を要するものであろう。だが映画は現在においては”なぜ”以下の実態そのものを知ってもらうべきものとして、提示することに止まらざるを得なかった。
 だが氏が、こう映画に”医学”を仮託されるとき、私は理解できない。「水俣病をめぐる状況がこの映画が作られつつあった時以上にくらい現在(註・”昭和五十年四月二五日「水俣ー患者さんとともに」” 紙上論文)不知火海周辺に放置されている無数の被害者にとって次に必要なのは、あるべき水俣病医学についてポジティブに語ってくれる映画(その圧倒的な説得力を信じるが故に)ではなかろうか。医学に欠如している方法論を映画が先取りして、現状を整理し直し、あるべき方向を一示すこと・・・。」(以下略)
 私はこうした映画が次に再び「医学」の世界でとれるとはどうしても思えない。患者さんのもつ「水俣病像」とその治療についての針灸、薬草、マッサージ等の多くの試み、そして疫学についての圧倒的把握等の中からしか、新たな「医学」映画の出現はないと思うし、再び当分「医学世界」内を歩く興味もない。私としては、ポジティブな映画とは、次のドキュメンタリーの方法上の進歩としか受けとめ得ないのである。まして、「医学世界」の現状を整理し直し、あるべき方向を示すつもりは内発的にも外誘的にもないのである。患者とすぐれた医学者との関係と協力と共同の闘いだけが、私たちの参加できる作業であろう。
 右にのべたのは私の映画の仕事の上での抗弁であり意見である。しかしこの宮沢論文の中で、しばしば運動者としての宮沢氏が私たちに送るはげましの中で、最も心うつ言葉は文中次のものであり、それは見出しともなっていた。
 映画について”何故”とくり返し問いかけた自問についで「おそらくそれは、水俣病を発生させたと同じことがら、近代日本の根本的な病根、この日本に生まれあわせたことの不幸の根にかかわる問題だと思われるのだが、それらを考えることは観る人に課せられているのだ。この三部作は、観る側の作業を待って完成する陰画だといえよう。」この批判の核心と批評としての私の中での存在感はまさにこの一語に托すことが出来るし、私たちにとってのすくいである。運動を心にとどめつつも、映画をもって何事かをしたいとする私達が、異なったベクトルをもっていようと、時に陰画をもって描くことの未熟をもつこともあり得よう。その陽画への転位について、運動者としてかくも簡明直裁にのべてくれた言を外に知らない。この映画が批評を得てはじめて運動の中に入れる気がしたのだ。

 すでに上映してから四ヶ月たった。その間、批判は数多く出された。それは主として、本来、ともに協力しあうべき”白木糾弾共闘会議”と森永ヒ素ミルクに対し闘う”と”「犯罪」企業「森永」を糾弾する会”からである。
 前者は、主として『病理・病像篇』中、猿・ラッテを実験動物としてのオートラジオグラフによる水俣病像を解説した白木博次氏の登場シーンのさく除を要求したものである。後者は映画『不知火海』のなかの市の施設「明水園」の夕食シーンに映った森永一牛乳についての批判であり、上映阻止、あるいは上映中止の形で批判し、とくに前者は全国の反医学諸組織に対し、糾弾することをアッピールしたものである。これに対し、ひとつひとつ克明に論点に則し私の意見をのべたいが、その機会をのちに留保したい。映画は表現であり、アッピール・ピラも運動者の表現である。少くとも、私たちはその表現物について阻止も中止もよびかけなかった。それは自由である。私たちの誤りも未熟もすべてはフィルムの上にある。それを見ての批評は全く自由であり、大衆的討議もこばむものでは決しない。しかし、「上映強行阻止」の声には私は表現者として服従することは出来ない。
 ただこれらの事を通して、映画がかくも現実と厳しい接点をもつことを改めて知るとともに、映画の現実への関係について、たえず正確に測定しつづけなければならないことを痛感する。しかし映画は映画として自立し、その運動を遂げなければ、その測定も又、おのずから不可能なのである。

 最近、『医学としての水俣病』・「臨床・疫学篇」の中で、大きなスペースをとって描いた問題例が、私たちの願いもむなしく現実的には敗退した。表現をつくしてもついに及ばなかった事例である。
 昭和五十年七月二四日、環境庁はその裁決で、行政処分の訴えのあった棄却処分患者、浜本亨さん(熊本県芦北郡津奈木町浜) と柳田タマ子さん(水俣市内) の二人を熊本県に再審査するよう差戻し裁決を行った。それ以上の責任ある判断はとらなかった。この行政処分は、棄却された場合、患者にとって唯一のこされた抗告であり、熊本・水俣では、この種の問題が続出しているため、非常に注目されていたケースである。熊本大学・原田正純助教授の診断意見書や、その棄却の主な理由となっている”脊椎変形症”の専門医、川崎幸病院・整形外科の今井重信博士や、元東京都公害研の土井陸雄氏らのあしかけ二年におよぶ証言や資料提出の努力によってすら、ついに環境庁の”認定”を得られなかった。そして県はその一ヵ月後、再検診もせずに、再び両名を棄却処分に付した(八月二十二、三日、大橋登認定審査会会長)。
 映画は、原田正純氏の再診断から撮影し、その男の子、胎児性水俣病様の精神障害児(目下・保留)をあわせ臨床的に記録したほか、その二百戸あまりの浜地区の地図をつくり、その生活歴、漁師歴のつながりをたしかめ、証言者としてすでに認定されている妹、いとこ、そして同じく申請中の隣人の「あん人が水俣病でなからんば、誰が水俣病ですか・・・」といった全員口をそろえての声をあつめてきた。いまも鮮魚商として、人一倍食生活の上で魚と密接に関係しており、撮影時は体と狂っていく頭をかばっての彼の行商の日々を記録した。(いまはついに廃業に追いこまれ、体も廃人同様となっている)そしてその妻には、夫には確かめられない激甚な典型的視野狭窄をまざまざと見つけ出した。(熊大筒井眼科)これは通常の映画記録としてではなく、撮影時も撮影後も引きつづき環境庁の裁決に付されていたため、その判断資料となる場合も考え、徹底取材と、疫学的には抜きさしならぬほどの証拠をフィルムにとどめたつもりでいた。環境庁でも無視できず、映画完成以前に四十分に及ぶ音声の入った仕上げ用フィルムを担当官だけで見たのだった。
 ”脊椎変形症”の診断で、水俣病を否定されているこのケースについて原田氏が苦しみ抜いたのは、知覚障害、難聴、振戦等がありながら、他の典型の症状は不備とされており、しかも現状、疫学的要素が無視されている認定審査会の結論に対し、いかに臨床的にもその影響をとり出しうるかというパズルのような作業に終始せざるをえなかったからだ。もし疫学が正当にとり上げられれば、その家族歴一つみても、その環境と生活歴のどの一片をとっても、いわば疫学的にみて典型ともいえるケースなのである。
 水俣病について、”医学者”ではない私たちが、この「専門医学」の砦である認定審査会の結論に拮抗しうるドキュメントにするにあたって、被害者とたえず接触し、観察し、聞取り調査をし、原田氏やボランティア活動家の意見をきき、診断に立会い、その地区の全面的調査も行った。この努力は、審査会の委員が彼について費した努力の総量に決してひけをとるものではないと確信しうるまでつみ上げたつもりである。その記録が世の中に発表される、つまり、多くの医学者、患者、研究者にもひとしく見られるという事態の中で、平然と再診察、再審議もなしに、旧決定を出すことの厚顔と無恥心の前にまず暗澹たらざるを得ないのである。映画はかかる種類の”現実”には何の寄与もできないものであり、蛙の面に小便どころか、小便すらとどいていないのである。熊本で上映もしたし、心ある行政医学関係者に対しても、この映画を見る機会は充分に作ったはずである。しかし、何の影響力ももたなかった。だが、私たちは少しも萎えるものではない。現実はますますはっきりと存在しているのだから。映画はここにあるからである。
 やはり映画を見せることからはじめなければならない。それだけでなく、運動と交合しての映画でなければ彼等に対しては役に立たないのである。
 私たちの映画をいかに見せるか、又、その批評をいかにうけるか、そして映画をいかに人々の運動とかかわらせるかについて、この数年の経験をもってしでもまだ定型はない。今度、小さな常設映画会場を『思想運動』の諸君や出版社有志や若い労働者・学生たちの力で”映画運動「試写室」”の名のもとに始めることになった。私たちにとっては『医学としての水俣病』『不知火海』はじめ一連の水俣病の映画の上映の一つの場である。しかし、他の自主製作した映画全体の活動の場でなければ、私たちのものも活性化し得ないとの思いが切である。
 映画運動全体の地層のせり上りなくして個の映画はなく、あらゆる全運動の地熱なくして映画のその個有の運動もまたないであろう。
 持続することだけを胆に銘じて野たれ死にするまでやってみたいのである。その意味で「試写」の運動であり、前駆的活動の困難をひたいに刻印してはじめたものであるのだ。
 
 映画は現実にどうかかわれるであろうかという一点を、現実にかかわらせ、その考え悩んでいる感懐の一端をのべたつもりである。そして解析できることのあまりの少なさにたじろぐばかりである。幸い私には近く二ヶ月間、英語版の『医学としての水俣病』(三部作) 他四本を携行して、新たに水俣病の発生が気づかわれるカナダの中部オンタリオ州のカナダ・インディアン居留地への上映活動が目前のものとしてある。今回、前半は患者さんに同行しての旅であり、後半はカナダの各主要都市横断の旅である。カナダ・インディアンの生活と受難というモチーフであれば、早々と映画にとれる題材ではないので、もっぱら「水俣病とは何か」を知らせるための旅となる。この映画行動がカナダの現実とどうかかわるか、いま考えつづけていることに加えるべき一つのささやかな試みと体験にしたいのである。
(一九七五・九・一〇)