歴史探訪=不知火の海 『日本歴史展望』 第十二巻 旺文社 <1988年(昭63)>
 歴史探訪=不知火の海 「日本歴史展望」 第十二巻 旺文社

 死の海から

 不知火海は八代海ともよばれる。九州本島中部の西海岸と対岸天草諸島、および長島(鹿児島県)によって固まれた面積二一〇〇平方キロメートルの深い内奥湾である。土地の人は不知火のよび方を好む。二〇〇〇年の昔、景行天皇熊襲征討のさい、旧暦八月朔日(いまの九月一日)闇の海路で迷われたおり、謎の火に導かれて無事に天草にたどりついたといわれる、いわゆる不知火伝説が愛されているからであろう。潮目を描き、鏡のように平らに空を映すこの海の美しさは、訪れる人の心をとらえて離さない。
 この海が近年広く知られるようになったのは水俣病事件によってである。そしてよく、「死の海」とか「漁の絶えた海」とかいわれる。歴史上比較するもののない環境汚染であった。
 一九五六(昭和三一)年に医学者によって初めてとらえられたこの有機水銀事件は、工場廃水ー魚ーヒトという因果関係を公表する段階でさまざまな説によってさまたげられた。その諸説の根拠のひとつは、同様の有機水銀の工程をもつアセトアルデヒド生産工場が全国にあと七工場あるにもかかわらず、周辺住民に同一中毒は見当たらないというものであった。九年後、そのひとつ新潟の昭和電工は第二の水俣病事件を引き起こした(一九六五年)。だが当時はそれも含め、電気化学・三菱ガス化学・ダイセル(ともに新潟)・鉄輿社(山形)・日本合成化学(岐阜大垣・熊本字土)などを例にチッソ工場原因説を否定した。そのため、熊大研究班はほぼ究明された原因の発表に苦しめられた。新潟の場合、阿賀野川流域汚染であり、有明海水俣病も内海型汚染とされた。のちにその所在は否定されたが日本合成化学は有明湾の湾央部にあった。
 なぜ水俣に最も激しく大量の被害者(一九八一年、約千七百人認定、申請総数約一万三百人)をみたかの理由は、その海への流出水銀量が四百五十五トン、他社の数倍ないし十数倍であったこと、加えて外洋ではなく内奥湾にたれ流されていたことによると考えられる。チッソ工場の廃水口は百間港にあり、その一帯の堆積泥土から最高二〇一〇PPMの総水銀(湿重量)を検出している(一九五七年)。この水俣湾内漁業従事者から最初の発症をみたのである。
 一九〇八(明治四一)年野口遵の日本窒素肥料株式会社の設立に諸手を挙げて賛成、協力したのは水俣の住民であった。不知火海沿岸の漁民には伸長するこの町に移り住んだ人も多い。その漁民が海の汚染に悩み、ささやかな抗議を示したのは一九二五(大正一四)年のことである。戦時下、軍需生産のかげで、さらに汚染がはなはだしく第二回目の損害補償が要求された。一五万円余であった。そのさい会社は漁民に対してこれを永久補償として打ち切りにすることを約束させた。
 一九五六(昭和三一)年患者の発見に先だち、水俣港湾改修工事が着手され、水銀を含むヘドロの浚渫が湾内で行われた。百間の廃水口に堆積したカーバイド残渣により港は満潮時以外船の接岸が不能に陥ったからである。湾内は濁りに濁り、このころから漁況は一変したといわれる。魚は浮きカキはへい死し、カラスや水鳥が墜死し、猫がおどり狂い海に飛び込んで死んだ。まさに地獄図であった。そして、一九五六(昭和三一)年初夏に一挙に五二人が急性発症し、その約三〇パーセント(十七人)が死亡した。その死亡率はマラリアその他の伝染病よりはるかに高く、奇病といわれ正体不明の伝染性疾患として恐れられた。それでも依然として人びとは魚をとり、食べていた。魚が原因とはわからなかったからである。
 「湾にはネチネチした浮きものが流れていて、七色しとりました。海の底は豆腐のような軽かものがふわふわと浮かんどりまして、手につこうものなら臭く、かゆうございました」と当時の海を患者渡辺栄蔵さんは回想している。だが、そのさなかでも、彼らは水俣湾内でエビをとり、カタクチイワシをとりつづけていた。
 「あん明神の鼻でエビがし(刺網)をしとれば、垣根に朝顔の咲くごて取れたもんな、それをむすめに喰わすしこ喰わした」とわが子を失ったころの漁を患者坂本ふじえさんは証言した。
 会社はかつて漁民の抗議に対し、「海の浄化力理論」でこたえていた。無機水銀は流しても、病気の原因物質、有機水銀は流していないとも主張した時期があった。いずれにせよ、当時湾内の魚でも見かけは新鮮でも味も匂いも変わらなかったという。だから病んでなお多食を重ねたのであった。

 海辺に生きる

 不知火海は北部と南部とで海の性格が二分されている。海とはいえ、北部はそこにそそぐ球磨川と佐敷川の流入により塩分が薄められる。その河口に干潟が発達し、水深も二十メートル以浅、底は泥・砂でプランクトン量が多く、貝類のほかエビ・カニなどの産卵・聯化、幼生期の成育に絶好の漁場になっている。南部に位置する水俣の沖は、その南の黒ノ瀬戸と八幡ノ瀬戸を通じて外海と接しており、プランクトンも外洋性のもので占められる。とくに瀬戸は潮流が速く、底は岩が多く、いわば峡谷状をなし、川底に当たる部分に砂地がある。この瀬戸より漁の主力魚種であるカタクチイワシ・マイワシなど浅海回遊魚、タイ・フグなどの底生性の回遊魚が内海に入る。
 南と北との中間は水深四十メートルの砂泥で、内湾性と外洋性の魚類の混合域であり、多彩な魚類の幼魚の成育場となっている。圧倒的にエビのすみかであり、それを捕食するタチウオ・コウイカ・タコ・カレイなど底魚のほか、カタクチイワシの回遊漁場でもある。北洋の魚種やマグロ・カツオなどの遠海の大型魚以外のほぼすべての魚種がここにみられる。
 水俣を流れる潮流は北部八代沖以遠に北上するものはきわめてわずかである。水銀汚染の広がりと影響を考えられる海域は中央に広がる泥土の潟以南と考えてよい。
 その不知火海の中間部・南部をとり囲んで水俣市・出水市・田浦町・芦北町・津奈木町(九州本島)、東町・牛深市・姫戸町・竜ケ岳町・倉岳町・栖本町・本渡市・新和町・河浦町・御所浦町がある。この水俣と同じ潮流圏内の漁協二三組合。その一年間の自然魚(養殖魚貝類をのぞく)総漁獲高は、一万九千四百四十八トン(熊本県一九七六年度漁獲統計。以下同じ)に及んでいる。漁法としては圧倒的に網漁が多く、魚種別にみるとカタクチイワシを主とするイワシ類が六割(一万千六百六十七トン)に達している。各漁協ごとにみても、牛深市深海のタイ・フグの一本釣漁、芦北の横曳網(打瀬網)のエビ漁を別として、カタクチイワシがそれぞれ首位を占めている。
 戦後の漁業法改正まであった網代制度はイワシ漁場としての区画でもあった。地曳網も遅くまでのこっていた。水俣湾内は数区の網代で仕切られ、カタクチイワシの宝庫であったといわれている。
 漁村には煮干し加工のかまどと煙突が軒をつらね、波止いっぱい干場になっている風景から網元の家は一目でそれと知れた。近隣随一の漁業の中心地牛深市は一つの町のほぼすべてが丸干し・ひらきの加工場で成り立っていた。離島や交通不便な浜だけに、湯がいて天日に干す保存方法が欠かせなかったのである。
 群泳するイワシはきわめて海の環境変化に敏感である。一八九〇(明治二三)年に記された熊本県漁業誌に「それいわしは魚族中もっとも軟弱なる性質を有し、つねに海辺の日陰を慕い、水の緩流に遊泳するものなれば、一たび潮流の変動に際するときは、いきおいそのところを換えざるを得ず、ゆえに海中の岩礁を崩し、海岸の樹木を濫伐して、山をあかはだかにするが如きは、漁業者の深く注意を加うべきこと」と説かれている。
 不知火海の漁民の感性のこまやかさとやさしさは、生きる糧の主柱であるカタクチイワシ漁につちかわれた注意深さ、思慮深さによるのではなかろうか。内海での他の漁法を見ても、外洋の漁業のように、荒波とたたかい、体を張って銛を打ち込むといった灘の男の荒っぽさはまったくといっていいほど見られない。
 この海と穏やかにこまやかになじみながら漁る気風は、しかし不知火海だけのものであろうか。北方サケ・マス船や、遠洋マグロ底曳、近海カツオ漁・イカ漁など現在の中・大型漁船の漁業が海洋民族のよび方とともに日本漁民の一つの貌とされている。しかしそれは近代数十年の歴史でしかない。
 石毛直道氏(国立民族学博物館)は日本民族を海洋民族とすることに異をとなえている。「巨視的にいって(古来の日本人にとって)海とは基本的には海岸線から見渡せる範囲の広がりにすぎず、それは陸地の延長内の海である。われわれは岸辺の民であったが、ノルマン人やポリネシア人と同じ意味で海洋民族ということは出来ない」とし、表日本を流れる黒潮は、それにのれば、果てしない漂流となり、死に至る黒潮は漁民にとっては「死の河」であった。ゆえにそこでの漁民の活動領域は海岸と黒潮本流との間の帯状の海域に限られていたし、沿岸民族といったほうがにつかわしい、まさに海辺の民であったという(「日本の海洋民」未来社)。

 海の生命力

 不知火海の漁業はいまほとんど日帰り船によるつつましい漁である。繊細な魚のために彼らは岸辺の樹木を育て、自然の岸・磯を保ち、海の底をわが庭のように知りぬいた人びとによって漁の営みがされてきた。
 岸辺に山菜の萌え出で、梅・桜の花の咲くころ、海岸にはアオサが新芽を出し、ワカメが伸び、ヒジキがころあいになる。岸から膝を水にひたして海草をとり、アワビを打ち、ウニを突き、そして、それより先の沖には船を漕ぎ出すといった、渚から海への連続した採取の生活圏があってのうえでの前浜(眼前の海)なのである。岸辺の民、まさに海岸民族としての生き方を色濃くのこしているのがこの不知火海の漁民たちなのだ。それはひとつの気質を形成してきた。魚と人との共生といった原初の心ともいえるものだ。
 不知火海は産卵と幼生期の成育の地である。タイ・フグ・タチウオ・コウイカ・カタクチイワシはここで産卵する。ボラ・スズキは外洋で産卵するが魚卵は潮流にのって内海に入り、孵化した稚魚はここで成長する。魚の弱者たちの世界である。
 多くの魚はより大きな魚の捕食を恐れ、穏やかな浅瀬、または岩場・藻場で産卵する習性がある。そしてその稚魚時代のえさはウツボ(ツメタガイ)・カキ・エビ・カニなどの幼生である。それら貝類や甲殻類を豊饒に育てているのが八代から水俣沖にかけての水深三十~四十メートルの泥砂台地(潟)なのである。
 その各種の魚のすみかの条件のほぼすべてを満たす海底の諸相を、この海はもっている。
 外洋に接する八幡ノ瀬戸はもっぱらタイ・フグの一本釣漁場である。産卵にゆききする魚道を利して釣る。春、内海への「上りダイ・上りフグ」、冬近く暖流の外洋に戻るそれを「下り」と名づける。その中心漁村の深海(牛深市)は、全漁獲高の六割を一本釣・はえなわで上げる。「深海のタイ」といわれる好漁場なのだ。底に岩礁が多いため、網はひけない。
 水俣は温泉とタチウオ釣が名物である。
 その沖、中間にひろがる潟(泥)で夏、タチウオの産卵がはじまる。親のタチオウオは群なすカタクチイワシを好んで餌とする。カタクチイワシをとる網船をぬって水俣・芦北・津奈木・田浦・御所浦と四方よりタチウオ釣の船が集まる。銀色の太刀のように長身のこの魚は釣人を誘ってやまない(年間四百十六トン)。
 不知火海の風物詩として有名な打瀬船は、水俣沖の潟のエビをもっぱらとる横曳型の底曳船である。漁場までは動力で走るが、操業の時は潮流を利用し帆をはり、もつばら風力だけで網をひく。資源の濫獲をさけるための掟として動力は使わない。
 エビは稚エビの時代は北部の浅い干潟で育ち、成長してより深い中央部の潟にすむ。それを中央部から南部の海域でとるため、エビは毎年一定の繁殖をつづけている。このエビを主餌とするカレイ・タコ・コウイカなどの底生生物もとれ、打瀬船の漁師は「月給取り」のように安定した水揚げのあることに安堵の色を隠さない。そのかげに、稚エビをとらず、荒っぽい底曳をしないでつちかった「海の畠」があってのことである。
 網や釣漁の動きに混じって、タコつぼや柴をつけた、ねずみとり様のカゴを海に投ずる姿もめだつ。コウイカ・タコ・ボラ・クロダイをとる籠・つぼ漁である。海の穏やかさが利点である。
 北部干潟では四メートルに及ぶ干満の差を利用して、引潮には魚を五百メートルもの一列の竹柵で誘導し袋網でとる桁網漁やノリ・ハマグリの養殖が多い。
 冬場は磯立網を仕掛け二、三日に一ぺん網をあげにいく。寒いさなかの楽な仕掛けである。
 このように不知火海五千漁民はお互いに漁法を分けることで成り立つようにして暮らしてきた。表面を遊泳するカタクチイワシの群をとる者、中間を泳ぐタチウオ・クロダイなどを吾智網でとる者、底魚をもっぱら打瀬網でとる者など、分業しお互いに濫獲をさけるルールを体得している。そして、あらゆる魚種をくまなく手にする多彩な漁法を工夫してきたのだ。
 高級魚は市場に売り、漁家では主に雑魚を食べる、その食性は根深い。水俣病事件のさなかでも、少しでも離れている浜や磯のものは食べつづけてきた。みかけの鮮度のほか、選びとる基準はない。多少の毒も食わばもろともといった食の連帯が、浜辺の人びとにはあるのである。
 カタクチイワシ漁でつながった網元・網子の結びつきがいちばん手がたいものであった。古くは地曳の総出の時から、その分配の方法は網元のとり分、船主のとり分、そして網子のとり分とおのずと決められていた。そしてカタクチイワシ漁であれば、網に入った他の魚は公平に分けられ、網子のみならず余れば近隣に分けられた。(およそ魚を、金を払って求める漁村は、この十年ほどまえまでは不知火海にはなかった。)その共同性ゆえに人びとは等しく病むことになった。しかし一方、その運命共同体のありようを根底から支えたのは、やはり、海のやむことのない再生力であり、生命力でもあったのだ。

 魚眼から見る

 全国いたるところの漁村と同じように、不知火海にも年一年と漁獲の減るのを嘆く声を聞く。さきに引用したように、明治の時代から注意を促されていた魚にとっての岸辺は、地域振興・港湾整備・離島対策のよび声によって、高度成長期に大きく変容された。海岸沿いに自動車道ができ、人工岸壁が町にめぐらされた。稚魚にとっての隠れ場、憩いの場であった樹々は伐られ、岩礁は防波堤に変えられた。海岸沿いの田畑や内陸盆地の米作畑作地帯、海岸傾面の全国有数の甘夏・温州ミカン単作地帯からの農薬は水質を汚染し、藻場を衰弱させた。工場廃水は量を増し、とくに水銀汚染は強い打撃を与えつづけている。さらに近年は大型動力船の底曳漁法や養殖の急成長による公海水面の寡占化や、残餌の腐敗による海の汚れが漁民の脅威として立ち現れてきた。しかしその不知火海の変貌にかかわらず、魚類にとっての産卵成育の地としての不知火海の環境生態学的なありようは基本的に変っていないのである。自然魚の漁獲高は漸減もしくは横ばいでつづいている。そしてある周期ごとに打瀬網に大量のエビがかかり(一九七三年)、八幡ノ瀬戸に大ダイの群れが数十年ぶりの回遊をみせ(一九七八年)、カタクチイワシが大豊漁(一九七六年)といった事例がある。
 見方によれば満身創痍の海であるが、毎年春、タイ・フグは一カ月と周期をたがえず上ってくる。カタクチイワシも姿を現す。彼ら魚族にとっては、この内海のあるなしが生存に不可欠なのである。
 一九七六(昭和五一)年から現地調査を開始した不知火海総合学術調査団(団長色川大吉)は第一期の人文科学系の調査を終え、一九八一(昭和五六)年より第二次調査団(団長最首悟)を結成した。その中心テーマは生態系を含む自然科学・医学的調査である。第一回に不知火海全域のベントス(底生生物)と底土分析がなされた。徴生物から魚類、そして人との関連を洗い出す作業である。不知火海の蘇生のイメージを魚眼から見、その視点で不知火海のディテールを検索する作業である。

 死海の再生

 不知火海にとって依然水銀汚染は喉に刺さった太いトゲである。患者の認定問題(診断基準のあいまい性)、発見救済の遅れや放置など問題は山積している。そしていま環境汚染の源、水俣湾とその周辺はどのようになっているだろうか。水俣病発生当時死魚に満ちた水俣湾に、一九七〇(昭和四五)年ごろから水鳥が姿を現し、カキが帰り、ボラが廃水口付近にはねるようになった。昭和四八年に熊本県当局は、湾内の汚染魚の回遊を防ぐための網をめぐらした。ただしその三センチ四方の網目は稚魚の往来には役立たないものであったし、定期客船と貨物船の出入のために中央二〇〇メートルが常時開かれ、魚おどしの音響器も設けられたが、所詮魚の回遊をさまたげないものであった。
 一九八〇(昭和五五)年六月、一部住民の反対の声を制して水銀ヘドロ(二五PPM以上)百五十万立方メートルの浚渫が本格的にはじめられた。その総工費ニ百三億円に上るといわれる。
 その工事のすすめられている湾内では漁獲禁止の「安全水域」のためか、魚類の繁殖は目をみはるものがある。昭和五六年の調査によれば湾内魚の水銀汚染は依然つづいており、底生魚ほど高濃度である(カサゴ、総水銀一・九三五PPM)。魚たちは死に至らない程度の毒性を内蔵したまま繁殖しているのである。湾内に徴毒を帯びたプランクトンや稚魚が存在する。それを食うカキ・ウツボなど定着性貝類が付着し、ナマコ・アワビ・エビ・イカがすみついている。それらを好餌とする成魚、ボラ・スズキ・クロダイ・カサゴ・イシモチなどが遊泳し、仕切り網内で連鎖的な生活の環をつくっている。とりもなおさず食物連鎖がある。有機水銀はそれぞれの生物に固有に蓄積されつつ、その相互の食物連鎖により濃縮され、発症値に達する水銀蓄積を遂げる可能性も強い。それが死に至るまでの毒性に至らぬまま、不知火海全域に回避している。
 水俣湾は最汚染のまま、かつての豊饒な漁場性を復活せしめているのだ。この痛烈な自然の逆説に行政は半永久的に立ち向かわなければならないだろう。なぜなら浚渫埋立は二五PPM以上の濃度の汚染区域に限られているからである。机上の策は失効するほかはない。それにはせめて、最も魚を知り、海の底を読め、潮のことなどを熟知している患者・漁民・被害者たちの総体験を集め、その助言を求めるほかないであろう。
 不知火海にはまだ多くの発掘されていない被害者・患者がいる。そして今日までにその典型症状をもっていたと思われる漁民は死んでいった(そのほとんどが一九六〇年代)。九二〇PPMという毛髪中水銀量を検出された女性(昭和四二年死亡)が天草に近い御所浦・牧島に発見されたことは不知火海の人体汚染の深さ広さを物語る。今日、医学者は沿岸に二万ないし三万人の患者がいて不思議ではないと推定している。そしてその病状はかつてのように典型的な症状をそろえた形ではなく、全身にゆるやかに侵入した水銀によって引き起こされる慢性型の症状として現れるといわれている(武内忠男「長期微量摂取型慢性水俣病」)。それは湾内の魚類にみるように、汚染されつつも生活し繁殖しつつあるありさまとうりふたつである。水俣病発見当時、初発の集落名をとって月ノ浦奇病といい、やがて水俣奇病と転じた経過がある。いま水俣の水俣病の概念を改め、内海一帯の健康のかたよりを有機水銀の不知火海全域への拡散に重ねてみる、「不知火海水俣病」ともいうべき概念にきりかえるべきであろう。
 人類史上、最大の自然環境汚染と、その魚の多食によるヒトの大量有機水銀中毒事件の舞台となった不知火海は、その甦りについても実験の舞台の任を負わねばならない。一年の寿命のエビにせよ、十年の長寿のタイにせよ、人間の世代の交替よりはるかに短いライフサイクルである。その生態系の極微の世界からの再生から組み立てる思想に立つ時はじめて、魚そしてヒトの再生、ひいては不知火海全体のそれが望見できるのではなかろうか。
 海は病む。しかし死ぬことは不可能である。何十年かかろうともその海のライフサイクルの時間のスパンをもって、われわれはこの水俣病事件の今後を考えつづけることになるであろう。