水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 上映・ストックホルム <1988年(昭63)>
 水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 上映・ストックホルム

 一九七一(昭和四六)年三月十二日、東京読売ホールでの三日間にわたる『水俣ー患者さんとその世界』の特別有料試写会は七千人の動員を見、成功といわれた。患者さんのための「苦海浄土募金」も三十万円に達した。「告発」グループの組織的取組みは九州から始まり、関西には市山隆次民による近畿地区上映事務局が設けられ、各都市、地区での上映委員会の組織づくりがおこなわれた。
 水俣の老女に患者をみたて、私たち男をいざなってうまれた映画という石牟礼道子さんの推薦文を紹介したい。

 にっぽんこいしやこいしや、あらにんげんこいしやと、宛名も定めなきじゃがたら文を流しつづけていたら、とある朝、不知火の潮にのって返し文が漂着した。
 白毛の老女となってもまだ、渚を彷徨っているので、命の尽きぬうちに、祖の国から男達がやってくるというのだった。幻の海を渡ってきた男達が、ばばさまよ、と私にいうには、お前様が恋い慕っているにっぽんの国は、むかしむかしに海の中に溶けさった年いかぬお前様方を流民舟に仕立てて水俣じゃがたら島に封じ込めたむくいでありましょう。でありますから、お前様のおっしゃる祖の園、恋しいにんげんのおるところは、いまや、ここの水俣だけとなりました。私達の列島の内部で、不知火の潮とはどのような芳香を放っていたか、生き返らせてみせましょう。という映画です。

 三月下旬、水俣での上映が全国にさきがけてもたれた。まだ二階に桟敷席の残る映画館に開場前から患者さんが集まった。訴訟派患者家庭をはじめお世話になったところには招待状をだしたが、女網元の杉本栄子さんはそれを人に渡し自分は入場料をはらって入っていた。ひさびさの祭りのようであった。桟敷席でタベの弁当を開き、そこここに焼酎のにおいがした。のベ千人近い人が集まったであろう。
 映画が始まると、スクリーンは学芸会の舞台に変った。顔見知った人が映しだされるだけで、客席の当人に冷やかしがなげかけられたり讃辞が捧げられたりするのだ。「これはこれは、映画のなかみが分ってくれるだろうか」と案じている間もなく、場内に水をうったような静かな息をつめた時間がきた。もらい泣きする人、当の本人も「あれ、こげんしたこと言うたっや」といった、改めて見る思いがあったようだ。時に爆笑が起ったりする。メジロ爺さんのメジロ自慢のシーンなどがそうだ。
 水俣から離れて見知ることのなかった津奈木の諌山孝子さんや女島の小崎達純君、緒方ひとみさん(ともに胎児性患者)の存在にはとりわけ反応がつよかった。もつばら川本輝夫さんの患者発掘の仕事を追ってのシーンであったが、水俣のことだけしか知らない患者にとっては、不知火海の十キロ、二十キロ先の被害者の所在は、まさにふいに隣の家の子を見たようだつた。
 日頃寡黙で、生活を支えるのに精一杯で、患者の集りにも顔を見せる暇もない淵上才蔵さんが三歳で死んだ洋子さんの位碑の前でノートに克明に記した手記をよむシーンはは「才蔵どんもこげん書かれておったとなあ」と渡辺栄蔵さんは感心していた。
 最も喝采を拍したのはタコとり名人の尾上時義さんであり、その亡妻へのなげきまでが、深刻にうけとられず、タコ入道の講釈語りのように受けとめられ、ついでタコとりのシーンに至るや、一挙手一投足にどよめきと歓声があがった。尾上さんの席のまわりは磁石にそう鉄粉のように彼を中心にゆれていた。
 ラストの一株主が参加した株主総会のシーンは、日頃みることもかなわぬチッソ社長江上豊、副社長島田賢一、入江寛二、久我正重役ら首脳が総会屋や右翼に守られ、患者さんの御詠歌を詠ずる心のかけらも扱まぬ態度に眼をみはり、その一ぶしじゅうをじっと見つめていた。何の喚声もなかった。おそらくここで、またあらためて、チッソ城下町の会社と土着の民とが引き裂かれていく様子に衝撃をうけていたにちがいない。
 映画会のあとは酔いつぶれて、ひとり浜元フミヨさんの家で泊った。心からこの映画の縁の下の力もちに徹していただいた彼女に、礼を言いたかったからである。

 水俣病事件はその後も一貫して、全国の反公害の闘いの先駆となってきたが、七〇年の大阪の万国博覧会のお祭りさわぎのネガとしての犠牲者が、各地で反公害、反企業の闘いに立ちあがっていた。各地の動きが一挙に全国的なつながりをもち、それが水俣病闘争を軸に活性化してきたともいえる。
 七〇年だけでも、下北半島の六ケ所村の巨大開発反対運動、静岡県富士市のへドロ流出に対する田子ノ浦漁民闘争、富山や長崎県対馬のカドミニウム汚染によるイタイイタイ病の発掘、東京など大都市の自動車排ガス中の鉛汚染から大気汚染による光化学スモッグ問題、四日市等の亜硫酸ガスによるぜんそく患者の多発、西日本一帯のカネミ油症(PCB中毒)患者の告発、大牟田・有明海のカドミニウム汚染に対する漁民の抗議、瀬戸内海の赤潮発生等、鹿児島喜入石油基地、志布志の石油備蓄基地反対運動の激化など、まさに公害元年といえる年だった。ために政府は厚生省をはじめ通産、経企、農林、自治、運輸、建設、警察の各省庁から出向職員をあつめて、七一年七月、環境庁(初代は山中総務庁長官兼務、まもなく大石武一長官)を発足させたほどだ。
 映画はこの地鳴りのような人びとの運動に支えられて、全国各地で上映されたといえよう。
 上映のかたわら、東プロの若い人たちの手で、患者のチッソ首脳への訴願行動を撮った『勧進』(小池裕子、佐々木正明)がつくられ、また『死民の道』(一之瀬正史・掘傑)が自主製作された。後者は七一年暮にはじまったいわゆる新認定患者川本輝夫、佐藤武春ら患者十数名の東京での座り込み直接行動の記録である。(この二作品は最近ビデオセット『水俣病事件史(全)』に収められた)。
 『勧進』は一切のマスコミに知らせず、患者だけがじかに重役の門前で御詠歌をうたい、当家の息災のなからんことを祈るという勧進の祈願の記録である。相手を人間と信じ、その心をうちとけたものにするには怨みをぶつけるだけではだめだ、とする常民のやさしさがこの門づけを試みさせた。われわれには無駄も無駄、猫に小判と思わせたが、まじめに重役宅をまわった。門を閉じながらその訪れと御詠歌をきいた家人の心に、それがつきささらないはずはないという想いが、むしろこの人たちへのあわれみとして患者たちに残ったようだ。
 『死民の道』はさらに重大な行動の記録である。のちに川本裁判の公訴棄却をみた”刑事事件”にまでのぼりつめた直接行動であり、チッソ本社前に一年七カ月座りつづけ、水俣病第一次訴訟後の協定書調印の原動力となったいわゆる新認定患者の闘争である。『水俣ー患者さんとその世界』のそれぞれカメラ助手、演出助手だった一之瀬と堀は初め支援者として七一年十二月八日からの対チッソ交渉に加わっていた。年あけて、ふたりだけで撮影に入った。撮影の製作体制も、資金も機材もままならないまま、ゼンマイ巻のフィルモとカセットテープ録音機だけの貧弱な準備で撮らなければならなかった。
 同じ頃、半年先のストックホルムでの第一回国連人間環境会議に並行して開かれる人民広場の日本デーに英語版の映画が要請され、私はその作業に没頭していたため、助言と激励ができただけーというより二人の勢いにまかせて見守るだけだった。録音には久保田幸雄氏が加わって三カ月ほどで完成した。先にのベたように直接行動の最初の劇的なチッソと患者との対決は撮り遅れたものの、都心のビル街にテントをはり、日刊のビラをつくり、連日街頭カンパに立ち、うむことなく鉄格子をへだててチッソにせまりつづけた日々を記録している。
 「新認定患者は旧来からの患者と症度に軽重の差がある。だから補償金に格差があって当然だ」とするチッソに対し、一律三千万円(裁判での補償は最高一千八百万円)の要求をつきつけていた。それを「世間常識ではとてものめない数字」とし、チッソは交渉を拒否し、第三者機関中公審・水俣病補償調停委員会によるあっせんによって解決しようとしていた。たしかに裁判でかちとった補償金の上限が千八百万円であるのに対し、一律三千万円の要求は地元の訴訟派患者の中にも反発を買うむきもあった。
 一律三千万円ときめた経緯について、のちに刊行された『水俣病自主交渉川本裁判資料集』(川本裁判資料集編集委員会発行)にその間の消息が証人佐藤武春氏によってのべられている。被告(川本)弁護人鈴木一郎弁護士の質問に答えたものだ。
 
問(弁護士) そのときにチッソに対して、具体的にいくら要求をしようという話は出たんですか。
答(証人=佐藤武春) はい。補償処理委員会とか、補償処理委員会に出した補償ですね、あれとか、それから見舞金契約なんかのことを考えて、やはりああいうような補償の仕方は間違っておると、私たちは人間として働けるか働けんかそういうことで補償をすべきじゃないか、年寄りだから補償が安いとか、子どもだから安いとか若い元気な者だから高いとか、そういうことでは本当の被害者の人間の苦しみの代償としては同じであると、安い高いじゃないと、だから一律を要求しよう、というふうにみんなが話をして、そして一律三千万の要求をしようということになりました。
問 その三千万の数字はどうして出てきたんですか。
答 それはチッソが公害教育の資料とかなんかでパンフレットを出しておったと、それを見たんですけれども、それにはチッソが平均寿命で計算をしたら三千数百万円になるというようなことを書いであったわけなんです。だから、私たちは数百万円はいらんから三千万円でいいと、そういう線で大体話がみんな一致したわけなんです。
問 そのパンフレットというのは、見覚えがありますか。(昭和四六年八月付、チッソ株式会社総務部作成の「水俣病問題について、その経過と会社の考え方」と題するパンフレットを示す。)
このパンフレットの中に、そういう趣旨のことが書いであったんですね。
答 はい。

これをみると、裁判で争われている補償金の及ぼす支出をチッソ自体が計算しており、政府・業界むけのパンフレットにのべている概算よりも少なく、四捨五入した要求だったのである。
また裁判そのものへの水俣の人のこころがのべられている。

問 座り込みにはいった理由ですね、そのときになぜ裁判というようなことに踏み切らなかったんでしょうか。
答(証人=佐藤武春) まず、私たちは話し合いをしようと、直接交渉ですね、それが本当の人間のすべきことであると。裁判というようなものは、私たちいなかの部落では、裁判をする人間はろくなやつじゃなか、と言われておって、冷血漢というんですか、人の心を持たんと、そういうふうな人間に思われておったわけなんです。まず、話し合いをすることが人間であるというふうな、私たちの考えであったし、また裁判というのは自分の本当の苦しみをぶつけられるところじゃないと、本当に私たちの被害を感じとってくれるんだろうか、というそういう危惧の念もあったし、だけれども、そればかりではなかったわけなんですけれども、話がつかんときは、裁判をせんばいかんという、そういう状態になればしょうがないというふうなことは思っておりました。

 被害者と加害者とのさしの関係をこの直接交渉にもとめたのであろう。それは勧進で相手の心をひらかしめようとした患者のまっすぐな気持と相似ている。ちなみに、佐藤さんは川本さんとともに、過労のため倒れたチッソ社長島田賢一氏を、シクラメンの花と果物かごをもって目黒・友愛病院に見舞っている。そして面会は拒否されたー。
 話をもどすが、『死民の道』は寒風の中でテントに泊りながら、海の話、魚の話に興じつつ焼酎をかたむける水俣の人を記録していた。と同時に、仲介に立った大石武一氏、澤田一精熊本県知事の労にもかかわらず、固く閉じつづけるこの時期のチッソの「人間観」をとらえている。まったくの自費の製作によるものだけに、ふたりの情熱の所産として特記したい。

 一九七二(昭和四七)年六月、スウェーデンのストックホルムで初めての国連人間環境会議が世界百三十カ国から千二百人の政府代表団が参加して開かれた。これに非政府団体のための「人民広場」が併設されることになった。
 宇井純はこの広場にむけて英文パンフ「ポリューティッド・ジャパン」を準備し、映画もその人民広場で発表するため数百万円を費やして英語版をつくっていた。だが国連人間環境会議に提出した外務省ミナマタの報告書「日本における人間環境問題ーその現状と対策」には水俣病のミの字もイタイイタイ病のイの字もでてこない。「・・・産業排水中のカドミニウム、メチル水銀等の重金属が魚介類その他飲食物を通じて人体に蓄積され、人の健康被害をみるに至った事例も一部地域で生じている」で片づけているものだった。そして情報交換について「国際協力のうち、現在とくに有益かつ必要なものは、環境対策に関する情報交換・研究・技術交流であり、このためわが国は自らの研究成果を広く公開することに努力している」とのべている。果してそうかー。
 環境会議の二、三カ月前に、ニューヨ-ク・タイムス、タイム・ライフの取材の外、『ニッポン日記』のマーク・ゲイン記者、「ジャパン・ハラキリ』のプウ・グンナーソン(スウェーデン)ら十数名の海外ジャーナリストが大石環境庁長官にインタビューした。その中で「もし日本政府が水俣病を十四年間かくしつづけなかったら、水銀の恐ろしさに外国でももっと早く気づき、世界に無数の潜在患者をださずにすんだろう。これは人類に対する犯罪だ」(グンナーソン記者)とまで言わしめた。たしかにスウェーデンでも種子に殺菌剤として有機水銀を使用しており、この年の二月にはイラクでは通算三度目の殺菌剤つき種麦の直接摂取による水銀中毒事件が発生し、入院者数千人、死者千人と報じられ(朝日新聞、一九七一年三月九日)、アメリカ、ヨーロッパを含め、全世界の注目をあびつつあった。
 この国際人間環境会議に並行してもたれる非政府組織・人民フォーラム(広場)に水俣病、カネミ抽症患者のほか熊本大学の原田正純助教授、イタイイタイ病の発見者荻野昇医師、北九州のカネミ症専門医の梅田玄勝中原診療所長、薬学者綿貫礼子、志布志の活動家藤後惣兵衛氏らが参加。私も水俣病患者の浜元二徳、坂本ふじえとその二女しのぶのエスコートをかねて、映画を携え参加した。この一行に対し、環境庁長官としての大石氏はつねに一線を画した。ストックホルムでの対面も避け、政府と人民サイドとの交流を拒みつづけた。それは事情にうとい海外の公害研究者にかえって日本政府の姿勢を疑わしめるととにもなった。
 映画に話をもどそう。全四巻、三時間に近い英語版上映はもっていった私自身がへきえきするほど他の出品作品に比べて長尺物だった。日本デーでの第一回上映では、次の催物と最後がかち合って、少なからぬ退場者を見たりした。だが、予定外に五回の上映をみた。各国の代表は殆んど来ないように思われたが、中国政府の一員の来場は、あの人民服で一目に知れた。中国政府には一本進呈することになり、公開の話にまで進んだが、不意に沙汰やみとなった。仲介者のぬやまひろし氏(元日本共産党幹部)によれば「公害問題と開発問題の二者択一を迫られたのかも知れない。中国の農村でも化学工場の進出、産業廃棄物による汚染への警戒心はつよく、工場敷地の手当に頭を痛めているようだ。日本の工場はかくかくであるが、中国の場合は違うと説得するには難があるのではないか」ということだった。外国の民間のTVや映画配給への引き合いはあっても、各国政府レベルでは資本主義国も社会主義国も、ともにひとしい対応であった。