不知火海にみる現代日本の縮図 不知火海フイルム行脚にあたり 『公明新聞』 1977年7月30日 公明党機関紙局 <1977年(昭52)>
 不知火海にみる現代日本の縮図 不知火海フイルム行脚にあたり 「公明新聞」 1977年7月30日 公明党機関紙局

 不知火海は神々の憩うところのように、静かで穏やかな内海である。大暴風雨のときですら外洋にくらべれば、その波頭はつつましく、ほつれ毛の乱れほどでしかない。ここに昭和七年から三五年間、総量四百六十トンともいわれる水銀がチッソ水俣工場から流された。そして今日までそのヘドロはスプーンひとしゃくりもとりのぞかれてはいない。内海のため、海洋に稀薄化されて拡散せず深く胎内に沈みつづけている。
 もともと深いところで六十メートル、海の中にはゆるやかな丘があり、岩場があり、日本の魚にとっては格別の産卵の地、回遊魚にとっても絶好のすみかである。このことは水銀汚染のいまも、やはり大自然の法則はそれをかえることもなく、禁漁区はむしろ、生類が繁殖し、貝や魚で賑わってさえいるという逆現象すらあるのである。その魚は当然水銀をたくわえて回遊し、不知火海をめぐりあるく。老練な漁師さんたちは、その魚の汐路を知り、暦のようにその訪れる日を知っているという。そして採って食べる。
 今回、私たちが水俣病の映画をそのひとつひとつの漁家集落に運んで「海辺の映画会」を七十地点でやるべく巡海映画行動を組んだとき、平常のままの漁村のイメージを念頭においたのでは、とてもわざわざ波をかきたてにいくちん入者のように思えて、ともすればその志はぐらつく。しかし、私たちが映画を撮るなかで知ってしまった、明らかに健康異常を背負ったこの一帯の人びと、なかでも、九二〇PPMという人類史上、毛髪水銀価としては最高を記録した天草郡御所浦町牧島椛の木の故松島ナスさんや、今年、鬼籍に入られたその夫、重一さんの腐り果てて死んでいった事実を思い起すと、別の心がはやるのである。かつて「何のわたしがミナマタ病ちゅうことがあるか」と、たんかを切ってみせようとした初老の漁師の口が典型的な構音障害でもつれにもつれていたたぐいの悲喜劇も、昨日のことのようにあざやかである。この人たちは一切水俣病とはどんな病気か知らされていない。地元の医院、保健所には老人医療をうける人が早朝から列をなしている。そのすべてはいまも魚をたベつづけ「栄養はとっているはず」なのに衰えの早い人びとばかりだ。行政による住民一斉検診もやられなかったわけではない。しかし、その地元の開業医は水俣病病像については、「あれはあまりに問題複雑で所見をつけにくい。だから、私からは一人も水俣病と診断しないことにしている」といって、てんとして恥じることもない。事実そうした医師と私たちは、その同じ島の町立診療所で会っているのだ。私たちがこれから訪れようとする天草上島・下島の不知火海沿岸や、大小八つの離島での水俣病の情報の途絶ぶりと空白さは、いま語ることばをもたないほどである。
 私たちは水俣病の映画を、私に即していえば十二年間に十二本作ってきた。このうち最近になって、「水俣病:その二十年」という四五分の圧縮篇とも入門篇ともいうべき手頃な上映時間の作品を作った。それまで、記録映画のもつ資料性を重くみて、丹念に、正確に、事実に忠実にと思うあまり、一本一本が一時間半から二時間半、三時間近いものになった。都市ではその点が評価され、上映の効果も上がったとの感触がえられたものの、漁村での上映の機会は長尺ゆえに狭められてきた。作った本人として、その資料性、記録性と普及性の矛盾にいつも頭を抱えたものである。しかし近年、私はカナダインディアン居留地にそのフィルムをたずさえて、英語すら話せない、しかも映画を見る機会など殆んどなかった原住民を前に、長い映画を見せてあるいた。その観客の反応や質問から逆にたぐって、私はようやく映画を短くするメドがついた。そこで帰国後直ちに新編集し、説明のゆきとどいた構成で圧縮版を作る気になった。
 このフィルムの完成をまって、私は初めて不知火海の対岸や離島での巡海映写のイメージをもつことが出来るようになった。ここまでくるのに十二年かかった。それを思うと、私は恥ずかしくてならない。だが、そのおわびに、少なくとも水俣から一定範囲(今回半径三十キロ)内の漁家集落は順次一つのこらず上映することにした。スピーカーで触れて歩き、チラシを一戸のこらずまき、映画会がそこでの注目すべき出来事になるように、そして子供も大人も半病人も、一夕、そこで水俣病事件と病像を知ってもらえるようにプランをねった。そして「海辺の映画会」の計画書をつくり、カンパのうったえをすることとなった。
 本来、これは社会的、運動的な行為かも知れない。しかし今回、私たちは極力、映画を作った私たちの現地初のおめみえ上映として実施したいのである。個的というか水俣映画スタッフの固有性で上映を訴えなければ、さらに拒否されることは火をみるよりも明らかだからである。漁業とミカン山だけがたよりのこの地帯では、水俣病さわぎといえば、魚の捨て値や全国市場でのボイコットあつかいといった手痛い体験でしか想起することは出来ないのである。見たくも聞きたくもない、いまさら、何をすっとかと思案する人びとの気持は当然であろう。その人たちに上映をゆるしてもらえる有資格者は、ただ、その映画を不知火海で撮りつづけた私たちではないだろうか。
 いま不知火海はその内海性ゆえに、急速に栽培漁業に転じはじめた。ある患者さん自身、網でしきった生簀でハマチや鯛を育てている。さすがに水俣湾内での漁はないが、岬ひとつへだてれば、眼前の海はわが海であり、水銀への危倶はいつしか薄れるのである。「こんなして魚ば囲うのは相済まぬ気がしてなあ、これが漁師のすることじゃろかとなあ」と後ろめたい述懐こそ聞かれるが、それが水銀汚染とむすびつかない程、人びとは水俣病を日常の考えごとから外しているのである。そして栽培漁業は海面に日一日と増えつつあるのだ。
 行政はヘドロ一しゃくりもしないまま、水俣病の実相をひたかくしにしたまま、不知火海のおだやかな表情に甘えて、時の流れていつしか水俣病さわぎの風化するのをひそかに心まちしているだろう。だが水銀四百六十トンはいまも不知火海にある。行政は私たちの映画上映の旅をどうみるか、その動きを見つめながら、私たちの巡海映画の百日をみまもってほしいのである。