「不知火海」=水俣病を見つめる旅ある移動映写会の試みにあたって 『未来』 1977年7月号 未来社 <1977年(昭52)>
 「不知火海」=水俣病を見つめる旅ある移動映写会の試みにあたって 「未来」 1977年7月号 未来社

 水俣病を映画に撮りつづけて八年、私たちはようやくそのフィルムを、一番必要としている人びとのすむ地帯にもちこむ計画をたてる決心をしました。それは不知火海の水俣市から望見できる対岸の天草・上島・下島、そして離島の漁村部落です。
 事の起りは、私たちが去年春から始まった不知火海総合学術調査団(団長・色川大吉)の随員として、映画をつくる日常から一歩離れて不知火海をみつめはじめた時から、いつも西、夕陽の沈む方向の対岸に私たちはフィルムを見せに歩いてはいないという負担の心情がつよくなりました。
 映画を撮影する時には、実に精力的にロケハンと称する調査のため、天草・宇土・長島等をまわり、「撮影できる人・物・風景」を選択すベく眼をくばって歩きました。それはいつに映画を撮るためです。その際、もっとも抵抗のつよい、つまり水俣病の映画を撮るといえば必至の反発にあう漁村では撮影をあきらめてきました。辛うじて四年間のつきあいを経て、御所浦町の漁民と被害民、その漁業の現状を映画『不知火海』の終章で描くことが出来ただけです。
 前作発表後、カナダのインディアン部落に有機水銀中毒発生との報が入り、七五年夏、五人のインディアンが水俣・新潟の視察に来たことを皮切りに、私はたまたま英語版が完成していたこともあって、この二年、のベ百六十数日を費やして、オンタリオ州北部、ケベック州北部の汚染地帯をまわりました。その際、バンクーバーからモントリオールまでカナダの主要都市をほぼすべて横断上映し、アメリカでは連邦政府やFDAにまで水俣病の映画を見せてきました。この旅の結果、少なくともカナダ政府のインディアンの水俣病についての対策をいくばくかは転換させる一端をになったと思います。そして、数本のフィルムをトロントの支援グループにのこし、彼らの上映活動の基礎も作ってきました。この行動は友人のカンパで支えられましたが、基本的には私費によるボランティア活動として組みました。カナダの人びとはこの計画が日本政府の援助か、または宗教団体のプロジェクトと考えたようです。私が本来、日本政府はこの種の映画に何の援助もしないと申しますと、カナダ人やアメリカ人は、”オウ、ノー”と信じてくれません。このことをきっかけに、水俣病患者が政府に水俣病への対策を迫ること自体、いかに迫害と差別と権力弾圧にさらされたかを説明せざるを得ませんでした。こうした行動をしたあと、私は俗人俗物のつねで、やや体のほてりを感じ、自慢気なものも鼻の先にぶら下げていたようです。
 去年夏、カナダの二回目の上映活動から帰って、不知火海総合学術調査団に随行して水俣へいったとき、私は水俣の活動家から、水俣での患者組織の分裂や、活動家がみな方向の模索期に入り、いま何をすべきか迷っているということを聞き、言下に「不知火海を見るべきだよ、水俣から。水俣だけを見ていてはあまりに視野がせまくなり、ディテールばかりにとらわれる・・・。フィルムをもって、不知火海沿岸を巡回上映してごらん。私がカナダでやったようにー」と一端の口をききました。事実、私たちの作った水俣病映画の主要なものは、水俣病センターの相思社にそろえてあるので、実行は出来るはずと思っていました。ところがセンターの事務長、柳田耕一君から、これまた言下に斬り返されました。「あんたも、カナダばかりに行かんと、三年位、フィルムもって不知火海を歩いてくれんですか」。正直私は逆上気味に「若い君らが何でやれんか」と応酬しましたものの、一方で、あの不知火海の浜辺の人びとの水俣病への禁忌的な拒否反応を想い出すと、これは運動の先端を走るこの青年たちではとても入り切れないだろう・・・この巡回上映の担い手は、映画をつくったものたちにしか資格がなかろう・・・映画を作ったものが見せたいと言うーこの言い分だけが反発者をも黙らせる唯一の抗弁のはずだー。しかし、これはかなり大変なことになったと心中思いました。そのご、巡回上映のイメージは私の中で日々着実につよまり、ついにこの春から、「今年の夏、三カ月、テントをはり、野外上映をしてでも、不知火海の全漁民集落を次々にマンガ映画や海や魚の映画を前座に水俣病映画をもって歩く。この計画では一つの集落も落ちこぼさずに上映することをメドとしたい」と公言するようになりました。これへの反応はロにした私自身が驚くほどの共感でむかえられ、「水俣病闘争の次のステップを準備する仕事だ」と言われて、ついに今年七月下旬から三カ月間、水俣から半径約三十キロの全域での映画行動を組むことを決意しました。そして巡回映画に海をへめぐる気持を託して巡海映画(行動)と名づけました。
 五月初め最初のプラン書を作り、それを知人、先輩、及び有識者に送ったり、映画のスタッフ小池征人、一之瀬正史両君に下調べのため天草他現地に飛んでもらっている間に、水俣病事件史にのこる二つの出来事が起り、私たちの不知火海巡海映画の実行をさらに強くうながすモメントとなりました。
 ひとつは石原慎太郎環境庁長官の”水俣体験”です。すでにご承知のとおり彼は行政の怠慢と国の責任をみとめ、陳謝しました。その言動のなかで彼はしばしば二一年間の放置をのベ、この春から熊本県当局が国につきつけている「認定業務」の返上というもつれにもつれた腰着状態を、新基準を発表することによって打開すると言明しました。しかもそれは六月末までという期限つきです。石原長官の訪問は時期が時期だけに水俣に必要な”新風”と印象づけられたようです。だがその波紋の行方は未知のままです。
 また一方六月十四日、川本裁判の控訴審判決にあたり、寺尾正二裁判長は判決史上初の公訴棄却を宣告しました。川本輝夫氏とその盟友、後藤孝典弁護士が第一審から、水俣病事件全史をどうさばくのかをつねに前景とし、チッ ソ社員へのとっくみ合いのごとき”傷害”の有無には目もくれなかった戦闘性の勝利と思います。そしてこの判決でもはっきり、「国の一半の責任」「国家もまた加害者」という文字が判決文に刻まれることになりました。昭和四三年九月の政府の水俣病の公式的見解が「工場排水に起因する」と認めただけの没主体論理から、ここにあらためて国の責任をみとめるまでに、十年の歳月がかかったわけです。しかも、相ついで国の責任がのべられた今日の状況は何でしょうか。
 水俣病事件での「行政の怠慢」、「検察の加害者チッソへの放置」、「国の責任」はもはや認めるにヤブサカではなくなった事の背景に、水俣病を一過性の出来事、少なくともピーク時は終息した「二一年分の過去」の決算という意識が無自覚にせよ働いているのではないでしょうか。
 石原長官は離島、獅子島・桂島を訪問しました。不知火海にまだ潜在患者がいるという認識に立つての行動で、これはいままで政府になかった視界に彼は入ったこととして評価します。しかしそれも過去の汚染時の被害者でいまだ救済されざるものとしてしか理解していないでしょう。
 別の視点から言えば、かの高度成長期に、国が責任をみとめ全化学工業界に強いブレーキをかける言動に出得たでしょうか。一九七三年の石油ショック以来、チッソはじめ全石油化学工業は構造的危機に陥り、設備の新設の見合せどころか、スクラップ化の時代に入っており、もう二度とチッソ型大規模汚染の可能性ががっくり落ちこんだ時期に、はじめて臆せず、言葉としての「国の責任」をもってケジメをつける気運が動きはじめたのではないでしょうか。意識の操作として、チッソの過去、国の過去とともに水俣病事件の過去二一年を一まとめにこの際決着したいあせりとも願望ともいえるものがあるようです。石原長官は自署名文の中で「私はこの水俣病が一体何であるかを正確に理解しない限り、またその努力をしない限り、私たちの生あるうちに、一つの時代が終り、次の新らしい時代に移ったのだと、どうしても言い切れないと思うのです」(「週刊文春」五月二六日号)。しからば水俣病事件をどう理解するかにかかります。私はいまも生起している水俣病を不知火海に予感するのです。それゆえに、手はじめに映画をもってこの暗黒の浜辺の人びとに会いつづける計画を立てたのです。
 水俣では二一年間の自覚された闘争の日々がありました。そして今日三千数百名の申請者が審査ストップにより立往生し、数百名が「保留」のまま宙吊りにされています。いくつもの裁判を闘い、山積した難間を背負って、水俣の患者グループ・支援者・医事活動家たちは水俣とその周辺の課題に忙殺されてきました。勢い”水俣”中心主義にならざるを得なかったと思います。またひとつ、チッソ倒産の声は患者にとっての恫喝であり、市民にとっての水俣病切り捨ての意識をもたせるものです。すでに一つの歴史的闘争(裁判など)をへて補償された人びとは心からの安息をゆるされず、患者組織の分裂を味わい、”補償”によって共同体を内部からむしばまれ、更に精神的孤立に立たされ、しかも老いも若きも、それぞれに病状の深刻化を抱えて苦しんでいます。新しい患者への古い患者よりする差別、”軽症”への差別、遠隔の浜の人びとへの無関心等、これ以上患者の増加することへの不安が意識下にヘドロ化しているー。チッソの「水俣徹収作戦」ーこれが敗者チッソの復しゅう的手口であり、資本家としての実力の誇示です。(国の無責任の実態はこれへの全面的な関与に外なりません。)そして、いま水俣では不知火海全域に心を馳せるにしても、そこの被害民に接触するいとまがないのです。申請促進運動をすすめている患者さんグループの私たちのプランへの共鳴は、この痛みからでているものです。
 さきに、水俣病事件を過去として対処しようとしていると「国の責任」論の際のべました。「被害の拡大を防止することが出来たはず」(判決文より)という言葉は、現在の不知火海への行政の無策にそのまま進行形であてはまります。
 この六月上旬、上映地点の下調査をした小池、一之瀬両君のレポートによれば「あまりにも水俣病の病像を知らされていない。水俣病事件は対岸の出来事であり、むしろ、県議会発言のニセ患者のイメージが広く根深く定着している。ねたきりの病人やおかしな人が多いが、猫の狂死した部落でも申請者はひとりも出さんと有力者は言う。もし映画を上映したら、どのようなパニックがその地域におこるか想像できない」といいます。
 水俣病・不知火海の汚染実態の事実を何ひとつ住民は知らされていない。だから魚を喰いつづけている。これは水俣病発生前と変らぬ食の個人史ではないでしょうか。「水俣湾のヘドロはいまもそのまま、汐の満引きと共に海に拡散しつづけている。防魚網のみの措置しかない。この海で今日も、熊大武内忠男教授のいう慢性型長期(水銀)徴量摂取による水俣病の多様な出現は必然性を帯びざるを得ないではないか」。これが私たちが行政の怠慢なるものを問う今日的視点です。ちなみに水俣病は一応その発生を終息したと(誤って)熊大研究班が発表した昭和三六年前後、熊本県衛生試験所松島義一氏のその時点で行った毛髪水銀調査データによれば、初発地、水俣市月ノ浦では最高値がT氏のわずか四二PPM、湯堂では平均五〇~一〇〇PPM(当時は発症閾値五〇PPMとされ、今日二五PPMと修正されている)のとき、水俣から二十キロメートルへだてた天草・御所浦島に水銀値九二〇PPMという故松崎ナスさんの天文学的記録がのこっています。向島には他に六〇〇PPMの現存患者をはじめ三五七PPM、二三三PPMといった数値があります。汚染の爆心地水俣がこの時点では低く、その蓄積の爆心地が御所浦に移ったことは何を物語るか。水俣では魚への恐怖から自制による食いびかえがあった、少なくとも減食したと思われます。一方、対岸、離島、そして水俣の周辺地帯では一片の行政指導も衛生管理も、まして疫学的調査もなく、光亡を水俣にのみあて、あとは沈黙する沿岸住民気質を利用し、水俣とは別の世界という意識を作りあげてきたのでしょう。下調査によれば、水俣での水俣病二十年の裏で、離島や対岸の漁業は天然魚から栽培漁業に血みどろになって転換し、魚の市価を高め、全国市場への流通過程を作り上げた漁業基地化、漁村構造の変化があり、より水俣病を厳禁事項とする海の新共同体化が完了しているにもかかわらず、彼らは、汚染魚を一日も欠かさずたべているのです。
 その地に私たちは映画をもちこもうとしています。期間は七月二十日より十月下旬まで。なお訪問地点は数戸以上の全集落七一地点全面上映の予定です。”不知火海水俣病”とあえていうのは、水俣から指呼の間にある島々についにこの二十年、水俣病が、その拡大の防止にむけて一度たりとも正確に伝達されなかった不知火海全域をひとつにとらえ、その汚染・被害実態と生活・漁業の変貌を何らかの形で記録し発表しようと思うからです。しかしいま、このプランのポイントは上映による教育的活動と人脈の開拓が主眼となるでしょう。