水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 「わが街・わが青春」「水俣の図・物語」 <1988年(昭63)>
 水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 「わが街・わが青春」「水俣の図・物語」

 水俣病事件史に幕をひこうとする動きはチッソの倒産の声をテコにしてはじまった。一九七八年五月、チッソの株式市場での上場廃止がきまり「患者への多額の補償金の支払いによる経営難」が正面に押しだされた。六月、かねて政府と県の間で揉まれていたチッソ救済のための熊本県債発行問題が政治決着をみた。県の支出はゼロである。政府と関連銀行の資金が患者の補償金にあてられることになった。五年すえおきの三十年返済である。水俣を重くるしい空気が支配した。
 その中でひとつ風のふきぬける出来事があった。水俣の若い患者、つまり成長した胎児性水俣病患者たちの手による「石川さゆりオン・ステージ」の催物の企画である。
 音楽音痴、まして演歌にうとい私は、この動きに何の興味ももたなかった。まして、発端が石原慎太郎前環境庁長官に彼ら若い患者が「仕事をあっせんできないなら、せめて石川さゆりショーなどの企画に協力してほしい」と申し出、前長官がその歌手の所属する堀プロと親しいことから、石川さゆりの出演料を抜きにすると約束したことではじまったと聞いて、文字通り子どもだましもいい加減にしろと心中腹を立てていた。
 プロデューサーの高木隆太郎氏は、そのいきさつに立ちあっていたことから別の見方をとっていた。それはもっぱら医師原田正純氏の考え方に共鳴したことによる。
 「水俣の胎児性患者のやりたいことはいままで皆つぶされてきた。働き口の話もひとつもうまくいっていない。いま彼らがひとつのことをやり切れるかどうかだ。それで親の気持がすこしでも変れば収穫ではないか。彼らにとっては石川さゆりショーは、何かの賭けの意味をもっている」というものだった。原田正純氏はとりわけ胎児性患者にとっての支えだった。その原田氏が、いぶかる親たちを一軒一軒説得して、同意をとりつけているという。
 高木氏はテレビ放映の枠をとりつけ、東北新社との共同製作によって資金をつくった。私は助監督西山正啓君の初仕事として彼に現地の下準備に入ってもらった。彼からの報せは、若い患者が確実に、自力で動きはじめたことを報せてきた。とくに頭痛に悩む重症児鬼塚勇治、そして公衆の前にでることを嫌っていた坂本しのぶさんや金子雄二君がビラまき、ポスターづくりに町にでているという。リーダーは石原前長官に事を切りだした滝下正文君である。
 話をとばす。この催しは九月二二日、水俣市の文化会館の千席をうめつくし立見まででた。石川さゆりは熱唱でむくいた。ここにいたる夏から秋への活動によって「出来るはずはないと思っていたことが出来た」(坂本しのぶ)このプロセスじたいが若い人をつよく励ました。
 水俣の市民は壇上にあがって挨拶をよむ滝下君とそこに並んだ八名の胎児性の青年たちに、水俣病事件発生いらい二十数年の時間をあらためて共有させられたにちがいない。かれらは切符うりと宣伝をかねて、離島の同じ胎児性様の少女を見舞い、水俣の地をその離島から眺望する体験ももった。水俣市だけの世界から汚染地帯全域をくまなくまわり、すべての胎児性に招待券をとどけ、そこで初めての対面を重ねた。
 挨拶の中で天草行きの一節に及ぶや鬼塚勇治君は離島の少女を思い出したのか、悲しみの声を放ち身をよじって哭いた。
 この番組後、あらためてフィルムとし『わが街・わが青春ー石川さゆり水俣熱唱』をつくった。これを手にすることで彼らの挨拶と組んだ中・高等学校での巡回映画の途が開けた。水俣生活学校の有志が労力を提供して実現した企画だが、坂本しのぶさんたちの挨拶と質疑応答での態度に、年相応の落着きがでてきたという。水俣高校生との交流により「一歩の会」という懇親組織がそこから生まれた。
 
 次の丸木位里、俊さんの制作をめぐる『水俣の図・物語』にかかる八〇年まで、私はもっぱら不知火海総合学術調査団(団長色川大吉)の調査活動に行を共にした。不知火海は、私の二十年の目撃の中で何か変りつつあった。それは海の甦りやの問いへの視点によってたぐりよせられたものである。
 各地漁協の水揚げをしらベ、養殖地帯を歩き、水産種苗センターでの稚魚づくりなど、手あたりしだいに不知火海の今日のすがたをたずねた。
 画家がこの不知火海をどう描くか、文学者は、音楽家は・・・。こうした思念が、海のドキュメンタリー映画としてではなく、けがされた海の甦りをいかにとらえるか、その表現・芸術創造の記録として『水俣の図・物語』へとむすんでいった。