私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 わたしのなかのふたりー坂本しのぶさん覚書ー土本典昭
八一年四月下旬、水俣での関係者試写上映後、坂本しのぶさんから話しあいの申し出があった。映画の印象を聞く心づもりであったので嬉しくもあったが、彼女が映画のなかで重要な役割を占めていたし、俊さんの女人像のモデルでもあったのでこわくもあった。
少々こみ入った話の場合、しのぶさんのたよりとする医療活動家の堀田静穂さんが話に加わってくれた。以下その要旨である。
堀田「しのぶさんから今朝、私に電話があって、是非土本さんと話をしたいというので、じゃあ私の家でも、というのでお招きしたわけ。まずあんたから土本さんにお話ししたら」
しのぶ「あたしが電話したのは、堀田さんに電話したのは、あの映画みて、あたしのことをどうだつたか、堀田さんに聞いてみたいと思ったの」
堀田「そうだったわね。私の意見をまず聞いたのよね、私に。私は映画全体はまず良かったっていったわね。そして、あすこで描かれたしのぶさんにしても、加賀田清子さんにしても、とても良く描けてると思うっていったのよね。それから私が、あんた自身、どう思ったのって聞いたのよね。そしたら”ゾッとした”という意味のことを言ったので、どこがって聞いたのよね。いっそ、そんなら土本さんもいっしょのところで話したらといったわけ」
しのぶさんは即答のようには口がきけない。しかしこの一、二年、言いたいことは終りまで話すようつとめる。何度ききかえしても、正確につたわるまで、くりかえし話す労をいとわなくなっている。
堀田「土本さん、この人はね、なにか文句を言うというんでは全くないんですって。ただ映画をみたときの自分の気持を説明したいというのよね」
土本「言ってくれる。それはしのぶさん自身がうつされているところ・・・。それとも、自分がモデルになって描かれた絵のところ?どっちもかな」
しのぶ「あたしはねえ、もったいないと思ったの。(エッ、と聞きかえす)もったいないと思ったの。とてもきれいにかかれていて、このわたしよりきれいかでしょう。だからもったいないと思ったの」
土本「そうかなあ、いつもあんたはああいう顔をしているよ。カメラがあったり、写真をとったりすると固くなったりするけど。あんたを知っている人は、あの絵を見ただけで、ああしのぶさんだ、よくかけてるというと思うけど」
しのぶ「あのひとたち、とてもいい人たちだった。わたしは好きになれたの。でも、あの人たちは、わたしをきれいに描いたと思うの。そいで、もったいないと思ったの」
堀田「そのことはいいんでしょ。もうひとつのことがあるんじゃない」
しのぶさんは肩の力をぬいたが、すぐ次に話がすすまなかった。話のつぎ穂のように
堀田「このひとね、俊さんも大すきだけど、位里さんが気にいってるのよね」
しのぶ「そう、あのおじいさん、わたしのおじいさんみたいな気がする・・・・・・」
堀田「そうね。またおじいさん思い出してるのよね。この人のおじいさん、裁判前に亡くなったけど、このしのぶさんはいちばんおじいさんを好きだったのよね。どうだつたの位里さんについては」
しのぶ「あの人たち、あんなに年をとってから、こけえ来て、水俣のことば描くの偉いなあと思ったの」
土本「で、ゾォッとしたというのはどんな気持だったのかな」
堀田「いやあな気持?ちがう・・・びっくりしたの、絵に自分が赤ちゃん抱いて描かれて」
しのぶ「あんねえ、いやという気持ではないのよ。わたしも、そうなればいいなあと思うことがあるの。でも、それはあきらめている」
堀田さんは絵と現実のちがいを話した。それはすべてしのぶさんに承知のことのようだつた。私は話をかえて、亡くなった坂本しのぶさんのおじいさんを話題にした。最初に撮ったフィルム『水俣の子は生きている』(六五年)に水俣・袋・湯堂の坂本家の縁側で、ニカットそのおじいさんを撮っていた。そのことは、あまり知られていなかった。その話は、しのぶさんをさらに懐かしがらせた。次の機会に見せると私は約束した。
日の暮、もう話はいいという彼女と一緒に湯堂まで、私の車で帰ることにした。ふたりだけになって、はじめて彼女はロを開いた。
しのぶ「わたしの中には二人のしのぶがいる。いつも二人が私の気持のなかにいるの。ひとりのしのぶは、あの絵のように、わたしの赤ちゃんを欲しいと思っている。ずっと前から。おとこなら、男の若い患者には結婚した人もいるし、赤ちゃんもいるでしょう。でも、もうひとりのわたしは駄目だろうと思うの。諦めているの。・・・映画みたとき、二人のしのぶがいっぺんに出てきた気がしたの。寒かあち、何がゾォッとしたの。こわかじゃなか、いやじゃなか」
土本「いまのその気持、うけとった正直な気持、俊さんに話してあげていいかな」
しのぶはあわてたように笑って手を振って「うんね、せんじゃよかよ。わたしは、土本さんに聞いてもらえばよかと思ったの。言わんどいてね。約束してね」
坂本しのぶさんら若い患者を映画にとったのは三年前である。みんなではじめていっしょに行動し、成功させた「石川さゆりショー」の準備からその日とその後を追ったフィルムである。ハイライト部分は『水俣絶唱・わが街・わが青春』という特番でTVで放映した(七八年十月・テレビ朝日)が、あとは今後の映画のために保存してある。そのなかの未発表のインタビューシーンで、彼女はカメラに正面むいて答えていた。それは今の意見と全く同じであり、変っていなかった。
今度の映画のナレーションで、しのぶさんのシーンに重ねこうのベたー「彼女は自分より重い水俣病患者の世話をしたいとのぞんできた。しかしその途はひらかれていない」と。
その後数カ月たって、彼女と清子さんは、近く東京にきて託児所をいくつか見学したい希望をもち、その実現に周辺も動いていると聞いた。彼女の希望は「物もいえない重症の仲間、まだ喋れない赤ちゃん、そして中風のようになって言葉を失った老人」とその介助の目標の人像のはっきりしていることを知った。私はそのどれにも共通する”物言えぬ”ひとへの介助であることに眼を開かれた。彼女にせよ、清子さんにせよ、物言えぬ人との間に、独自のことばの回路をもっている。それはひそかな、しかし誇り高いまでの自恃ではないかと気づいた。ましてしのぶさんは、おじいさんの未期、その失った言葉のすべてを解読でき、おじいさんのもっともよき介助者であったことを、彼女の原点としているだろうと思った。こんなことさえ、『水俣の図・物語』を撮ったのち、はじめて気付くのだから、私はうかつだと思うのである。(坂本しのぶ・一九五六年生まれ)