書籍「逆境のなかの記録」疫学の世界としての不知火海ー新装版あとがき <2004年(平16)>
 書籍「逆境のなかの記録」疫学の世界としての不知火海ー新装版あとがき

 映画『医学としての水俣病・三部作』と『不知火海』の二編(と言っても三部作を含む事実上四本のフィルムだが)、その採録シナリオと、関連した論考をまとめた『逆境のなかの記録』が、前著『映画は生きものの仕事である』とともに三十年近くなって復刻、新装版になる。
 来たる二〇〇六年は水俣病の公式発見の年(一九五六年)から数えて五十年、半世紀になろうとしている。この記録映画と著作の発表は公式発見から二十年の時点であり、最初の水俣病訴訟が患者側の勝訴に終わり、不知火海に潜在していた被害者が声をあげてつぎつぎに申請に立ち上がった一九七四年から七五年の状況のなかでのドキュメントが、この映画でありこの著作である。前作『水俣ー患者さんとその世界』『水俣一揆ー一生を問う人びと』などは、長く救済されなかった患者さんの闘いを記録したものだが、”水俣病とは何か”の医学の記録にはならなかった。国・県の企業擁護の犯罪的な経過も正面から描き得なかった。専らチッソを告発し、水俣周辺の被害者(原告)の世界を取り上げたものであった。水俣病医学の世界はそうした紛争から身を遠ざけて、資料の提供や学説の発表を控え、沈黙を守った。「裁判の一方に加担してはならない」という熊本大学医学部の内部規範が働いていたからである。裁判が終わり、公害問題への国民的関心が高まりをみせた時期、ようやく医学者が記録していた学用フィルムや、医学者に蓄積されていた研究の発表が許される気運となった。しかし、水俣病の医学は確たる解明には達していない段階であり、その途上のドキュメントにしかなり得ないことは明らかだった。だが、その現状のままの医学映画が強く求められた時期であり、多くの研究者、専門家の協力を得て、『医学としての水俣病・三部作』は製作された。これが三、四年遅れたら、「何をもって水俣病とするか」についての認定を厳しくした環境庁の七七年の政策と真っ向から抵触し、医学者諸氏の協力を妨げたであろう。つまり、水俣病事件史のなかの希有の時点で、幸いにも、それまでの、すなわち水俣病発見以来二十年の医学の歩みの記録が残せたのだ。

 かえりみて、その資料性はほぼ揺るがない。今日的な注釈や学説で補うことができれば映像に富んだ水俣病研究史として活用されるであろう。しかし、学説としては不十分というよりあきらかに失効しているものもある。当時は画期的とされ、『第二部病理・病像篇』で取り上げた「末梢神経の感覚障害を水俣病の症状とみるかどうか」についての動物実験がそれである。それは当時は水俣病患者の訴えに応えるものとして評価されていた。四半世紀後、関西水俣病訴訟のなかでその学説は一顧だにされなかった。そして新研究にとって代えられた。
 その動物実験とは、感覚障害についての宮川太平・熊本大学病理学教授の実験で、映画のなかでは、ラッテ(マウス)の知覚神経の有機水銀による障害を顕微鏡写真スライドで語っている場面が出てくる(本書一七九ー一八二ページ参照)。これはラッテの脊髄から出ている運動神経と知覚神経の有機水銀による損傷の違いを電子顕微鏡によって鮮明に捉えたものである。「運動、つまり身体の動きは通常だが、感覚神経、つまり手足の知覚神経はダメージを蒙っている」という、当時、汚染地区に広く見られる所見に対応する研究だった。いわゆる四肢末端の感覚障害が水俣病かどうかが論争の的になっていたのだ。臨床は「そうした痺れは糖尿病やその他の原因で説明がつく。水俣病固有の症状ではないから水俣病とは判断できない」としていた。これは臨床医の主導する認定申請委員会の判断への反論になったものだ。
 この四肢末梢の感覚障害を水俣病とみるか否かで水掛け論のような争いが以後二十年も続いた。その論争に宮川実験は登場しなかった。ラッテの実験としてはともかく、兎や猿のようなより高度の哺乳動物にはそうした損傷が追試で現れなかった。その後、末梢神経の痺れは大脳の中枢神経の損傷に起因するのではという新たな研究が開発され、ついに九〇年代後半、次世代の熊本大学病理学の浴野成生教授らによって証明された(氏の二点識別法については九九年に創刊された理論誌『水俣病研究』2・3号(編集・発行=水俣病研究会)に詳しい。)これは水俣病関西訴訟の高裁判決(二〇〇一年)に採用され、原告患者を勝訴に導いた。じつに長い時間を費やしての立証である。一方、宮川教授の「末梢神経そのものの損傷」説は公式には撤回されていない。私はやはり当時の試行錯誤の時代の記録として、ここに付記し、同教授の自説の再コメントを待つつもりである。

 日進月歩の医学の進歩の時代にあって、水俣病医学にとって奇異なことは、疫学軽視、あるいは無視とも言える永い停滞の歴史が一貫していることだ。水俣病史にあって疫学的に「魚が危ない」という判断は、水俣病発見の翌年には明らかにされていた。後の原因究明期において、熊本大学医学部が発表した有機水銀説にせよ、それに対して撹乱をねらったとされる「腐った魚」説、「海中に投棄された爆薬」説にせよ、「魚を食べるな!」という緊急措置に結びついて当然である。だが、熊本大学の研究者たちが魚食の禁止を提起したにも関わらず、通産省はこれを封じ、厚生省はそれに準じた。五九年の漁民闘争、患者の座り込みと”見舞金契約”と同時に認定審査会制度が作られたが、メンバーには疫学者は除外された。疫学的観点によって水俣病患者の認定基準が一挙に広がる可能性を恐れたのだろう。さらに水俣病問題の調査・研究の主管が厚生省から経済企画庁に移されたことで、水俣病への国家的策略は完成したのだ。
 その疫学的思考が今回の水俣病関西訴訟の高裁判決では決め手となった。岡山大学環境疫学部津田敏秀講師による水俣地区周辺と宮崎の非汚染地区の漁民(集団)の比較調査がそれである。調査は、汚染地区の四肢末端の感覚障害が非汚染地区の百倍以上多発していることを実証した。水俣病関西訴訟の画期的意義は、浴野成生教授らの中枢神経説の採用と、津田氏の疫学が判決に生かされたことだ。今、最高裁に送られているが、それにしても何と長い時聞が空費されたことか。「何をもって水俣病とするか」についての一九七五年の国レベルの水俣病認定検討会にも、八五年のさらに高度なレベルの水俣病医学専門家会議にも、疫学者の関与はなかった(津田敏秀講師論文による)。初期の水俣病発見・解明には疫学は大きな役割を果たしながら、認定審査会制度が始動した一九五九年以後、二〇〇一年の水俣病関西訴訟の時点まで、疫学は全く機能し得なかったのだ。
 これへの疑問は撮影中ずっと感じたものだ。その違和感をもとに、医学の”門外漢”である私は自制しつつも、本書2章の「水俣病の未来像を探りつつ」「「水俣」から「不知火海」まで」「水俣病の病像を求めて」などを詳しく書いた。映画を補完するものとして、撮影後、現場報告の形で渾身の力を込めて記述したつもりである。
 撮影に先立ち、取材予定の関係医学者各位に向けて書いた「演出ノート」では、これを出来合いの”医学映画”とするのではなく、現状の水俣医学のドキュメンタリーとする意図を表明している。各人各説であろうと水俣病専門家たちのそれまでの業績に敬意を払いつつ、しかし、記録として一定の距離を置いて撮る姿勢を滲ませた。しかし、ロケと編集、そして完成までの二年間の激動する水俣病医学状況の変化とブレには追いつかなかった。その失点回復のために、必死で文章によるドキュメントを書いたと言えよう。
 医学者からは賛意もなく、批判もなかった。だが、運動サイドには読まれた。とくに「水俣病の未来像を探りつつ」は運動の関係者には知らされていなかった情報として届けられた。新潟県議会では野党議員はこれを手に県当局と水俣病救済策の論争がなされたと聞いた。映画と論文、このようないわば二本立ての表現は、これが最初で最後だった。

 実は水俣病映画もこれで最後にしようかとも思った。一九六五年のT V番組『水俣の子は生きている』に始まり、七〇年から『水俣ー患者さんとその世界』『実録公調委』『水俣一揆一生を問う人びと』と相次いで連作してきたいわゆる水俣スタッフも、この『医学としての水俣病・三部作』と『不知火海』をもってひとまず終わりと思った。
 私の場合はどうか。映画の場合、録音の完了が一作の終わりである。一年のロケ、一年の編集、一か月余の録音。その仕上げの最後の日のことははっきり覚えている。四谷の小さなスタジオでのエンド段階、『不知火海』のラスト・シーンである。春のフグ漁の最盛期の情景である。数えきれない漁船の蝟集した天草のフグの漁場で家族全員、赤ん坊を脇に寝かせて釣糸を垂らしている。活況あふるる場面である。七三年の天草での患者の発生によるパニックの頃の新聞やTV報道の「海は死んだ」とか「漁はできなくなった」という、二年前の記憶をひっくり返す不知火海の情景である。つまり、『不知火海』は甦った海の話である。「水俣病、終わらず」の一方で、同じ海での自然の復活と漁民の賑わい、これが現実である。まるでブラックユーモアではないか。しかしこの活祝は映画を強く締めくくらせた。やっと、ラストロールにOKをだしたが、編集仲間の女性はつい涙ぐんだ。録音の岩味技師、が「ライフワークが終わったね! 」と言ったが、しかし、私には終了の感じがなかった。水俣離れは所詮、実感するところではなかったのだ。

 『医学としての水俣病・三部作』と『不知火海』は私のなかではひとつの作品だった。この後者は前者のフィルムが不思議な力で作用して出来たからであろう。
 メインの『医学としての水俣病・三部作』の対象は、病める患者と医師、顕微鏡や解剖した脳の標本などナフタリン臭い世界が多かった。まったく海の風とは切り離された世界である。水俣病かどうか、未認定患者を前に苦悩する医師の姿を撮り続けた時間と、こうしたロケの一年のなかで、この漁民の生活を知らない水俣病の専門家の思考のカサカサしたものを見てきた。それに比べ、私たちはなんと心癒される海の風を吸ってきたことか。そこに生きて受難を背負った人びとの、自然への変わらぬ信頼を見てきた。それは水俣病医学を考える上で根源的な風景であろう。私は撮影しながら知り得た世界を、是非とも”水俣病専門家”諸氏に知ってもらいたい、諸氏が”主流”であるだけに、その思いは強かった。
 一方、”非主流”の原田正純医学部講師(当時)や社会医学研究会の若い無名の学生たちが、ボランティアとして多発地帯や汚染地帯の離島を足で歩き、認定申請する患者のための診断、添付の診断書の作製に献身していた(『第三部臨床・疫学篇』参照)。しかし、権威ある専門家たちのなかで、かつての水俣の奇病時代の村々以外の汚染地帯、まして不知火海を歩いた人がおられただろうか。否である。
 当時、水俣病問題の焦点の水俣湾ですら凝視されただろうか。例えば七四年二月、行政が鳴り物入りで設定した水産庁・汚染調査検討委員会の水俣湾の視察(『不知火海』参照)がそうだ。参加した顔触れはそうそうたる水俣病医学の重鎮ばかりだ。ほとんどの先生たちは湾の汚染魚の実際を見たのは初めてだったようだ。子供のように汚染魚の見事さに驚嘆し、案内の漁民患者の話に燥ぐ。その視察は船上からの三十分に過ぎなかった。魚に手を触れる人はいない。もっぱら写真機である。それは微笑ましかったが、短時間の舟遊びで何ほどの事が分かるだろうか。漁民たちはその汚染魚すら自宅に持ち帰って家中で食べている。一時、食い控えはあっても、断固として魚を食べ続けている。それが理解できるだろうか。私たちは撮影のあとなど、それらをご馳走になっていたのだ。
 また、『不知火海』で描いたフグ漁の盛大な天草沖水域について、認定審査会会長、病理学の武内忠男熊本大学教授が『第二部病理・病像篇』のラストで警告をはなつシーンがある。手書き様の調査データの水域をペンで示し、「ここに危険な汚染魚がいる事は調査で明らかだ。漁業を禁止すれば漁師さんの生活が立ちいかない。しかし食べ続ければ必ず水俣病になる」と。武内教授の声は、私の、「獲りつづけていますよ!」という執拗な言葉に押され、次第に懇願調になる。机上のデータが生かされないことをお互いに知った上でのやりとりになるのだ。「漁民は絶対に食べるのは止めません! 」という精いっぱいの私の声に、武内教授の声がかぶさり、そこでエンドマークにした。

 私はこの医学映画ではあえて監修者を置かなかった。患者を知る原田正純さんや学究的な武内教授にひそかに傾倒していたが、もし私がそれらの方を監修者として選んだら、白木博次氏のような在野に下りた方を別として、他の熊大医学部の水俣病専門医学者の協力を得られただろうか。否である。もちろん私は医学には不案内である。そこで、あらかじめ「素人の私でも理解できる意見を」と申し上げ、「その意見(学説)はそのまま発表します」と約束して諸氏の協力を得、スタートしたのである。あとでの変更は避けたいので、取材現場では必ず、「言い直しはありませんか」と念を押し、時に録音テープで再確認して戴いた。そのシーンは登場した方の個々の責任です、という気持からだ。よくある全員一致の映画製作委員会方式ではこの医学映画は撮り得なかった。そして諸氏も暗々裏にその配慮を知悉しておられたと思う。しかし映画の方向に懸念を抱く方もあった。例えば、新潟水俣病の最高権威の新潟大学医学部・椿春雄教授がそうだつた。当時、環境庁の水俣病認定検討会の議長としてその指導性を求められていた。
 編集時、氏からチェックを申し込まれた。これは異例のことだった。氏の関心はもっぱら新潟大学の後継者白川健一助教授の証言内容にあったようだ。それは”遅発性水俣病”や、熊本水俣病では棄却の理由とされた”片麻痺の水俣病”についてである。同じ症状、症度でありながら、新潟では水俣病とし、熊本では他の病名で棄却している症例なのだ。それに関しての白川助教授の説明を気にしてのことだった。原田正純氏はかねてから「もし新潟の基準で熊本水俣病を診たら、多くの棄却患者も認定されるだろう」と言われた。つまり同じ日本のなかで熊本水俣病と新潟水俣病とでさえその診断の基準・レベルが違っているのだ。さいわい白川助教授の説明はパスしたようだ。が、政治的配慮をする”政医”ともいうべき立場におかれた一瞬を垣間見た気がした。もし監修者制や映画製作委員会方式で作っていたら、この類いの"力学”がどう働いたであろうか。
 しかし、協力者諸氏への隔てない配慮がときに自己抑制を生んだ。その点をズバリと指摘したのは水俣病研究会の宮沢信雄氏である。氏の批評は運動の機関紙「水俣」に載った。それは、患者の救済を狭めている困った医師たちへの「告発」誌上などでの批判と絡めて、私の姿勢を問うものだった。
 『第一部資料・証言篇』で奇病期の映像についてコメントを語ってもらった徳臣晴比古教授や、八ミリ記録を残した伊藤蓮雄元水俣保健所長について、彼らがその後果たしているマイナスの役割を明らかにしていないとして、「それでは日本の医学がすべて正しい足跡をとどめてきたと短絡はしないか」と。そして、「たとえば、『資料・証言篇』で、急性劇症患者の悲惨さについて語る徳臣教授が、何故その後、ハンター・ラッセル症候群に固執して追跡調査をやめてしまったか。同じく病因究明に大きな功績を残した伊藤元保健所長が、何故その後、県衛生部長としての潜在患者発見を怠ったのかーそれこそが水俣病の社会病理であり、認定審査制度という形をとって被害者を救済から遠ざけ、医学をゆがめてきたのだ」。そして、「何故そのような状態が招来されたか」である。映画はそれを解明し、批判すべきではなかったかというのだ。それはいちいち当たっている。分かっていたことばかりだ。だが、彼らにその”私物”の映像を提供してもらい、彼らの見た急性劇症患者の目撃証言を語ってもらいながら、返す刀でその後の行動を批判できるかどうか。これら学用フィルムは裁判の済むまでは「裁判に影響を与えかねない」として、門外不出にされていたものである。だから、あえて裁判の終わりまで待った。
 撮影者である諸氏のフィルムを観ながらのコメントーこれはドキュメンタリーの普通の方法であるー、それにナレーションを以て、その後の行動を批判するなどという失礼なことができるだろうか。また徳臣教授らの患者放置に対する、後年の患者の闘いもまた同じフィルム(『第一部資料・証言編』)で、旧作の水俣映画を使って編年史的に一章として描いている。告発運動のための映画ではなく、観客の想像力に信をおく普遍的なドキュメンタリーと見てほしいと思っていた。
 宮沢氏は恐らくそれらを察知した上で、運動紙「水俣」を借りて、読者(観客)と作り手をいかに繋ぐかを考えられたのだろう。宮沢氏は映画の全体を評価しつつ、映画に則し、不鮮明の恐れのある事象を鮮明にし、映画からより本質を解読できるように促すことを意図されたと思う。「この三部作は、観る側の〔考えるという〕作業を待って完成する陰画だといえよう」。陰画とはきつかったが、その観る側の作業に耐えるリアリティーは十分に備えていると思ったものだ。
 その上で宮沢氏は言う。「水俣病をめぐる状況がこの映画が作られつつあった時以上にくらい現在、不知火海周辺に放置されている無数の被害者にとって次に必要なのは、あるべき水俣病医学についてポジディブに語ってくれる映画(その圧倒的な説得力を信じるが故に)ではなかろうか。医学に欠如している方法論を映画が先取りして、現状を整理し直し、あるべき方向を示すこと」だと。陽画の勧めと受け取った。私は、『不知火海』がそれに近い作品のつもりだった。それだけに首をかしげた。果たして宮沢氏は映画『不知火海』を観ておられただろうかと。
 映画『不知火海』は、撮影中は『医学としての水俣病』の疫学の章に使うシーンとして撮り溜めたものだった。だが、不知火海の四季と海辺の人びとの暮らしを撮るうちに、疫学の基盤ともいうべき世界が撮れてきたのである。メインの『医学としての水俣病・三部作』を作りながら、認定のための医学が、無視、あるいは軽視してきた疫学、つまり”生活としての水俣病“ ”風土に見る水俣病“といったものに心惹かれた。患者の生活環境を判断にいれない臨床診断への批判が押さえきれなかった。宮沢氏の言う「状況を先取りして、医学に示すものを持つポジティブな映画」を、改めてこの『不知火海』に観て取って戴けないだろうか。これは”陽画”だと思うからだ。ロケの最終段階で、それまで言うのを逡巡していた『不知火海』の話をロケ地に来た高木隆太郎プロデューサーに打ち明けた。予算の問題もあろうが、『医学としての水俣病・三部作』とはべつに編集させてもらえないかと頼んだ。同席のスタッフも、いつ"隠し子”のような、予定以外の『不知火海』を公然化するのか案じていた。しかし、高木氏は笑って承知した。「さすが高木!」とこの一夜の焼酎の味は格別だった。こうして映画『不知火海』は『医学としての水俣病』と双生児として誕生したのだ。
 
 さて『医学としての水俣病・三部作』はイラクの有機水銀中毒事件でWHOからも注目されていたこともあって英語版を作った。それがすぐに役立った。
 その年(七五年)の夏、カナダから同じく有機水銀に冒された原住民(当時は「インディアン」と呼んでいた)が水俣を訪れたのだ。この遠来の客の訪問は、二年前までの裁判闘争の疲れから、いっとき眠っていた水俣の訴訟派患者の眼を覚まさせることになった。患者は甲斐がいしく水俣湾を案内し、自分らの体を見せ、説明した。だが言葉が難物だった。その代わりに医学映画の英語版が生きた。とくに『資料・証言篇』の、じわじわと猫から人間が倒されるまで、そしてその奇病究明の過程での行政の隠蔽や、それと繋がる医学専門者のチッソ寄りの姿勢などは、汚染発見から十年間に、彼ら原住民の見たカナダ政府の対応や、アメリカの権威ある医学者(中毒学)の姿勢と酷似していた。これは偶然ではない。差別された人間社会に水俣病事件が起きたら、必ず同じ悲劇的な経過を辿ることを知らされたのである。
 川本輝夫さんは「日本の水俣病の悲劇を伝えなかったために、同じ苦しみを味わわせたことを申し訳なく思う」と彼らに頭を下げた。そして患者も現地訪問団を組んで激励に行くことになった。私たち映画上映班も患者らに同行した。それがきっかけで七五年と翌七六年の二回、二州の汚染集落をはじめ、主要都市を横断する、延べ百五十日のカナダでのフィルム行脚の旅に発展した。すべて日本・カナダの自発的な民衆の行動としてだった。
 この旅から、やはり、長編ドキュメンタリーとは別に、市民集会やカンパニアと両立する短編映画、水俣病問題の入門編のような映画が必要とされた。これは難問だった。そこで医学映画の素材と既成の水俣フィルムから構成し、四〇分の『水俣病・その二〇年』(日本語版)と、同時にカナダのケベックTV製作の『ミナマタからの世界へのメッセージ』(英・仏語版)を作った。英語版は世界でどれだけの人に見られたことか。昨年、アメリカで会ったフィリピンの映画人から、いまでも水銀汚染のミンダナオ島でNGOの手で英語版ビデオが集会上映されていると聞いた。どうやら海賊版らしいが、結構なことだ。本来、国家の国際交流事業として世界にただで頒布してほしい映画だからだ。
 二回のカナダでのフィルム行脚から思い立ち、巡回上映できる機動力のある『水俣病・その二〇年』を作ったことから、やがては七七年には水俣病情報の届かなかった天草、離島でのいわゆる巡海映画上映が実現した(『わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録』筑摩書房、七九年)。ここから再び水俣映画と不知火海への旅という、私の後半生が始まった。そして今日まで延べ十七作を連作したが、ひとえにこの時期の医学映画体験、とくに疫学思考が、その母胎になった。今年発表した私家版ビデオ『みなまた日記ー甦える魂を訪ねて』も、私には時空はるかだが、三十年前の『不知火海』の続編のような気がしている。こうした遍歴のきっかけは、やはりこの『逆境のなかの記録』の時代にあったと思うのだ。

 最後に、この『逆境のなかの記録』とその姉妹作『映画は生きものの仕事である』を世に送り出して下さった未来社の元編集長・松本昌次氏、米田卓史氏の労に改めてお礼申し上げたい。また、新装版の担当の中村大吾氏、デザインの鈴木一誌氏に心からの感謝を捧げたい。そして、亡き妻、悠子と、映画同人シネ・アソシエの共同者、基子の二十年の助力に、再びありがとうと申し添えるのをお許し願いたい。
(ニ〇〇四・六・二〇)