水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 記録なければ事実なし=水俣は、いま <1988年(昭63)>
 水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 記録なければ事実なし=水俣は、いま <1988年(昭63)>

 まえがきに代えて、いまの水俣の状況について映画の現場から報告させて頂きたい。一九八六年は「水俣病公式確認より三十年」としていくつかの行事がもたれたことは、いまだ記憶に新しいであろう。また、これに時期をあわせたようにいくつもの裁判が判決をむかえ、原告(患者)の勝訴があいついだ。当然、朗報としてうけとられた。だが判決がそのまま確定したものはひとつもない。すべてが控訴もしくは上告されたからである。
 最新作の中篇ドキュメント『水俣病ーその三十年』は、この現実を提示した作品である。「水俣病事件は終ることが出来ないでいる」事情を描いた。と同時に、水俣病の歴史の三十年の早回しも試みた。そのことで分ってくるのは、一九七三年の水俣病訴訟の判決と、それに先行して闘われたチッソとの一年半を越える自主交渉の二つの流れが一つになって獲得できた補償協定書が、いかに大きな成果であったかということだ。これは終身特別調整手当(いわゆる年金)、治療費、介護費のほか、三億円の医療基金をもうけ、その利息でおむつ手当、介添手当、香典、通院治療の交通費にあてるというものである。
 裁判の慰謝料が千六百万から千八百万円と請求額がそのまま判決でみとめられたことは「水俣病の重さ、軽さに大差はない。その肉体的苦痛とこの間の精神的損害に対する企業責任としては当然のこと」とする司法の判断が貫かれたからだ。企業は毒としりつつ環境を汚染し、その住民を殺傷した場合、その企業の負担により慰謝の意を示し、その治療と暮しを補償しなければならないとする汚染者負担(ppp)の原則は、ここに初めて理念から具体化された。この裁判闘争と自主交渉の結実として公害補償ひとつのピークが示された。
 これにさきだち、新潟水俣病の場合、昭和電工は同業者チッソが患者の闘いで企業としての存立の危機に瀕しているのを反面教師としてはやばやと協定書をつくり、患者との合意に達していた。だが、眼目である慰謝料では低額な補償で済ますことが出来るようになった。
 つまり二つの水俣病事件、熊本と新潟のそれは微妙にちがっていたのである。一方が、慰謝料に怨みと企業への懲罰と人権へのつぐないを三つのランクにせよ一千六百万から一千八百万円のレベルに措定し、闘いの志をつらぬいたのに比べ、新潟裁判の判決は死者最高一千万円、患者は五ランクで最高一千万、最低の妊娠規制で一生子をもてなくなった女性への慰謝料はたった三十万円である。ここには障害に軽重の差をつけ、労災や交通事故の補償をなぞった損害論以外の何ものも見あたらない。熊本水俣病患者とその支緩運動が一貫してつらぬいた、企業の殺人・傷害への告発、制裁としての慰謝料請求という仇討ちの心はまったく霧消していた。
 日本の総資本がこの二つの裁判のちがいに注目しないはずがない。新潟で成功した低額補償(労災型)方式を是認できるとする一方、熊本水俣病の場合のような高額(当時としてはの話だが)慰謝料と補償協定書を許せないものと見た。総資本の牙城経団連は、大気汚染問題や水質汚染問題などをかかえている。これへの対応の場合、熊本水俣病事件における補償の水準、その水位の高さは目の上のタンコブ、巨大産業活動の癌とも見えたであろう。以来、経団連の主なターゲットは水俣病の補償協定つぶしと、水俣病患者の「発生」つぶし、つまるところ水俣病の幕引きに絞られてきた。
 いまだ終ることが出来ない水俣病事件も三十年を経た。胎児性水俣病患児といった人も三十歳になった。十七、八歳で発症して青年患者といわれた人もすでに髪は白い。皆の上に三十年の歳月は流れた。そしていま一番の問題は申請中にバタバタと亡くなっていく高齢者たちの救済である。「死ぬまで待てというのか!」という患者の口をついて出た一言は、チッソ・国・県だけでなく支援する側の心をも打った。その言葉のもつ、見捨てられたものの魂のゆくへのおろおろしさをつきつけられたからである。だがいまはもう浴びせられる側に免疫性が出来、耳にタコの風情である。のちにのべるように、現在の形に改悪された環境庁の認定審査基準では、「死んだら調べようがない」のである。つまり、「死ぬのを待っている」のが本音である。
 「人は変れど主変らず」という。この間、環境庁長官、政務次官はのべ何十人にも及ぶ。そのうち現地に足を運んだのは大石武一、三木武夫、石原慎太郎の三氏だけである。この十年、環境庁に足を運ぶ患者の陳情にすら面会拒否が常套手段となった。チッソの首脳も、発生当時、「犯意」に与した世代はどんどん替っている。課長、部長レベルは「あの当時は入社しておりませんでした、ハイ」で、自分には責任はないといった顔で澄ましたものである。だが病いを得た主は変らない。替り得ない。「勝訴」「勝訴」のことばだけが宙に舞い、風雪にもてあそばれているー。

 水俣病発見から四年間(一九五六年ー五九年)で当時の自民党政府と熊本県当局は一旦水俣病事件を始末した。以後大ざつぱにチッソと国・県対被害民の闘いの波を描くと次のようになろうか。
 熊本水俣病の発見から九年後、新潟水俣病が発生(一九六五年)。政府はようやく三年後の一九六八年九月、新日窒(チッソの前身)と昭和電工の企業のメチル水銀が原因であることを認めた。
 水俣病暦の元年を一九五六(昭和三一)年とするなら、十三年目にして熊本水俣病訴訟がはじまり、以後四年間、歴史的な裁判闘争が患者によって戦い抜かれる。その間、川本輝夫ら新たに認定された患者によるチッソ本社前の座り込み闘争が貫徹され、前記協定書に結実する。一九七三年半ば、ほぼ水俣病その十七年目である。
 環境庁は水俣病対策のために生まれたといわれる。大石武一長官の初仕事が川本輝夫氏ら九名の棄却患者の処分取消しと「疑わしきは認定せよ」で有名な次官通知である。これは水俣病の認定規準についての指針を示したもので、それまでの厳しい医学的チェックを批判したものだ。それ以前の審査会は水俣病元年当時の急性激症の症状をもとに感覚障害のほか視野狭窄、運動失調、難聴など、いわゆる有機水銀中毒を初めて発見した医師の名を冠した「ハンター・ラッセル症候群」のすべてがそろっていることを認定の基準としてきた。これは農薬工場でじかに有機水銀を吸いこんだ症例であり、それに汚染された魚を多食してあらわれた水俣病には適しないという医学者・患者の声を容れた判断であった。すなわち「神経症状のどれか一つでもあった場合、魚をたべ、家族の状況や生活史からみて、水質汚濁の影響によるものであることを否定しきれない場合は」認定せよ、というものである。これは行政の対応のピークであった。
 審査会の水俣病専門医は一斉辞任でこれに反発した。そして審査会はこの認定基準を正当とするメンバーに入れ変り患者の救済は大きく捗ることになった。だがこの時からこの次官通知つぶしの策動がはじまった。以後、環境庁は劇的に変るのである。

 水俣病その二二年=一九七七年。
 申請者総数は六千六百人に達し、うち千二百人が認定された。だが一方では、病状の経過を見るとして処分保留者が多くなった。この前後に石原慎太郎が登板する。彼は行政の癌である大石長官時代の前記通知を厳しいものに変えた。いわゆる新次官通知は翌一九七八年夏、山田久就長官の代になってだされたが、石原長官の自称するように置みやげだったことから「石原次官通知」といってよい。
 それは「症候が二つ又は三つある場合認めよ」とし、「死亡者で保留されたものは新資料(たとえば解剖所見)などがない場合、棄却」とした上で、認定審査会のあり方にも、つよく介入した。水俣病のチェックを行うものは「高度の学識と豊富な経験に基いて総合的に検討し、医学的にみて蓋然性が高いと判断する場合」と規定した。官僚作文でまわりくどいが、疫学、生活歴は無視してよいとの別の言い方にすぎず、メンバーについても、新人、新知識、新臨床経験をもつものは排除ということだ。
 これをうけて、熊本県は審査会のメンバーを再び旧体制の考え方に立つ医学者たちに入れかえた。水俣あたりでは患者を認めないことで知られている水俣市民病院院長が会長となった。
 この十年間、水俣病事件の幕引きのための事件があいついだ。
 チッソは倒産をほのめかし、補償のツケが「国・県にまわってもよろしいか」と尻をまくった体にひらき直る。患者の延人数が数百人までぐらいなら企業の体力で何とか出来るが、千人を超え千五百人に到れば無理、とおどす。熊本県はそもそも国に根本的な行政責任があるとの立場から、チッソの補償金の肩代りとしての県債を実質的に「国債」に変えさせた。国家賠償と同じである。患者救済事業の主体は、資金ぐりで見る限り国・県に移り、チッソはいわばトンネル会社の位置に替った。
 自民党政府と熊本県自民党県議たちは「ニセ患者」発言を公然と口にしだした。それはもともと水俣市民のなかにある”チッソの工員の退職金の倍もとりくさる漁師どまッ”というねたみ、そねみのくすぶりを、スカッと「ニセ患者」発言で切って見せたものだ。
 良心的な市民でさえ、認定されなかった以上「患者ではない」と見がちである。その偏見・差別を拭うべく、棄却者が争い、訴える場はさしあたって法廷の場になる。この間の十年いくつもの裁判が被害者か否かで争われたが、ほぼ原告(患者)の勝訴である。水俣病認定審査会が「棄却」とした同一人を裁判所は「認定さるべき患者」と審判する。いづれが正しいのか。検診した医師は担当としての名を隠している。棄却理由の説明もない。現在の症状に何ら首肯できる病名もつけられず、ただ処分通知だけを送りつける。一方裁判所は法理にのっとり、できる限り病理所見をめぐる甲・乙の争点を解明し、被害者にも分る形で判決にそれを盛っている。それを読むにつけ、裁判も出来ないでいる数千人の棄却者の無念が私たちを撃つ。
 水俣病その三十年の今日、環境庁と県は、認定審査会へのいわば患者によるストライキともいえる検診拒否運動に対する政治的工作にのり出した。そもそも検診は患者にとっては認定されるためにどうしても通らなければならない関所であれば、本来うけるのが当然ではある。だがある時期から患者は検診のしかたの変化に気づいた。名を伏せたままの検診医たちは患者の訴えを仮病あつかいし、血のでるまで針でつついたり、まぶたにテープをはったりして感覚障害や視野狭窄をテストした。一九七四年夏の五百人の集中検診ーいわゆる「デタラメ検診」がそれである。「痛い」「疲れてしもて検査に応えきらん」といえば「認定されるためにはこらえろ]と言われる。「これではもう通してもらえんと、そん時思ったなあ」と患者はいう。果して棄却処分率はかつての十~二十パーセントから八十~九十パーセントに逆転していったのである。これへの抗議には検診拒否しかなかった。県当局は個人あてに再三説得を試みたが、患者ひとりひとりの意思のかたいのに驚かされた。申請患者じしんが直観的に現行の認定制度を信じなかった証左である。県が地域ボスなどの力を借りても、ついに個別撃破はできなかった。 この間、申請患者が期待したものは、当時係争中の裁判で現行の認定診査制度がどう指摘されるかであった。一部の原告じしんだけでなく、同じ立場の数千人の申請者すべてが待ったのである。

 水俣病その二九年から三十年目にかけて出された諸判決のうち「認定のあり方」の部分を例記してみる。
(1)一九八五年八月十六日ー水俣病第二次控訴審判決
 「(認定基準について)症状のうち最も特徴的な手足の知覚障害だけしかなくても、家族に症状が多くて疫学的条件があれば水俣病と認定できる。(審査会のあり方について)現行認定基準は最低千六百万円という協定書の補償金額にしばられ厳格すぎる」として、棄却患者四名中三名を水俣病とみとめる。
(2)一九八五年十一月三十日ー水俣病認定業務の遅れを訴えた「待たせ賃裁判」控訴審判決
 「認定申請に対する処分の遅延には違法性があり、熊本県知事には過失があった。よって各被控訴人(申請者)が受けた精神的苦痛に対する慰謝料の支払いを認める。」
 現行の認定制度のあり方としては、「(たとえば十年以上保留のまま放置しているようなことに対し)申請から処分までの相当期間は、短い人で六カ月、長い人でも二年四カ月あれば処分できたはずである。(それを超える遅れに対して慰謝料をだすことになる。)」
 「(保留者について)知事は認定審査会で水俣病かどうか分らない場合(保留者あつかいになる)『分らない』と答申してもらい、疫学関係の資料などを検討して(現行ではほぼ無視)、知事自らの行政判断で処分を出すべきである。」
 「認定審査会は委員の全員一致で答申しているが、県条例通り、過半数で決するか各意見を併記して答申するような工夫、改善の余地がある。」
(3)一九八六年三月二七日ー棄却処分の取り消しを求めたいわゆる「棄却取消行政訴訟」第一審判決
 「(水俣病像をいくつかの感覚・知覚障害、運動失調の組み合せとみる国・県の主張に対し)メチル水銀の人体に対する影響は中枢性神経系疾患だけでなく、血管、臓器その他に作用する全身症であり、症候も多種多様である。既に発生している病変を重篤化する可能性も否定できない。」
 「(認定のあり方について)有機水銀の影響を否定できない場合は認定すべきである。県の審査会の認定手続は健康被害の救済を図る法の趣旨及び目的に反しており違法かつ不当、早急に改めるべきだ」として原告の四名(棄却患者)の訴えを全面的にみとめ、水俣病患者と認定した。

 以上この三つの訴訟に共通しているのは、石原環境庁長官の改悪した認定基準を大石長官時代の認定の原点「有機水銀の影響を否定しえないものは認定せよ」というところに返せということだ。さらに、認定審査会と答申をうける知事のやり方は「過失・怠慢・違法・不当・過失」であり、「早急な工夫・改善」がのべられている。これだけでも致命的な打撃を県と認定審査会は受けたはずだ。
 さらに一九八七年三月三十日の第三次訴訟判決では、患者の認定に当り、水俣病の審査会のメンバーの鑑定に恃まず、民間の主治医(水俣の協立病院や熊本民医速など)の診断書を信頼できるものとして採用し、原告六十五名を各自ランクで軽重に分ちつつも、全員水俣病と”司法認定”し三百万から二千万円の補償金の支払いを命じた。水俣病事件史のなかで、はじめて主治医のカルテを採用したのである。 これら裁判の取材の中で「裁判長の顔が神とも仏とも見えた」「いまどき、こんなすっきりした判決は予想もしとらんじゃった」との声を聞く。”正論いまだ死なず”と感にたえない人びとを見たのである。
 申請者が検診拒否をつづけられたのは、申請者手帖、通称「黄色い手帖」をもっていれば、医療費の自己負担分は県が補給してくれていた。つまり医者代について緊急救済の措置がとられていたからだ。
 ある申請者は「検診をうければ疑ぐってかかるし気色の悪かでなあ。うければうけたで棄却棄却でしょう。そんなら認定審査会の代らるるまでまった方がよか。棄却さるれば黄い手帖も使いならんでしょ。医療費ば払わにゃならん。申請中なら使わるるで、まだマシじゃもんね」と受診拒否の事情をのべている。

 水俣病その三十年、熊本県にとっても”三十年”を節目に水俣病の全面解決策を打ちださざるを得なくなった。全面解決とは県にとっては認定・棄却いずれにせよ未処分者ゼロになり、すべて”済み”となることである。未処分申請者五千人、うち検診拒否と未検診者四千六百人である(八六年三月現在)。県当局は荒治療にのりだした。その手始めが検診拒否者に対する医療費の打ち切り策である。二度のよびだしに応じないものには即時支給を打ち切ることにする。そして、検診体制を現行の一カ月百五十人のぺースから二百人~三百人に強化する。かりに月二百五十人として年三千人、これなら二年で全申請者は検診完了になる計算である。これに並行して月一回の審査で百五十人をこなせば審査完了までに三年ですむとみているようだ。ただし棄却処分者がいままでのように再び申請を申し出なければの話である。これには再申請を封ずる手が要る。
 そこで県のひねり出した奇手は、棄却者のうちボーダーライン層には三年限度で医療費をだす。その代り、再申請者にはこれをみとめない、というものだ。再申請すればまた医療費自己負担分の支給が復活するが、その手続きの間の数カ月から一年間は空白になる。患者はその間に病状が悪化することを怖れる。医療費の途絶が何より恐ろしいのだ。病院、誠灸がよいが毎週の人たちである。県はそこまで見抜いた上で、”特別医療事業”と銘打った三年きざみの治療費支給の方便をとった。
 ならば、「ボーダーラインとは誰を指し、誰がきめるのか」との質問に、知事は「受給者は知事の裁量できめる。ボーダーライン層は水俣病と診断するに至らないが判断困難な事例である」とのべている。大石長官時代の次官通知では「そこまで認定し、救済せよ」と命じたラインに他ならない。
 医療費のエサがムチに使われている。その打ち切りの脅かしで患者を強いて検診にむかわせ、審査会で棄却の後、知事の裁量でおとなしい被害者には三年間の医療費支給という”恩恵”を与えようというものだ。あくまで再申請や行政不服の訴えで闘いつづけるか、ボーダーライン層の扱いに甘んずるか、その選択が被害者本人にあるところが恐ろしい。「あとになってグズグズ言われても困る。あなた本人が選んだことでしょう」と県は問題の再燃を一蹴できるからである。こうして申請者は”自分で選んだ以上”被害者としては権利放棄した、ただの人になるのだ。
 事態は県の予定通りにいけば三年後をメドに未処分者ゼロ、水俣病事件の一応の落着になる。すでにこの方針の下に当局は動きはじめ、八六年七月からこの”特別医療事業”をスタートさせた。検診拒否運動は解体を余儀なくされ、受診者は県の目標に近づくようになった。流れは敗色を濃くしている。来るところまで来た感がある。一度棄却されたら、ボーダーライン層として拾われなければ、本人がいかに呼べど叫べどただの一病人にすぎず、つまるところ生活保護による医療扶助に救いをもとめるしかない。かれら公害被害者は福祉の対象者一般のファイルに差しかえられ、永久に水俣病問題の地平からは埋葬されてゆくのである。かくして水俣病の暦は国・県としてはあと三年分めくれば終ることになる。一九九〇年頃であろうか。

 私たちの映画『水俣病ーその三十年』の前半部はこの現況、この負けの流れをも描く事となった。「何と暗い水俣映画か」と言われる。スタッフの誰彼からも「患者さんを励ますもの足り得ていない。国・県の加害性の暴露が不十分だ」と手厳しい。その声はひっそく状況におかれている被害者の声を反映している。しかし、だからといって、映画が観客にむかつて独り踊りを踊る事はできない。
 新聞・テレビが判決のたびに「勝訴」に大きくスペースを割く。水俣病事件について、いつの間にか常勝伝説がかたち作られ、流布されるにまかされてきはしなかったか。彼我の力関係の中で、いま敗色をこそ知らせるべきではないのか。一瞬の安堵のあとに、判決をくつがえすべく国・県は控訴、上告をし、ふたたび患者を崖から突き落とす。その意図に向けて、判決よりさらにスペースがさかれてしかるべきであろう。
 一方、被害者側の運動、とりわけ裁判のすすめかたにも、衰弱がみうけられる。かつて慰謝料は犯罪的企業への制裁金とみなす思想が歴然とあった。だがいまはいかようであろうか。水俣病事件史が無党派の支援団体「水俣病を告発する会」と、日本共産党の指導する「水俣病被害者の会」の二つの流れのたたかいで支えられてきたことはよくしられている。「告発する会」には制裁の思想がぬきがたくある。それが日本の公害補償史上ピークとされる水俣病補償協定書に結実されている。それがいま、取り崩されようとしている。自民党政府、総資本の圧力によることは自明の理であるが、被害者の側の衰弱もそれをたすけている。「告発する会」に一貫して張りあい、政治力学的に反発し続けてきたこの党派と「被害者の会」は、この間、補償金の低額化を甘んじて受容するようになった。

 ここでいまひとたび新潟水俣病事件の低額補償を思い出していただきたい。この方便はその後もくり返し判決に採用されている。第二・第三水俣病訴訟の補償金の額がそれである。ともに低く、しかも年金、医療費については言及していないのみか、第二水俣病訴訟の判決のように、「いままでの一千六百万から一千八百万の高額補償が認定のさまたげになったきらいがある」として、「症状の軽いものから死をともなう重篤なものまで一律の損害額を算定すべきではない」と断じ、六百万から一千万円の枠におしとどめた。第三次訴訟判決では死亡した胎児性患者二千万円を別格とし生存患者の場合、最低三百万円から百万円きざみで千六百万円まで輪切りにされている。この額すらチッソは高額として控訴審であらそうことを決めた。両訴訟の原告側弁護団はこのランク細分化と低額補償化に対しては一切あらそおうとはしていない。「棄却でゼロだったものがいくらかでも補償金がついて認定されたのだからもって瞑すべし」と原告の不満を押えている。
 この弁護団は新潟水俣病いらい日本共産党とつよく結びついて活動してきた。今後、できればより多くの申請者を第三次訴訟に加えてマンモス化を計るであろう。だが、歴史的な慰謝料と補償協定書の水準を堅持せず、自ら放棄している以上、時とともに三十万円、五十万円という新潟なみの慰謝料、しかも年金、医療費なしという、実質的に一九五九(昭三四)年当時見舞金契約のように一時金による見舞金、「金一封」に転落しかねない。
 一方、申請・棄却患者のがわにも、十年、十五年の戦いに倦み疲れ、「棄却され、それみよがしにニセ患者よばわりされる事に比べれば、裁判所で”あんたは水俣病じゃち”みとめてもらえば、それでよか」との声のあるのも事実だ。弁護団はその厭戦気分を組織しているといえる。これに対して批判の声の挙がるのは当然である。その批判の中心的人格として川本輝夫氏がいる。「協定書を死守せよ。取り崩しを許すな」と、体制側にいいつづけてきたその言葉を弁護団にも向けざるをえない。氏も今日、水俣病問題の解決のむずかしさは熟知し、裁判制度の枠内で争う事の限界性も体で知つての上の批判である。弁護団も「恒久対策」と称する、内容としては年金、医療費の支給をもとめる代案を掲げているが、つとめて「協定書」なる字句を用いることを避けている。「協定書」すなわち「告発する会」であり、「川本輝夫」その人であるかのような忌避が働いている。これをセクト的体質として一笑に付す訳にはいかない。この「協定書」の水準の高さこそ、水俣病事件の本質そのものだからである。
 一九八三年、水俣市の市会議員選挙にあたって、日本共産党は川本氏を名指して「患者運動の分裂主義者、暴力分子に踊らされているもの」とするビラをまいた。氏は苦戦をしいられながらも初当選を果したが、中傷はさらに激しさをますばかりになった。この経過のなかで、心苦しいのは”動かぬ証拠”とばかりに私の旧歴、作品歴までがまな板にのせられ、川本批判の説得材料にされていることである。
 具体的には一九六九年、京都大学の全共闘を描いた「パルチザン前史」、及びそのなかに登場した”過激派の教祖”滝田修こと竹本信弘と私との”関係” についてである。疑いの限で見れば無理からぬと、言えなくもない。なぜなら、この映画を撮った翌七〇年には水俣に長期ロケで滞在し、その後、かれが七一年八月におきた朝霞自衛官殺人事件で追われる身になっても、その”関係”を変えようとはしなかったからだ。だが、その理由は一言、「私の映画の主人公だから・・・」で済んだ。
 警察当局はその事に関わりなく、家宅捜索を重ねた。だが、世間は私に理解を示し、水俣の映画を撮り続けることを許してくれた。例外は、直ちに警察と同じ反応をみせたチッソ会社の御用組合の機関紙「しんろう」(同紙は会社の代弁者として知られている)であり、ついで日本共産党の「赤旗」である。何と対象的なところからの征矢であろうか。二つともその狙いは共通している。映画と運動とを串ざしにして葬ろうとしたものだ。
 私たちは患者支援運動の二つの流れの中で、その考え方を異にしようと、その拠っている患者、被害者は一つである事から、自ずと、ある抑制をはたらかせてきた。なぜなら権力は、とどのつまりは、ともに束ねて”切り捨て”ようとしていることはあきらかだからだ。いまだ救われない患者に対する強圧は、二つの運動体に拠る被害者すべてにひとしく働いている。それぞれからだされている基本的救済策は、煮つまるだけ煮つまって、いまはほぼ同じといえる。ただし、セクト的に付けたされたスローガンを除けば、であるが。
 一九八四年三月の「赤旗」評論特集版は「公害の原点、水俣病問題ーその真の解決をめざして」と二つの論文をのせた。その一篇は「ミナマタを暴力路線の舞台にさせてはならない。『告発する会』・川本グループの共産党攻撃にこたえて」という丸山和彦学習・解説部長のものである。もうひとつは党熊本県委員会の見解、「水俣病闘争の統一を阻んでいる二つの障害、ひとつは加害企業チッソによる直接の分裂策動、もうひとつは水俣病を告発する会の存在である」とする論文である。そのいづれも、「告発する会の中心は反共的文化人やニセ『左翼』暴力集団=トロツキストである」とその性格を規定することから論を進めている。
 丸山論文はこうのべている。
 「では川本という人物の正体は」として、次のように人脈図を描きだす。まず川本以前の集団のルーツを告発する会に置いて、「告発する会の活動家の多くは共産党から脱党して反共的立場に立っている作家や文化人、一九七〇年前後、各地の大学で暴力闘争をくりひろげた『全共闘』の出身者など、反共・反革新のグループです」とし、滝田修らに言及する。
 「彼らの出版物『水俣病闘争ーわが死民」(石牟礼道子編)には大量殺人や爆弾事件で悪名高い『日本赤軍』、『赤衛軍』といった殺人暴力集団の教祖的存在であり、みずからも朝霞自衛隊の首謀者である滝田修(本名・竹本信弘)の論文も掲載されています」と検察官も顔まけの断定を早々と下した上で、「つまり水俣を『中核派』や『第四インター』などのニセ『左翼』暴力集団が建造物破壊、放火殺人とあばれまわっている三里塚のようにするというわけです」。
 この三里塚の闘いへの生理的嫌悪感は正直としても、文字づらにおどるマガマガしさはいかがなものか。兇悪犯人グループのつどうところ、水俣といった描写である。
 つづけて「この滝田を全面的に支援しているのが、東京の『水俣病を告発する会』の事務局が置かれている青林舎の映画監督で土本典昭氏です。土本氏は滝田が殺人容疑で指名手配をうけて一昨年八月に逮捕される十年間の逃亡中、滝田に逃走資金を与え、各所にかくまって逃亡を助けてきた中心人物です」。当の私は赤旗に一回も取材をうけていないし、まして警察の取調べもない。すべて、新聞、週刊紙の風評をもとにしたものである。その上で「こうした暴力闘争路線に水俣病被害者運動をひきこむための”顔””シンボル”の役割を果しているのが、『水俣病認定患者連盟会長』の川本輝夫氏です」。(かっこつきで大衆団体名と役職を記すなら正式の名称「チッソ水俣病患者連盟委員長」ぐらいチェックしてよい。)
 そして「川本氏は『左翼連合』と称する反共・反革新の暴力集団の全国幹部」とし、「(この団体は)日本労働党(規約に『毛沢東思想を指導思想』と明記して結成した中国盲従の暴力集団)が中心になって作った組織」と断り書きをつけ、川本氏が、水俣を三里塚とならんで暴力闘争の根拠地とするため水俣病患者としての立場を利用してその先頭に立っていると描く。さすがに気が引けたのか「川本氏がこの党の一員であるかどうかはともかく、同じ立場に立っていることは誰の目にもあきらかです」。その彼が「昨年春、水俣市議選挙に立候補し住民の利益を代表するように装って議席を得ましたが、その”バケの皮” はいずれ自分ではがすことになるでしょう」と結論している。
 書き移しながら、むしろ悲しみが先立つ。滝田修をカギにし、すべての敵対組織を殺人・暴力で彩り、視覚的にまつ赤な暴力、放火、殺人者にしあげていく。この文章はデマゴーグの文体として、その稚拙さの見本として、一度は紹介しておかねばならない。

 患者は運動が一本化しなければ、国・県に侮られることを知っている。川本氏らの連携の呼掛けに応えて、「被害者の会」の会長S氏(患者)は水俣病認定審査会に対し、共同行動する事をきめた。だが、党員の牛耳る事務局の無視、サボタージュによってその芽は摘まれた。S氏は積年の党派的体質を批判し、「支配ではなく、支援を」の言葉を残して会長の座をみずからおりた。
 水俣病事件史の中で、しばしば患者と弁護団、支援団体と党とその地方機関との摩擦はあった。それは形をかえてピークに達しつつある。現在、この誹謗、中傷に対し、川本氏は名誉段損の訴えを起こし、党側八名の大弁護団を相手に、一人の弁護士も頼まず個人の仕事ととして立ちむかつている。不毛にして不本意な仕事、さりながら誰かが異議申し立てしなければ済まない仕事として、氏は独りで背負われたのであろう。「暴力分子、過激派につながる川本一派」なるレッテルは不知火海に散在する漁村の被告者たちには、かつての「アカ」よばわり同様に効果的である。この言葉でかれら相互のつながりを断っているのだ。この誹訪、中傷が水俣の市議選を機にエスカレートした事情のうらに、日本共産党の患者にたいする組織運動なるものが、とりもなおさず党拡大、すなわち選挙時に集票マシーンとしてはたらかされているのが透けてみえる。公害都市水俣での党の依拠しうる層を一万人にのぼる水俣病被害者とその家族とし、市政や市議会に発言力をつよめようとしている。八六年頃から動きはじめた水俣大学(当時「水俣環境大学」と称された)を創る運動に対しても、党は批判の先鋒にたった。
 そもそもこの運動のきっかけは法政大学教授尾形憲氏が水俣の若いグループ「ふるさと・水の会」の有志との懇談の中から着想されたもののようだ。それまでに国連大学の環境部門とか国立環境大学の誘致が構想されてきたものの、国に頼ったプランのため何らの決め手も欠いていた。尾形氏は私立の大学の可能性を示唆し、市民の手で小都市水俣に相応しい、いわば等身大のユニークな大学つくりへと発想の転換を勧めた。それは若い世代の心に灯を点した。「拓かれた大学」「水俣の体験を未来に生かす大学」「環境学の創造を通じて、アジア・第三世界の青年たちと共に学べる大学」・・・と、話の膨らむにつれて、水俣病問題に関わりのあった人たちが集まり、「水俣大学を創る会」の実現にむけ歩みだした。代表に、元環境庁長官大石武一氏、呼びかけ人に宇井純、宇都宮徳馬、栗原彬、最首悟、鶴見和子、林郁、日高六郎、丸木位里・俊、見田宗介、村井資長、山住正巳の各氏ら約二百五十名、事務局長にはいくつもの水俣病裁判を手がけた後藤孝典弁護士がこれにあたり、実務に春田親邦ら、そして水俣病センター相思社から柳田耕一が専任となって参加し、大学設立の準備にはいった。
 水俣市の有力者、とくに自民党系市会議員にとまどいと疑心暗鬼がつよかった。地元の資金負担への畏れもあったが、この大学が建学理念の中心に「水俣病の歴史的教訓」なるものを据えるのではないか、という危倶かららしかった。忌わしい水俣病の地というイメージを払拭せんがための大学構想であったはずのものが、これでは逆に、その汚名を末代までも残す事になる・・・それは耐えがたい事に思われたに違いない。
 迂闘に言葉にしがたいこの畏れに対し、別種の考え方で反対の論拠を差しだしたのが共産党であった。またしても、かつての「大学紛争」の再発を招きかねないとする論であり、青年たちの思いに冷水を浴びせるのに格好の材料になりうる、いわゆる大人の考え方でもあった。八六年七月、日本共産党熊本県委員会の公式見解「社会の進歩と水俣の再生・振興に役立つ「環境大学」」なるものがそれである。
 まず日本共産党は国立環境大学誘致の先鞭をつけたと言う。そして最近の私立の環境大学設立計画に「日本共産党が賛成しているようなうわさも流れている」ので見解を表明するとして、「全市民的レベルで運動をすすめることー特定少数の人びとの計画や、構想の外部からの持ち込みには反対である」とし、「地域の再生・振興に役立つ大学、全国の医療機関・大学・学術研究機関と連繋し水俣湾埋立地の有効利用などともあわせ『文教・保健衛生都市』にしていく総合的な計画の一環とすることで、人材育成を目的とすること」など、”水俣市民党” 的表現をこらした上で、この党派でなければ他に誰もいわない例の眼目をのベる。
 「五、暴力・破壊を許さず、大学の自治と学問の自由が確立された民主的な学園をめざす。
ーこれまで全国各地で「全共闘」運動、あるいは「中核」「革マル」など暴力集団によって大学が暴力・破壊活動の拠点にされ、大学の自治と学問の自由、学園の民主主義がふみにじられたことは記憶に新しいところです。こうした事態を絶対に再現させてはなりません。
 水俣に設立される大学はニセ「左翼」暴力集団の策動を許さない広範な市民国民に支持される民主的な学園にすることが必要です。その点で、一部で進められている私立環境大学(水俣大学)設立の動きに、三里塚空港反対闘争など、暴力集団と密接な関係をもつ学者・文化人、『水俣病センター相思社』(川本理事長の関係者が深くかかわっていること)には厳しい警戒が必要です・・・」(同見解)
 この文章の意図するものは明らかであろう。全共闘運動と水俣病センター相思社を赤いアンダーラインでひとつに繋げ、さらに「水俣大学」に結びつけることだ。水俣病事件発生以来、一貫して患者を差別してきたチッソ会社、保守的市民階層、とりわけ市政をにぎる自民党市議団の相思社への不快感や異物視を、そのまま水俣大学への反対気運に誘導しようとするものに他ならない。セクト主義の行きつく所、保革の立場を互換した一致がみられるのだ。
 党見解に事ごとしく例示されている六十年代、七十年代にいわゆる大学紛争、三里塚空港反対闘争に参加し、関心をもちつづけた人が多くこの水俣大学にこころを寄せている。これらの問題に無関心でありつづけた事を遠因にして、水俣病問題が起きたのではなかったか。だからこそこの人たちは自省をもって水俣と関わってきたし、これからも関わろうとしている。なかには八年、九年、十年と水俣に足を運んでいる研究者たちもいる。だからいま、市役所、青年会議所の若い幹部たちも、その持続的な行為に感じて、ともに地域の甦りの夢も挫折も語りあえる人間関係さえ生まれて来ているのだ。
 水俣病三十年をそのまま生きたこの街の若者は、都会の大学、職場にでて自ら水俣生まれゆえの差別を味あわされた。その都会での環境破壊を見、市民意識の根底からの変り方も見てきた。元チッソの工場長を父にもつ青年は無農薬、自然食グループのリーダーになっている。その立場でこの水俣大学をつくる運動に参加しているのである。地元水俣の大学の実現を支える若者に、奇しくも川本さんの息子とともに、元市議会議長・自民党員の第二世代も肩を並べてアンケート、ビラまきに街頭にでている。それら一連のシーンはすでににカメラに収めている。マガマガしいものはどこにもない。

 大石武一氏をいまはげしくつきうごかしている情念は、「このいためつけられた公害の原点水俣がその経験を生かし、学問にしあげて世界に役立つ大学を建設することによって、水俣を後世に生かし魁らせたい。日本の企業進出によるアジア、アフリカ、第三世界などの近代化にあたり、水俣の教訓を生かしてもらわねばならない。そのために大学をつくるとしたら水俣の他にどこにあろうか」ということにつきる。
 八六年五月、現地の「水俣大学を実現させる会」(代表嶋田澄夫)は「大学を語る会」を催した。それには大石氏の他、元早大総長・私立大学設置審議会委員の村井資長氏、法政大教授の尾形憲氏、国連大学顧問シラク・シワラク氏(タイ)が招かれた。
 老齢にもかかわらず村井氏は「私の専門は応用化学で、チッソの化学工業の発展とつよくむすびついた学問一すじでやってきた」と前おきして、「生産、効率第一主義からうまれたいまの教育の競争原理をかえたい。小学校からの教育はすべて大学像にあわして進められている。水俣大学は共生の原理をめざす。これはこの街の小学校、中学校の教育のあり方にまで影響を与えるだろう。そうした大学は水俣にこそ出来る気がする。私の余生をこの実現につくしたい」とのべられ、初めて参加した中・老年間の心をひきつけた。
 シラワク氏は「タイですら高等教育がエリート主義によって汚されはじめた。それはタイの施政者の責任である。日本軍に占領されたとき、タイの当時の支配者も明らかに協力した責任があったことの反省にたって、民衆の大学、仏の心のこもったタイの”水俣大学” をつくりたい」とのべ、アジアを身近かに感得させた。水俣大学は水俣の歴史によってつくられる、とも聞けた。耳をかたむける患者たちの顔が印象的だった。

 八六年十二月、ある若い患者が自分の申請者手帖を熊本県当局に返上した。緒方正人さん、この十二年間、申請者運動の先頭に立ち、申請者協議会の会長をつとめたリーダーである。七五年、熊本自民党県議の「ニセ患者発言」に抗議し、そのもみあいを理由に後日、数十人の警官隊に襲われて逮捕された。被疑罪名は公務執行妨害、傷害である。一審で有罪、二審で控訴棄却、目下最高裁に上告中である。この一審・二審の判決文はついに一言も事件の背景である水俣病事件そのものに遡られることはなかった。抗議行動の直接の原因であるニセ患者発言にも触れられなかった。
 これに似た刑事事件に川本輝夫によるチッソ社員暴行事件があるが、一審が暴力行為の有無だけを切り離して有罪としたのに対し、東京高裁(二審)の寺尾裁判長は水俣病事件におけるチッソの加害責任、ひいては国・県の不始末にも言及して、訴え、つまり公訴そのものを棄却する判決を下した。この判決の同じ年に起訴された緒方さんらの事件は、再び些末な暴力行為の立証にあけくれて十一年を費やした。情況は限りなく闇に帰った。
 緒方さんは、父や母や兄弟一族を殺しひいてはいとこたちに二人の胎児性水俣病をもたらしたチッソとの戦いが目標であり仇うちだった。だが、チッソは国・県のかげにかくれて眼前の相手ではなくなった。裁判闘争というけれども、検事と弁護士のやりとりである。法廷で一言檄を飛ばすのがせきの山だった。その空しさゆえにチッソとさしで相対する立場を探しもとめて悩みぬいた。との彼が不知火海の一漁民に立ち返ってチッソとの終りのない戦いをくみ上げるには、「申請患者」の枠組みで戦うよりも事実として毒を腹一杯喰わされて滅亡の淵に立たされたひとりの人間として戦う他ない。これが彼の選択だった。それが正しかったかどうかの今後をみたいと思う。

 水俣の人びと、患者である人の上にも、患者を憎み差別した人の上にも等しく三十年の歳月は流れた。るるのべたように水俣病事件の負けの流れの傍らに、水俣の再生をねがう次の世代が登場している。すべてのマイナスの牌をあつめてプラスに転化できないかをその若さで試みようとする人びとたちだ。緒方正人さんのいまの閉塞状況の切開のし方もどこかでつながっていよう。
 仕事がなければ仕事をつくれば良い、と軽くいってのけた支援者とチッソの労働者、地元の人たちによって、廃油をあつめてつくる天然せっけん工場が半年の準備で建設され稼動しはじめた。不知火海の沿岸で合成洗剤を石けんに代えたら、浜と磯はどのようによみがえるであろうか。そうした視点で製品「しらぬい」(商品名)を沿岸の人びとに手わたしていきたいという。こうした労働と生産が教育的な思想の芯にからまって着想されるのが、水俣の新しい風土といえないだろうか。権力が年を数えて水俣病事件を始末しようとするならば、映画はその時間を別の世界から照らしださなければならないだろう。
 まえがきに代えて、今日の水俣の状況について私見の一端を述べさせていただいた。ひとりの映画作家として、与えられたテーマを四半世紀のあいだ、ともかくも辿らせていただけた事を「幸いなるかな」と思う。同時に現実のむごたらしさに血の気が引く。だが二五年はなるほど二五年である。悲観、楽観、闘いの勝ち負け、その時どきの心情、評価、価値観、「思想」がひとまとめになって「おまえは何者なのか、なにをして来たのか」と問いかけてくる。だが所詮まとめることは不可能だ。いまの事しか語れない自分に気づく。仮に揮身かけて過去を語ったとしても、そうしか語れない自分の「いま」の表現という事になろうか。ここにつづく文章群はその時どきの現在形の記録であって、高低凸凹とあられもないが、水俣を介しての映画私史として受けとっていただければ幸いである。