カナダ水俣病の問うもの カナダ横断フイルム・キャラバン 「展望」 1976年7月号 筑摩書房
水俣とケノラを結ぶもの
七五年七月、五人のカナダインディアンが水俣を体験しようと居留地での普段着のままのいでたちて酷暑の羽田空港についてからはや一年がたつ。カナダ政府の派遣ではない、アメリカ人写真家アイリーン・スミスの一年あまりの奔走の甲斐あってのことだ。彼女は夫ユージン・スミスとともに三年間水俣にすみこみ、写真集『MINAMATA』の発刊にこぎつけたばかりであったが、水銀汚染地の焦点のホワイト・ドッグ(七百人)、グラッシー・ナローズ(五百人)の代表を引率して重責を果たそうとしていた。
受け入れ側で数百万円が彼らの来日のために市民・支援者からあつめられた。借金もした。その日までに、アイリーンの個人的献身や、インディアンを日本に派遣することがどんなに現在の人種差別と水銀汚染事件の中で困難な準備を要したか、克明に日本に知らされていたからだ。水俣病患者同盟(代表浜元二徳氏)、水俣病申請者協議会(代表田上始氏)の招待と、熊本、東京の「告発」する会、および自主講座(代表宇井純氏)などが運動をになった。ここ数年来の水俣病闘争・支援運動のつちかわれた力がカナダインディアンの水俣ー新潟旅行の中で発揮されたといっていいだろう。
患者さんのうけとり方をひとことでいえば「いままで広く世界に水俣病の恐ろしさを知らせる努力のまだ至らないことによって、あなた方カナダの人びとに、またも・・・水俣病の発生をふせぐことができなかったことを心よりすまなく思います」(患者川本輝夫氏のあいさつより)。森と湖の国カナダで水俣病が起り、こともあろうに、社会的に最も抑圧されているインディアンの人びとに集中的に発生している・・・すでに猫が狂い死に、解剖結果(熊本大・病理、武内忠男氏、七五年六月)が発表され、事実問題として間違いない。何たることか、というショックにつきる。その不幸さをきりすてていえば、水俣病については二十年先輩であり、あらゆる曲折の体験者であり兄貴分である。東京から現地水俣に到着したインディアンを迎えた水俣の人びとはすでに珍客あつかいでなく、弟をかばいはげますようなまなざしばかりであった。日本のチッソにあたるドライデン製紙工場、熊本県当局にあたるオンタリオ州政府、そしてカナダ連邦政府のそれまでインディアンに処してきた真相の隠蔽、無責任な応答、怠慢の具体的な例を一つきいても、二十年の水俣の歴史の中に、瓜ふたつの教訓が出てくるのである。
インディアンの代表といっても、是非来てほしかった実力者や指導者は意識的に外されたようだ。無口で酒の気をたやさないグラッシー ・ナローズ曾長アンディ・キーウェイトンは、あとの四人の若いインディアンに介助されながらやっと努めをはたすといった感じ、また若いリーダー、ビル・フォブスター(その後グラッシー ・ナローズの曾長、七六年三月解任さる)、アントニー ・ヘンリー、ジャック・ケント(ともにホワイト・ドッグ)の各氏の温厚篤実な人柄の中で、小躯ながら、俊敏、雄弁なトム・キージッグ氏は最もラディカルで一行の中心的存在であった。だれもがインディアンのおかれている状況や生活を語るが、彼だけは、その人種差別からの解放の道程の中に、水銀汚染がジェノサイド(皆殺し)作戦の一局面として歴史的に登場したことを水俣旅行をつうじてさらに確信をもったようだ。この同じインディアン代表といっても各人各様のありようが、そのままインディアン社会の人間模様の反映のようで、かえって私たちの認識を助けたともいえる。
同行のドクター、ニューペリーはわずかの政府の嘱託手当をすべてつぎこみ、クエーカー教団の支援で、ただひとりニ居留地にかかわっている退役軍医であり、これはいまも変わらない。日本の水俣病の発生当時、熊本大学等がただちに五十人の医師団を編成し、「奇病」にとりくんだのにくらべると、老骨にむちうつニューベリー氏を正視できない感じであった。また支援者のジル・トリーさんは、元ナショナル・インディアン・プラザフッド(NIB、インディアンと白人との同化政策のための民間団体)の職員で、汚染地帯を含む第三協定地域といわれるインディアン組織の水銀問題調査員をしていた女性である(患者の訪問旅行に同行して蹴首された)。彼女はもし白人の支援者グループがカナダに出来るとしたら、その最初の人であろうと思われた。来日中も全体の世話とオルグと勉強をかねて精力的に働いた。一年たった今日も、彼女なしには白人の支援グループはその実態がないといわれる。基本的には、一年前に来日した人びとが、いま水俣体験を胸に、ほぼ個人的作業ともいえるかたちでグラッシー ・ナローズ、ホワイト・ドッグの水俣病にかかわっているようだ。他にカナダ人ジャーナリスト四名、およびキャンプ業者で、水銀汚染のためロッジを閉鎖し、いまドライデン工場を告訴しているバーニー・ラム氏たちがいた。
水俣病患者とインディアンとの急速な友情の出来かた、そのへだてのない話のやりとり、これらを観察していたカナダ人ジャーナリストは時に理解に苦しむようだつた。滞日中も、インディアンは白人ジャーナリストのいるところでは、眼くばせして本音はいわないことがしばしばあった。その白人ジャーナリストも、その疎外感を、一面分っていたようだ。あるひとりは「自分はインディアンの友人のつもりだ。若い頃、曾長のアンディとキャンプでアルバイトした仲だ。企業や政府も本当に彼らにひどい。私もそのことをとりあげたフィルムを作った。しかし彼らの間のこの数年の殺人事件をどう説明したらよいか。数十人が殺し合いで死に、二、三百人が傷を負った。深酒はのむ、そして女房をうち殺す。カナダで最も事件の多いところで”暴力の首都”といわれているほどだ」。この話をききながら、私は冷水をかけられているような印象だった。その話の中味より、それをいい添えずにはいられない”白人”の立場を感じとった。それほどねたましいまでに、インディアンは水俣の人びととのあいだに信頼関係をつくり上げたともいえる。わずか四日間のことである。多少、映画の仕事を通じて「国際連帯」なるものを見てきた私にとっても、ガラッと質のちがった、根のところでつながった結びつきを感じた。おそらく、先住民としての深い呼応が相互にあったのであろう。水俣の漁民にとってチッソは所詮「開発」によって七十年前に水俣に来た異人種である。インディアンにとっても、ドライデン工場とは土地と河を気ままに奪い、その上に汚染をほしいままにした白人世界からの侵略者である。お互いに自然と深くかかわって生きられたら、それで充分にみちたりていたのだ。その共通感覚いがいにこの地球の表裏の没交渉の人びとをむすびつけたきずなはほかにないと思われた。
水俣での最後の日も、東京出発の前日も、無口な老禽長はろれつのまわらないままオジブエ語で「私はうまれてはじめて、人間らしくあつかってもらった。王様でもこんなもてなしはなかったろうとおもう」とのベ、眼をしばたたかせていた。若いトム・キージッックが闘志をみなぎらせて、彼らの請願に機動隊がなぐりかかり、けちらし、水銀問題についても他の経済・教育問題にも何ひとつとりくまないカナダ連邦およびオンタリオ州政府を公然と非難し、「もし彼らがいまの態度をかえないなら、かつても一度は試みたことがあるように、最もラディカルな実力行使を組まねばならぬ(かれらは七四年ケノラ市のアニシナベ公園を武器をもって占拠、インディアンの権利をうったえた)。全北米のインディアンのすべての力をかりてもこの水銀による皆殺しに異議申立てしなければならぬ」とのベた。その火をふくようなスピーチと曾長の寡黙とはきわだって対比的であり、同時にインディアンの情況の盾の両面をみるようであった。
住民レベルの交流
その後一年近くたっている。カナダでの水銀問題は進行しているが、今日現在まで、カナダ政府としては、ひとりの水俣病患者、ひとりの胎児性水俣病患者の存在も認めてはいない。そしてこの間、日本からの行動がいくつかカナダの居留地、市民にむけてなされたのである。
七五年三月十七日から四日間、世界環境調査団(団長都留重人、宮本憲一、宇井純、原田正純各氏)の第一次調査および臨床テスト。
七五年六月、熊本大、武内氏のカナダ猫の病理所見と報告(トロント、ドクトル・フィッシャーあて)。そして七月、カナダインディアン五名来日。
七五年八月十一日から約十日間、世界環境調査団第二次調査(第一次のメンバーの他、飯島伸子、中西準子、赤木健利各氏)。
七五年九月十七日より約二週間、患者代表、浜元二徳、川本輝夫、浜田岩男各氏。介助同行者、森田明博、大石裕子、江西浩一各氏、写真家塩田武史そして映画班として大津幸四郎と筆者による訪問旅行。
七五年九月十七日より十二月七日まで百日間、水俣病の映画によるカナダ横断上映旅行百十回(日本より筆者、大津幸四郎、カナダにてジル・トリー、栗田尚彦、ジョージ・山田、宮松宏至各氏”以上トロント”。園田和子、三輪妙子各氏”バンクーバーより。清田昂志氏”モントリオール)。
七五年十月三一日、世界重金属会議でのアピールおよび写真展、映画会(宇井純、アイリー ン・スミス各氏)
おもなアクションだけでも右の六つがあげられる。患者さんのいうように「もし水俣病がなければ、おそらくは生涯相まみえることのなかったであろうカナダインディアンと私たち」(川本氏)との思いは私たちにも同様である。そもそもことの始まりはアイリーン・スミスの七四年五月の居留地実地踏査以後の二年間、すべて民衆レベルでの交流が基本であり特徴であった。行動の裏付けとなる経費も、そのほとんどがカンパや自費によるものであり、世界環境調査団の東京新聞後援を特例とする外は、実質として個人の事業としてかかわらざるを得なかったものである。
もちろん日本政府がうごくはずはない。一九七二年夏、ストックホルムでの環境会議の際、「何も世界に日本の恥をさらすことはない」といわんばかりの拒絶反応を政府代表は患者に示した。その水俣病に対する政治感覚はいまも変わっていない。今度の患者のカナダ訪問中、トロントの日本大使館が不快感をもっていることも在トロント日本人から聞かされた。
一方カナダ政府は日本からの科学者、医学者、患者、映画上映者にそれぞれに迷惑とも困惑ともいえる情をかくさなかった。第一次世界環境調査団の現地調査はやはり全カナダでこの問題についての注目をあつめるきっかけになった。アイリーン ・スミスによれば、「あの訪問がなかったら、五人のインディアンの日本行きは絶対になかったし、州政府のこの問題についてのスローテンポをかえさせることは出来なかった。それまでの四年間にたった二回しか開かれなかった特別委員会が、その後は月に一回位になった・・・」。
だが州の自然資源庁長官は環境調査団を”BUNCH OF TRAVELLING TROUBADOURS”(「旅まわりの芸人の一座」とでも訳すべきか)、すなわち勝手放題はやしたてる人びとと憎悪をこめて表現した。
しかし、患者のカナダ訪問の際、携行することの出来た原田正純氏の疫学・臨床報告の骨子はいたるところで発表され、人びとに衝撃を与えた。そのいわゆるハラダ・レポートは次のように述べている。「・・・グラッシー ・ナローズ、ホワイト・ドッグにおいて二回にわたる約二十日間の調査により、六歳から八四歳までのインディアン八九人に視覚、聴覚、知覚、運動覚等の臨床検査をした結果、その人びとに、水俣病特有の眼球運動異常十二例、視野障害十六例、難聴四十例、しびれ感二一例、知覚障害(手足先端部)十五例、反射運動障害二十例などの水俣病症状をみた。なかでも七人は以上のいくつかの症状をかねそなえ、あきらかに水俣病=有機水銀中毒によるものとしか説明がつかない」と。このレポート自体、カナダの世論を考慮に入れてごくおさえた報告であり、センセーショナルには伝えないように注意をはらったものである。しかしカナダ政府の応答はまったくなかった。
七五年月二九日、インディアンの抗議団がオンタリオ州の厚生省におもむいた日の朝刊に、「州政府は調査の結果、両居留地において症状のあるもの二、三十名をピック・アップした・・・」と報じた。一行は事実問題として一つのピークをこえたと思ったものだ。しかし、その日の午後会見したミラー厚生大臣は「それは血中水銀一〇ppb以上のものということで、水俣病の発症とみとめたものではない」とひとときのインディアンの政府への期待をこの一言でうちくだいた。
インディアンの日本人医師原田正純氏への信頼はきわめて篤かった。それというのも、同じ時期、カナダ政府がアメリカ・ロチェスター大学のクラークソン博士に依頼した調査も、それまでしばしばの検診の実態がそうであったように水銀レベルのテストであり、容赦なく血を採ることに居留地の人びとは恐怖すら感じていたからだ。しかもその結果をppbで示したものを通知するのみで、それのもつ健康被害の意味、水俣病の危険の予知・予防には何も触れられていなかった。トム・キージックは原田氏のレポートに対して、いちばん診てもらいたい人が観光キャンプに働きに行っており、せっかくの機会を逸することを案じ、二人の代表をたてて原田氏の検診をうけられるようにガイドを休ませてほしい、とキャンプの白人経営者にたのみにいったが断られたという。「このガイドたちが、いまいちばん魚をたベつづけているグループなのだ。御承知のようにアメリカ人観光客に料理していっしょに喰うて見せなければならないからだ」。また家にねている重病人は限られた時間の中では検査出来なかった。もし、彼らがこのレポートに含まれたら、症状の発生率はもっと高いものであったろうというのである。「地球の裏(日本)の人びとにわれわれの声はとどいたのに、すぐ近くにいる州政府にこの五年間、われわれの声がとどかぬとは」、そして「カナダの医学者が日本に行って、患者を看て本当の水俣病を学ぶまで、彼らによる、いい加減なテストはうけたくない。日本から医師を招帯してわれわれをみてもらえるようにしてほしい」とまで訴えた。もちろん政府は聞きおくだけであったが・・・。
日本からの水俣病患者の訪問には、カナダの新聞、ラジオ、テレビも大いに取材につとめたものである。患者の中での浜元二徳さんの登場はやはり強いアピールをもっていた。彼にとってはストックホルムについで二回目の外国旅行であり、いずれにしても「私のからだを見て下さい」の一語につきる、身を人目にさらすための旅でしかないのだ。とはいえ、強靭な覚悟に裏うちされた彼の立居ふるまいは、彼をよく知っているはずの私さえ身ぶるいするほど感動的であった。
あらゆる情況を判断し、インディアンの対州政府交渉への方途をこまやかに助けたのは川本輝夫さんである。いいたい助言や、伝えたい体験が通訳の間をまつのももどかしく出てくる。そうした自分自身をもてあまし、傍目にも困憊の色を日々濃くしていくのが分った。こうした患者さんのありように対するカナダのマスコミは、正当にその訴えを伝えようとしたし、それは州、連邦政府への批判のテコとなった。だが、ときに意地悪い質問もジャーナリストから出る。重症の浜元さんに対して「あなたの眼からみても、あなた程度の患者が居留地にいましたか」。これに切り返す彼のことばは見事であった。「私のようなふうになったら、もうひとりのこらずやられてるちゅうもんでしょう。そうなってはいかんと思うから、こうして不自由な体ながらやってきました」。これが質問者に伝わったろうか。ジャーナリストには、悲劇がニュースであり、重症者の出現が職業的輿奮なのである。私自身、表現者のひとりゆえに、その質問者の底意が分るのである。
ひとこと、映画上映の際の、警察や秘密機関の対応にふれておこう。やはり映画は大衆集会をともなう。そのためトロント、五大湖周辺都市、オタワ(首都)、モントリオールまでつねに尾行と監視があ
り、旅の終ったあとも、その地元の映画会の組織者へのマークと、職務質問がつづいたという(カナダ人の手紙より)。
自然とわかちがたく食生活を営む人びとへの加害
こうした日本・水俣関係の人びとのカナダインディアン居留地へのアクションによって、この五年間、市民、輿論ぬきの権力とインディアンの緊張関係は、水銀汚染に関する限り、一応カナダの市民レベルの問題になる一助となったといえよう。そして同時に水銀汚染がただオンタリオ州北西部の辺境だけでなく、北ケベック州ほか各地に出ていることも知られはじめた。それぞれ、やはりインディアンやエスキモーなど、自然とわかちがたく食生活をたてている人びとを被害者としている点で、グラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグの人たちとまったく同じ状況であった。しかも政府当局内部では五年、十年前から水銀汚染の事実は調べられており、「漁獲禁止」という措置以外何の手もうたれなかった点でも同様であった。それが七五年夏を機に一気にふき出てきた感があった。
たとえば北ケベック州のクリー族の居留地、北西辺境州の最大の都市イエローナイフ附近、ロッキー山脈の中のプリンス・ジョージ(プリティッシュ・コロンビア州)等々である。そして水銀使用の化学工場、パルプ・製紙工場、金鉱山と精錬所が二ニカ所リスト・アップされた。それもインディアン団体NIBの独自調査によってである。
患者さんのグラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグ訪問に時をあわせて、グリー族やエスキモー、北西辺境州のインディアンが現地に集まり、交流、合宿が始まった。もし水銀汚染がなければ、こうしたインディアンの相互の接触はなかったという。どちらかといえば、部族同士がセクト的に反目しあっているのが旧イギリス統治下以来の”分裂支配”の伝統である。それが土地の境界をこえて集まることが出来た。外来の訪問者の私たちにはその歴史的な意味を付度するいがいにない。そこではやはり、「わが土地、わが人民」が共通にかたられ、いつとはなしに居留地に囲いこまれたもの同士の共通の悲しみと反省と戦いのことばが患者をはさんで語られはじめるのである。
ひるがえって考える。カナダの自然は限りなく美しい。企業はなぜ、この美しい自然を平然と汚染してはばからないのであろうか。私たちは九月二二日、バス一台でケノラから問題の地ドライデンまでの百数十キロをたずねてみた。私たちがたどりついたドライデン製紙工場でみたものはいわば”堂々たる放流”ぶりであった。水俣の二十年前とまったく同じである。だが少しちがう。視覚的にもっと無神経であり、もっとイメージとして強烈なのだ。工場のコンクリートの建物の横から直接川にむけて、あたかも恐竜の甲殻質の紅門のように直径二メートルほどの土管が露出しており、褐色の泡におおわれた溜池にドボドボと湯気のたったコーヒー色の廃液が、まるで巨大な化け物の下痢か吐瀉物のように噴き出されているのだ。あの静岡・富士市と同じ、鼻の曲るような臭気ガスがすっぽり町をつつんでいる。そして排水からの赤い毒水が清らかなワビグーン川に境目もはっきりと帯状に、やがて混合しつつ、臭気をただよわせながら下流にむかっているのである。およそ人間の片々たる美意識に対し真向からあざわらうかのような”大放流”なのである。こうした風景がここドライデンにあり、これにすでになじみつくした、七千人の市民の神経は何といえばよかろうか。そしてその下流、数百キロの沿岸に、この工場を一目もみないまま生活をその川でいとなむ先住民の居留地のことはいっさい考えなかったであろう。かつて水俣で海のもつ浄化作用、自然の賦活力を逆に援用して、水銀の海での希釈作用を論文にまでしたチッソの主脳部の強弁と似て、この広大な大自然を、チッソが海をおのれのドブとみなしたように、ドライデンはこの陸と水系をごみすて場にした。何らはばかることがなかった。よくいわれるようにもし下流に白人の町があったらすこしはちがったかも知れない。しかしこの七千人の人口の大半は白人である。個々の住居は小ざつぱりしたハウジングである。しかし、そこに住む白人をこの荒涼たる風景になじませ得た工場は裸の資本主義そのもの以外のなんであろう。ましてインディアンの生死や滅亡は、いままで百年来の”弱者亡滅”の歴史法則の通りであろうと彼らは考えているにちがいない。だがドライデンももともと百年前まではインディアンの地であったはずだ。とすれば、この町は工場そのものなのだ。個人の家も、ガソリンスタンドも、白人市民も、そこの新聞社ドライデン・トリビューンも、そして小学校に至るまで、すべて「開発」によって作られた工場の附帯設備であり、カナダのいわゆる新興都市のシンボルであり、資本主義カナダの生み出した”未来”なのであろう。もともとはロンドンに本拠をもつ国際資本、アングロ・カナディアン系列のリード製紙のそのまた子会社がドライデン工場である。そのいわば一プラントである苛性ソーダ工場の廃液の水銀によって、いま二つの居留地は死においやられているのである。誰が白人をこの自然と土地の支配者と決めたのであろうか。
広大なカナダにおそらくこうした企業の作った町がいくつも出現しているに違いない。その総体とインディアンとの関係が、いまのグラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグの二つの居留地の悲劇に予兆としてあり、問題の本質としてあらわれているのではなかろうか。
せっかく一行はドライデン工場につめかけたが、出てきたのは工場内の労働組合と首脳部の仲つぎ役が職務という中間管理者であり、社長も重役も工場長もいないという。門での押問答しか出来ない。こんなやりとりの機会すら、いままでに直接にはインディアンには出来なかったことなのだ。「わが工場からは無機水銀を流出した事実はありますが、水俣病の原因となった有機水銀ではありません。もっとも私は化学者ではない」とくり返すのに対し、川本さんが「では無機水銀なら人体に無害だとでもいわれるんですか」とむくいた。
トム・キージック氏は「あなたのサラリーはいくらか」と突然きく。お茶をにごす彼に、「ユー・ゴット・マネー、ウイ・ゴット・マーキュリー」(あなたは金を手に入れ、われわれは水銀(中毒)をもらった)。
多少後日談となるが、十月三日、患者さんと私たち映画班はリード本社に映写機をもちこんだ。本来会いたくもなかったろう。
「あなた方と交渉すべきものは何ものもないが、教育的な機会であれば患者さんから教えをうけたい」ということであった。これには第一重役と弁護士、広報担当重役と女性秘書が出席した。早速映画を上映すると、彼らにとって都合のいい無機水銀の作用のシーンに来るといっせいにメモの手が走る。「水俣病の原因は有機水銀であり、それがどこから発生したか」についての原因究明期のシーンや、猿やマウスをつかった実験で、無機水銀の毒の侵入・蓄積の特性と、有機水銀のそれとの差をラジオ・オートグラフで一目瞭然に示した部分にくると、とんちんかんにも「わが意を得たり」といわんばかりに我田引水のメモをし、となりどうしで頷き合うのである。映画は三部に分れており、第一部、第二部まで見た。しかしそこで終えては、彼らは勝手に論を立てるであろう。そこで自然界における無機水銀の有機化とか、極微量の有機水銀もバクテリアから水棲昆虫、食虫性魚類と食物連鎖をへて濃縮蓄積する理論(映画第3部、神戸大、喜田村正次氏による)をとくにえらんで見せ、その策を封じることにした。彼らはメモが無駄になったことを知った。「何か質問はございませんか?」ときいても首を横にふるばかりだった。しかしこのような俗説を自らふりまくうらには、会社と密着した医学者がバックにいるのである。たとえばアメリカ、デューク大学のゴールド・ウォーター氏のように無機水銀中毒、ことに労働環境での被曝については世界的権威といわれる輝かしい業績のもち主が、その名をドライデン工場の顧問につらね、コンサルタントとして、地元紙、ドライデン・トリビューン紙上でのデマゴギー作りに奉仕しているのは日本の水俣病における清浦雷作氏らのアミン説等のカナダ版として痛ましい限りである。
ドライデン=水俣病年表
七五年の夏から秋にかけて、水俣からの熱い季節風がカナダに流れたといえる。それは水俣病の何たるかを報らせることにつきた。原田正純氏の動かしがたく実証的な医学論文すら、今日のところさし通らぬのがいまのカナダの体制側のありようである。私はときに映画会のあとにこういういい方をしたものだ。「水俣と比べたら、カナダの人はまだ不幸中の幸いなことに、学ぶものとしての前例がある。水俣にはそれがなかった。水俣のかかった二十年を、二年で学ぶことも出来るではないか」と。
だが一方、カナダで水銀汚染のことが問題になった五年前に、それが魚の摂取の禁止、生計としての漁業の禁止という形からひきおこされた生活上のパニック、生活様式の最終的危機感としてはうけとめられたものの、それが人体に回復不能の疾病をもたらし、次の世代までも冒すものという知識はきわめて不充分であった。インディアンも居留地社会の危機、インディアンの抑圧史の流れとして反撃をくり返して来た。だがそれも、カナダ中央楯状台地の奥地の話であり、政府や企業が彼らに何をしてきたか、一つの記録を編年史的につづるこころみもまだ何一つ出来ていなかった。日本人のカナダ訪問とそれにまつわる動きによって、初めて掘りおこされた事実もあり、あらためてカナダの支援者を驚かせるものがあった。インディアン側に記録がなかったとしても、その責はインディアンにはない。政府の行動のかげにどんな意図があり、どんなトリックがかくされていたとしても、こと水銀汚染については、かれらはつねに後手にしかまわれなかったからだ。
十月中旬、患者さんの旅がおわり、映画上映の旅が他の州へと出発する間に、ジル・トリーさんは全国で出会う支援者のために「ドライデン=水俣病年表」を作りあげた。インディアンの側にたって編まれたただひとつの、そして最初の年表である。一項目ごとに、そのうらに政府糾弾の声が聞えてくる。少し長くなるが水俣病の歴史と合せて読んでほしい。
五八年 グレイ湖(ドライデン工場より約四十キロ)の漁民はワビグーン川の汚染によって漁獲が減少。その補償(五千ドルといわれる)をうけとる、ドライデンの秘密厳守の口どめ料として(二五年間)。
六二年 ドライデン・ケミカル工場、ワビグーン川に毎日二十ポンド(約九キロ)の水銀をたれながしはじめる。
六六年 スウェーデン政府は工業・農業部門での水銀使用を規制する。
一方、カナダ政府代表は、スウェーデンでの公害会議に出席、その中心議題が水銀にもかかわらず、スウェーデン政府のとったような措置をとらず、圏内では議論の対象にすらしなかった。
六七年 カナダの一科学者はクロール・アルカリ工場より、水銀の損失・流出量をしらべようとするが、工場、非協力。何のデー夕、情報もえられず。
スウェーデンの科学者ら、無機水銀が、自然界のなかで有機水銀に変化し、魚に濃縮蓄積されることを国際的に報告した(すでに八年前に自明の理となっていたとする)。
六八年 一月ホワイト・ドッグ居留地のそばのクイベルにて、ワビグーン 川の魚を餌としていた数匹の飼猫が発症。後肢に共同運動失調、あるものは痙攣死、あるものは行方不明(この地帯の異常な猫をジル・トリーさん八ミリで記録。死後、トロントのドクトル・フィッシャーを経て熊本大学へ、そして前出の武内忠男氏により解剖され、”有機”水銀中毒の決め手となる=七五年六月。)
夏のシーズン、クレイ湖の魚にジーゼル油の匂い。観光キャンプの所有者は、「塩とこしようをもっとつかい、アメリカ人旅行者に気づかれないように」と各インディアン・ガイドにいいつける。
七〇年四月六日 州政府、グレイ湖をはじめ、ドライデン工場の下流一帯のすべての漁業を禁止、初めて水銀汚染を知らされるー魚の水銀値(最高値二七・八PPM)は世界最高レベル。グラッシー ・ナローズ、ホワイト・ドッグの人びとはその経済的基盤と主食源を失う。
年表を中断し、その七〇年前後のインディアンの生活についてのべたい。彼らは”水銀”以前、”水銀”以後とよくいう。彼らにとっての水銀元年である。ここでの漁はいわゆる定置網である。去年訪問した折に実見した時は長さ六~七十センチの淡水魚、ます科の魚が面白いように網にかかった。それでも前よりめっきり魚影が少なくなったという。つまり、眼の前の湖は陸で鳥獣のとれないときの安全弁であり、魚はその季節の常食であった。
一方ガイドの仕事がふえていた。一帯が秘境ブームにのって、いわばドライブ族、モーター族では訪れることの不可能な、ただ飛行機をチャーターできるような富豪たち、おもにシカゴあたりからのアメリカ人観光客相手の自然郷として開発された。インディアンはそのキャンプのガイドとして欠くことの出来ない働き手であった。迷路のようなクリーク、それにつながる大小の湖沼、彼らはそこへの案内役であり、調理の腕前と舟のエンジン修理の技術がガイドの資格とされた。魚はたベ方まで教える。したがって率先してたべなければならない。
ガイドとして白人にやとわれ、わずかな現金収入を得る途を選ぶに至ったのにはもう一つ理由があったようだ。二つの居留地はそれぞれ、その五年十年前に、ダム開発と幹線道路にひっかかり、広大な元の居留地からここに半ば強制的に土地替えされた。彼らの郷愁はいつも旧居留地にある。そこでは土層も厚く、野菜を自給できた。また、一家族のテリトリーももっとゆとりのある広さだったという。いまは氷河期の岩盤の上に薄い土の表層しかなく、たとえば電柱をたてるにも根元が浅く、三方にワイヤ・ロープでひっぱっているほどだ。夏で気温十五、六度、十月には零下三十度、極寒四十度をこえるという植物の北限に近いこのあたりでは、人為的な土地替えは数百年の生活様式をもろくもこわしていったようだ。いま水銀汚染によって、かりに代替地が政府によって餌として投げ与えられようと、根本的な問題か解決され、インディアンを人間として遇するか否かの確認がとれない以上、テコでもうごかないという意見のうらには、インディアンでなければ自然とつりあえない何かがあり、白人の思惑にしたがえばさらに生活の基盤が崩れ去ることを感じとっているからだ。
こうした変遷の上に、ガイドの仕事が新しいインディアンの職業となった。安い賃金であった。時給が法的に二ドル五十セントと決められているカナダの中で、彼らのそれははじめは時給十数セントであったという。この現金収入は酒を運ぶことにもなった。十年前旧居留地時代は犯罪やアルコール中毒などは稀だったという。
ガイドの仕事さえ、自然とのかかわりの中で生きてきたそれまでのかれらの仕事とちがうようだ。彼らはスポーツとしての狩猟は決してしなかった。むだに魚を苦しめなかった。たべるためのぎりぎりだけをとり、かつすべてを生かしてつかい、その肉をたべた。
われわれと彼らとの間で話のくいちがうのはいつも生きものをテストの材料にすることについてだ。ある白人は、猫実験をわれわれで自主的にやってはどうかと提案する。インディアンの答えは決まってノウである。猫にわざわざ苦しみを与えるのは座視できないというのだ。ワビグーン川の汚染を証拠としてつきとめるために、十キロおき、二十キロおきに生簀をつくり魚を飼って実験したらどうかと川本さんも提案した。なにせワビグーン川に魚がいなくなって、魚の水銀汚染のリンクが失われたからだ。これすら彼らは首を横にふって同意しないのである。川本さんは「小い魚で、ちいっと(すこし)でいいですがなあ・・・」というが、その声は小さくなる。
彼らの自然観を示すすぐれたカナダのドキュメンタリー・フィルム『クリー族の狩猟』は冬期の原野の狩猟の旅の記録であるが、その数シーンはいまも忘れられない。彼らは獲物の一部を必ず近くの枯木の枝に刺しておく、禽獣にも返すのである。ときに腹の大きいムースの牝ジカを倒すことがある。しかし胎児たちには決して手をつけない。そして、その口の中に、母の心臓の一きれをそれぞれにふくませる。そうした習慣が彼らの心の規範であり、自然のあるがままの生き方なのである。
さらに哀切な例をひこう。私は日本で知りあったアメリカの友人スチーブン・チェーン氏(彼は私に会いにミネアポリスから車をかつて来てくれた)とケノラの判事に会いに行ったとき、判事はこれはテープにとらないでくれといって話しはじめた。この町の暴力事件の四分の三はインディアンのひきおこしたものだとのベてから、最近の変った事例を語った。「分りますか、妻を殺した男が舟にその死骸をのせて、湖にうかべて二日も三日もただ眺めていたというのです。自分がしめ殺した妻を・・・。私は精神病だと思う。水銀は頭を狂わせるんですか」。
この出来事はそれじたい、この五年ほどの間に異常にふえた自殺、一家心中、凍死、刃傷事件のひとつであり、荒廃に追いやられた居留地の実情である。しかし気がふれて、舟に妻をのせていたのであろうか。
その後、映画会をしてくれた在カナダの人類学者、新保満氏(ワーテルロー大学のカレッジにつとめ、「カナダインディアン」という記録文書を出された)とお会いした。彼は「インディアンの問題は、彼らが、自分もまた自然の一部であり、死も自然の中に帰ることだという犯しがたい信念を理解しなかったら、何一つ解けてこない」と前おきして、次のような話をされた。
妻が死んだ。男がいつ妻を埋めるかと見守っていた。だがその男は死んだ妻をかついでとなりの家に行き、語らい、そして飲食している。その間、妻を人の輸のそばにおいたままだった。また遺体を背負って別の家に行く。そして狩りの話をしている。生きていてこそ痛く辛かったであろうが、死んで自然の中に安らいでいるのだからもう少しそうしておいてやりたいといったふうだ。そして翌朝ようやく男は妻を埋めたー「こんな死者との交情を、天国か地獄か、神に祈って賛美歌をうたうキリスト教徒には想像だに出来んですよ、絶対に」。
この話をきいて、私は舟につないだ男のことが少し分るとともに、自殺するインディアンの心のなかにかけめぐる何ものかが分りかけた気がしたのだ。自然のなかでその知恵と力をあらわし、鳥獣を知り草木を知り、一家を飢ゆることなく育てあげたインディアンの誇り、おとこの誇りがいま、水銀汚染を加重され、へしおられたのだ。アルコールにおのれを忘れられるなら果てしなくのもうとするであろう。「金ばいらん、体をもとにしてもどせ」という水俣患者の回帰点と、「私たちの土地をかえせ、文明いらない」というインディアンのそれとは人間の原点としてひとつではないのか。
年表をつづったジル・トリーさんも、ときにインディアンから「やっぱりあなたは白人だ・・・」と言われることがしばしばのようだつた。そのなかで彼女は一とき、この年表つくりに熱中した。もう一度、インディアンの経たこの五年間の水銀体験を辿ってみようとしたようだ。それは彼女自身のための作業でもあったろう。
次からいわゆる”水銀”以後の記録となる。
七〇年五月一五日 政府はイングリッシュ・ワビグーン川で「スポーツとしての釣り」(フィッシング・フォー ・ファン)のキャンペーンをはじめる(つまり食用にするなと同じ意味)。クレイ湖(最汚染の地点)でも「スポーツとしての釣り」は解禁される。
州政府、キャンプの営業許可を継続。
一方、ボール湖のパニー ・ロッジ(バニー氏はグラッシー ・ナローズの多くのインディアンを雇っていた)は自主的に閉鎖す。
七〇年五月二七日 州・エネルギー・資源省の長官は「分っている汚染工場には行政的に規制。汚染物質の放出は止んだ」と州議会で言明。
七〇年六月四日 ケノラ・ドライデン地区のインディアン一二名の毛髪水銀、五〇PPM~一〇〇PPMを示す。(日本・水俣の急性期、発症閾値は五〇PPMとされた。最近の長期・徴量摂取型の場合ニ〇PPMでも危険性ありとされている(武内氏、熊大におけるインディアンの質問に答えて)。カナダの場合、その多くは後者のタイプといわれている。)
七〇年七月 連邦と州は、インディアン漁民やキャンプ業者の補償はいずれかと責任のなすり合いの問答をくり返す。
七一年 オタワ(連邦の研究所)でクレイ湖の魚を投与しての猫実験はじまる。
ある科学者は、汚染された川の魚の水銀汚染は今後百年つづくだろうと報告。(中略)
州政府は、営業継続中の観光キャンプ業者に融資。ただし他の地点への移転については融資なし。
七二年三月 政府は血液検査の結果その一月(厳冬期)に、血中水銀レベル二〇〇
七二年八月二ハ日 グラッシー ・ナローズのガイドで魚の多食の習慣をもつトーマス・ストロング氏死亡す。水銀中毒症状をもっと疑われていたにもかかわらず、脳は解剖せず。
七三年一月三一日 故トーマス・ストロング氏の解制結果の発表を傍聴するため、グラッシー ・ナローズからバス一台分の人びとがケノラの町におしかけた。州・厚生省のストップス博士は、故ストロング氏の血中水銀の測定にさいし、トロントの試験室であやまって水銀が混入したと証言した。この検視について、陪審員たちの長老は、「もし水銀中毒によって死んだのではないと暗示すれば、住民はひかえていた魚をもっとたべることになろう」と警告した。また陪審員たちは「汚染河川沿いの住民は、水銀の人体に対する潜在的危険性にかんがみ、すべての住民への定期検診を毎年七月か八月(魚の多食期)になすべきであるとも勧告した。だが結局、州政府の提出した証拠資料により、ストロング氏の死は心臓発作によるものであり、水銀によるものではないということに落着。
七三年四月 州政府の第四回特別委員会勧告は州議会でにぎりつぶされた。その勧告はこうであった。「すべての汚染河川の閉鎖、両居留地への代替食糧の支給、代るべき経済基盤の準備、汚染についての広報のプログラム作成」。
州政府はこのどの一つもしなかった。資源庁長官ベルニエ氏は植林事業と消防の仕事を約束した。インディアンは、「これまでもこうした臨時的な仕事はやらされてきた。いま必要なのは経済基盤そのものである」と答えた。
七三年 ベルニエ長官はドライデン製紙の重役T・S・ジョーンズ氏を資源庁の公害諮問委員会の委員に任命した。
同年、ドライデンの親会社アングロ・カナディアン・カンパニーは七三年第一・四半期に二二七パーセシトの利益を計上した。
七三年七月 州の初めての警告書が汚染河川沿岸の住民に配られた。たべれば危険かも知れない旨のこの手紙はそれぞれの家庭に配達されたが、すべて英文であった。(原住民の七〇パーセントは英語をよめない。)
七三年 オタワで行われていたクレイ湖産の魚による猫の急性中毒実験のレポートは、アメリカ合衆国の科学者会議で発表。一方、汚染地オンタリオ州北西部では何の公式発表もなし。
七四年夏 アイリーン・スミスー水俣にすむ写真家ーグラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグを訪れ、水俣に匹敵する状況におどろき、ただちに日本に知らせる。
七四年 アングロ・カナディアン・カンパニーに連邦・州の同意書により補助金支給さる。二百七十万ドル(八億一千万円)
現地の公害対策に支出した州政府予算は、七〇年以降四年間に計一万千六百四十ドル(三百四十九万二千円)
年表はこれから七五年に入るが重複するので割愛する。しかし、この七四年のしめにあたり、記述は突然、叫び声のような文体に変る。英文そのままの方がはるかにつよい。例えば書き出しはこうである。
ーNO AUTOPSIES(解剖)FOR MERCURY(水銀)
ーNO STUDY OF MERCURY LEVEL IN HUMANKIND
ーNO STUDY OF MERCURY POISONING IN GRASSYーNARROIWS AND WHITEーDOG・・・
つまりほとんどすべてがNOではじまる絶望的なアピールである。つづけて、
ー汚染河川沿岸の白人および観光客にむけての危険性についての言及。ノウ
ー代替の食糧源の支給。ノウ
ー両居留地の人びとに対する代りうる経済基盤の準備。ノウ
ー汚染河川への危険標識の明示。ノウ
ーインディアン漁民及び閉鎖した観光ロッジの持主への補償。ノウ
ー企業に対する政府としてのいかなる非難も、ノウ。いかなる処置も、ノウ
ー企業は自ら政府に代って排出水準をかれらの基準で計るのみ。
ードライデン工場におけるいかなる排水処理も、ノウ
ー会社は依然政府の補助金・融資の恩恵に浴しつづける。
ー汚染河川への対策さらになし。
ーそのためのいかなるプログラムも存在せず。
以上が”水銀”以後七四年までの年譜を辿って到着したジル・トリーさんの痛憤であり、インディアン・サイドにはじめて立った記録でもあった。
「医学の壁」への挑戦
ジル・トリーさんが資料をもち、私と大津、そして在カナダの若い日本人のチームはその後全カナダ横断のフィルム旅行に出発した。映画プリントは『医学としての水俣病・三部作』『水俣ー患者さんとその世界』(以上英語版)、それに『インディアン訪日記録』と『水俣一揆』『実録・公調委』の計七本。つまり医学的テーマだけではなく、社会的・政治的・運動的な側面をテーマにしたものも加え、いわば十年間の水俣病の映画のほとんどをもって廻った。
今回、カメラマンの大津幸四郎は、映画を撮るためでなく、上映する仕事を私と分担するためにカナダに同行した。そして二人で二班を組まなければならないほど忙しいスケジュールとなった。百日間、ほぼ連日、いちばん多かったマニトバ州ウィニベッグでは要望に応じて実に一日六カ所で映画会をやった。上映に徹して活動することは日本出発以前から決めていたことだ。というのはインディアンやジル・トリーさん、ドクトル・ニューベリー氏らの全員から、カナダでの上映を懇願されたからである。
水俣病のような映画は本質的に反企業、反政府、反現体制の映画とならざるを得ない。私たちが政府の何の支援も、御墨付きも得られないのはもとより承知の上である。しかし自費で行った上に、通関にあたって公的な「教育映画」の政府の証明書がないばかりに、六百ドルも税関に供託しなければならなかった。映画の国カナダでは、この種の映画は、当然、本来政府のプロジェクトで作られ、配布されるものと頭からきめてかかる人が多かった。素朴な質問として「あなた方は日本政府からの派遣か、さもなければ教育活動のプロジェクトとしてか、あるいは宗教団体の基金で来たのか」と質問されることがしばしばだった。初めはあまりの感覚のへだたりに茫然として答えられなかった。次に、そのどの一つの例にもあてはまらない私たちを含め日本の状況が恥かしかった。やがて気をとりなおして、そうした質問をきっかけに、「映画が政府によって奨励されざるフィルムであるより前に、水俣病そのものが政府によって日本の恥部のようにあつかわれ、水俣病患者が一貫して疎外されつづけてきたこと」をのベた。「水俣病自体が抑圧されているなかで、ひとり映画だけが体制側に鼓舞激励されるであろうか」。またこうものベた。「私たちは、政府のいうところの”日本の恥”をさらしに来た。われわれの失敗の歴史をさらしにきた。しかしこれは汚染された住民の側の恥でもなく、住民の失敗でもない。日本の病める社会が生み出した社会病としての水俣病なのだ」と。そのあと連なってくることばは、「インディアンに発生した水俣病は同じカナダの恥であり、失敗であり、カナダの社会の病める部分の表現である」と。しかし礼儀上、このことは喉元からのみこまざるをえなかった。いわなくても、日本のことを語ることで観客はすでに分っていたからでもある。だが私たちは、水俣病の映画が不幸ながら同じ苦しみのスタートラインに立ったインディアン居留区から上映出来たことを、心から納得のいくこととした。そしてカナダの国から始めたこの世界上映の順序を必然的なものと信じていた。だから肉体的な疲労はあっても、映画をつくるものとしてこれほど栄誉にみちた旅行はなかった。もちろん五人の観客しかなかった場合もある。三百人以上の盛況もある。計百二十一カ所の上映会は、その一つ一つにそこで開かねばならぬ理由があった。映画作家にとって、上映の場に立ちあうのはとても心痛むことである。まず映写の条件から、ピント、音のボリュームに至るまで最良のコンディションを願うのである。ついに、私たちは工具箱や懐中電灯や、フィルムの補修道具までぶらさげて、その地その地の映写機のいかなるタイプでも簡単な修理は出来るまでに熟達した。そして上映中も、どこが分り難いか、どこが私の作り手としての主観主義がわざわいしているかを、察知した。観客のあくびひとつ、私語ひとつでも”大批判”に思えるのであった。
州政府、連邦政府、そして先にふれたようにドライデン工場の親会社の首脳たちにも、映画を見せることが出来た。この場合、いきおい攻撃的な心理にならざるをえない。あとの質疑応答にもハラダ・レポートをひきあいにデータを通じて「水俣病の発生をみとめたらどうか」といった客気がつい頭をもたげるのをどうすることも出来なかった。
一方、居留地での上映、先住民問題のグループでの上映は、多くを語らなくても砂地が水を吸うような情景に接したものである。とくに他州のイシディアンは「日本の兄弟が、私の兄弟の苦難をすくうためにやってきた」と私たちを紹介するのがつねだった。
極北の居留地にあるインディアンだけの寄宿制度の学校(ケベッグ州北部のマニトー ・カレッジ)で連続八時間の上映を求められた。彼らはついに最後まで見通し、故郷の土地と人びとの汚染に夜のふけるまで討論した。バンクーバーで、日系一世や老いはじめた二世の人びとが二百人、ひさしぶりの九州弁をスクリーンに耳をそばだてて聞き、眼でその悲惨を見たあとの疲れ果てた顔々も忘れることが出来ない。上映をたすけてくれた無数の人びとのことも書きたいがはや紙数はつきようとしている。だが、この上映旅行のなかで、カナダ医学界の対応を特記しておかなければならないだろう。各地の医科大学や病院、研究所などで十数回上映した。ひとことでいえば、もちろん医学上の問題について彼らの反応は一般にシャープであり、熱心であった。あとの質疑も多く実質的であり、このフィルムを賞讃さえしたのである。しかしただのひとりも、グラッシー ・ナローズとホワイト・ドッグに行こうとする反応を示した医師はいなかった。資料については貧欲なまでに吸収するが、このカナダの現実に足をふみだすにはあまりにもためらいが見えるのである。それはいつに居留地の政治的、歴史的差別による”遠距離”性があってのことであり、もう一つには、政府の基本的な姿勢に対し医学がその専門分野、あまりにも分業された医学制度の中で、エリートとしての立場を保障されているためであろうか。だがいまひとつの象徴的な出来事について触れておこう。それは私たちのカナタ映画旅行の中でのもっとも屈辱的な”事件”であった。
ケベック州北部はクリー族の領土である。そこにいまひとつはっきりと水俣病が発生した。ドライデンと同じく、製紙工場のドムタール会社による水銀汚染である。そしてマタガミ地区の川やワスワニピ地区の住民に、血中水銀量でみる限りカナダで最高値(マキシム六四九ppb)の人体被害が出ていた。私たちはその州都モントリオールで多くのスケジュールを組むことにした。当市でのオルガナイザーは黒人、アフリカから来た社会学者マチアーナ氏。彼は親切で心くばりのこまかいすぐれて人間的なあたたかみのある人物であった。ある日、彼の決めたスケジュールにしたがいマッギール大学の病理学教室に行くと、数名の教授たちがいた。そして、あらかじめ私たちの映画のテキスト・ブックの中から典型的患者の症状だけピック・アップしてみせてほしいという。眼球運動異常等は特に興味があるという。私は一応一本でも頭から終りまで見てほしいといったが、われわれのゼミは多忙な著名教授やドクターばかりなので、上映時間は十五分しかないとのつけからの注文である。私はマチアーナ氏にこれでは上映出来ないと答えた。
それまでにも、一分だけとか三分だけとかいう注文がテレビ局からはしばしばあった。当初はさして奇異に思わなかったが、その希望する個所が一様に、急性激症型の典型例ばかりである。このことに気づいてから、私は一切、私の責任のもてない”切り売り”は断ることにしていた。
というのは、グラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグで現地の人びとを観察すると、いわゆる四肢の強直型やはなはだしい運動失調つまり外見的にはそれほどつかめない症状の人が一般的だった。私のいささかの水俣でのかかわりでいえば、長期にわたる、徴量摂取による慢性的な進行のような気がしてそれだけに不気味に思えた。そしてホワイト・ドッグのように、この二年間にうまれた四人の赤ん坊がまだ首もすわらないというケースに接すると、母親にはさほど顕著な症状はあらわれていないが、胎児には水銀が濃縮して胎児性水俣病の発生する可能性がいちばんつよいように思われた。おそらく、水俣のように排水口附近二・〇一〇PPMの総水銀(昭和三二年)といった史上かつて類のないような汚染によってひきおこされた急性水俣病のしかも激症型はカナダでは起こりえないだろう。だとしたらこの激症型だけをピック・アップしてみせることはカナダの水俣病のあらわれ方に比較され、むしろマイナスの効果になるのではないかと考えたからである。
この医学者たちは、同様の申出をしている。私は医学者だけに特殊な研究態度があろうとまだ信じていた。しかし部分的な上映は不本意だった。マチアーナ氏は「この学者たちはケベック州の医学を牛耳っている人たちだ。そしてケベックのクリー族の水俣病について政府を動かす力のある人たちだから、どうか彼らの望むようにしてほしい」と私に手を合わせた。
そして十月三一日午前、マッギール大学の階段教室にいくと一種殺気だっている担当の教授が半ば命令口調で希望のところをスタンバイしてほしいという。私はやむなく、武内忠男氏の病理解説中、小脳症状の部分、ふるえや共同運動失調の激しいシーンからスタート出来るようにした。十五分間だけだといってその教授は腕時計のめもりと画面の進行をみくらべ、いつストップというべきか滑稽なほど取りみだしていた。結局二十分ほどして白木博次博士のモンキーによる水銀の侵入機序と蓄積のシーンでストップの合図を放った。会場には立錐の余地のないほど白衣の医師、インターンでうずまり最前列には白髪の主任教授らしい人たちが陣取っている。私たちは追いたてられるように退場させられた。
間もなく同行の三輪妙子さんが、私たちがコーヒーをのんでいた廊下の一隅のピュッフエにとびこんできて、「いま三人のクリーの患者さんが、水俣病ではないと正式発表があったのよ。あの映画は、きっとその逆証明のためにつかわれたのよ、きっと」。私には耳鳴りのする一瞬だった。不可解なこの日の上映が、実はTV局同様、典型例だけをピック・アップし、非典型的なクリーインディアンの疑わしい患者を切りすてたのだ。映画の全体の構造を映画テキスト・ブックで知っていながら、卑怯にも最重症例を上映させ、クリーの三人について心理的に水俣病であることを否定する手だてに使ったのだ。明るい照明のもとで、三人のクリーは医者たちからからかいともうけとれる”無罪”の祝いを受けていた。「水俣病でなくておめでとう。マタガミに帰れてうれしいでしょう。みんなと水銀入りのビールで乾杯でもしますか」。
もちろん、その夜のアングリカン教会の市民団体の上映会の冒頭、マチアーナ氏は深刻な自己批判をのベた。私は水俣での「医学の壁」を思いながら、ここにもっと悪質な医師による「認定制度と認定基準」のすでに胚胎しつつあるのを察知しないわけにはいかなかった。帰国して早々にとりかかったのは、かかるカナダの実情に即した、逆にいえばこのような手口をあらかじめ封ずる映画を作ることであった。焦点を今日の長期徴量型におき、一方胎児性水俣病において、もし日本の場合のような急性激症型が起こるとしたらもはや救いようのないことを訴えた『水俣から世界へのメッセージ』という四五分のフィルムを作り、ケベック放送に送った。もう一本、インディアンの訪日記録の改訂英語版をつづけてカナダに送った。
第二回国連環境会議へ
この五月カナダの長い冬が終ろうとしている。カナダに移住早々、患者さんの通訳やら映画の上映を援助してくれた写真家宮松宏至氏からグラッ シー・ナローズの近況を知らせる手紙が来た。
・・・水俣の患者さんが帰国され、早や五カ月半もたちます。その過ぎた時間とともに、現在のグラッシーの人たちも、患者さんたちの訪問がもうまったく遠い昔のものであるかのように思われてなりません。・・・このようないい方をしますと兄も胸の中にいきどおりを感ずるかも知れません、私とて同様です。・・・居留地の人はいま居留地内での仕事をいかにつくるかに全員の心が奪われています。・・・今や州・連邦政府も水銀問題に出していた研究費も今年度から削り、トム・キージックも”水銀問題担当員”としての給与を奪われ、失業の身となりました。居留地でのカウンセラーとしての給料が月四十ドルでは食べていくことも出来ません。まして運動を指導していくことは、今のところ絶対に無理のようです。・・
これはあまりに悲観的である。しかし水俣の受難者たちとあまりに似た道ではないか。そのことが、水俣病史二十年をさかのぼり反すうすることで、いわれない勇気すらわいてくるのである。一度や二度の交流でどうして激しい変化がグラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグに生まれようか。つまるところ、公害先進国の日本がおかしたと同じ道を、いまカナダは人種差別の歴史をかさにより短い期間にインディアンを処理しようとしているのであろう。
今年の一月に入って、胎児性水俣病と思われる幼児がカナダの新聞に報じられはじめた。そのひとつはグラッシー・ナローズのガイド、マルセル・パパセイの子ケイズちゃん(三歳・男子)の場合である。サンダー・ベイのホガース病院に二年間入れられたままで、新聞記者の取材はいまも拒否されている。そしてそれまで一般の知恵おくれの子供と同じ扱いをうけ、何ら水俣病としての検査はうけていなかった。しかし、ドクトル・ニューペリーは、間違いなく水俣病と信じていると語り、精密検診を当局に要求しているという。
また、ケベック州でも水俣病について日本に来て臨床経験をつけたといわれるアンドレ・バーボー博士は北ケベック州ですでに四人の幼児を胎児性水俣病としてピッック・アップしたといわれる。母親ミンニ・クーンシシュさんの第十二子ジョージちゃん(二歳)は、典型的な胎児性水俣病で症状をすべてそろえているといわれる。ついに最も被害をうけやすい胎児からカナダ水俣病は出現しはじめたのだ。その患児のカルテはほとんど外部に発表されず、母親すら面会に制限をつけられているという。これも水俣のある時期を思わせられてならない。
いまわれわれが可能なことは水俣の歴史を詳しく、そしてそのすべてをカナダの被害民たちに伝えることでしかないであろう。それがどんなに時間のかかることであろうと、そこからしか水俣病を共有することは出来ないであろう。
この五月三一日より十日間、バンクーバーで第二回の国連環境会議がもたれるのを期に、地元カナダの環境問題の矛盾の集約としてのインディアン水俣病の実態が、インディアンの口から世界中の人びとに報告されることになる。そのためにジル・トリーさんも、在カナダ日本人も的をそこにしぼって準備をつづけている。いま川本輝夫氏、字井純氏がそこに行く予定で準備している。アイリーン・スミスさんも官松氏もバンクーバーに集まる。私もそこにいくつもりである。私は新たにカナダのためにつくった映画がどううけとめられるか、再びやすりにかけられる思いであり、表現者として”運動”にかかわるみちのひとつはここに始まると思うからだ。
〔追記〕
二回目のカナダ・フィルム・ツアーについては割愛したい。一九七六(昭和五一)年六月再訪したグラッシー・ナローズ、ホワイト・ドッグの二居留地の運動の陥没ははなはだしいものがあった。あわせても一千数百名の二居留地インディアンを分裂させ、リーダーを孤立させるのにカナダ政府、オンタリオ州政府は何の苦もなかったに違いない。前年、カナダ中に渦巻いたカナダ水俣病事件の白人支援者、インディアン指導者は露消し、わずかに日本人居留者、移民たちと、ジル・トリー、それに医師ニューベリーだけが残った。写真家宮松宏至はそれでも二年間グラッシー・ナローズに留まり、ケベッグ州の写真家清田昂志はケベックに発生した水俣病の取材にひとり活躍していた。
日本から原田正純、宇井純氏らが再訪したがいかがだったろうか。私はやはり、その国の人びと、とりわけ、事件の渦中の被害民に闘いがなければ、外国からの手は無力であることを知らされた。まして映画それ自体の力では現実の変革はできない。にんげんがフィルムを武器として闘ったとき、はじめてその道具となることが出来る。その苦い教訓を改めて噛みしめる旅だった。
しかし新たな焦点の地、ケベック州でも若いクリー族の自称「次期禽長」サイモン君の活躍によって汚染地ワスワニピ河沿岸十数カ所の居留地で上映の旅をつづけた。川本輝夫と随行通訳大石裕子、それに清田君の四人の日本人グループのテントの旅がつづいた。
草原は冬中どこにひそんでいたのか、天をおおうほどの馬アブ、牛アブが一挙に地表に躍りでた。カナダの六月である。夜は蚊柱とのたたかいだった。映写機の光りをしたって光源にとびこむ蚊をおいつつ、体の露出部、手足、首、頭皮にまで蚊よけのクリームをぬりこんで上映した。このケベックでの上映をきっかけに、地元テレビとの合作映画がつくられることになった。前記した『水俣から世界へのメッセージ』と題する仏・英語版である。プロデューサー、ジャック・デュポンと清田君と東京・目黒の編集室で七六年を送った。
一九七七年年頭、これをもとに水俣病の入門篇『水俣病:その二十年』(四二分)を製作。そしてこのフィルムの完成により、軽量級の上映会が考えられるようになった。
またフィルムが次の旅をつくりだした。それはもはや外国ではなく、不知火海の離島、対岸をまわる巡海映画行動である。海外のフィルム・ツアーの傷心をいやしてあまりあるプランで、参加者はその実現に熱中していった。