不知火海水俣病元年の記録-第二部・3 『暗河』 1980年 夏季号 暗河の会 <1980年(昭55)>
 不知火海水俣病元年の記録-第二部・3 「暗河」 1980年 夏季号 暗河の会

 また、ひとり

 先々号(一九七九年冬号)に「不知火海水俣病元年の記録*第二部」を書き出すにあたって、私は前竜岳町長辻本市之助氏の”樋島大橋架橋にあたり、何故トンネルで通ずる方法をすて、より工事費の多い橋を選んだか”についての辻本氏の言葉からはじめた。それは島民にとって、眼に見える存在としての架橋の方に托した、離島からの脱却のイメージについてであった。
 私は天草を訪ねるたびに辻本氏のいかにも旧家らしい広い玄関に立ったものだ。昨七九年夏、病院通いを日課としておられた同氏はさまで病みおとろえられたとも見えなかった。私は拙著をおくり、あけすけに実名でつづったレポートのことをおことわりし、更に話をきかせていただきたい気持をかくさなかった。半歳たって私は新年の賀状を出した。だがその返事は奥さんのちえさんからのものであった。
 「昨年十一月二十八日、主人市之助は膵臓ガンのため他界致しました。生前の御交誼を感謝致します。残された長男両造を主人同様、今後ともどうかよろしく御願い致します」
 両造氏は若くして県会議員となられた市之助氏のあとつぎである。七七年夏の巡海映画の折、この旅巡業に当惑の色をかくさなかった市之助氏が、豪雨の夜、中学校の体育館に休む私たちに、五千円の寸志をとどけられた。奥さんにはその折おめにかかったが、気品のある御内儀風の婦人であった。
 はじめ、レポートののった『展望』(七八年三月号)をお届けしたときは不問のままであったが、ついで『わが映画発見の旅』をお送りしたとき、文中の誤りを指摘した一文を頂いた。それには、私はこう書いていた。「現町長 田中弥太郎氏はつい四ケ月前の町長選挙で助役の座から出馬、対立候補の前町長、辻本市之助氏と町を二分する過熱した”政治闘争”の末、辻本氏をやぶって町長にのぼりつめた。」(同一三三頁)
 それに対し氏はごくひかえめに
 「この件は訂正される程でもないと存じますが・・・意図的に今の儘がよいとお思いなれば別にかまいません・・・。昭和五十二年竜力岳町長選挙には小生立候補して居りません。従って助役・田中弥太郎氏と町長の椅子を争った事はございません。二十年近く町長を致しましたし、町民の生活与奪の権がありますので、長期は恐ろしいものですし、小過の無い内に辞任致したいとの希望がありましたし、長男(両造)が四十九年、熊本県議会議員に当選いたしましたので強硬に辞退した訳です」
 全く私の取材上のミスであった。私はすぐにわび状を出した。
 ついでその返信に、水俣病発掘の熱意に感心するとの過ぎたことばについで
 「御承知かと思いますが、昭和二十三年頃まで、この竜力岳は全く外部との交通機関も船以外は無く、現在町の各部落間も、山を越すか船以外はなく、全く孤立した部落であった訳で、近親結婚、性病等によるか存じませんが、可成り現在の水俣病的患者が多くて、われわれ子供の頃『オロンベ』『ナエ』と称して、”あの家には『オロンベ』が居る”とさげすんだもので、貴殿の名を挙げておられる水俣病患者の中にも、その様な家系があるのです。そこで一般に水俣病に対する違和感が多いと存じます。充分御承知と思いますが、一応御参考までに。」
とあった。
 私は氏の誠実な対応に深く敬意を表しつつも、もしや氏の指摘されるある家系とは、私が実名をあげ一家眷族の水俣病として書いた森一族(葛崎)のことではないかと案じ、その後の熊本大学原田正純氏の意見をそえて書き送った。再び返書があり
 「早速御返事を戴きかえって恐縮に存じます。何んと申し上げましても、水俣病の発生の原因はまぎれも無くチッソですから、仮に日本農業の発展速度が落ちても、チッソは潰さねばならぬ企業であると思いますので、頑張って貰わねばならぬと思って居ります。
 梅雨晴
 チッソ(公害)の街に
 けむり見ゆ」
 と末尾に一句そえられていた。去年の六月下旬のことである。私信ゆえであろうが、辻本市之助氏が日頃水俣病のことについて公的に言及されていたと考えることはむつかしい。それというのも、竜力岳の水俣病の問題について、市之助氏が深く信義を交されていた、町立上天草病院の院長岡崎禮治氏の、同病院十五周年記念文集、それまで院内誌、「あこや貝」の巻頭に連載されていた論文を一冊にまとめた『海と空と島と』(発行所同病院)の全一六八頁のどの頁をくっても、水俣病の文字は一カ所も見当らないことから推量してのことである。また巡海映画の旅での感触もまたそのようなものであった。その元町長辻本氏にして”チッソを潰さねばならぬ”ものとのべられたことは意外ですらあった。そして恐らくよそものゆえに吐露された心境の一端であっただろう。日頃、ある畏敬の念ゆえに、私ごとき厚顔のものすら、テープレコーダーに記録することもノートにとることも憚ってきたが、今後はあえてそれを許してもらうことを考えていた。昨年夏も氏は「実はこの辻本家の先々代が天草の他の庄屋衆とかたらって、野口遵(チッソ創始者)の困っとったときには金を貸したり、原石採掘の権利を有利にしてあげたりしとったですよ。わたしらもチッソの繁栄をねがっとったことも、そん昔話にゃあるとですからー」とポツリといわれた。そこのところを聞きたかったからでもあった。それだけに辻本市之助氏の訃報に、またしても、天草のひとを失ったという深い嘆きがあった。

 青年町長と青年院長

 昭和三十九年七月、天草上島の島民の期待をあつめて作られた町立上天草病院に、現院長岡崎禮治氏をむかえるに当ってのエピソードを忘れることが出来ない。
 「ある日、熊大に青年町長といわれて名前だけは知っとった辻本さんがじか談判にこられたとですよ。町でとれたワカメの大きな束を一かかえもってですなあ。”ぜひ病院長になってくれろ”と机に手をついて”御承知いただくまでは頭を上げるわけにはいきません”ってですなあ。私はある大学にポストがほぼきまっており、一緒にいく助手たちにも口をかけておったときでした。それを棒にふって、辻本さんに私は賭けてしまいましたなあ。そりゃ真剣そのものでした。」
 当時岡崎氏は三十六歳。三角からは便船しか通わぬ竜力岳に赴任するには決意のいったことにちがいない。医師四名、七十床で出発した同病院を日本一のぜんそく病棟を含め二百床とし、職員百五十名をもち、周辺五万人余の地域医療をカバーする大病院に育て上げた岡崎禮治氏に自由に採配をふらしめた盟友として辻本市之助氏はあったようだ。『海と空と島と』には岡崎氏の毒舌ややゆにみちた訓話やエッセイに満ちているが、その中に次のような同氏への言葉がはさまれている。
 「・・・十年たってみて、町長の病院に対する接し方は絵に描いた理想図ではないかと思うようになった。私は公の席で町長を誉めたことは一度もない。むしろこのような離島の小さな町では、結婚式や葬式などの時に、私が町長の上席に坐ることさえある。たまたま病院新聞から与えられたこの機会を利用して”辻本市之助”という名前に町長本人の知らない場所で、ひそかに感謝を捧げたいと思う」
(同書八二頁)
 いまの私もこの氏の文章のしめくくりと同じ気持に近い。それに加えて、またひとり、天草の地から水俣病をとらえかえす眼を具えた人物を失ったとの思いが切実なのだ。

 潜在する不知火海水俣病の最も激甚と思われる樋島、御所浦島の諸島、そして倉岳、栖本の各町の人びとの中心的医療機関である上天草病院に、県の衛生試験所の昭和三十七、八年に調査した毛髪水銀データが手渡されていない事実については私の前著に詳説した。(それについてのレポートや拙著のことごとくは岡崎院長に送った。)以来、私は院長室で声はばからず、水俣病について院長と話しあうことが出来るようになった。
 「だけどですね、三分医療ということばがあるでしょう。三時間待たされて三分しか診てもらえんという。ここもそうですよ、日に多いときは百人以上診んならんわけです。しかもこの病院にかつがれてくる時は、死ぬのをとりあえずとりとめてくれろというところですよ、ここは。よほどのときでなければ病院にこん。きたときは死ぬ間ぎわです。交通不便のところですからなあ、離れ島の多くしてですね。だから、ここの水俣病発掘には、その専門の神経医がひとり要るんです。それがここの水俣病対策です。それに尽きるといってもいいです。幸いこんど解剖の資格のある医師も来てくれましたから疑わしい場合は死後解剖も出来ます。ただ、水俣病をよみとれる医師がここに貼りついてくれれば変ってくると思いますがなあ。」
 剛柔あわせもつ気性の院長の意見である。卒直な具体的内容をもつ提案であった。だが、それを実現するのに、現地医療の側の声だけで進むものでは決してないであろう。更にいえば、岡崎禮治院長にしても、地域漁民からの訴えと、医学者間の連繋や共同作業なしに、”意見”を実現させる熱意の持続は、天草の医療全体にみなぎる非水俣病的精神風土からみて至難のことにちがいない。

 『水俣病』の行商の中で

 ここ四年間、青林舎の高木隆太郎は、熊本の告発運動から鍛え育てられた実践家で、かつ研究者でもある有馬澄雄を編者に得、米田正篤、中村美和らの共同作業もあづかって、『水俣病-二十年の研究と今日の課題』を上梓することが出来た。幸い一九七九年度の毎日出版文化賞特別賞も得た。しかしその本の普及は約千部を限界に停滞していた(二千部発行)。その販路を汚染地の医師・医院・病院・地方自治体としての市町村当局に求めて、高木はすでに本渡、牛深、大矢野を歩いていたが去年ひと夏、私とほぼ同行して米田正篤は水俣、出水、そして天草、長島をまわった。一冊三万五千円の本である。顧客は限られる。だが米田がつてを求め、あるいは県医師会、郡医師会の名簿をもとに、総あたりした。その結果のデータとその折の相手の人たちとの対応ぶりは、水俣病への関心をはかるひとつの物指しとして見られなくもないものであった。とくに天草は映画会への医師たちの反応は極めて鈍いものであっただけに、この本の行商自体が医師たちへのある種のアンケートにもなった。しかし基本的にはつてであり、飛び込みは少い。人脈をたどるのに上天草病院の岡崎氏の名刺は威力を発揮した。それにしても、本格的な水俣病に関する医学資料の普及はこれが初めてであったはずである。

 天草上島下島の不知火海沿岸は新和町をのぞき、全市町村の役場又は図書館がこれを購入した。すなわち、姫戸町役場以下、竜力岳、倉岳、栖本、河浦、御所浦町の各役場、本渡、牛深は市立図書館がこれを備えることになった。また養殖王国の鹿児島県出水郡東町の漁協は巡海映画以来、逆縁でつながれた漁協組合長宇部時義氏が即決でこれを買い、東町の開発センターもその縁で求めてくれた。これらの半ばは巡海映画運動で鋤き込んだいささかの面識がものを言ったようだ。
 問題は医師、医院である。販路コースの不知火海沿岸の医師関係総あたりの結果、ほぼ三分の一がこれを買った。さすがに汚染地だけに、その販売実蹟はそれでも水俣周辺より高率である。水俣の医院が「もう今更知るつもりはありません」とか「わたしの方が水俣病については熊大の先生がたよりよく知っている」といったたぐいの一蹴の仕方が物語るように、複雑に屈折しているのにひきかえ、天草では「遠路はるばる…‥・しかもつてをたよって来たからには、買わぬわけにもいかない」といった風情がベースにあった。
 また不知火海沿岸の開業医に熊本大学・鹿児島大学医学部の出身者が多かったことも幸いした。
大矢野町/大野医院 姫戸町/姫戸医院 竜力岳町/上天草病院 倉岳町/蓮田医院・小松診療所 栖本町/栖本(結核)療養所・本原医院 本渡市/ニュー天草病院・永芳医院・酒井精神病院・鶴崎医院・行徳医院 五和町/はまゆう学園(重度身体障害施設・長野医院 河浦町/野田医院 年深市/富田医院・河野医院・佐藤留雄・酒井外科医院 御所浦町/町立嵐口診療所 天草郡医師会(尾上公敏)以上二十一冊。
 およそ七十から八十あると思われる天草の医院のうち三軒に一軒が求めた感じであった。その医院遍歴の中で、医師の老齢化を知らされた。隠退しようにも、住民がそれを許してくれないのでやむなく開業しているとのべた七十歳、八十歳近い医師もいる。
 「もう眼のかすんで、みるのは患者とテレビだけですよ。こんなこまかい字はとても読み切らん」
 「もう勉強するだけの気力がなくてですなあ、買っても読まんですよ。」
 と、やや困惑顔でことわられることが多かった。それも無理からぬこととひき下るだけの老いがめだった。
 この行商のなかで、水俣病についての行政側の指導や指示が皆無なことをあらためて駄目おしするように知らされたものだ。水俣病は熊本や鹿児島大学医学部だけが扱える”難病”かつ”難問”として、開業医の関知せぬことといった”常識”がこの二十年間地元にこりかたまっていた。

 医師にも知らされぬデータ

 たまたま、倉岳の漁師町宮田の小松診療所を訪れたとき、私は、二十年近く前、県の衛生試験所の松島技師によって九百二十PPMもの毛髪水銀を検出されながら、何の医事行政の救済もなくへい死された、御所浦町、椛ノ木の松崎ナスさんの話をきくことになった。この人の死亡診断書を書いた医師が、ここの開業医小松良男さんであり、つづいてその夫松崎重一氏の死をも看とったことを知った。私は御所浦町ゆえ、町立嵐口診療所だろうと勝手に推量していたが、離島・御所浦のなかのはなれ小島・牧島の椛ノ木の人びとは思えば指呼の間にある対岸の宮田の医師にたよっていた。浦と浦をつなげてみればこの宮田に救いを求める方が、距離的にも生活的にも当然である。
 熊大医学部出身では、病理学で水俣病の権威でもある武内忠男さんの教え子であった小松医師は、武内氏とのそのつながりから、決して水俣病に無関心ではいなかったという。
 その小松医師すら、死ぬまで脈をとった松崎ナスさん(記録上世界最高の毛髪水銀保持者)について
 「もし、その毛髪水銀データをちっとでも知っとればですねえ、その眼で見たでしょうばってん、何もそうした手掛りはなかったですから。それはひどい衰えようのまま長く寝ておられたですねえ、松崎さんの奥さんは。・・・わしのとこに看にきなさったとは当然です。あの椛ノ木の人は籾をするにも船でここに来てやっとらしたし、塩、タバコをかうにも、焼酎かうともこの宮田でしたもんね。昭和四十二年ですか亡くなられたのは。私は息をひきとったあとにみにいきましたよ、船で。もう完全な老衰と思って、そう書いたです。ふるえのしびれの運動失調ですか。それらの分るような段階じゃなかったですよ、そもそも初めて船で往診したときには。もうどうもこもへたって寝たきりで、馬鹿んごつなっとってですなあ。あとで九〇〇PPMの何のてきけば可哀そうだったなあと思いました。県も連絡してくれとればですなあ。わたしも何か出来たかも知れんですが・・・」
 四年前に亡くなった重一氏の場合も「老衰」と記したという。川本輝夫さんの強いすすめで、申請する気になっていたものの、以後、消息は絶たれがちであった。ただ宇土の三角町にひとりのこるむすめさんがその一カ月ほど前に小松さんの奥さんを訪ね「何も言わんでただ、カルテのうつしと死亡診断書をとっていかしたです」ということだった。

 相ついで潜在的な患者と思われる人びとの死を知り、そのひとつひとつをつなげて歩きながら、医師たちが出遭っているはずの実見を、もし水俣病発掘の動力にそってつむぎ上げるならば、そこには不知火海水俣病といえるひとつのパターンが描き出されるにちがいないとあらためて思う。
 上天草病院にも毛髪水銀データは報らされることがなかった。まして地元の開業医に水俣病の情報は届けられなかった。この中で、現在、岡崎院長が、常駐の神経内科にくわしい、水俣病を診断できる専門医の赴任をねがわれようと、よくよく県の医事行政の転換がないかぎり、実現することはむつかしいであろう。さらに言えば、天草の人びとの中から、その緊急必要性を求める声があがっていないからでもある。

 汚染の拡がり

 拙著『わが映画発見の旅』をだしてから、さまざまの方からの御教示を得ることが出来た。その中で、汚染の拡がりをどうとらえるかについて、『水俣病』の中で 『実践究明の方法論と認定審査制度』の一章を分担された宮沢信雄氏からNHKの新任地静岡より長文の書信をいただいた。(ちなみに”不知火海水俣病”ということばは氏が初めて使われたと記憶する)
 それは、私が汚染の拡がりを、水俣を中心軸とした同心円でとらえることは失当である、潮の道が不知火海にあるとすれば、その海の底に飛び地的に濃厚な水銀汚染があるかも知れない、つまるところ、その汚染を同心円として水俣中心にとらえる概念に異をとなえた部分について、宮沢氏は適切な助言をかき送って下さった。心こもったはげましについで、「・・・これは事実関係というより考え方の問題で、皆で議論する必要があると思いますが、例の水俣湾を中心とする水銀汚染のひろがり方についてです。私がかねてから『模式図的に言えば同心円状に濃度をかえながらひろがっている』という言い方をしているのに対して、土本さんは、その考え方は検討を要するとおっしゃっています。このことについて、まず整理しなければならないのは『汚染』という言葉の意味内容だと思います。チッソから流出した水銀そのもののひろがりという意味での汚染は、百間港経由であるにせよ、八幡水俣川経由であるにせよ、物理的な法則に従いますから、基本的には同心円状に拡がっていると考えていいと思います。ただし『潮の流れる道にそって、かなり濃厚な汚染が遠くに及んでいる』というのはその通りだと思います。もうひとつの内陸部も含めて不知火海沿岸の人々が、人体に実際に受けている『汚染』という意味では、・・・基本的・模式図的にはやはり同心円状だと思いますが、こちらは『潮の道』に加えて、魚の回遊とか、どこで漁をしたか(三十五年以後、つまりアセトアルデヒト生産がより盛んに行なわれていた時期に水俣漁協が自主規制している空隙に乗じて、遠くの漁民が、かなり頻繁に水俣湾とその周辺に漁に来ていたことを裏付ける資料-水俣漁協から各漁協への抗議の文書が(芦北郡)湯浦漁協にありました)とか、恒常的な行商ルートの存在とかによって『飛地的な濃厚汚染』が実際にあるからです。・・私は今いったふた通りの 『汚染』を混同して使っているようですし、まして文字通り受けとられると『水俣から遠い所では症状も軽いはずだし、被汚染者も少い』ということになりかねない危険もあるわけですからそういう意味で土本さんの検討を要するという御意見に替成です。要は汚染を受けたと思われる(それは不知火海とその周辺全域です)人びとの二十数年来のくらしぶりや被害のあらわれを、あるがままにとらえるかどうかということです。それが本当になされれば、おそらく土本さんがおっしゃることも、私が言っていることも、それなりに正しいことが立証されることでしょう」宮沢氏の懇篤な整理と指摘に感謝しつつも、この二年程の経過で、私をあわてさせているものは、宮沢氏のいう「二十数年の不知火海の暮しぶりや被害のあらわれ」をとらえやすかった典型的な病像と生活歴の病者が次々に死んでいくことだった。その一群の人びとが水俣病として診断されたなら、その人びとを頂点として、その麓に拡がる生活母集団に眼を注ぐきっかけともなろう。これがないまま時の流れることを目撃してきた。それに加え、天草の住民の分りやすいしかたでの理解もまた、水俣病の中心は水俣にあり、ここは遠く離れた天草だという、同心円を逆に見る意識もまたつよくあるのである。潮の道を熟知する漁民にしても同じなのだ。

 私の”仮説”と汚染の実態調査

 よく大ざっばに「沿岸住民二十万人に何らかの人体汚染がないはずはない。少くとも万単位の健康被害者、水俣病患者が不知火海にすむ人びとにある」と言い、それににたニュアンスを私も、映画のナレーションで使った。そうだと思うからだ。しかし。現地天草で同じ言葉を語った場合どこか説得力に欠け、ときにホラと思われはしないかという気おくれを感じさえする。              一 そうした気おくれにあらがいながら歩いてみると、天草の確かな生き証人として挙げられると思われる被害者たちは、調べれば調べるほど、その生活歴において水俣とのつながりが判然とするのである。本誌、先々号にのべた運搬船の船長(天草・姫戸町二間戸・死亡)にしても、老漁夫(二間戸)樋島の二代つづいての病死者(竜ヶ岳、樋島)そして同じく樋島の胎児性様の申請者、橋本めぐみさんにせよ、皆水俣の同心円の中心部に近づき、濃厚汚染をわが躰に摂り込んでいた人びとであった。「漂着魚をとってたべた」「泳いで漂るく魚はたべとった」というたぐいの話にことかかぬにせよ、ひとりひとりは天草・不知火海沿岸二十万の被害という言い方に決して同調しないであろうと思われた。天草の地から見れば水俣はやはり遠い。「同じ不知火海に生きているからといって、あの水俣と一しょにしてはもらいますまい。天草で水俣病にひっかかった人は、それなりに理由があろうはずだ。沿岸住民二十万とひとくくりにはせんでほしい」ときり返されるだろうこの生活者の”原理”にうちかつ推論の根拠を私たちはもち得ていない。私がのべてきた”海の中の汚染の飛び地、海の中の潮にみちびかれたヘドロ汚染”の系は、主に弘田礼一郎(熊本大学理学部)氏の一九七四年に発表された『有明海、八代海におけるプランクトン中の水銀量』の論文によって類推したものである。即ち植物性プランクトンにみる総水銀は、水俣湾内のそれより、水俣より十三キロ離れた鹿児島県の獅子島と熊本の御所浦の中間、元の尻瀬戸のそれの方が多かったというデータにもとずくものであった。
 「大潮のときの潮の早さはまるで河じゃでなあ。みれば一ヒロも二ヒロも水かさがせり上るごつ見えて、ろ舟も漕ぎきらんじゃった」という漁師たちの話をそれに重ね、水俣からの水銀ヘドロが、恒流と干満の規則的な流れによってすじ状に導かれ、海底の丘や瀬のかげに堆積し、飛び地的な濃厚汚染をもたらしてはいないか。つまり同心円的な模式図を静態とすれば、不知火海から外洋にむかう潮流の瀬戸瀬戸の上になぞることの出来る蜘味の巣状の図形をもった汚染図が動態としてイメージできないか。その”仮説”にいまもこだわる。
 水俣沖六キロのハモなわで主に収入をあげる倉岳町の曙、宮田の漁師、黒の瀬戸(九州本島と長島の間)、八幡瀬戸(天草と長島・獅子島間)のタイ、ガラカブ、イカ、フグ等の底魚の一本釣りの成り立つ好漁場が、プランクトンの棲家である瀬や岩かげといった穴場としての条件そのままヘドロのたまり場になっていはしないか。それを素人の私が”仮説”として、とらわれているのは、自ら漁場をえらべ、自由に漁の出来る一本釣、はえなわの漁家に水俣病様の患者・患児が出ているからである。深海町の長松季利さんの家の二人の患児や御所浦横浦の岩本文則さんの娘真美さんとその一家の例があるからである。(「わが水俣病発見の旅」参照)
 弘田礼一郎氏のプランクトン調査論文や、私の仮説に興味をもたれたのは新潟大学工学部の鈴木哲氏であった。氏は昨年夏、水俣湾外一キロ附近に帯状に十PPM前後の水銀ヘドロの堆積があることをつきとめられた。それは今まで水俣湾よりのへドロは百間排水口漸次減り、湾口附近では一PPM前後という水俣湾内だけでひろった、限定的なデータから飛躍し、湾外の沖に調査の眼をむけることで通説を破ることになった同氏は阿賀野川の水銀汚染について、農薬が新潟大地震によりその下流に流れこんだとする被告側(工場)の主張に対し、川にそって繁茂する樹、とくにその根が川の水を吸収している状態の自然樹を輪切りにし、その年輪ごとに、水銀量を経年的に検出し、上流の発生源の工場より下流までに至る水銀流出を証明された方である。これには極く少量の木片やヘドロからでも正確に水銀を検出できる分析機器が開発され、その検出値が公式に認められるようになって初めて可能になったという。鈴木哲氏はその興味のしんと探求の可能性を語られたあと、それを用いて、今後、植物性プランクトン値の異常に高い元の尻瀬戸を調べたいとのべられた。そのためには数十メートル間隔で深さ五〇、六〇メートルの深さに達する底土採集装置をつくり、その底土堆積状の層ままコア状にとって堆積の層ごとにいわば経年的なアプローチをもって分析したいというものだった。「一体何年かかるかな」と鈴木氏は海図とにらめっこをしておられたが、年に数十日をそれにさくとしても最低三年はかかろうという試算であった。元の尻瀬戸だけでも実証できたら、あと各瀬戸により合理的な調査の方法が発見でき、不知火海の自然的物理汚染の全貌が浮び出て来るだろう。
 それは映画記録に値する意味で、私をつよくはげますプランであった。こうした一点集中でかつじゅうたん爆撃のような追跡こそ科学者のロマンに思えた。その実現がいつにせよ私たちに先立ってできることとして、潮流のコマ撮りといった、映像で可能なことに協力したいと考えもした。だが新潟の研究者であり、熊本の学者でないことの不都合は、予算、スケジュールともにあろう。”越境研究”として陰微にいびられたりはしないだろうか、不安材料は指折りできる。

 栖本の農業地帯の水俣病

 天草をまわるにあたって、宮沢氏の手紙にふれられた、山間部住民の魚の行商ルートから推定できる飛び地的汚染、他の都会に出て埋没している元不知火海・元水俣周辺の被害者たちを思い出す。それはいますぐにも着手し、追跡できることだ。それにひきかえ不知火海の海底汚染といった、いつ黒白のつくかさだかでない問題にかかわりづらうことは何なのか。それはやはり巡海映画でいつしか身と心にしみこんだ天草への想いというべきか、私をそこにひきこむ天草の人の手まねきを見たからだというべきか。
 そういう想いを抱くだけに、天草の人びとに「あなた方も、不知火海沿岸二十万人のひとりだから・・・」という形で接することができないでいるのだ。

 たまたまそうして頭を抱えているとき、次のような具体例に出くわした。
 栖本の農業地帯に”農業”で生計をたてている住民のひとりに、原田カヤノさんがいた。大正十一年生まれである。この人は、水俣の患者多発部落出月の患者浜元二徳、フミヨ姉弟の長姉である。水俣でも少ない一家全滅の典型的な水俣病一族である。そのカヤノさんは水俣(70)病発見の昭和三十年頃、彼女は嫁ぎ先の天草・栖本から水俣に泊りこみで看護に来て、当時原因不明のまま父母と弟をみとりながら、毎日、最汚染時の魚をたべつづけていた人である。この人が栖本にとついだのは昭和二十二年頃、それまで出月で漁家の生活をしており、どこから考えても、水俣病患者になるのは必然のしからしむとところといったひとである。闘争にも患者家族のひとりとして栖本より参加したし、彼女は裁判、判決には母の写真を胸に法廷にあった。その彼女にして、栖本では申請に立てないでいたのだ。
 指のしびれ、指先のからすまがり、足のもつれ、ひざのつっぱり、平地でもつっこけ、ころぶことがしばしばだという。私はまだ申請していないことに呆れ果てた。
 「しかしなあ、栖本でしょう、ここは。農家だしなあ。誰もうちかもうてくれんとですよ。わしも見苦しゅうしてなあ。そりゃフミヨも二徳も『なんで姉さんは申請せんとな』というばってんなあ。ここにはひとりも患者が出とらん風なげな。もし申請して、もし通れば、風当りのきつかは、せんでも分るがな、申請してみんでも・・・。」
 こんな話のやりとりの中で、ふと彼女は、「まだ他に二、三人、わしのと同じもんがおるから呼んでみようか」という。つれだって、灸の、マッサージのと良か治療があればバスで一時間の本渡市にまでも通ってさるく仲という。

 娘の頃水俣に

 電話をかけてものの五分もして、小ざっぱりとした婦人が来た。鶴田房江さんといい五十五歳の農家の主婦である。症状はカヤノさんとまったく符合しているので省く。彼女は湯の児温泉の三笠屋旅館に昭和三十年から五年間、仲居としてつとめていた・・・。それが打ちあけ話のような口調であった。「ここからはたくさん湯ノ児にはいきました」という。他の病人仲間も、湯の児温泉の仲居とか芸者の経歴をもっていた。つまり栖本の娘たちはつれだって、水俣の温泉にかせぎにいっていたのだ。誰もが今は四十から五十歳台である。水俣病発生当時、二十歳前後、嫁入り仕度の金をかせぎに対岸にわたった天草の女たちの二十年後にあたる。多くは栖本の農家の出身で、必ずしも漁家の娘でなかった。
 「湯の児は、ほれ、温泉と太刀魚つりでしょうが。水俣湾のは魚が汚れとるときいとったばってん、湯の児の沖のは、よかということになっとったですもん。客にもそう言えといわれとったしなあ・・・。お客が気味悪がって喰べんといえば、『何の、これはきれいかよ』といって、わたしらがまず箸をつけてたべてみせたですもん。太刀、ガラカブ、トンボ、クロイオ。魚があまるもんで、朝も魚、ひるも煮つけや焼き魚にして、三食三食とも魚ばっかし。それで、ここにもどったとが昭和三十五年。ほんで百姓して。結婚したとは昭和三十七年か八年じゃったな。それが昭和四十年頃から体のきつかして。百姓仕事がどもこもきつかですよ。・・・病院がよいしはじめたのは昭和四十五、六年からです。どこにいっても医師が病名をつけ切らんというとです。」
 この十年、本渡の堀田医院、下浦の渡辺ハリ灸師にかよい、思いあまったすえ、大分の祈躊師にもたよったという。最近はカヤノさんとつれだってハリにいくがバス代も入れると一回三千円。それがつらくて、貼りぐすりのトクホン、サロンパスなどでしのいで、一日か二日おきにしかハリの世話にはならんようにしているという。
 二人の話から出る、同病の初老の女たちの生活上の支障は寸分もちがわなかった。そのなかで水俣病を識るカヤノさんは世話役になって、皆で賦役のときの草とりや、祭りのときの御馳走の下ごしらえのときなど、体のきつくない仕事にふりあてられるようにとりしきったという。そんなにマメに人の世話をしながら、水俣病に申請する話だけは言い出さなかった。つまりカヤノさん自身がその気になれなかったからであろう。

 「やっぱ、天草じゃけ」

 二人を前に、あらためてカヤノさんに質問した。「あなたはお父さんの看病にもいった、お母さんの入院のとき、長く里帰りした、そのとき、魚もたべた、家中病気になった。そんなあんたが何故、申請されなかったんですか」カヤノさんは気弱にわらって「やっぱここは栖本じゃけ、天草じゃけ」とはたを見ながら言うだけだった。
 このカヤノさんの明るい、あけっぴろげな気性を初対面から私は好きだった。一九七〇年、初めてカメラマンの一之瀬正史と二人で天草をまわり一泊したとき、原田家の一家と枕を並べて休ませてもらった。部屋を別にして床をしくことが非礼のように、ふとんが重なるほどくつっけて寝かせてくれた。それが打ちとけた親しみの表現のようで私はいびきをかいて眠ることが出来た。
 その後、本渡で『水俣-患者さんとその世界』を上映したとき、彼女はバスにゆられてみに来てくれた「映画でお父さんにあえた。なつかしかった」という。二時間半の映画の中に数秒にすぎない、その父のおもかげを彼女は映画のコマをのばすようにして見たようだ。今度、巡海映画で栖本を訪れたときも、また父を観るために足を運んだ。「何度でんみてもあきんじゃった」という。そして米、ミソ、つけもの、うめぼしを宿舎の公民館に運んでくれるのだった。それははためにも目立つほどの親切だった。その彼女にして、水俣病のことをわが身に思い当っていながら口にしない、そして天草のひとに化身しようとしているのだった。
 私は手許にもっていた申請用紙と、水俣の活動家谷君がかいてくれた「申請の手びき」を渡し、水俣病とあえて病名をかいてくれなくてもいいから、今の医師に診断書をかいてもらい、それをそえるようにと助言した。鶴田房江さんと一しょに出そうという気になるまで、二時間ほど話した。そこで私は「申請書」なるものをはじめてこの眼でみたものだ。
 それはさておき、「あんた家のむこうの誰々さんじゃろ、河内の誰さんじゃろ」と二人で同じ境遇の人を指折るのをみれば五指に余る。あとどれだけの人がこの房江さんと同じ体験、つまりは同じ病苦を味わっているかにわかに想像もつきかねた。
 通常地元医師にとって「本籍・現住所とも天草郡であり、しかも農家・農業」と聞けば、カルテの上で水俣病とむすびつけることは千にひとつもないであろう。
 天草での巡海映画活動の対象も主に漁家集落であった。倉岳町も農村部では上映しなかった。やはり被害者も漁民や運搬船の人たちの中に推定していた。しかし農村部から若さや、労力を水俣にうりにいった季節労働、年期奉公の人々が意外に多くあったのだ。
 栖本の一斉検診は漁家の要注意者にだけ形式的に行われた。申請者ゼロである。この人たちはあえて水俣とのつながりを顧みて問診を求めることは一切しなかった。房江さんが言う「水俣におったっちいえば、自分で、水俣病じゃなかですかというととおなじじゃ。それはわたしから言い切らんもんなあ。じゃが、まわりのひとは、わたしが水俣のあん湯の児で働いていたとは知っとらすばってんなあ。」
 「そいが、すぐ、あんたら、金ば水俣病でとっとかなとしょねまれるもんですけんなあ、見苦しかあとわたしも思うとですよ」とカヤノさんもいう。
 「でも、あなたの弟や妹も患者さんじゃないですか、兵庫の加古川のあんたの兄さんも申請されたじゃないですか。しとらんのはあんただけですね、浜元家では」というと、
 「あん兄の一臣は魚はくうとらんよ、あれは普通のぴんぴんした体じゃが。昭和二十三、四年に水俣から離れとるもん。あれえ、申請しとったとかな」とカヤノさんは”裏切る”ようなことを喋り出した。ちなみに一臣さんはその二、三日前に棄却となっていた。
 「あれにくらぶればわしの体は水銀づけじゃがなあ、まこて」と屈托なく大笑いする。まさに水俣の多発部落の出身で、半ば水俣の人であった原田カヤノさんにしても、そのことを強いて自分の盲点にひそませて生きてきたようだ。だが天草の水俣病様の病人の誰でも口に水俣ずまいを言いつのりはしないが水俣での生活のディテールを忘れているわけではない。むしろ他言しない分だけ鮮度を得て記憶されている。姫戸町・二間戸で水俣病と確信しながら、水俣市立病院で、「水俣病ではない。他の病気である」と病名不詳のまま”恥をかかされ”悶々として死んだ運搬船の船長、堀江充松さんも、水俣での船上生活の日常のはしばしまで覚えていた。「ある日、仲間四人で湯ノ児沖に太刀魚つりにいったですたい。そんときつれた太刀を包丁で開いてみたら、身が鉛色で気色のわるかったもんな。しかしあんまりとれんかったので、焼酎のいきおいで、たべてしもうたですたい。あれが一番いかんかったといま思い当るとです。あればくわんばよかったとなあ」と問わずがたりに語ってくれたものだ。
 この鶴田房江さんにしても、湯の児の旅館の仲居さんの二十四時間を彼女の脳裏に事こまかく思い浮べられるような風だった。朝も宴会のこりの魚にみそおつゆで毎日、魚のきれんときはなかったと語りながら何かに思い当っていくようだった。それを語るときは、わが躰の不自由を”水俣病”としてシヤバに訴えるときでしかなかったろう。それも世話やきで豪快ともいえるあけすけなお人柄のカヤノさんにうながされてやっと語り出したものだった。

 指定地域

 私は二人を前に、「公害健康被害補償法・認定申請書」を説明して、はじめて詳しく記載の事項を一つひとつたどった。
 氏名、生年月日、住所、通勤・通学先等の名称及び所在地と書きこむことになっているのは当然だが、「健康状態の概要」「当該疾病について受けている療養の概要」の項についで、次の記入欄がある。「指定地域に係る水質の汚濁の影響により発病することになったいきさつ」を記せ、とある。「発病のいきさつ」だけで充分ではないか。指定地域とは水俣市、芦北郡、出水郡といった法定汚染地域のことであろう。それに「係る水質の汚染の影響により」とつづく文章に、天草のひとは、その水俣病圏外におかれていることをあらためて思い、書きすすめたペンもそこではたと止まるにちがいない。「指定地域」とは、これは政治の詐術である。水俣病を水俣附近に封じこむ策略の作文である。私はすでに水俣で、この項目を読んでいたはずである。そのときこのおかしさに気づかなかった。その同じ申請書を、天草上島、栖本の二人の婦人を前にして指でたどりながら読み上げ、はじめて、そのことに気づいた。”天草”がないのだ。私は半ばいきどおりながら、いわれなくうろたえた。私はやはりあえて「不知火海沿岸二十万人」の被害と言い切って物事を考えるべきだと、その時思った。             (つづく)