「原爆の図」を描いた人たちの生 『クライシス』 1984年冬号 <1984年(昭59)>
 「原爆の図」を描いた人たちの生 「クライシス」 1984年冬号

 物がめぐりめぐる

 埼玉県、関東平野の西、つづいていた平野が山陵の起伏とうねりはじめる地形のいりぐち、東松山市の下唐子に原爆の図・丸木美術館がある。最近、増築による二階建になった本館は、まわりの樹々が背高かになったせいか、浮き上がることもなく、まわりの風景の中につりあったたずまいをみせている。都畿川の流れはあまり変わらない。護岸工事でコンクリートでかためることもないせいか近郊河川ではまれにみる芦かよしが川辺に生い茂っている。位里さんは打網をうつ。
 「むかし、といっても十年位前までは、一網で百匹もの川魚がかかったが、いま十回うって二、三匹しかかからない」という。やはり、流域の田畑の化学肥料のせいであろう。だが熊笹とどんぐりの木立てしに見下す都畿川にはいまも白さぎが舞い下りる。
 関越高速自動車道が東松山まで完成した頃、この周辺にもラブホテルがいくつも立つ気配が濃くなった。丸木夫妻は、住民とともに署名運動までしてくい止めた。その思いがこのあたりにいまも隠然と生きて、美術館とその川のほとりを自然のままに残したようだ。
 丸木美術館の”境内”にたたずむたびに、ここを、「お寺さんなのだな」と思う。となりあって、丸木位里・俊夫妻のすみかがあり、流々庵という茶室風の二間のアトリエがあり、別の一隅に百年の黒光りをもつ農家、野木庵がある。どれも古色をのこすなかで、泊る人のための便所だけが新しい。私たちが『水俣の図物語』を撮った八〇年から八一年にかけて、この野木庵に寝泊りさせてもらい、囲炉裏で大鍋に物を煮て焼酎をのんだものだ。ときに地方から訪れる人の宿舎にもなる。これは宿坊ともいうべきものだ。訪れる人の絶えない美術館だが、ここには食堂はおろか、ジュースや牛乳のスタンドひとつない。心得た人たちはピクニックの用意をしてきて、川原で弁当をひらく。知り合いの人のために、ときどきは玄米のごはんや、折々のつけもの、到来物の珍味やみそ汁が出ることもある。そんなしごとをする、気のやさしいおばさんがいる。
 俊さんには食べものへのいろいろの試みがある。たとえばチーズである。前は飼っていたヤギの乳のチーズであったが、ある日、そのヤギはビニールごと何かをたベて死んだ。いまは牛乳を求めて、自分でつくっている。それに手製のジャムをのつけたパンはお世辞でなく美味しい。各地の名物がこともなげに盛りつけられ、「もらいものだが」とすすめられる。物がめぐりめぐっている。これをさがして買いもとめたといった珍味ではない。おすそわけの品々といった風だ。食通が舌つづみをうつといったものではましてない。何となく流れてきてここにあるといった風の食卓である。
 乞食して軒々からもらった糧をいただく雲水ではないが、出てくるものは似たりよったりだ。それが似つかわしく思えるとき、私はやはりここはお寺だなと思う。そしておふたりの生活に、寺を守るお住職さまとだいこくのようなつれあいの棲み家を思う。

 革命家の晩年のすがたとは

 おふたりのお年を合せたら、百五十五歳ぐらいになられる。位里さんは「画描きは八十歳にならなけりゃ、いい絵は描けん。鉄斉がそうです。わしゃ八十歳、位里と書く日をたのしみにしておる」と『水俣の図』を描かれたあと、七九歳のよわいを念頭においていわれた。この年、心筋梗塞で、半ばあの世の手前までいって、まいもどられた八〇年八月五日、原爆忌でのあいさつである。俊さんもすっかり白髪になられた。そのおふたりを祝う若い人、子づれ夫婦、そして老人に至る何百人の参集者をみると、かれらの眼差しにどこか門徒、壇家の趣がある。
 おふたりの人生に宗教的確執はなかった。信徒を培う宗派の営みもなかった。かつて日本共産党員であったおふたりは、除名されてもその平和主義者としての一貫した人生に変りはない。丸木俊さんはしかし、北海道開拓時代に屯田兵のためにお寺を開いた父をもち、その寺で生まれ育った。身についた仏門の子の生い立ちと『原爆の国』をつなげ見る人もある。しかし経典をひいて人に語ったことはまず聞かない。すべて自分の言葉でしか語られない人である。それでいて人は俊さんの”お説教”をたのしみ、どこかに寺まいりのような雰囲気の中で遊んでいる。この空気というか気配はどのようにつくられてきたのだろう。おふたりの個性のかもし出すものではある。だが、そうしたものへの心酔はみられない。あえていえば、人びととおふたりとのつながり方であり、人びとと美術館との縁・関係性のしからしめるところであろう。ルールも、規約もない丸木美術館友の会の人たち。そのほかに無名、不定形の支持者たちがいる。かれらが、実はこの美術館を支払えている。財政とか維持費を作るものとして支えているのではなく、おふたりとその御仕事への親密さによってである。両者、つまりおふたりと支持者たちはともに自立し、自分の願うままにつながることで、それを快いものと思い、年に一、二度訪れることをたのしみにしている人、またそれをうけいれるおふたりがいる。
 人間だれしも美しく老いたいと思う。まして、私人としての功利を求めず生きた、たとえば革命家といわれる人の晩年がどのようなものか、思いめぐらすときもある。
 みなの熟知している不快な例をできれば書きたくないのだが、革命家の晩年としてあまりに醜態な事例の戒めのために、あえて触れる。それは共産党の副委員長であったH氏のことである。七七年暮、日本共産党副委員長のH氏は除名された。当時七三歳。位里さんと同じ心筋梗塞に病む身であった。除名とともに党の”社宅”のあけ渡しを求められた。その後七年、党は控訴審まで上告の上、その住宅の返却を求めている。八四年九月二六日、東京高裁は一審の八王子支部の「返却すベし」の判断を支持、控訴棄却を言いわたした。H氏と党とのすみかをめぐる争いは最高裁までもちこまれるであろう。およそ”ブルジョア法廷”にもちこむことじたい、共産党とその元副委員長との紛争の解決手段としてあるまじきことに思われるのだが、それはさておき、一老革命家の晩年のすがたにおいて、自立とか人間の尊厳とかの名に照らして、なんと貧しい事例であろうか。私の若い頃の党員像としては、自分のすみかを私有できるなどとは考えもしなかっただけに、H氏が党の社宅に住み、そこで党にみとられて死ぬといった形で晩年を託してきたからといって、奇とする気にはなれない。党からの除名がすぐ人権無視そのもののような処置につながることは、反党分子、反革命への徴罰であるにせよ、痛める老人夫婦という現実の姿に対し、納得しがたい。かれらに住宅の返却措置をただちに機械的に適用し、かつブルジョア法廷を通じて、民事事件として始末しようとするあやまった作風におびえないわけにはいかない。党員、反党分子には見えても、そこににんげんが見えないのだ。
 丸木位里・俊夫婦がかつて共産党員であり、部分核停止問題をめぐる党内民主主義のあり方に意見をもち、そのために除名されたことはかなり知られている。しかしおふたりの口から、声あらげてそのいきさつを語られるということはなかった。なぜこのような例をひくかというと、自立し、みずからの脚で立つべきにんげんのすがたを対照的にそこに見るからだ。ではH氏に革命家としての自立と、その生をささえる人びととの関係性があったであろうか。党の組織とその規律から外されるとき、すべてを失い、ほぼ丸裸になるといった革命家の姿は、それ自体、同情はできても、それ以上のものになりえない。革命家には、その人を支持する横ならびの何十何百人という仲間があり、その人たちの支持によって、生命を支えられる関係があってこそ真に人民・人びとにとっての前衛的活動家といえると思う。レーニンの、百人のシンパサイザーがあれば、常任の活動家はその糊口をしのげる、といった意味のことばを思い出す。むろん十月革命のはるか以前、極少数の共産主義者の党活動を説いた一節と記憶している。
 私はまた、第二次大戦中、党が分断されたフランス対独レジスタンスの時代に「党は私と人びとのあいだにある」といったフラシスの作家のことばを思い出す。決して上部に党があるのではなく、自分と人とのむすびつき、その目的によってつながれた人と人とのきずなのなかにあるーといった意味にそれを理解している。政治的人間としての自らひとり立つすがたが、百人千人もの人との関係の中でつねに洗われつづけるものだというすがすがしさにも魅入られるのだ。

 絵描きとしての原点
 
 丸木位里・俊さんの今日までの生き方、そして下唐子・丸木美術館での暮し方と人びとのあつまり方、よりそい方をみるとき、私には党籍があろうとなかろうと、除名という汚名があろうと否と、おふたりは、あるべきかたち、すがたをもった真正のコミュニストに思えてならない。それがたまたま質感として、お寺さま、御住職とだいこくさまといった比愉をともなうだけで、その暮し方と仕事から人びとが見つづけているものは、おふたりの志とその画業の一貫性にあると思う。人びととおふたりとの親密さなるものは、あるいは無原則的なヒューマニズムと批判されるかもしれないが、そこにはたくまずして、運動をあやまたしめない画業の受け手たる人びとの真情が働いていると思う。それは絵は見せることからはじまるという絵描きとしての運動の原点にもかかわるものであろう。観る人、受け手の人びとがあって、初めて絵画がそれたりうるという意識ともいえる。もし、おふたりが晩年のピカソのような古城にすまい、功なり名をとげてむじやきにエロスの世界に遊んでいるだけの余生にあるとしたら、いまの丸木美術館もなく、その存在のもった衝撃力もいつかは昔日のはなしになり、今日の丸木夫妻と人びとの関係性もまた変ったものになったに違いない。
 誰かがおふたりの沖縄戦をテーマとした画業の映画をみて、そのナレーションに「お疲れでした。もはや心しずかにおすごし下さい。といっているように感じた」といった。もしそうだとしたら、まことに普通の敬老精神であり、かえって、おふたりを賞め殺すものに似るであろう。
 かつて火の玉のような女といわれた俊さん、剛毅にし非妥協の作家といわれた位里さんはみる限りでは美しく老いられた。しかしその志はもっと自然に自由になられこそすれ失われてはいない。
 映画『水俣の図・物語』の上映のひとつの試みとして、八一年四月、西武のスタジオニ〇〇で映画とシンポジウムを催した。これには多くの作家・画家・音楽家・評論家が参加した。その第一回に針生一郎・山下菊二と丸木位里による「テーマ主義の今日」というテーマの中で、山下菊二が、共同制作のなかみにふれ、「絵を描くまえに丸木さんたちが話し合うことの中に、実は熾烈な闘いがあるはずだ・・・闘いということばでいわれているけれども、(ふたりの間の)妥協の面がかなり濃厚に出てきているんではないか」と問うたのに対し、まったく予期しない位里さんの言葉がかえってきた。

 私はこの共同制作について私自身たいへん嫌いなんです。嫌いで絵がいいとは全然思わないんです。・・・わしが先に死にや、どうにもならんが、俊が死んだらね、共同制作は全部河原へ持っていって焼いてしまおうと・・・これはほんとうですよ。俊が先に死んでくれりゃいいと思う。焼いてしまおうと思う・・・私はそう思っているぐらい好きでないんです、実は。共同制作のあの絵は。

 つまり『原爆の図』はじめ大作のほとんどをすべて灰にするという話である。会場に俊さんがおられなかったことが救いのように恐ろしい発言だった。山下菊二さんも気持が動転して言葉を継ぐには継いだがうまく言えなかった。やがて淡々と位里さんはのベた。

 それはひとりで描くよりふたりで描いたらよくならなきゃいけないんですよ・・・だがなかなかそうなるもんじゃない・・・自分のできんところを片一方がやるんだから・・・。まあ自分でやった以外のことがよいとはなかなか思えんのですよね。こりゃなかなか難しいものですね。
 難しいものだが、まあ何かのお役に立っているだろうし。自分の役にはたたんかも知れんが、平和運動の役には少しは立っているかもしれないと、そりゃそれでもいいんじゃないか、そういうぐあいに思っているんですよ。
 (『私でなく不知火の海が』現代企画室)

 「焼いてしまいたい」

 しろうとの私にはしかとは分らないが、かつて丸木夫妻の絵に対し、テーマ主義、平和運動それじたいによりかかった素材主義という批評もあったようだ。「いかにも地獄絵の画法でー」という声も聞いた。「好きかきらいかといわれれば好きではない」という画家も少なくなかった。しかし彼ら画家が一体、時代の何を描いてきたかという私の胸のうちもあった。丸木さんたちには、受け手を見、受け手を設定した上で、明確にメッセージを伝えようとする意志がある。それが現代日本絵画のどこに位置するのかしないのか。そうした思いでおふたりの共同制作を見てきた私には、位里さんのことばは耳を疑るほどのものであった。「自分のできんところ」、つまり俊さんが人体、人間の姿、表情、つまり群像を描くー、「自分のできんところを片一方がやる・・・自分でやった以外のことがよいとはなかなか思えん」、つまり俊さんの描いた部分への醒めた眼をどうしょうもないといっているように聞く。だから「焼いてしまいたい」と言うことになる。それがふだんの口調で眉ひとつ動かさぬいい方だけにこの場の思いつきの言葉ではないと思う。
 共同制作の中でテーマをきめ、その構想のもとに、構図、絵の流れを波立たせ、大胆に墨絵でアクションペイシティングのようにすばやい決定性をもって仕上げていく位里さんの仕事ぶりをかいまみてきた私には、「焼いてしまいたい」ほどの、好みの上のすききらいを、いまもなお、醒めた眼で思い残され、その心残りを言い放つことができることに驚かされるのだ。
 だが、ことばを継いで「・・何かのお役に立っている・・・平和運動の役には少しは立っているかもしれないと、そりゃそれでもいい」というのを聞いて、改めて丸木夫妻の仕事の据えどころの太さに気づくのである。むろん、これが、前記の批評をうちくだく何のディテールもことばとしては持ち得ていないかもしれない。しかし四十年近く後半生をかけて歩んでこられた、そのしごとの役立ち方について、それが機縁となった人びととのつながりについての認識に照し合わせてみるとき、作家の業をかたった、自由かつ率直な言とうけとめることが出来た。

 変らないものへの固執

 丸木俊さんの著作の『幽霊』『女絵かきの誕生』などを読む。そして位里さんのことばにふれると、私にはいわば絵描きの原型のようなものを知ることが出来る。それはこうだ。
 原爆投下直後の広島ではスケッチなど考えも及ばなかった。二枚ほど書くには書いたが・・・。
 戦後、平和だ建設だと明るい健康な日本人を描かねばというのが絵描きの合い言葉だった。しかしどのように描いても画のなかの顔は憂いのただようものだった。三年もたつた雨の降る夏の夜、ふたりして原爆の絵を描かねばと思いたった。「ふたりがどちらがいうともなく言って、ぞうっとしてよりそいました」。着想したおのれに鳥膚立ったという。まだ占領下で原爆報道の禁じられていた時代だ。
 「原爆の写真もないときでしょう。これは徹底的にリアルでなけりゃいけん」と位里さんはきめたという。前衛的な水墨画家として具象を描きながら、抽象的概念を表現することを試みてこられた位里にしてかく言わしめたものは、絵にもならない原爆投下の世界ゆえであろう。その光景を描くことからはじまった第一作『幽霊』は、発表当時から占領軍の圧迫を意識するものだった。アンデパンダンの主催団体日本美術会すら『原爆の図』という題を『八月六日』という題に改めさせた。その反響に比例して弾圧もつよまった。絵をかついで全国の会場に運び展示することじたいが占領政策への抵抗と目された。だがその会場での人びとのはげましに支持され、絵は日本各地に運ばれた。ヒロシマでの被爆者の”批判”にうたれたり、絵を誇張とみる人には絵描きにあるまじいほど、自らの見聞を語った。いちどはヒロシマは『幽霊』一作で描きつくしたと思ったのに、その人びとの声につき動かされて『火』『水』の三部作に筆を進めた。そして朝鮮戦争下の一九五〇年から、占領下の五二年までに『虹』『少年少女』『原子野』の第五部作まで、まさに憑かれたようなスピードで描きすすめた。
 「何で食ってこられたのか?」と前記シンポジウムで若い画学生風の青年がたずねた。位里さんは言下に「俊の童画が売れたので、それで食ってきたのじゃないかな、あれは童画家としては大した人です」と答えた。だが、第一作から第五部作の間に、一冊の童画も描かれていない。『原爆の図』のしごと一本である。
 『原爆の図』はもとより売り絵ではない。買い手などまして予想すべくもなかっただろう。つまり描くべくして描いた作品であり、観る人へのメッセージをこめてただ描き、見せ、そのための旅をした。国内のあと世界の巡回展へと旅を重ねる。そのなかで更に描くべきものを観客から仮託される。こうして幽霊一作で終るはずの『原爆の図』はついに十四部まで描かれつづけた。この画業に加うるに、眼の前で大きな精神的反応を示した観客、支持と意見をぶつけた人びととのやりとり、ふれあいがなかったとしたら、ふたりの共同作業はこのように維持発展し成熟したみちを歩みつづけたであろうか。そして何より『原爆の図』を描いたことからはじまった前例のない、絵描きとしての実験であったのである。絵画の世界が、具象から抽象へ、リアリズムからシュールへ、その流れがモダニズムに更にポスト・モダンにむけて流れはじめた中で、一貫して「ヒロシマを描写するには、リアルでなければ」と記録性と迫真性にこだわりながら、いかようにしても「これは美しい・・・」とは言われ得ないテーマを選ばれた。しかし、十四部までの絵に描法と画想についてまったくの反復や自己模倣は一作としてない、と私
は見る。
 ときに批評家は「地獄絵」とみ「絵巻物や草紙にあらわれた奇怪な、もしくは醜悪な世界とつながる何かを感じさせる。それにはヒューマユティの稀薄な、あまりに醜悪な暗すぎる虚無的な絶望的な感じしかぼくらに与えない」(大徳寺公英)とのベた(日本美術会「美術運動」一九五八年四月号)。原爆の残酷さは現実にますますかさ高くのしかかっている。この批評が出てから二五年たっているのだ。
 この秋、丸木夫妻と会った。位里さんは、「さいごの原爆の図(第十五部)に思い切ってほんとうに地獄絵をかいてみようと思っとる」ともらされた。ではいままでのそれは地獄図ではなかったのかと問い返したかったが恐くなってやめた。このおふたりの見た光景についての半世紀をへてなおのこる地獄とは、実は原爆そのものだけでなく、原爆をめぐる支配者、被支配者ともどもがなお核廃止にいたらしめない詐りと欺瞞、利益と欲望の渦まくこの世の地獄を描かれるのだと思ったからだ。これがおふたりの変らざるものなのだ。
 俊さんは「ここに美術館をつくるとき、熊笹を刈ってまず四方の囲いのある、便所をつくったのよ」と見学の女子中学生に語っていたのを思い出す。住いのはじめに雨露をしのぐおおいと床。そして十数歩はなれたところに便所をつくる。ここからはじめた人だ。八十歳をすぎ、人びとの支えにまもられ、自在の境地に到って初めて真の地獄図がかけるのか。私にはやはりお寺の恐い部分がここに生じはじめた気がする。