水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 あとがき <1988年(昭63)>
 水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 あとがき

 いままで水俣病の映画をつくる中からいくつかの本を上梓した。運動者ではないので、本の題名に「水俣」とつけることはしなかった。しかし映画論めいたもののほかに、やはりそのときどきの現地報告をつづってきた。
 このたびは、映画づくりの流れで水俣を語ることにした。三分の一ほどはすでに発表したものだが、流れは新たに書きおろしたものである。
 「次回作は、その前作に規定されるー」とは畏友黒木和雄のことばだ。必ず前作で言えなかったものを次に語りだすという意味である。ふりかえってみると水俣、不知火海、原発にかかわる一連の作品は、前作の足らざるとこと言い残したものへのこだわりを胚種にしてきた痕跡がはっきりしている。逆にこだわりを許してくれた映画集団、青林舎、シグロなどとの映画づくりの関係性、社会への参加の自由さがあったればこそである。そのことが流れとして書きとめられたかどうか。
 まえがきは編集者のすすめもあって、水俣とその映画の現在というものであったが、書いてみると重くなった。とりわけ日本共産党との問題である。こと水俣に関しては党派の問題を映画で語ったことはない。しかしこのところ、「常に統一に背をむける姿勢」のあらわな作家と「赤旗」(一九八七年三月十五日、四月二二日)で規定されるようになった。「水俣」と「映画」を串ざしにする形において、である。
 この日本共産党からの征矢が私にむけられただけなら論ずるに足りないが、私の映画の対象である患者運動や水俣大学の動きにまで及んでいる。とくに川本輝夫氏の場合のように、私が滝田修とからみ、そこで川本とからみと、こじつけの縄をなわれると不問に附すわけにはいかない。だから「現在」を語るのにふれて、書き止めざるを得なかった。この本の序論としたわけである。この本の底流にある党派と私人との確執が、私の断ちがたい一貫したこだわりであった気がする。私をふくめて”おろかしき時代”への挽歌としたい。

 昨年二月、若い人たちが、私の処女作から最近作までの詳しいフィルモグラフィ(『土本典昭フィルモグラフィ』シグロ)を編さんしてくれたのを機に、私たちの水俣の映画にかかわったスタッフー製作、演出部、撮影、音響、音楽、解説、アニメ、タイトル、編集、機材ーを書き出したらちょうど八十名になった。助手から監督、カメラマン、録音などいまは第一線の人たちだ。『水俣の甘夏』(青林舎)をつくった小池征人・一之瀬正史氏や、『無事なる海』(フィルム工房)の香取直孝・樋口司朗氏などは明日にでも水俣映画を撮れる人たちである。『水俣病:その四〇年・五〇年』といった映画記録の継続も夢ではない。
 なぜにかくも水俣はわれわれを惹きつづけてやまないのであるうか。そのことを奇異ともしないで一緒に物事をすすめてきた八十人の映画人、観る運動を支えてくれた方がた、そして水俣映画に登場した幾百人の不知火海の人びとに感謝したい。
 言いたいことを勢いにまかせ、悪文の見本のような私の文章を格別の本に仕上げていただいた、新曜社の伊藤晶宣氏に心よりお礼申しあげる。