水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 「水俣の子は生きている」 <1988年(昭63)>
 水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 「水俣の子は生きている」

 一九八五年六月七日、東京・四谷駅前の主婦会館で「水俣から水俣へ」と銘打った集会が聞かれた。この日は第一審で患者側原告の完全勝利判決をひきだした、いわゆる「待たせ賃」裁判の控訴審の結審の日にあたり、あらためて水俣病事件のもつ意味を考える機会としてもたれた。
 一九八六年は、水俣病が確認された一九五六(昭和三一)年から数えて三十周年をむかえる。その三十年の節目を意識してであろう、報告者のひとり、水俣病センター相思社の柳田耕一君は次のように語りだす。「私は一九五〇年の生まれで現在三五歳です。私が五つか六つの時に水俣病が発生しました。私の生まれそだったのは熊本空港のすぐそばの農家です。村の道は小石まじりの凸凹道で、はじめてタイヤの轍をつけた大八車にのって、こんなに揺れない車もあるんだと子供心にうれしくなったりしたものです」と、自分の三十年とチッソ(新日本窒素株式会社)”水俣病の三十年とをつきあわせながらのベる。貴重品のマッチもチッソの日の丸印なら、肥料もチッソ、水道をひいたときのパイプ、ホースの塩化ビニールもチッソのものだった。はじめ冬の朝などパリパリ割れた硬いホースも、ゴムのような軟らかいものに変った。それにつかう可塑剤を発明し、チッソは一時期、独占的に製造・販売をして巨利を得た。その工程中、アセトアルデヒド反応塔の中で有機水銀が生成され、水俣病をひきおこした。
 「つまり、私の農村の生活を一変させたチッソが、私の三十年の中にあったのです」。

 私は一九二八年生まれ、五九歳である。だが柳田君のことばで思い出される。ー戦争中の物資不足の時、人絹とかスフ(ステープル・ファイバー)などで織られたものを着た。旭ベンベルグなどはチッソの旧子会社旭化成の製品であったし、味の素とともに旭味というその社の調味料も使っていた。ー水俣病の三十年を私にひきあてて言えば、奇しくも水俣病発見の昭和三一年の一月に岩波映画製作所に入り、水俣病第一号の所在を確認したその年の五月、私は結婚している。胎児性患者の多発した時期と同じくして一女をもうけた。映画人として生活しはじめて十年目に水俣病に出会い、以後二十年、仲間といっしょに水俣病映画をつくっていることになる。
 学生運動をして大学を除籍になり、まちがっても映画会社などに入れる資格のない二八歳のひねた青年が臨時雇員にせよ映画会社に入れたのは、チッソと同様、巨大資本の大規模設備更新期に一挙に需要のあったPR映画時代の人手不足による。(その頃、岩波映画はチッソの企業スライドを作ったようだ) 「何がきっかけで、またなぜ十数本も水俣を撮りつづけてきたのか」と聞かれる。それは結果的にそうなったので、別に映画人として義務感をもってつづけてきたわけではない。決着のつくと思った水俣病事件がこの二十年一向におわらず、その局面ごとに、これだけは撮っておかねばと思ってきたことの結果であろうか。ひとことでいえば水俣、不知火海と出遭ったからであり、その地、そこの人びとが好きだからとしかいいようがない気がする。
 ちなみに水俣について撮った映画を年別に列記する(発表時)、
 一九六五(昭和四十)年
 『水俣の子は生きている』(日本テレビ・ノンフィクション劇場)
 一九七一(昭和四六)年
 『水俣ー患者さんとその世界』ー翌年、英語版製作(”東プロ”青林舎の前身、代表高木隆太郎)
 一九七三(昭和四八)年
 『実録・公調委』(東プロ)
 『水俣一揆ー一生を問う人びと』(東プロ)
 一九七四~五(昭和四九~五十)年
 『医学としての水俣病・三部作:第一部「資料・証言篇」、第二部「病理・病像篇」、第三部「臨床・疫学篇」』(青林舎)、その英語版『不知火海』(青林舎)
 一九七五(昭和五十)年テレビドキュメント『水俣病とカナダインディアン』(日本テレビ)
 一九七六(昭和五一)年『水俣の子は生きている』『水俣から世界へのメッセージ”THE MASSAGE FROM MINAMATA TO THE WORLD』(ラジオケベック(カナダ)との合作、英・仏語版)
 『汚れし海に結ばれて”HANDS JOIN ACROSS POLLUTED WATERS 』(前作の改訂英語版)
 『水俣病”その二十年』(青林舎)
 一九七八(昭和五三)年
 テレビドキュメント『わが街・わが青春ー石川さゆり水俣熱唱』(東北新社・青林舎、のちにプリント化した。)
 一九八一(昭和五六)年
 『水俣の図・物語』(青林舎)
他に不知火海を舞台として、テレビシリーズ『育て零才!クルマエビ』(一九七七年)、『海とお月さまたち』(日本記録映画研究所、一九八〇年)がある。このほか、仲間のつくった『勧進』(一九七一年)、『死民の道』(一九七二年)についてはのちに詳説したい。
 最初に水俣を訪れたとき、患者数一一一人、二十年後のいまチッソ水俣病総申請者一万四五九六名、うち認定患者二七一四名、未処分者約五千余名、つまり認定患者で二十倍、被害を申し立てた人(申請者)は百倍を超えている(昭和六一年六月三十日現在)。これが私に水俣映画を連作せしめた基盤的数字といえる。
 そしていま、水俣病三十周年にあたり、新作『水俣病その三十年』を製作、次回作として『海は死なず』を撮ることにしている。
 「海は死んだ」とはいままで映画ではひとこともロにしなかった。むしろ、映画に好んで現役の漁師とその生活を描いてきた。そしてこれからも人と海の甦りを描こうとしている。これは逆説ではなく、私の不知火海、私にとっての水俣病事件として、二十年ひとめぐりして辿りついた現在の地点なのである。

 この機会に、二十年前の映画体験から今日まで、ひとつひとつの映画に即して語りたいと思う。その間出遭った人、いっしょに映画をつくった人、見せて歩いた人、映画で水俣を見た日本と世界の人びとの記録のなかに、私にとっての”水俣病三十年史”があると思うからだ。
 
 私の手もとに、断片の文字で拾うことのできる二十年前のノートがある。日本テレビで「ノンフィクション劇場」を何本かやろうとした時期のものだ。(一九六四~五年)
 そこには企画ものの題名が並んでいる。
(1)「高見 順ーある典型的日本人の肖像」
(2)「 怒りの海、秋田県のハタハタ漁ー季節風下、強行出漁するしかない漁民の冬」
(3)「死の海の記録ー水俣病、その十年、胎児性の子どもはいま」
(4)「マレーシア留学生・チュア・スイ・リンー亡命を強いられたアジア人学生」
(5)「山岸会ー日本農民のより合いの精神構造」
(6)「韓国密航者の記録ー新植民地論として」
などとある。「つまり第一作『水俣の子は生きている』はこうした一九六〇年代の私の関心のうちのひとつであったに過ぎない。ドキュメントとして面白ければ、どんなテーマにでもとびついていった私の三十歳後半の映画的胃袋の雑食性をここに見てもらえれば足りる。PR映画状況からのがれて、人間をテーマにドキュメンタリーがつくれればもって瞑すべしと考えた時代である。
 このなかで手がけたのは『留学生チュア・スイ・リン』と『水俣の子は生きている』だけである。前者はテレビ局の製作中止命令によって、はじめて自主製作なるスタイルで完成することになったし、このトラブルから、『水俣の子は生きている』を最後に、テレビドキュメンタリーの仕事はこのシリーズではできなくなった(『留学生チュア・スイ・リン』(藤プロ、製作工藤充)のてんまつについては未来社刊『映画は生きものの記録である』にのべた)。

 『水俣の子は生きている』の企画にかかったのは、一九六四(昭和三九)年の秋であった。
 日本テレビのノンフィクション劇場のチーフプロデューサー、牛山純一氏とそのデスクから三、四枚の新聞の切り抜きをわたされた。「事件から十年たってー」というジャーナリストらしい着想からピックアップされたものであろうが、そのころたまたま水俣病に胎児性発症のケースがつきとめられたことが、報道されていた。小さな記事を見逃さなかったのはさすがプロデューサーである。
 新聞記事の切り抜きの一枚は熊本医学会総会で「水俣に胎児性患者の所在」と報告されたとするもので、出生いらい七、八年経過しており、死んだ患児の死体解剖によって病変がみとめられ、同様(脳性小児麻痺様)の患児が公式に認定された(一九六二年十一月)というもの。「水俣病多発地帯で出生した患児は重篤な症状で入院したり、在宅のまま療養生活を送っている。その生活はきわめて貧しく窮迫しており認定されることによりその救済に一条の光がさしはじめた」という記事(一九六二年十一月)、そして日付けがとんで、北海道の北星高校の女子生徒がその子らにプレゼントを送りつづけているというもの、ついで熊本短大の社会事業研究会のサークル員が、夏休みに水俣を訪れ、慰問し、これを機に「水俣病の子どもを励ます会」が結成されたというものであった。
 当時すでに宇井純東大助手が、富田八郎(トンダヤロウ)のペンネームで、「月刊合化」に「水俣病」を執筆、連載していたことは知らなかった。この作品の放映を機縁に宇井氏を識ることになるのだが。
 さいわいデスクが、新進の写真家桑原史成氏の写真のファイルを借りてきた。写真集用にレイアウトされたもので、まだ未発表のものだった。それには胎児性患者ばかりでなく、生きている人形とコメントを付された少女患者松永久美子さんや急性激症のまま生きる村野タマヨさん、船場岩蔵さんら成人患者にいたる群像がうつしとられていた。指の折れまがりのアップ、爪の変形までその克明なカメラ・アイに一驚したものである。

 貧しい資料とメモを手に熊本にロケハンにでかけたのはその年の十一月である。まず熊本大学を訪れた。
 数人の医学者にあったが、顔の記憶は薄れている。ただ取材メモによれば、病理の武内忠男、神経内科の徳臣晴比古、衛生学(当時)の入鹿山且朗の各氏など、のちに水俣病の医学を辿るうえで鍵となるかつてのいわゆる水俣奇病研究班の方々にお会いし、そのレクチャーをうけた。そのメモの内容は、今日では周知の事ばかりだが、当時の各氏の状況認識を知ることができるので、重複をおそれず書きうつさせていただく。
 「不知火海は日本でも魚種の多いことで知られるが、なかでも水俣湾は第一級の漁場。
 「昭和二五、六年頃、水俣漁協の水揚高は年十四万貫(五十六万キロ)。
 「湾内百間港に排水された工場廃水によるとにらんだが、その奇病の奇怪さに悩まされた。昭和二八年頃からだ。
 「汚染のひどさは色でも分る。コーヒー色から青、緑色まで。
 「魚貝類のへい死により、昭和三二年には水揚げは十分の一の一万八百貫(四万三千二百キロ)に激減。
 「熊本大医学部では三一年八月に奇病研究会をつくった。死亡率四〇パーセントという高率である。病理、内科、小児、薬理、徴生物、公衆衛生の各科からなるメンバーをつくった。
 魚類の摂取が原因に思われ、水俣湾の水質を調べてみたら、疑わしい重金属が各種検出された。マンガン、タリウム、セレン、カドミニウム、砒素など。はじめは水銀の分析をせず。高価な水銀など流出(ムダ)していないと思ったから。ー
 「工場側は異説をだす。戦争中、袋湾にあった旧軍の補給隊の爆弾の湾内投棄ーその腐蝕による毒物の流出という。
 「動物実験により、文献をあさって有機水銀中毒と一致。しかし一~二年みとめられず、アメリカのカーランド博士(国立保健機関)の追試によって権威づけられる。情けないことだ。
 「文部省の科学研究費は三カ年で打ち切り、あと厚生省の研究費は条件つきー大臣の許可なしには研究発表は不可とされる。ー
 「昭和三五年以降、経済企画庁が調査の主管者になる(水俣病調査研究連絡協議会)。そのごの熊大独自の原因究明の研究は、地方行政への社会的考慮を優先ということで、やりにくくなった。
 ここにいう地方行政への社会的考慮とはチッソへの配慮ということであろう。『水俣の子は生きている』の前史の奇怪さは、メモをたどることで浮かびあがるが、あまりに淡々と語られたせいか、憤まんやる方ない物言いとか口調は思い出せない。こなれた解説として語られたのであろう。
 この頃の熊大医学部の各氏とその研究室の印象では、研究成果の資料整理がもっぱらのようだつた。病変の顕徴鏡写真の厖大なファイルを見せられても、門外漢の私にはほとんど理解できなかった。
 胎児性水俣病の所在確認については、その臨床にあたった教授たちの出張でくわしいことは聞けなかった。
 薬理の入鹿山氏は「学術的に最終結論をだすにあたって、現在、有機水銀ヘドロのサンプルの化学的構造式の究明と、工場の工程内における合成の化学的機序の解明が残っている」という。これは映画に撮りにくい。
 病理の武内氏は「猫実験」のプロセスとその発症の状態をくわしく説明してくれるので撮りたいと申し出ると、動物飼育室だった一画につれていった。しかし現役のネコは居なかった。これではどうしょうもない。
 臨床の徳臣氏は患者たちを映画フィルムで撮っていた。「非常に特異な症状のあらわれ方なので資料的価値が高い」といわれるが、医学研究の場でしか公開していないという。つまり、すべては終っていたのだ。一九六〇(昭三五)年の徳臣民による水俣病終息説の発表から四年たっていたのだ。いわゆる絵になるものはひとつも見出せなかった。
 メモに、今日読んで気になる記述がある。
 入鹿山氏のことばとして、大意次のようだ。
 「この年(昭和三九年)水俣漁協は水俣湾内の漁獲禁止(注・漁協の自主規制)を全面解除した。
 「現在どベのなかに有機水銀はほとんどない。あるのは無機水銀としてだ。
 「魚の検体も同じで、有機水銀はほとんど見られなくなっているが、貝類にはある。一キロの貝中に五ミリグラム・五PPMほど。水俣病多発の頃は一〇〇PPMもあったものだ。
 「貝やカキのほか底棲性のナマコ、タコにも五・六PPMあるが、回遊性の魚にはいまは目立った数値はでてこない。
 「しかし、地元の人は貝やカキを多食するので、漁獲を解除したら発症の可能性なしとしない。いま港湾の浚渫がおこなわれるが、浚渫をしたあとの様子を見てから解除すべきじゃないかと言っているが、市としては行政上の立場から解除にふみ切った。
 これが氏の疑問符つきのコメントとしてメモにある。注意ぶかく耳をかたむけたなら、浚渫と発症の時期的関連性や、その後、慢性型として発症する水俣病への警告として聞きとれたであろうが、当時の乏しい知見では死語を聞くにひとしかった。
 映画の取材の重点は「水俣の子どもを励ます会」になった。熊本短大は冬枯れの木立の中にあった。女子学生が多く、華やいでいた。めざす「水俣病の子どもを励ます会」のメンバーは部室でむかえてくれた。その中に、来春、水俣にボランティアとして赴くことをきめていた西北ユミさんもいた。彼女は映画にでることをほぼ承諾していた。いまの支援者のどこかまなじりを決した風貌と比べ、いかにも良家の子女といった印象で、「忘れ去られたものへの愛」が支えのようだつた。
 部屋には水俣市の略図と当時の一一一名の患者の発生地図が展示用につくられ、発症にいたる機序図解ーつまり工場廃水から魚貝類へ、そしてヒトへの線に、もう一本胎児への線が赤くつながれていた。校内や市内でのカンパの際展示した写真パネルは、桑原史成氏の写真がたて六十センチ、よこ四十センチほどに引き伸されたものだ。氏の処女写真集の秀作が惜しげもなくこの学生たちの活動に提供されていた。私は出発前にそれらを見ていた。桑原史成の写真は人物の眼元のシャープさに特色がある。とくに生きている人形といわれた松永久美子さんのきらりと輝く瞳や、半永一光少年の訴えを託したまなざしなどに惹きつけられたものだ。だがすべての小児性患児の眼の部分にビニールテープが帖られていた。原写真を見ており、その眼、その瞳の訴えるものが作者のねらいとして私の胸を衝っただけに、それに帖りつけられている目かくしのテープは、さまざまの惑乱をよんだ。「やはり撮ってはならないものか。人の前にさらすべきものではないのか」。私がそれを問うと、彼女らからは「プライバシー」という言葉が返ってきた。当時は新奇な用語だ。だが、それだけでは説明しきれないものを、学生たちも感じているようだつた。私はこの目かくしされた一連の写真をまえに、気持の萎えていくのを感じた。熊本ですらこのように封じられた水俣病観ならば、水俣ではどれほどの壁があるだろうか。
 サークル顧問の内田守教授(社会福祉学)は私を頭から活動屋と決めてかかって釘をさした。「あの西北ユミさんは都城(鹿児島)の名家の出です。しっかりした子で、自分からボランティアに志願したんです。一緒にいっても決して間違いごとのないように」。
 私は熊本まできながら、水俣に足をのばせなかった。何か絶対に触れたくないテーマに出遭ってしまった気がした。

 帰京後、取材中にあつめた熊大の資料や熊本日日新聞、全国紙の熊本支局で得たメモを読みかえした。チッソの加害性はほぼ社会常識になってはいたものの、歯切れよく断定し、告発した文章は少なかった。新潟水俣病の発生確認はこの半年後、厚生省の水俣病についての正式見解はさらに三年ちかく後のことである。むりもないことだった。ようやく、水上勉の『海の牙』、石牟礼道子の『日本残酷物語』(平凡社)の漁民闘争の一章をよんだにすぎない。それでも、知識をつづりあわせてチッソと水俣病事件の像を組み立てた。「人間のつくった新生毒物が、人聞を倒したーその治癒は現代医学では絶望的なものであり、人間のおごりへのしっぺ返しとして文明史的な一事件だ。それが次の世代まで冒し、胎児性水俣病を生んだ。これを医学的に解明した熊大研究班は駅弁大学とさげすまれている。そして事件は終り被害者は残された。しかも眼を目ばりされて世をはばかる存在のように扱われている。この患者・患児たちがどう生きていくのか。それは社会の責任ではないか。せめて、患児の心まで水俣病にしてはならない」(当時の演出ノート要旨)。

 年あけた一九六五(昭和四十)年正月、私とカメラマンの原田勲(日本テレビ)はまずカメラを熊本短大の「水俣の子らを励ます会」のサークル部室からまわしはじめた。
 学生たちの街頭カンパ活動準備のシーンは屈託がなかった。西北ユミさんはとりわけ明るかった。子どもたちひとりひとりの名をそらんじていた。夏休みの慰問のスナップの彼女、大学での報告会でスピーチに立つ彼女の表情と笑顔は若いつややかさと晴れやかさにみちている。「だが」と思う。「学生時代のサークル活動だから、こんなに呑気なのではないか。あるいは一生の仕事として水俣にかかわるとしたら?」「ボランティアとしての一、二年の間なら、やめるのも自由なはずだ。この映画にでたために辞めるに辞められなくなるのでは・・・」と案じもした。
 資料として展示されている例の写真を撮る段になって、目ばりのことが気になった。目ばりのまま撮ることはこの活動の質を物語るとしても、私自身目ばりを許すことになる。桑原史成がこの人物像にこめて撮ったものをおおってよいのか、胎児性水俣病患児の瞳の輝きをつぶしてよいのか。惑い迷った。迷いながらも言いたかったことを口にだしてしまった。「西北さん、あんたの手ではがして下さい。ゆっくりと、ネトネトとはがす音が聞こえるような気持でテープをはがしてみてくれませんか」。自分の気持がきまっていたわけではない。そうしてみたいぐらいのモヤモヤの気分が、ことばとしてでるとそうなった。私はテープが生皮をはぐような音をたてているのを聞いた。半光一光君、坂本しのぶさん、加賀田清子さんの眼が聞いた。この撮影のあと、軽い貧血だろうか、眼の奥に一しきり緑色の幕がかかった。
 現地に足をふみ入れたのは、その翌目だった。はじめて水俣を訪れた私には、道ゆく人がすべてスローモーションのように見えた。歩き方、がおそく、表情の反応がものうく、物腰の全体がふつうのリズムから一拍も二拍も遅れているといった風に思えた。南国特有の顔の浅ぐろさとは別に、不健康な蒼みが沈着しているように見えた。そうした人びとの背景にあるチッソの蒸留搭らしい銀パイプや屋根といわず煙突といわず、あらゆる隙聞から洩れでるガスとけむりが濃霧のように地表を這っている気がした。いつ雪がふりだしてもいいようなどんよりとした雲がかぶさり、工場の臭気まじりの白い煙がそのまま境目なく雲につながっているような冬の日に足をふみ入れたからに違いない。そんな曇り日がロケ中つづいていた気がする。それは私の滞在中の心象風景そのものだった。

 ロケは水俣工場への通勤風景から始めた。水俣駅はチッソ正門前である。あさ駅から一直線に入門する労働者の群れの中に西北ユミさんをおいた。当時チッソの従業員四千六百人。その流れはレンズを圧倒するものがあった。
 熊本大学医学部の研究班からの紹介もあって、私たちの取材は市当局にすんなりと受け入れられた。テレビの取材は昭和三四年十一月のNHK『日本の素顔』いらいだった。市役所の徳江衛生課長はむしろ歓迎するふうだつた。それというのも、当時厚生省より水俣病治療研究助成金がでていたものの、大蔵省は、内意として研究費などを打ち切る方向にあった。また二億数千万円を起債して建設中の湯の子リハビリテーションセンターにさえ中央からの補助金はなく、その運営に必要な人材あつめもはかばかしくなかった。だから無給でケースワーカーに志願した西北さんに感謝していた。その彼女を追うカメラにも好意的になったのだ。
 当時、患者の治療には九州温泉治療センターの鉱泥浴療法がいいと分っても、患者本人に療養費を負担させられないし、何とか厚生省による特別措置、つまり医療費にたいする国庫補助を願いでていた。当時入院加療中の患者は別として通院患者の治療費免除がやっとその二年前に実現したものの、運動機能訓練などの予算に事欠くしまつだった。
 「助成金をだしてくれというと、”水俣病の再発”とうけとられるんでしょうかね。もう苦しい台所事情です」と課長はいう。当時、見舞金契約による患者の年金は、年四回に分けて赤十字水俣支部から患者に渡されていた。「当初の子供年三万円、成人十万円」は物価指数の上昇(二三パーセント増)によって目減りした。「数年前から患者から増額してほしいと言われていたが、あのチッソの安賃闘争(昭和三七~八年)がすまなければ言いだしきらんということで、のびのびになっていて・・・」と課長はいう。その逼迫の分を市からの生活保護費で手当していた。患者さんのなげきや市職員のぐちの端々に、いま思えば「生活保護手当」問題のややこしさがうかがえた。当時、水俣の生活保護費はわずかな額にちがいなかったが・・・。
 アップされた年金は、成人の場合年にして重症十一万五千円、軽症十万五千円、子供は八万円である。どうもこの見舞年金のアップを期に、生活保護手当との”ニ重どり”のチェックがはじまったようだ。「それではチッソの初任給より上まわる」と市民の批判がでてきたのだ。これに反発して患者は「ならばむしろ、会社からの金はそっくり返上して、生活保護一本にした方が、気持のすっきりする」という。
 そのあたりの事情を聞きに出月の中津美芳さん宅にいき、互助会の有志に集まってもらった。撮影は断られたが、テープをとることは許された。
 会社は機会あるごとに、水俣病は軽快してより軽くなっている。年金はむしろ引き下げたいぐらいだと口にするという。
 「患者の中には体の調子をみて舟にのって魚をとりにいくもんもおる。十人くらいはおりやせんか、その人は一万円ぐらい差っ引きたいぐらいだと会社じゃ言うとります」。
 「軽症者は快癒しーちゅうふうに世間に印象づけたいんじゃないですか。働きにでれば快癒しとる証拠だちゅう訳です。そりゃあ人夫の口があれば病気ばかくして出っとです。でもすぐクビです。なんせ高いとこにやのぼりきらん、物は担げん、指先のかなわん。すぐ見破られるとです」。
 「こうして話のでくるもの、ロのかなうものはもう快癒したとみられる。ですけん映画にでて物ば喋れば”全快全快”でしょうもんな」。
 市役所は新年度の予算獲得に理解を得たいし、とはっきりいう。しかし水俣市当局はもともと「寝た子を起すな」と報道には非協力であったようだ。水俣の町の雰囲気も、やはり同じであった。夜、屋台でこころみに水俣病のことを口にすると、ざらつと座のしらけるのが分る。だいたい患者をその眼で見たという人が少なかった。タクシー運転手さんが「わしらいっちょも見んもんね。たった一回、市立病院の前のカキ氷屋で、さじで口にはこぶとに苦労しとった人がおって、あれは水俣病の患者らしかと思ったですがなあ」といった一例を聞けただけだ。
 「どこからこの町と人びとを撮ればいいのか」と途方にくれた。カメラマンの原田君は日ごとに憂うつの度を深めていった。それにひきかえ西北ユミさんは明るい健やかさを失わないでいた。願っていた入院中の子どもと遊ぶ時間をもてたからだ。
 病院取材のゆるされた日、鉄筋建ての市立病院は外来患者でごったがえしていた。廊下をつたっていくつもの病棟をつききり、その最も奥、霊安室と伝染病隔離病棟ととなりあった一画に、その二階建ての水俣病特別病棟があった。鍵こそないが、病院訪問者は間違っても足をふみこむことのない死と伝染病のためのスペースである。「ああ、これでは患者を目撃した人はいないはずだ」と思った。まず桑原史成氏の写真に「生きている人形」とかかれていた松永久美子さんを見舞った。医学用語で植物的生存といわれる重篤な病み方のまま横たわる彼女は、扉からの冷気に反応したのかふっとかすかにうごいた。私もカメラマンも思わず後ずさりした。
 二人は廊下にとびだしたままうめいた。往還のにぎわいがかすかに聞える。百歩ほど先の病院待合室には人びとが群れている。そしてここに、惨苦を一身にひきうけた少女がいるー。
 原田カメラマンは「とてもカメラをむけられないよ。しかしカメラなしではもっとだめかも・・・」という。「ではそとの病院前の通りからこの人のベッドまで、カメラをまわしながら歩きつづけて撮ってみよう」。それ以外のカメラワークは思いつかなかった。
 外光下と暗い院内、わたり廊下と特別病棟と一カットで撮るのはむずかしい。しかも撮影助手なしで絞りとフォーカスをおくるのは容易ではない。だがどうしても撮りたかった。二分に近い手持ち移動で、病室の彼女のアップまで撮るーこれが病院での最初のカットとなった。そとの娑婆世界から歩きだして、はじめてこの幽閉の門をくぐることができたのである。
 西北ユミさんはカメラを気にせず、会いたい人と会い話をしていた。そんなシーンなら撮れると思った。たまたま、彼女は気さくな坂本たかえさんと病室で話しこんでいた。十七歳で発病し、ロも不自由で、指がかなわずボタンがけも苦労する人だった。撮ると分ると、ふたりとも、しゃがみこんでベッドのかげにかくれた。髪の毛だけが動く。だが話はつづく。
 「あんなあ、店じゃ、おるの手からは銭もうけとらんかったっばい。『そけえおき!』ちってな、その銭ば洗うてから使ったち、奇病、奇病ちゅうでなあ」。このシーンは一つまみの髪の毛だけの語りとなった。
 幼児病棟はまったくちがった。当時、七~八歳になっていた胎児性水俣病患児たちは人の訪れに飢えていたのか、まつわりついて離れなかった。どの子も成長がはばまれ、四、五歳ぐらいの発育である。私のむすめと同じ年齢だけに比べることが出来る。幼児っぽさを助長するような、よちよち歩き、よだれ、たどたどしい発言、それはすべて胎児性水俣病の主徴である。介護の看護婦たちも幼児ことばをつかっている。その日常がこちらの気分を狂わせる。
 子どもたちは手をのばし乍らカメラに寄ってくる。カメラをむける訪問者に慣れ親しんでいる。考えてみれば、ここまで訪ねてきた人の多くは、肉親をのぞけば、医学用に映画カメラをむける研究者やジャーナリスト、カメラマンたちであったにちがいない。取材者ー私たちのような種類の人間がこの子たちにとっての見舞い客であり遊び相手ではなかったか、西北さんら学生を除けば・・・である。
 病院を辞して、街にでる。あらためてそこに日常あるがまま稼動している工場を見る。百間港には漁船がもやい、まっ黒のヘドロはそのままで変哲もない。たかが一、二時間の撮影に精気をつかいはたし、無感動に近くぼけた神経に、その風景は心に何も訴えかけてはこない。息づまる病院とちがってそこを一歩でただけで、煙と臭気ただよう工場風景すら生理的解放感を与えてくれる。怒りはさらにおきてこないのだ。
 絶対に治癒することのない新生毒物による中毒である。水俣病は人類のいまだ知ることのなかった疾病である。そして胎内の生命すら冒した、なのに怒れないほどのいまの深い疲労感と無力感、そしてこの意気地なさはなぜだろうか。私は泣きたかった。

 病院はやはり別世界であった。撮影はできた。だがもっと重症の患児が多発部落にいる。それを撮りたいのだが、そこは市内から望見する入江や岬のかげである。いまは国道三号線が一気に鹿児島に通じているが、当時は工事中で旧道からの細道を歩いて入る以外途はない。バスは市街地のはずれ百間港フェリーのり場のところまでしか通じていず、まさに多発地帯は市街とへだてられ悲劇をそのまま封じこめられる地形にあった。
 当時、一市民でもここに足をむけたであろうか、おそらく、石牟礼道子、赤崎(当時市役所吏員)の両氏、東京からの研究者ぐらいであったろう。
 そんな部落にひっそりすむ在宅治療の患者をみまうのが、市立病院のケースワーカーの仕事である。はじめての多発地帯取材に際して、ただひとりのケースワーカー光永輝夫氏が西北ユミさんを患者たちに紹介する機会をまって同行した。
 湯堂である。屋根の切妻に網元の屋号を印し、往時の盛んな漁業を思わせる村だった。家々に果樹や植込みがみえる。その屋並のむこうに袋湾があった。その景観に心うばわれているうちに私にとって忘れられない「事件」がおきた。そのいちぶしじゅうをかつて書いたものから引用させていただきたい。

 ーワイド・レンズで部落の全景をとっていると、一軒の庭先で主婦たちがさわぎ出した。私はそこにいた患児に気づかなかったのだが、人々は無断でとったとして激しく私たちを責めたてた。私は弁解の言葉もなくそれをきいた。その後から、完全に私は思考力もことばもまともでなくなってしまった。つまり壊れたのである。「水俣病をとる資格はない」という直感から、「映画をとる力はない。もうやめよ」という自分の声がとめどないのである。どこにカメラをむけることも出来ず、舟つき場の石垣の上に立ちつくした。もし、宿に帰っても、この金縛りの気持ちはとけない。もし、東京に逃げ帰っても、いま私を襲っているもの、行動と意志の大事な根っ子を打ちくだかれている以上、もう映画は二度ととれぬポンコツとなるしかないと思った。身うごきすることも、カメラマンとまともな話も出来ず、眼をあげて部落を仰ぎ眺めることも出来ず、ただおどおどと震えていた。この二、三時間。
 そのうちに伏し眼がちに見る海の底にすきとおって、しじまに光る、茶わんのかけらがあった。青いごすの、きれいな陶片である。「これに焦点が合うかな?」と言い出したことがきっかけになって、二人で海底のセトモノを黙々とあれこれ時間を費やして何カットも撮りつづけた。・・・
 (『逆境のなかの記録』未来社、九三頁)

 この文に書いていないことがある。西北ユミさんのことだ。彼女に与えた衝撃はまた大きかった。映画にでながら初対面の患者に会うという理不尽を犯した、少なくともその迂闊さを悔んだにちがいない。しかし私たちへの責めことばとはならず、この新しい仕事を選択したことへの迷いとなったようだ。「いちど熊本に帰って、いろいろ考えてみたい」という。帰ればもう二度ともどってこないかも知れないという迷いが彼女にもあった。私には撮りつづけることしか先の展望はなかった。そうすることで西北さんの苦しみにつれそおうとするほかなかった。だまりこくって歩く彼女のあとを追って、ただその風姿だけをカメラに撮りつづつけた。もう映画の仕上りはどとうでもよかった。
 この時点以後をどう描いたか、TV映画『水俣の子は生きている』の完成台本を引用させていただきたい。ナレーションは彼女の一人称形式をとっているが、私のかいた文章である。

 6 戸別訪問する西北さん

 〇漁村のロング 家々がかたまっている。
 ナレーション(N)「魚をとれなくなった漁村、水俣病の巣となった漁村ー。」
 〇その坂道を下る彼女。
 N 「実習六日目、心のどこかで憶病になりはじめた自分を感じながらー」
 〇湯堂で目なたぼっこする爺さん(坂木しのぶさんの祖父)。話しかけようとしてもぎこちなくなる西北ユミ。
 〇爺さんの無言につきあって、ただうなだれている長い時間のなかの西北ユミ。
 〇別の街、坂道を上り、小路を通っていく。
 N 「この時期、私を歩かせつづけたのは意地だけでした。」
 〇半永一光(胎児性患児当時九歳)の家の敷居、その上りばなに祖父が出て応待している。父親は奥で手しごとをしており、祖母は鍋で物を煮ている。半永君が爺さんのそばに寄る。
 N 「この家にはまだ一度もきたことがなかったのです。これまで診療すらろくにうけていない在宅の重症児でした。漁もなく一家のひとは家にとじこもっていました。」
 〇祖父、くどくどと語り出す。「(テープ要旨)この子の父親も漁師だ。だがぶらぶら病いのようになって働けん、わしももうとしとって漁に出るわけにいかん。家中のくらしは、この孫にくる金にかかっとる。生活保護ばもらっておるが、会社から出た金はさし引くという。わしやむすこの体さえよければ、なんの人に頭ば下ぐることのあるか・・・(涙をしきりにふく)。」
 〇ガラスのとれたパチンコ台に数個の玉を入れて遊ぶ半永君、不自由な指でかたむけた台ではじいている。珍しいのかカメラのレンズをのぞく。すんだ瞳の片方だけのクローズアップになる。
 〇大鍋が煮えている。食事どきが近い。祖母は一人に一つの碗をならべている。爺さんのかきくどくことばを聞いている父親、その一間のなかの家族四人。
 N 「家中にしみついた水俣病のかげ、かりにこの児が病院に入ったとしても、家族もまた水俣病とおなじようなもの・・・会社から出る見舞金と生活保護を加えても、月一万一千円の生活、病院に入れればさらにもの入りになるという。」
 〇にらむような患児の眼のアップ。
 N「慢性栄養失調の一家、いったいこの子の悲惨とどれほどの差があるといえるでしょう。貧乏が原因で病院にすら入れない子ども。一人のケースワーカーとして、私はどこまで背負っていけるでしょうか。」
 〇黙々と坂を下る西北さん。そのゆく手に工場が見える。
 〇学生時代の患児と遊んだひと夏の記念スナップ1・2・3。
 N 「私が学生時代にしたかったことは、ひとの役に立つということ。」
 〇学校の発表会で水俣をアッピールしたときの壇上の西北さんのスナップ4・5。
 N 「私がうったえたかったこと、それは社会の責任ということ。」
 〇水俣の中心街の商店をのぞき、次の店、次の店と足をはこぶ西北さん。
 (ノンフィクション劇場台本より)
 
 すべてはうまくいかなかった。歩きつづけ、カメラをまわしつづけたが、気持の動揺は大きくなるばかりだ。水俣に吸いよせられる自分と水俣から逃れ去りたい自分との間をゆれていた。それを一気に水俣にひきつけたのは、八六年一月に亡くなった元患者互助会会長の渡辺栄蔵老人だった。のちに水俣病訴訟原告団の団長として、提訴の日「今日ただいまから私どもは国家権力に立ち向かいます」と決意をのベた人である。当時、長男といっしょにアジ刺し網で生計をたてていた。
 あとで知ったのだが、もともとは宇土半島のつけ根、松橋の生まれで、熊本市の朝鮮飴屋での小僧奉公のあと、祭礼、運動会などに、夏はぶっかき氷、春秋は太鼓焼の引き店をあきないし、のちに水俣に住みついたばかりに一家全滅に近い水俣病家族となった。
 渡辺老人との出遭いは漁帰りの夕方の浜であった。夕餉のアジをみせ、「こんさしみはうまかよ」と家に誘った。私たちははじめて心を結べることの出来る人と出遭えた気がした。以下、映画を辿らせて
いただきたい。

 〇波止場から網干場を通って帰途につく老人と孫たち、栄一君(十二歳)、政秋君(六歳)。
 〇細い漁師みちをのぼるみんなの足もと、バケツに数匹のアジが入っている。老人と西北さんの対話。
 「あんたは前にきたでしょう。顔におぼえのあっとです。」
 「ええ熊本短大の実習で、去年の夏・・・。」
 〇玄関前の洗い場ではらわたを出され、切られ洗われるアジの切り身。のぞきこむ孫たち。女の児、松代さん(当時一四歳)もいる。
 N 「この一家、三人の孫が水俣病に冒されました。けれども、すこしも暗さのないのにおどろくのでした。」
 〇こたつを中心に渡辺老人とむかい合う西北さん。話にきき入っている。
 N 「私はこの老人から何かを得たい気持で一杯でした。」
 さしみを盛った皿をすすめながら語る渡辺さん。
 「(テープ要旨)奇病は伝染病ちゅうことになっとりましたばってん、魚はうれんでしょう。一年間、米のひとつぶも喰えんときのありました。から芋ばっかりでな。・・・この孫が三人が三人とも三十一年に病気になったですもんな。」
 「それから三年間というもの、あっちの医者どん、こっちの病院とくうものもくわんで金をつこうたです。昭和三十四年に、ようやく原因が工場じゃちゅう医学論文が出たですもんな。その発表をきいて、やっぱりちゅうとこで工場にいったとです。」
 「私は小学校をビリから七番目に出たぐらいの男ですが、四十日間、みんなを工場の前に座るときの大将にさせられましてな・・・。」
 〇工場前、通行止の柵とコンクリートの路上。
 「・・・寒さも寒しというとこでな。」
 N 「患者の家族だけがここ(工場前のコンクリート)にすわった。『工場の人にも、市民にも応援をたのまなかった。水俣で工場にたてつくのは大変なことだった』という老人。」
 〇ボール箱の固くむすんだひもをほどこうとする手がもどかしそう。
 N「この老人を指導者として孤軍奮闘した患者たちの記録は二つのボール箱の中でほこりをかぶっていました。」
 〇開けられた中から書類をさがす手もと。やがて嘆願書と筆で記された文書をとり出し、説明する老人。
 N「老人は『水俣病はいまでは学問的にははっきりしている。工場のひきおこした公害でありながら、会社はいまも廃水が原因であることをみとめようとはしていません。政府も、もう過ぎたこととして補償の話すら触れようとしない、ただ会社のわずかな”見舞金”豚一頭の値段で妥協しなければならなかった』といいます。それも卑屈なまでに低姿勢で会社にたのんだのでした。」
 〇西北ユミさん、嘆願書を声を出してよむ。その巻紙に楷書の字がきっちりと書かれている。
(注 坐り込み以前に書かれ、ついに呈出されなかったもの)
 N 「(朗読)”先般七月二十二日(注、昭和三四年)熊大における奇病の原因の最終的な発表によれば、貴社より流出する廃水中に含まれる水銀がその原因であることを明らかにしようとした事は御承知のことと思います。熊大がその専門的立場において究明した原因を私達も(ニ字不明)確信する所であります。又、一般巷間に於ても信じられているといっても過言ではないと信じます。(数行不明)
 私達奇病互助会は過去数年の間、筆舌に尽し得ぬ悲惨と辛酸を嘗めて来ました。親を子を兄弟を、そして親愛する隣人をも罹病させ死亡させて来ました。奇病特有の狂死、餓死、或いは悶死、老いも若きも、いたいけない幼児の苦しみを涙にあけ涙に暮れる某月某日を、一縷の望みを唯人間の(数字不明)に於て看護して参りました。(以下十数行不明)
 ・・・・右嘆願いたします
 昭和三十四年九月十七日
 水俣病奇病互助会
 渡辺栄蔵」
 〇老人のまわりをかこむ明るい三人の孫たち。
 渡辺さんの声「科学の発達のかげで人間が不幸になることがあってはなりませんな!」
 〇面をあげ、明るさをとりもどす西北さん、はじめて笑むその顔のクローズアップ。
 (ノンフィクション劇場台本より)

 話は一挙にとぶが、この作品の放映(一九六五年四月)後、杉並の私の自宅に下駄ばき姿で宇井純氏が訪ねてきた。すぐ一駅さきの西永福(井ノ頭線)にすんでいるという。「いま合化労連の機関紙に”水俣病” のことを書いていますが、あの嘆願書は見たことがなかった。ぜひ分るだけでもフィルムの駒から判読できないか」というたのみだった。宇井さんとの最初の出会いだった。
 この嘆願文は富田八郎(宇井純のペンネーム)『水俣病』にこう位置づけられている。

 患者が座り込みという思い切った行動をとるまでには、それだけの蓄積されたエネルギーがある。互助会会長は直接工場との交渉のために嘆願書を用意したことがあった。もっとも九月十七日という時点ではとても望みがないと思われたためか、この嘆願書は結局使われなかった。(中略)この『嘆願書』(それはたしかに美文で、被害者の思いが込められているが、農民が領主に嘆願する際のひびきを持っている)から、座り込みという直接的な行動へ飛躍したのは、何といっても不知火海漁民の乱入事件(注、一九五九年十一月二日)が大きな先例となった。すでに水俣工場は患者にとってはそれまでの神聖不可侵の御領主様ではなくなっていたのである。
 (『水俣病』水俣病を告発する会、一九一頁)

 話をもとにもどそう。渡辺老人によって西北さんはその笑顔をとりもどしたのだが、私たちが救いだされたのであった。
 ほかでもない、西北ユミさんはこのシーンでとりもどした落着きのまま、映画の最後までつきあってくれた。茂道で電気もつかない一間の家で、赤ん坊のような淵上一二枝(当時七議)さんを相手に、母親のマサさんが娘が一ことの口もかなわないのを承知のくせに、「ホラ、姉さんにあいさつばせんか、行儀のわるかよ」などと一人前のひとに語りきかせるすがたに、彼女は心から感動したようであった。『水俣の子は生きている』はここでワンサイクルを閉じられる気がした。
 ラストのナレーション
 「ある子どもは私にいいました。『ボクの足は、山の上から落ちてきた石でこわれた』と。おとながきかせたこの童話を信じている子どもに、いつか真実を話す日がくるでしょう。この子らの心まで水俣病にしたくないのです。」
 (西北ユミさんはそれ以来二十年、水俣市立病院、湯の子リハビリテーションのケースワーカーとして働いている。胎児性の子どもたちで彼女を知らない人はひとりもいない。病院の同僚と結婚して子どもももうけ、いまもあの健やかさのままである。)