水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 空白の五年間
水俣体験をかかえて帰った私をまっていたのは、『留学生チュア・スイ・リン』の自主製作だった。「水俣の子は生きている」放映後すぐにその撮影に入った。水俣のテーマは少なくともあと二番組ぐらい連作しないととても描けるものではないとテレビ局に申し込んだものの、それきりになった。仕事はめっきりへった。
水俣での思い出は辛く、かといって忘れ難くあった。当時つくっていた映画運動団体「映像芸術の会」も私には熱が入らず、もつぱら小川紳介、黒木和雄、東陽一、岩佐寿弥(演出)、鈴木達夫、田村正毅、奥村祐治、大津幸四郎(撮影)、久保田幸雄(録音)らと「青の会」という不定型のグループをつくって、自分たちのつくった作品を中心に徹底的に批評しあった。それが私にとっての映画学校であった。ここから小川は『青年の海ー四人の通信教育生たち』『現認報告書』『圧殺の森』をつくり、三里塚に入った。黒木は『あるマラソンランナーの記録』をへて、劇映画処女作『とべない沈黙』をつくり『キューバの恋人』(日本・キューバ合作)へ、東は『沖縄列島』に意欲をもやす一方、「映像芸術の会」の機関紙に新しい映画論を提起していた。変り種の岩佐は『ネジ式映画・わたしは女優?』にとりかかった。
私は一九六七(昭和三七)年四月から十一月までシベリヤを横断ロケし、翌年、八本のテレビシリーズ『シベリヤ人の世界』と、同名の総集編を劇場用に製作した。その完成まじかに次女を白血病でもがれるように失い、映画の劇場公開(東和系)はソ連のチェコ侵入事件でオクラ入りと、予想外の事が重なった。
中国の文化大革命の衝撃、ベトナム反戦運動が相つぎ、このチェコ事件もひとつの機縁となって、日本の政治状況のみならず文化状況は大きな変革の時代を迎えようとしていた。その問、二年にわたる『シベリヤ人の世界』の製作は私にとってひとつの狐立をもたらした。すべてがうまくいかない最悪の時期であった。
きびすを接して記録映画界におとずれた波は、七〇年万博の映像展示の仕事である。体制的、反体制的であるを問わず、映像作家に巨費を投じての参加への誘いがあった。私にもそれが見えがくれしないではなかったが、幸いに注文はこなかった。テレビの仕事でもPR映画でも、とかくトラブルをおこす作家との風評があったからであろう。だがこの万博の仕事はのちの作家たちにとって、ひとつの分岐点となったことはたしかなようだ。映像の産業化と自立化とに分たれた。
私は黒木のもとめで『キューバの恋人』のプロデューサーをひきうけた。だが私はその任に失敗し、同人たちを深く傷つけることになった。作家が製作者をひきうけるときおちいりがちな修羅場があったのである。その渦中で書いた文章がある。まだ製作中で、上映の方途をさぐっていた時期のものだ。『キューバの恋人』の成功も失敗も、同じ世代に少なくない影響をあたえるであろうことをつねに念頭においていた。これは、私なりにみた昭和四三~四年当時の日本の映画状況についての見取図であるが、自分の先ゆきにある予感なしにはいられなかった時期の文章でもある。恥は恥として再録しておきたい。