水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 HANDS JOIN ACROSS POLLUTED WATERS <1988年(昭63)>
 水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 HANDS JOIN ACROSS POLLUTED WATERS <1988年(昭63)>

 HANDS JOIN ACROSS POLLUTED WATERS

 一九七五(昭和五十)年三月下旬、宮本憲一を団長とする宇井純、原田正純ら世界環境調査(統計研究会)の「カナダにも水俣病、現地診察で判断」とするカナダ水俣病の第一報がオンタリオ州ケノラから届いた(東京新聞、一九七五年三月二一日)。それによるとオンタリオ州ドライデン市を中心とする約十の化学、製紙工場の排水に含まれる流出水銀により、オンタリオ川下流の湖の魚を準主食としているインディアンの間に水俣病に近い病状を示す患者がみつかったという(原田正純談、同紙)
 次々に続報がだされたが、インディアン居留地での発生のために、人種差別がからみ、さらに医学上の反論が政治的に打ちだされて解決のむつかしさを報じていた。その年七月のインディアンの水俣・新潟への訪問のとき、かれらに水俣病の映画を見せることが出来た。そして『医学としての水俣病』が時宜にかなった製作であったことを改めて思った。

 この年は一年に長篇四本をつくったことになる。『医学としての水俣病・三部作』は一部平均一時間半、それに『不知火海』が二時間半、連続上映で七時間に及ぶ。それでいて四本に相互関連性があるので出来れば一挙上映したかった。幸い岩波ホールが十日間、会場を提供してくれた。
 便宜上、昼の部、夜の部と分けたものの、観る側でいえば、七時間の長時間をさくことになる。入場成績には不安があった。さらに映画の中の証言者、東大医学部S教授の糾弾組織から連日、映画会粉砕のビラがまかれ、全国の上映組織予定の大学にまで送付される事態となった(戦後間もない頃、S教授が実験を目的とした脳手術をしたという理由であった)。この糾弾組織が話しあいに応ぜず、上映の差し止めだけを要求するものだっただけに精神的消耗はひどかった。だが新聞、雑誌は好意的であった。とくに「世界」誌の日高六郎の映画評は、あえて七時間をさいて見る価値があると評した。そうした支持のおかげで上映の後半から客席は満員の盛況をみた。地方から上京して見にきた人のために舞台のそでや、映写室、放送室にまで椅子を並べた。有料試写会と銘打った十日間の上映を終えると休む間もなく、『医学としての水俣病』の英語ナレーション版の製作にかかった。
 英語版のほぼ専門プロダグションといっていい「ぐんやプロ」(代表郡谷)の手で翻訳し、NHKの英語番組で知られるケン・マクドナルドにナレーションを委嘱した。
 有機水銀中毒では、実験室内で直接に気管・皮膚から摂取した事例は、一八六五年イギリスに見られ、今世紀に入ってから水俣病解明の手がかりとなった農薬工場でのそれは研究者の名をとりハンターラッセル症候群として知られてきた(一九三七年、イギリス)。
 同農薬を殺菌剤として混入した種小麦をたべての発生例はスウェーデン、イラク、パキスタン、グアテマラなどに見られ、とくにイラクの場合は三度にわたる。
 水俣病とまったく同じように環境が汚染され、その生物連鎖をへて魚介類に濃縮され、そしてヒトが倒れた例はそれまでフィンランドの湖沼沿岸にあるのみだった。カナダの場合はその集団発生の点で日本の水俣病とまったく同じケースに思われた。しかし注意信号の発せられている環境汚染はアメリカ、ベネズエラ、中国東北部ほか調査しだいでどれだけあるかつかめないほど頻発していた。日本の水俣病の資料で英訳されたものは、熊大研究班の報告書のみであり、しかも発症例を一一一名にとどめた古典的急性激症型水俣病についての学術書であった。まして映画記録で系統だったものは当然皆無であった。それだけに半ば使命感から半ば各国の需要を見込んでの英語版製作だった。日本版・英語版それぞれ五十セットを売り切れば最低の採算に達すると見込まれた。いわば楽天性に支えられての仕事であり疲れをいとわなかった。
 ある夜アメリカから私の自宅に、カナダの水銀汚染をはじめて日本に知らせた写真集「MINAMATA」のユージン・スミスの妻、アイリン・スミスから国際電話がかかった。彼女はカナダからインディアンの代表の日本訪問にむけて努力していた。電話の内容は「カナダインディアンの見聞・見学したものを映像でもち帰らせることは出来ないだろうか、おそらく、ことばの報告では意をつくせないだろう。ぜひ訪日記録を撮ってほしい」というものだった。現状、手もち資金はゼロである。しかも、来日は間近である。ただインディアン社会が非文字社会であると聞くと、アイリンの願いは至極当然かつ必要に思われた。
 そこで、日本テレビのプロデューサーで「ノンフィクション劇場」以来の知己である池松俊雄氏に番組企画として採用してもらえないかと懇請した。特別の配慮として放映後、フィルムをカナダに送るため、ネガは使わしてほしいという条件つきでである。深夜の電話にもかかわらず快諾が返ってきた。しかも第一線のドキュメンタリディレクター星野敏子さんを協力させるというものだった。
 「完成したビデオを納品していただく。国内・国外のテレビの配給権・版権は日本テレビがもつ。あと非商業的上映、運動としての公開は一切関知しない」というものだった。途は開けた。カメラマンの大津幸四郎らと以後二週間、同行ロケを組むことができた。
 企画番組は『カナダ・インディアン水俣訪問記』として放映された。そしてさらに医学的データを附けたして、英語版だけの『HANDS JOIN ACROSS POLLUTED WATERS(汚染された海〈湖〉に結ばれて)』をつくった。

 物が仕事をつくる。フィルムが旅を組み立てる。そんな気がした。
 各種の英語版をつくったことで、七五年と七六年の二年に二回、のベ百五十~六十日のカナダ、アメリカ横断フィルム・ツアーの旅にでかけることになった。
 この旅で世界のどの政府も企業保護優遇策は変らず、被害民を切り捨てていることを知った。医学者はおおむね研究者としての関心からかかわり、被害者を救済すべきか否かの決断に際して、おおむね裏切るものであることを知らされた。
 ただこの旅で得たものは大きい。水俣の水俣病をカナダをあわせ鏡として相対的にみることが出来るようになったし、インディアンの自然観に事あるごとに教えられた。水俣の過去・現在・未来をカナダインディアンの世界を透視することで何かを予知出来た。水俣の漁村も居留地もともに第四世界だったのだ。(ついでながら、『医学としての水俣病』英語版はついに一セットもうれなかった。日本語版ですら数セットにとどまっている。青林舎はとりもどし難い負債を負うこととなった。)