私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 「水俣の図」にいたるまでー土本典昭 <1981年(昭56)>
 私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 「水俣の図」にいたるまでー土本典昭

 映画は言わずもがなであるが、その製作資金のけたが個人の才覚をうわまわる。いつも苦労するのはデスクの仲間、とりわけ高木隆太郎だ。彼は熊本県三角の生れ、水俣の映画は故郷のこととしてへその緒のようにつながっている。肥後もっこすと熊本の人は言う。
 その高木にして、ここ十年余の水俣病映画の連作で、経済的にも、上映配給などを含め青林舎の運営に疲れているはずである。その彼が欣然と「水俣の図」を映画に撮ろうと私に提案したとき私は少しくあわてた。
 発起は一九八〇年一月、松のとれて間もない頃、埼玉県東松山市下唐子の丸木位里・俊夫妻の画室で、制作半ばの大障壁画を拝見したときだった。麻紙に一万彫のように筆をおろし、二百余を超える被害者群像をかきこむ、その中心に観音像が浮き出しているという構図に魅入られて、彼は私に耳うちするいとまもなく、撮らしてくださいと頼み、夫妻からええよと返事を引き出していた。
 その帰路の車中、ふたりとも寡黙だった。高木は資金や早急の撮影準備の責任を思い、はしゃげるはずはなかった。私は私で、別の次回作を漠然と予定しており、今日、突然に、思わぬ入射角で視野に入ってきたテーマへの対応に思いあぐねていた。
 その夜半、水俣の石牟礼道子さんに電話した。製作に先立ってのスケッチや見学のための御夫妻の体験旅行の際、彼女は懇切な世話をし、絵の進行に心を寄せていたからでもある。私は映画をとるにいたった経緯を話した。彼女の声音から賛意を確めるつもりもあった。彼女からは例によってほのぼのとしたトーンが返ってきた。私は「丸木さんたちが絵を描かれるとは、”水俣”は幸せですね」ととっさに幸せと言葉に出した。「ほんとに幸せ。多分、”水俣”のうしろには光のかさみたいなのがあるんでしょうね。暈というか、仏様の後光のような、光るなにかが」
 それは水俣へのいざないの不可思議な力をうたがわぬシャーマンのような笑みをもっていた。
 思えばこの暈に魅入られ、何十人ものジャーナリスト、作家、写真家、演劇人、学者、研究者が水俣と相関わったことだろう。映画もしかり、さらにいま丸木夫妻が加わった。

 水俣でのこれら表現者・記録者たちは、個人の意志で参加した。自由にひとりひとりの仕事として取り組んだ。ジャンルの違いがあったが、こと水俣の取材・調査には相互につよい助けあいがあった。私の場合も、ニュース源や取材上の便宜をテレビ報道・新聞記者・写真家と分ちあってきた。それぞれの水俣のしごとの成就を本心願うからだ。かりそめにも、情報の独占やスクープなどといった世上の競争心はほとんどなかった。水俣病事件の本質がそのようなモラルを自ずと体得させていた。
 研究の分野は更にオープンであった。先駆的な宇井純の調査や、十年にわたる水俣病研究会(熊本・富樫貞夫、丸山定巳)の厖大な資料も、散逸には細心であっても、オープンであり、不知火海総合学術調査団(団長・第一次色川大吉、第二次最首悟)はその作風をついで広く開かれ、相互に資料のコピー配分の習慣すらできていた。その作風は一朝一夕に出来たものであろうか。
 水俣病を告発する会(代表・本田啓吉)の入会案内に曰く「水俣病を自らの責任でうけとめ、たたかおうとする個人であれば誰でも加入できる。・・・きたるものは拒まず、去るものは追わずの自由な組織である」。この思想的体質から、いかなる意味でもセクトになることはなかった。
 一九七九年、丸木夫妻が水俣にとりくまれるにあたって、私たちもいわば水俣流に協力したに過ぎない。夫妻の「原爆の図」から「水俣の図」への系譜は、その根底的一貫性において徴動だになく、いま水俣病闘争の持続をねがうものにとって援軍の最たるものに思えた。その成功を見守るつもりの私たちが、それを映画にとることになるとは、一見ごく自然のことに見えるであろうが、近しきは必ずしも等しからずであり、各自別々の仕事と考え、次回作にその絵をとるとは考えなかった。それにとりくむには水俣の映画の洗いなおしが私のなかで必要だった。

 私自身、映画の表現者である。運動者でも、まして患者の世界にも属し得ないものである。だから私たち自身を遇すると同じように、水俣病事件の記録の中で表現者も、運動者すらも撮らないできた。もっぱら患者とその病像、生活、あるいは患者の闘いそのものを第一義の対象ときめてきた。しかしながら、水俣にかかわる表現者の中に濃縮している水俣像やその思想は、カメラだけでは写し得ない不可視の世界を、その人格とともにまるごと掘り出せる可能性も秘めている。だが、それに興味をとき放てば、無限にフィルムがまわることになる。水俣の映像を一面資料と考えるとき、表現者たちの記録はいかに魅力的にせよ第二義としてきた。それに、それぞれの活動と事業は、出版物になり、写真になり、研究書になり、演劇になって完成をみるのであって、映画も映画でなければ表わし得ない映像活動に徹することで肩を並べることができると考えてきたからだ。「なぜ、いま、「水俣の図・物語」であるのか」。あらためてそれを考えるにあたり、映画活動の時間軸を通しての私たちの水俣表現の流れに触れるのを許していただきたい。

 俗に「十年ひと昔」という。水俣病事件史にも十年の間尺でのうねりが望見できる気がする。第一の波は一九五九年、第一次患者闘争と不知火海漁民闘争であり、第二の波は十年後の一九六九年、裁判提起よりはじまり、自主交渉(一九七三年)までの連続的な水俣病告発闘争であった。第一波にはるかに遅れ、はじめて私が水俣を訪れた一九六五年、水俣は”後遺病”の患者百十一名がひっそりと隠れるように棲む、いわば無風状態の時期だった。その四年後に噴出した第二の波頭を、当時は予想だにしなかった。一九七〇年、その波に乗り、高木隆太郎、カメラの大津幸四郎・一之瀬正史らと組んで「水俣ー患者さんとその世界」を撮った。時の運、地の運、人の運に支えられた作品であった。当時、この一作で言うべきは言い終えたと考え、あとの連作は考えなかった。だが、フィルムを上映し、巡回し、観る人とかかわるなかで連作に駆り立てられたといえる。
 日本はもとより七二年のストックホルム(スウェーデン)の環境広場よりはじめた海外上映行脚の中で、病像、病理、臨床、治療などの医学的側面の不備・欠落を指摘されそのような映画をつよくもとめられた。
 一九七三年は裁判判決をもって一つの”節”となった。節であれば、ことさらにその後の水俣病問題の展望を映画で探したかった。製作の中軸に「医学としての水俣病ー三部作」の医学研究資料の集成をおいたが、そのかたわら、闘争の記録「水俣一揆」(七三年)ができ、三部作と並行して、水俣病の在る生活の日日とその底知れない広がりを描いた「不知火海」(七五年)がつくられた。実に五年間に、中長篇七本を監督作品したことになる。
 高木はじめスタッフも息つぐ間もなかった。フィルムの上映販売より製作が先行した。一方では水俣病を過去の中に葬る体制の意志があらわになる時期でもあった。その汐のみるみる引くのを追うように生きいそぐ仕事であった。
 世界中の水銀汚染の拡がりをおもんばかつて製作した英語版の医学映画は、ボランティア活動として海外巡回上映をしたものの、一セットの需要もなかった。国内の医学関係・大学のそれも徴々たるものであった。すでに情報としての水俣病、ある価値の源泉としての水俣病闘争は急速に退潮しつつあることを仮借なく知らされた。

 その頃である。よく水俣病映画としてはワン・サイクル終ったのではないか、といわれた。「不知火海」は幕引きにふさわしい映画ともいわれた。だが皮肉にもその映画の終章で、はじめて見とどけた対岸、天草・不知火海の離島の患者群にふれていた。そのことが負担であり心のこりであった。次回作は、私の場合、前作とひっからまって浮かび上る。天草・離島が残っていた。
 七七年、私はスタッフと共に不知火海対岸の漁家集落で海辺の映画会を開く上映行脚、不知火海巡海映画を行い、そのルポを一冊の本にまとめた(筑摩書房刊『わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録』)。それは次なる映画の原本のつもりであった。その後も毎年春夏の不知火海総合学術調査の手伝いのかたわら、天草を再三一巡し、あるいは幼児のための映画「海とお月さまたち」で不知火海漁民の生活を撮るなど、身を次回作にすり寄せてきた。ときにその構想は夢のようにふくらみ航空撮影から海底撮影などを含むスペクタクル一大巨篇の観を呈し、その砂上の楼閣の通りに撮れば、一億円あっても足りそうにないスケールになるのだった。夢はこわれ、変形こそすれ、萎えることなく保たれていた。
 この十年の映画の流れはかくのごときものであった。

 「水俣の図」をとるにあたっての戸惑いは、今回の映画が「水俣をいかに表現するか」という新たなテーマにむきあうことであり、それまでの水俣・不知火海の現実を掘る作業とは趣きを異にしていることにあった。
 水俣を劇映画で描いてはと、かつて宇井純氏が示唆したことがある、「六〇年前後の急性激症期の患者や、当時の水俣はフィクションでなければ再現不可能だ。ある種のセミドキュメンタリー映画でなければ描けないだろう」と。たしかに映画は十年遅れて水俣に入った。ないものは撮れないと単純化するならもっともな意見である。しかし私は劇映画の方法をとる気になれなかった。
 学用フィルムに残る地獄図を見、遣された家族の話から想像する水俣病患者と演技者とがイメージとしてついに重ならなかったからである。まして患者の運動神経の異常、深部の痛苦、その人間崩壊の過程は、近似の病いのあらゆる実例をもってしても包括出来ないほど特異な病像であり、それは想像力の世界でしか追うことができないと思った。
 水俣在住十年近い砂田明氏の「天の魚」も初演の「苦海浄土」も、ともに能に擬し仮面をもってする語りの芝居であり、それも独り芝居に凝縮した作劇法は、その点選びぬかれ、それしかない必然をもっている。それは受け手の想像力にむけての作業だと思う。映画もまた、その想像力を喚起すベく、自然・社会・生活・人間の諸行動の質感にこだわるべきだと思ってきた。観る人の想像力という媒介ぬきに、映像が劇として水俣病者を摸すことは、私の映画手法では思いつかないことであり、それゆえにこそ、勧進能があろう。そしてなにより詩が、絵画があろう。
 だが私自身、切に水俣病の原像に思いを馳せる一人であるのだ。例えば次のような光景である。「地面に体をうちつけますときに、あなた、骨と肉との間がぽっくりと離れて、指さし入れてもとどかぬくらいにぽっかり、深か穴のほげまして、ももたぶのところにですねえ。深うございますよ、人間の肉と骨のあいだは・・・。血でもなか、うつくしか汁の、溜っとりました。人間の汁のですねえ、娘でございますけん」(石牟礼道子『苦海浄土』第二部より)
 文字の世界の凄さに私は衝たれる。例えば「うつくしか汁」のアップをカメラはけっして撮れないだろう。たとえ”汁と肉”は撮れたとしても。まして、母のいう「娘でございますけん」という視線を映像化できない。ひとり詩の高みによってのみ、この哀切にしてリアルな描写ができたのだ、と思う。

 「原爆の図」「南京大虐殺」「アウシュビッツの図」を三十年余描きつづけられた丸木夫妻の描法に親しんでいるつもりの私にとって、「水俣の図」はまた大きくちがうものであった。何より、その大障壁画的スペース全面に描かれた二百人余の患者・漁民群像は多様多彩であり、その一人一人との対話のしかたがこまやかに浮かんでいた。「これは水俣の旅日記だ」と思った。ひとり描いては鈴ならし、もひとり描いては鈴を振る御遍路さんを俊さんに感じた。それらを否定するように墨に沈めていく位里氏。さらに抗うように彫り出す俊さんの点描の無限作業を見て、私は二人の内面の旅と葛藤をその過程で捉えようと決めた。
 初日、入手できたフィルムは延八分ぶん、つまり四百八十秒でしかなかった。毎日数百秒ずつ撮る。あとは肉眼で見ていることになる。だがそれは、完成図の分析にあとで役立つことになった。

 製作にあたって、まず決めたのはカメラマンであった。私の師にあたる映画生活五十年の瀬川順一氏である。同時に、詞と音楽にそれぞれ石牟礼さんと武満徹氏をもとめた。武満氏とは二十年近くまえ、羽仁進氏の「不良少年」「充たされた生活」「彼女と彼」の音楽担当としての知己でしかなかったが、その頃氏と酒をのんでの話に「いつか一度、映画のストーリーに即したものではなく、そのテーマだけで作曲して映画と合わせてみたい。異和感を生むシーンもあろうが、大きなうねりの中で、時に予想を超えた映像との出遭いがあるような、映画と音楽の試みをしてみたい」という言葉がつねに念頭にあった。記録映画のように、”劇化”を怖れる映画に、音楽はときに安易な感情移入の手段となる。どちらかといえば私は音楽の使用に禁欲的であったが、今回は自立した作品として音楽の参加を求めた。
 石牟礼さんの詞も同様、絵画にも映像にもとらわれず、彼女のことばと詩を自由に語してもらうことにした。
 もともと丸木位里・俊氏の「水俣の図」も映画のための制作ではなく、独立・分離した事業である。ならばそれぞれの表現が横並びになって水俣・海のテーマを発してしかるべきだとも思った。水俣病事件から受ける衝撃は多様であり、多角的であり、多彩であろう。その一見カオスの中から、”水俣”のパルスが飛んでいく。絵として、詩として、音楽として、映像として。そう決めてのスタートだった。
 さきに水俣でのさまざまの表現者が、おのおの自由に、しかしわがこととして仕事をつきつめた事情をのベ、その精神的協同にも触れた。今回の映画のなかでそれぞれの表現を横並びと位置づけたのは、かつてもそうであり、いまも現存する水俣の表現者たちのそれぞれにひとり起つその実像を摸したく思ったからでもあった。

 いま、ここでは映画「水俣の図」に着手するまでの流れと、表現者たちとのからみ合いのディテールに触れるにとどめたい。あと映画としての起承転結はすべてフィルムにのこり、シナリオで追って点検、批判していただけると思うからである。
 最後に、丸木夫妻から私の学び励まされた最大のものを述べさせていただきたい。
 私は丸木夫妻が原爆の図第一部「幽霊」を描いたときからはじまった輪廻を思う。自分の絵を運び、その絵の前に立って、批判に甘んじ、あるいは励まされ、三部作から八部作に、ついには十四部作まで描きつづけなければならなかった生きざまを思う。売り絵となるべくもない絵をかついでつぎの街、つぎの村へと歩きつづけた旅の総重量を思う。そこにはこの時代を原爆・反戦の側で自らの画家としての存在理由を確かめつづけた業を見る。もしその処女作を人手にわたしていたら、その「幽霊」一作で原爆の図は終ったかも知れない。
 私は二人の驥尾に付して私の旅を設定してゆきたい。次なる”水俣”を構想するにあたり、この作品を通して、映画的な力も鍛える機会を得、同時代に生きるより広い友人知己を得た。このささやかな私達の作品の流れに「水俣の図」はあきらかに活性として働いた。それを次なる「不知火海水俣病元年」に結晶させたいと思う。
 かつて、映画とは人と出遭う事業であると書いた。それはいま更に哀切に太い。