「知らせただけで済むか」水俣の場合 『放送批評』 1973年12月号 放送批評懇談会 <1973年(昭48)>
 「知らせただけで済むか」水俣の場合 「放送批評」 1973年12月号 放送批評懇談会
 
 一九七三年三月、熊本地方裁判所で水俣病裁判の判決が出た日、多くの患者さんが水俣病闘争未だ終らず、直ちに東京・チッソ本社にむかい直接交渉を行うとこもごものベる中で、渡辺栄蔵患者互助会々長が、あいさつの冒頭、とくに”マスコミ”の支援を謝し、深々とあいさつされたことは、私にとって印象ぶかいものがあった。
 この渡辺さん一家は老妻と孫三人、そして最近、当主の息子とその妻まで認定され、自身にも水俣病の影が日に日に濃くなっている。彫りのふかい顔に銀色の蓬髪、そして一語一語味わうような語り口、そして、生活のあやを諺のようにかたる古老の人として、私にはある敬虔さなしには語り得ない人である。もう七十歳に達しようというのに、いまも寸暇を惜しんで禁止された漁にかわっての仕事、ミカン山の手入れに日を送っている。
 水俣病が部落のひだに押し殺されていた長い間、ことに四三年、厚生省の水俣病の原因はチッソの排水にありとする公式見解までの十余年、ときに患者が結束して座り込みをし、或いは陳情をしたことはあっても、目腐れ金ていどの年金を守るために、チッソに歯むかうことはおろか、市民の白眼にたえる日々がつづいた。”隠れ水俣病”という比喩の言葉が自然と浮かぶのもそういう時期だったからである。その閉塞期、昭和四十年に私は初めてTV取材者として水俣に足を運んだのである。このときに、誰もうちとけて話をしてくれる患者は居なかった。今は亡き山本亦由民(当時互助会幹部)の骨折りで数人の成人患者にお会いしたが、「もう水俣病は一区切りしたと思う。年金もやっとスライド制によって年十万からいくばくか上った。この交渉だけでも大変気をつかった。丁度、新日窒(チッソの前名称)の安定賃金ストが二年もつづいたので、その終りまで話を出さずに待っていた。・・・」こうした話をことばすくなにいいつつ、その声が小さく聞きとれぬ程で、テープをとっていたが、マイクをそれぞれの口にむけるのもおのずとはばかられるような座の雰囲気であった。「わしらはテープや写真は好かんです。一へんもああしゃべってよかったと思ったことないですもんな。テレビが出来てから、どうにもこうにも話が早くつたわるとです」。たしかに熊本日日や西日本新聞を各戸にとってはいる。しかし情報はすでにテレビにうつり、患者さんの家にもぽつぽつセットが入りはじめていた。ここにあつまった人は、あとで分ったのだが、祖父の代からチッソの隆盛にひかれて天草や長島から移りすみ、チッソをその生活件圏に入れて魚を商ってきた地つきの漁師たちであり、市民の感情や、同じ部落の漁師たちの言い分をまともに受ける”市民”のひとりでもあったのである。いくら同情を寄せるマスコミの人であっても、ここに住み、病気なるがゆえに、まして他の土地にいくことは出来ない患者さんにとって、マスコミは良くも悪くも他所の人である。ここには、一見閉ざされたような世界でありながら自足した生活がゆたかにいとなまれていた。水俣病発生までは、部落でのしきたりの中に生きる限り、天与の魚と農作物、そして塩もやけば、甘藷からの甘みもとることが出来る自給自足の桃源境であったーその生活の系をいまも生活意識の上に色濃く残している。他所もののたすけは要らないのだ。
 人びとにはまださしで話すという”美風”が漁師気質とからんであった。「わしはチッソのえらか人にたいしても、もの言うときはさしで言うのだ」と山本さんは言う。それは暗に、かりそめにもTVの人びとに触れまわり、”代弁”をしてもらうという道すじは、合わん話だと言っているのである。
 この時、長時間にわたって話を聞いたがつまるところ、患者さんの内奥の戸を聞くことは出来なかった。つづめていえば、「そっとしておいてもらった方がいまはいい・・・」ということを交々の言い方でこちらが察知できるまでに、かんでふくめるようにのべたことになる。人びとは水俣病患者であるよりも、部落に根ざす生活民として私に対応した・・・しかも数人の座談のやりとりが、その点では間然とするところのない結束を見せていた。

 患者さんのスポークスマン

 私が渡辺栄蔵さんのことを語る前に縷々のべたのは、その人びとの間にあって、彼だけがちがっていたー彼のマスコミに対する態度がいかに質的にちがっていたかを理解してもらいたいからである。彼ら一家は部落ではめずらしく行商人で漁村に定着したいわゆる”俄か漁師”であった。若い頃の渡辺さんは祭りの夜店に夏は氷水を春秋は鯛焼きをうって流れあるいたという。在所は熊本市に近い松橋ということであった。事情あってか、水俣の漁村に住み、中年すぎて船をこつらえ漁家の生活に入った。そして一家全員が水俣病になった。
 寄り合いの話で意志阻喪のどんぞこにあった私は、彼の所在を地元のA新聞の支局の人にきいて知った。「行商人だった人だから、話が面白かですよ」といいそえられた。私は漁帰りの老人と湯堂の浜辺で会った。
 彼の性格はいままでの患者とまったく違っていた。いぶし銀のような瞳で一瞬みすえてからは、私を誘うような陽性なテレパシーを彼の方から放つのである。「まあ、家においでなっせ」といって家に招じ入れた。その家には寝たきりの老妻と三人の孫(全員患者)がいる。門戸をひらかれたのは、水俣にいって初めてのことであった。老人は決して能弁ではないが、比喩にみち話が具体的で、まろやかで、私はただ聞く一方ですんだ。昭和三四年の一カ月にわたるすわりこみの話、当時の海の汚れの話、「いまでもですな、昼間の海をみたっちゃ分らんですよ。昼間は人の眼が多かけん、汚れたものは出さんようにしてる風ですもんな。あんたがた気がつきなさらんか、あの煙突のけむりも夜になるとひどかです。わしら夜釣りにいくでしょうが、夜の九時十時からあけ方にかけて、くさい汐になるとです。これは水俣病の始まった頃からですたい。あん時分はそりゃもっとひどか、夜が、夜の海が・・・七色の廃液が百間港(排水口)から出よりました。まっ赤なのや、青い膜はったベロベロのものもぷかぷかと帯のようになあ」。奇病といわれ、原因不明といわれようと、漁師の眼には工場の排水が原因だとまぎれもなく分っていたという話をあげすけに、事こまかに描写するのである。同じ部落の人でこんなにちがうものかと当時は思うだけだった。五年後、ふたたび映画を撮りに訪れ、ひまさえあればある懐かしさを抱いて老人の家に足をはこぶのだが、いつもその語り口に魅せられて帰るのである。「わしは若い頃、あっちこっちの土地を歩いたでな、世間ばちっとは知っとります」と云う。「香師だ」と思った。悪い意味ではない。商売ものを背負って、村や部落をまわり、自分の見聞した他所の土地のこと、他所の人の事を語って、人びとの興をひいた香師の血が私をも誘っていると思った。そこが部落のうちがわだけで生活していた他の患者家庭と個人史がちがうのである。そして、この人の独自の資質ゆえに、多くの外来のジャーナリストや研究者をひきつけ、患者さんのスポークスマンとして、あの暗うつで沈黙にみちた時期を、彼ひとり語りつづけて倦むことがなかったのであろう。いまにして思いあたるのはそのことである。徳川時代、百姓一揆の指導者が行商者に身をかえ、十年間、村々の戸口をまわり、強靭な盟をつくり上げたとか、あるいはすぐれた一揆には農民だけでなく、浪人や、そしてしばしば香師や薬売りの経験者が組織活動の要を果したという故事を生き生きと思い出させる。
 老人は故に、というか従ってというか、部落の人びと、患者さんたちといつも呼吸が合っているという風ではなかった。流れもん、俄か漁師としての差別の眼も決してなかったわけではなかろう。しかしこの家を襲った運命の苛酷さは水俣病多発地帯の中でもで一・二に位置している。一家全滅の家系である。(老人自身も今年水俣病の印を担った)その一家の長は、自ら流れもんのもつある自在さを利して、ひとり自分の立場を部落からすこし引き剥し、眼を他所の土地、他所の人びとに放ったのだと思う。私ごときTVの人間に、あの昭和四十年の時期にも、一見、心を許すがごとき開かれた応接のしかたをされたのもうなづける。そして、ジャーナリストたちにとっても、渡辺栄蔵さんはいつも変らぬスポークマンであり得た。だから彼は判決という一つの幕切れに当ってマスコミへの謝意を忘れなかった。これは当時の水俣病患者の中で異例ともいえる。むしろ、貝のごとくロをとざし、新聞やTVを受けつけなかったのが常態であった。それゆえに老人の孤高を思うし、苦い思いに耐えつづけた年輸を思うのである。

 一群のジャーナリストの存在

 昭和四三年末、厚生省の見解が出て、患者さんの補償、つまり見舞金ではなく生涯をかけての生活・医療の補償問題が現実化し、一方で補償処理委員会に一任するグループと、他方訴訟によって国の裁定を訊そうとするいわゆる訴訟派が結成されてから、新聞取材はにわかに活発になった。昭和三四年当時の現役記者はデスクになり、世代は変ったであろう。改めてこの時間、水俣に足をはこんだのは若いジャーナリスト諸氏であり、とくに地元の熊本日日新聞はじめ各社の熊本支局、NHK、熊日放送(RKK)のTVの人びとがそれを担った。だが断絶が十年近くあったのである。その間を埋めたのはジャーナリズムではなかった。研究者、文学者、そして新人写真家たち、それに少数の水俣在住の旧文学青年グループであった。その指折る程の人びとによる無名の活動が蓄積された。それらはまったくの無償の行為であり、記録者としての生活そのものとして貫かれていた。宇井純、桑原史成、石牟礼道子、赤崎覚氏らである。その仕事に附言を要しないであろう。それぞれに二年、三年以上の、あるいは石牟礼さんのように生涯かけた表現としてである。宇井純が富田八郎(トンダヤロウ)のペンネ-ムで「月刊合化」(合化労連機関誌)に連載した「資料・水俣病」は水俣病研究の古典である。こうした活動をジャーナリズムは昭和四三年の報道の再燃期に充分につかんでいたかどうか疑わしい。にもせよ、この時期に一斉に「埋められていた」水俣病の発掘が若いジャーナリストの手ではじまった。
 渡辺老人の訴訟に当つての一言は有名である。「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございますーこの提訴の日を前にして、厚生省は患者の治療費を打切ると発表しました。国が打切れば県も打切る。県が打切れば市も打切る。すれば患者は、訴訟派は孤立するだろう、こういうチエでございます。国としてはまことにマズイやり方でヘタでございます・・・国が金ガグを出すときは水俣だけの事についてお出しになりますか、国全部の公害にたいしてお出しに成りますかおたずねします」。この一句を記録したのは石牟礼道子であり、支援紙「告発」の第一号の巻頭におかれた。石牟礼道子はこうつづけた。「国全部の公害についてお出しになりますか、という発想のストレートな根源性を受けとめる為政者・企業は皆無であり、この時彼は『今日ただいまから国家権力にたちむかう』後生に入るのである・・・」。
 沈黙期に内にむけて結晶化したこの情念に、新鮮にぶちあたらざるを得なかった若い記者たちのその衝撃はどんなに深いものであったか想像できない。当時、毎日新聞支局にあって連載ルポをかいた三原浩良、熊日の久野記者らのグループワーク「水俣病は叫ぶ」の長期連載、NHKで取材にいき現場に釘づけになった松岡洋之助、宮沢信雄、半田隆、RKKの米村龍治の各氏らは、その後数年間の水俣病闘争の現場記録の中に名を留めつづけているし、その拠って立つ「告発」誌の支え手となってきた。
 このジャーナリストたちは、たまたま熊本が在任地だった場合が多い。そしてたまたま水俣病と出会ったのだ。水俣闘争の一つの顕著な特徴は、それへの徹底的根源的な支援行為を打ちかためたのが無党派無定型の思想集団であった点にある。石牟礼道子さんら水俣在住の人びとからのアピールをうけ、「義に参じた」熊本人士たちであるが、その中枢には、水俣病と出会ったそのみえざる紐帯から自らを放ち得ない、むしろ、更にきつく自らをしばるものとして支援者の思想をうちかためた一群のジャーナリストの存在を忘れることが出来ない。しかもその人びとの仕事の足跡は、その属する新聞社、放送局の仕事の上にのこされたのではなく、主に運動そのものの中に重量感をもって残されているのである。すぐれたアジテーターであり、修羅場につよい喧嘩男松岡洋之助はNHKでは番組製作者で、フィルム構成者でもある。私につよくのこっているのは、彼が私は局の仕事として水俣病の番組や取材は一切しない、手を染めないということを決めて運動に入ったということばである。最も水俣病に通暁し、水俣病患者の心を深く読みとることの出来る彼が、局の仕事としては、水俣病を題材とすることを自ら封じ、その憤怒をすべて運動の火中に投じることに限ったことに見事な一つの思想をみないわけにはいかない。それについて、多くの干渉も誘いもあったことと思う。又患者さんの側にしても、彼から取材されることは本懐であろうとすら思われるが、彼はそうしないことの一貫性をもって自らを持しつづけた。この作風は殆んど熊本のジャーナリスト出身の支援者諸氏に共通している。地方局のアナウンサーとして、ニュースに天気予報に温顔と女性殺しの声でなじまれている宮沢信雄アナは、水俣現地では未認定患者発掘の活動家・研究者としてすぐれた作業をつづけている。患者の”発生・認定”を極度におそれるチッソにとって、氏は最も頑健な敵であり、論理家として恐怖の対象となっている。また、全国に一万有余部づつ毎月配布された支援誌「告発」は、日本の運動誌の中でその質として高い評価が与えられているが、その紙面構成の卓抜さ、親しみやすさ、そしてふくいくとした見出しや、厳正な校正において、かつて比肩するものがないといわれる。それは至極当然である。熊日のベテラン記者が腕をふるっての紙面構成による。熊本に日本を刺す一つの純粋な思想の核を作りだした「告発」の中に、こうしたジャーナリストの血と涙と汗があるのである。これは東京の地からのこのこと出かけた私たちをかたく水俣に固定した陰の”委員会”でもあったのである。そしてこの一群のジャーナリストのかもしだす作風が、ひいては水俣病を取材するあらゆるメディアの表現者のモラルに一つの水準点をおいたことにもなっている。渡辺さんが”マスコミ”の人びとというとき、マスコミの座にいながら、実はミニコミに終始したこの一群の人びとをも指していると思わずにはいられないのである。
 私たちは映画『水俣ー患者さんとその世界』や『水俣一揆』などを作る中で、こうしたジャーナリストと共に語りあって映画づくりが出来たことを幸運といわねばならない。しかし最後に、私にとって苦渋にみちた一つのエピソードを語っておきたい。「知らせることだけで済むか・・・」という私にとっての根本命題をつきつけられた問題だからである。

 H女の告白

 裁判は終った。チッソに責任と慰謝料を求める判決であり、チッソは上訴権を放棄した。私たちの予見どうりであり、私たちの神経ではごく当り前であったが、患者さんにとっては初めて加害者が公的に確定されたエポックとして大事な宣告であり、それは力でもあった。同時に千数百万円の慰謝料は文字通り”制裁金”であり、いやしうべきもない怨みへの慰謝であって、この際打ち切られる市の医療保護の代りに、チッソに一切の療養費と死ぬまでの最低生活補償を求めて、直接交渉を東京にその場所をえらんでかけのぼった。この経緯と壮絶な人間のやりとりを記録したのが近作『水俣一揆』である。この中で患者さんは理屈をのべることはなかった。患者さんの一応のすじみちをたてての道理もチッソの「金の用意のない約束は出来ない」という彼らの論理にはばまれると、きまって申し合わせたように自分の苦痛、自分の口惜しさ悲しさ、自分の失ったものについてふいの話となるのである。生活民である患者の原点は、心を打ちわって話せば相手の心に必ず通じるであろう、その通じたさまをもって怨みを晴らそうとでもいうような切迫があった。それはないものねだりではなく、心の問題としては必ず呼応するものがあるはずだという祈念のようなものさえあった。私はその時、時に撮ってはならぬものをあえて撮るような動揺を感じた。たとえば坂本しのぶ(胎児性患者)が一生一度、声にならぬ声で社長に物を申すとき、一瞬カメラを廻すこともかなわぬ金縛りの力が働くのである。宗教心のピークのような静謐さが迫る。その時私はカメラをまわさぬカメラマンを深く愛したのである。このようなことが水俣ではあった。死期を撮ってくれといわれ、一人の老いた未認定患者の枕頭に立たされたこともある。後日の審査に当り一つの証拠のフィルムとしたいという家族の懇望によったが、やはり撮ることはしなかった。
 患者さんも今度は最後のただ一回の直接(さしの)交渉と自覚しており、報道者の囲いは好まなかった。度々患者さんから後方にいってくれ、私たちと社長との間に立ち入らないで欲しいといわれた。そしてさしになって初めて、「私の言い分」を告げるのである。その中で、私は、H女の告白をきいた。「私は嫁にいく話のさ中に両親を水俣病でうばわれ、弟を重い片端にされた。私もおなごです。立派な男をとのぞみました。誰しも夫婦にならぬ人間はない。しかし四二になり、私もついに水俣病の判をから担いました。私は金など欲しくはない。社長さん、私の一生をみて下さい。二号でも三号でもして下さい。私は年をとっておりますが・・・処女でございます」。この最後のくだりは私たちは震えながら撮った。H女とのつき合いは私たちにとって長く深かった。そしてこのことばが、生まれて初めて口にした女の魂そのものであっただけに、私は彼女に衝たれてことばもなかった。カメラを廻しながら、とめられなくて撮ったのである。これは映画の中のひとつのシーンとなった。
 後日、私たちはフィルムをもって水俣の部落部落で上映することになった。だが、私たちはこのシーンだけは外して水俣では上映することに決めた。理由はただひとつだった。彼女が好まないと分ったからである。「わしは弟やまだ小さいしのぶやみかずのために身をなげだした。わしのためではない。この部落ではそのことを分らず嗤いものにするものがいっぱいおる。東京の大阪ので上映するとならよか。分ろらうとする人たちばかりじゃで・・・だがここはちがう。だからこそ苦しみ抜いてきた。この部落でだけは私はイヤじゃ」。私はあおざめながらその彼女の苦しみを思い、この部落をおかした病巣の深さを改めてつきつけられた。一日考えて、そのシーンに自分たちで鋏を入れた。全スタッフが黙々とカットの作業をし、ひとりひとり心を苦しめていた。「知らせただけで済むか」と思いかえす。映画を撮ることで生まれた暗黒の世界を勝算も展望もなく、また入り進まねばならぬことをかみしめることとなったのである。