不知火海水俣病元年の記録-第二部・4 「暗河」 1980年 秋季号 暗河の会
ー深海の町に水俣病を想うー
不幸もまた一面
本誌の一号飛んだ半年のあいだ、私は子どもむけの映画「海とお月さまたち」という、生まれてはじめてのメルヘンを撮るため、天草下島の牛深市・深海に八十年三月より約五カ月滞留した。「深海の鯛」のあの深海である。そしてここは不知火海の水銀汚染の歴史の中で、昭和三十四年、昭和四十八年の二度の”不知火海漁民闘争”のつねに圏外にあった漁村である。とくに後者のときは、岬ひとつへだてた河浦町、宮野河内漁協までが、いわゆる不知火海三十漁協に連判した(前者のときは新和町大多尾までであった)にも拘らず、ここで不参加の一線が劃された。その点、深海は内海漁場に位置するにせよ、不知火海の汚染をわがこととしなかったし、漁場の異変や、魚価の暴落にもほぼ無縁でありつづけた。そのことが、私にとっては、かつてあり得た不知火海漁民の生活と意識のもっとも色濃く残る漁村に思われ、その名の示す幽幻なひびきとともに、心惹かれつづけるものがあった。それだけに、「好きなテーマで子供むけのドキュメンタリー映画を」というN映画研究所より製作の依頼があったとき、取材の地をまず深海に決めた。このことから映画を構成するという手順をとった。記録映画で長期取材することによって、半ば一時滞留者として、その地に生活できるメリットは実に大きいものに思われたからである。
しかし、”水俣病”をこの映画の中にとり上げることはしなかった。それは後日に托し、専ら、漁法の多彩さと生活のさま、それに古くからの木造船の造船技術といったものを記録することにした。
その二年半程前、(七七年秋)私はこの地で巡海映画会をもち、水俣病映画を見せ、かくすことなく、私たちのもつ危慎-水銀汚染のこの地をも含む可能性について、会場で訴えた。ビラまきの中で遭った胎児性水俣病様の少年と幼児の兄弟のいることは、同家の猫の狂死もむすんで活字にもした。もちろん、素人の観測であり、危倶に近いものであったか、私はその掲載誌をこの深海の親をはじめ、有力者に数部郵送し、私のよってもってたつ立場をあきらかにした。
七九年夏には、石牟礼道子さんとも、見舞いをかね病児たちの家を訪問し、話もおききした。また旧深海村時代の村長を一期つとめられた、歴代小庄屋の当主橋口重敏氏にもお会いし、水俣病研究・調査に関心をもつことをおはなしもした。当時うさん臭さをもって応接した漁協の人たちも顔見知りである。そんなこともあって、払たちに『海とお月さまたち』と題する子供むけの記録映画をとると申し出られても戸惑いがあったであろう。深海漁協組合長・浜下喜久男氏と町のスナックで初めての夜泥酔に近くのんで撮影の協力の約束を得てから二日後、「わしゃあんたらを信用しとるばってん、こういうことは一人だけで決められんし、水俣病のことはうるさかじゃっで、牛深市の社会教育委員会にも聞いたですばい。そこで、まあよかが深海の宣伝にもなるちゅうことで。その人とも相談して県庁にも電話したですばい、ほんとのところなあ。そしたら『あの人らのことは信用してよかばい、協力しなっせ』といわるるもんだから、わしも口では『引き受けた』とおととい言うた手前、気を揉んでいやしたが、安心したわけですはい。そうとなればな、あん健康な深海の子だけじゃなく、な、あの可哀そうな子ども(胎児性様の兄弟)もきちんととんなっせ。これも深海の子じゃもんな」
(あの子だけはとるな)というのが当然と思われるのに、予想外の意見だった。ためらう私に「どこんでん不幸のもののおる。・・・こん深海にゃ、むかし疱瘡が流行ったときな、あん下馬刀島(無人の小島)に流したちゅうこともあっとです。生きながら島に捨てたそうですたいな。あん墓はわしのこまかときまであったですばってん、大風で崩れてから、探しますばってん、分らんごてなってしまっとるですが、そんな悲しい話もあっとですよ。あん子らが水俣病じゃとはわしらは思っとらんですよ。思っとらんばってん、元気な子のかげに、あん、かわいそうな子もいるちゅうことをとり上げんば。それも深海の一面じゃけんな。」
私ははじめのうちテストをされつづけているようなまぶしさを感じていたが、次第に、漁協長の”ある思いあまること、あるこだわり”をいま、氏自身がほぐしておられるのだと思うようになった。そして次の機会には正面からあの兄弟を撮れるだろうと思った。
漁民社会の自己崩壊
度重なる杓子定規の引用で恐縮だが、一九五九(昭和三十四)年当時、疫学的調査が水俣より外延にむけられ、不知火海のほぼ全域の生物の異常をチェックする動きの中で、同年九月八日の『水俣食中毒部会中間報告会』が熊大で開かれた席上、熊大後藤教授より「不知火海沿岸各漁村(牛深など対岸地域を含む)のネコから多量の水銀検出」を報告され、喜田村正次教授らの熊本医学会誌(昭和三十四年)にも、牛深の猫の二検体のうち、肝臓に二十・二PPM、毛に三十三・一PPMをそれぞれ検出し、当時すでに注目されたものであった。そのことから、深海町より以遠の牛深までも水銀汚染の影響のあったことは推測された。
しかし一方、同じく一九五九年、熊本県水産試験場による各漁協の実態調査資料『不知火海の概要と水俣調査中間報告』によれば深海は同じ牛深の久玉漁協とともに「各漁業ともに漁獲量の漸減の傾向が数年前よりあるも、水銀汚染の影響と思われる現象は見られない」と報告されている。
以後、今日まで一回の疫学調査もなされないできた。水俣病事件発生以来伏せられていた離島・対岸天草に高濃度の毛髪水銀値が検出されていた事実が十五年ぶりに明るみ出され、世論に押されるような形でなされた一九七一(昭和四十六年)の一斉検診なるものにも、天草下島はその検診対象から無公害地域としてはずされていた。七七年、巡海上映を下島で行いながら、行政側の下島の被害の頭からの無視に抗う気特をもって漁家を見てきた。
新和町大多尾や中田といった旧定浦の船津地区にはしばしばハッとする程、水俣病に似た健康被害者に出くわしたし、深海に至って、兄弟とも四肢、紳経とも重度の不自由な障害児にあって、言葉を失った。常識的には水俣病とは考えられない遠隔の地であったからである。
ただひとつ、類似の例として、不知火海の出口のひとつ、黒の瀬戸の外洋側で漁をつづけ、死後解剖によって水俣病患者と確定された、鹿児島阿久根の御手洗常吉さんのケースを手かかりに、「水銀汚染が同心円状に拡散しているのではなく、潮の恒常的な流れによって、くもの巣状に各瀬戸に”飛び地”的に堆積し、遠隔地にもかかわらずそこを漁場とする漁民に健康障害をもたらしてはいないか」(小著「わが映画発見の旅」筑摩書房)という推測をつよく抱かせたものだ。
この自問にこたえることはいまなにひとつ出来ないでいる。それは負担の心情としてのこる。
だが前著をかき終えてのち、私は天草でみた漁村社会の変貌や漁業の荒廃、不知火海の総体力の衰弱といった事象を断片的につなぎ合わせるうちに、水俣病事件史の二十五年にまったく重なる形で、近代化と高度成長の急激な侵入によって、不知火海そのものが内部から腐り、自家中毒によって病む独自の二十五年を並行して閲しているのだという思いにもとらわれた。
水俣の場合、あきらかに水俣病の発生とその後の企業・県・国の患者切り捨ての策謀によって、患者のみならず漁民社会総体が滅ぼされた。その因果はほぼあますところなく明らかであろう。だが不知火海沿岸漁民の上にひとしくローラーのように重圧を加えて引き殺しているいまの行政は、漁民自身の内部の変貌と”自己崩壊”を手がかりに、易々と漁民切り捨てを行っているのではないかと思うようになった。
いま、新たに誤解をおそれず言うなら、水俣病が仮になかったとしても、同質の漁民の死は不知火海に進行してきたであろうという自問である。水俣病の惨苦は、その極限であり、その象徴であり、不知火海漁民の全面的な衰亡の兆しに立ちあらわれた最も赤いたて糸、よこ糸であった。その悲劇の光は原爆のピカのように網膜を焼いた。私が水俣病にぶら下るように関わりながら、水俣病事件の全体像を見たいと思うに至るまでの十年は、水俣の中にあって水俣をみることであった。そのことによって不知火海の漁民社会の衰亡も、水俣病事件を中心軸に置いて演鐸的に、論理先行的に見る性向から脱し得なかった。くわうるに、私の旧左翼的思考パターンがわざわいする。たとえば、海の汚染を水銀汚染に集約し、漁民社会の崩壊を”公害”に原因すると四捨五入する政治主義が言辞や行動に色濃くあったのではないかということである。
映画のフレームが水俣の天地左右であるとき、その性向はさまでめだたなかった。またテーゼ的には”政治主義”であってほならないと意識してきたこともあって、辛うじて作りつづけてきた。しかし、”巡海映画”以後、その”政治主義”がこわくてならない。寓話にある少年のように、いつも「狼が来る」と言いふれて、けだしあるべき可能性のひとつを、現実そのもののように混同するの愚を冒してはいないかと。
「海とお月さま」は、不知火海漁民の漁法やその中の生活を描くものにし、水俣病のことは触れていない。子供に、自然から物を得る暮しのあり方を、月を第二の太陽とする漁師のこよみ、太陰暦の世界の中でとらえてみようとするドキュメンタリーであり、そのフィルムは、将来、不知火海の全体像を映画で描く場合、ぜひ必要な記録のしごとと考えた。こうした映画づくりは水俣にかかわってはじめてである。深海に、合宿所と下宿をもうけ、半ば旅人、半ば生活者のように暮せる五カ月間、私は折にふれて、水俣病以前の漁村のあり方を深海に索めた。それは半ば期待通りであり、半ば外れであった。深海こそ、いま水俣におくれること十数年、水俣病事件と同質の崩壊過程にあるように思えるからである。
深海の一本釣
深海町は牛深市制のしかれた昭和二十九年に旧深海村から市に編入された。不知火海の出口、八幡瀬戸(大瀬戸)に面し、河浦町の宮野河内、上平の集落につらなる下平からいわゆる深海部落と一岬めぐる浅海との三集落よりなる。世帯数六百五十三戸、人口二千六百八十二人、女の方がやや多い。このうち漁家百六経営体、百七十一家族が漁業に従事している。その漁家の全部、文字通り百%が一本釣を基盤としている。漁業制度の分類によれば「自由漁業」である。なわはえと同じでどこにでも出漁できる。その自由漁業をベースに、養殖漁業や、吾智網、たこつぼなどの漁業権のいる漁業が複合されている。この一本的一色の漁業形態は、牛深漁民の外洋での網漁とも、不知火海漁民の多様な漁法ともまったく趣きを異にしている。つまり、”深海の鯛”といわれ、のちにフグつりが主力になるにせよ、一本的漁法に頼って生きてきた漁村である。(一九七七年・牛深市統計要覧参照)
何故でしょうと漁民に聞く。
「さあ、一本的だけで暮してこれたからでしょうなあ、なにせ漁場が目の前なだけに、他の品物で魚をとらんとも、一本釣でとれるもんですけん」といった経験に則した返事しか帰ってこない。
深海町のなかでも、古くからの定浦制度ののこるのは、船津部落(百三十七戸・五百六十人)であり、漁師はここに集まっている。下平、浅海はいまでこそ、漁船もあり、漁港整備による船だまりもコンクリートで作られたが、もともと地先の漁業を営むいわゆる百姓網から自ずと生まれた海辺の集落であり、漁家集落ではない。隣接の旧定浦の河浦町・宮野河内は、わずか数キロ北につらなる旧くからの漁村であるにかかわらず、さしあみ、双手きんちゃく、吾智網、たこつぼ漁といった漁法が主であり、一本釣に生活がかかるといったものではない。
同じ一本釣漁場で鯛やフグをとる船団の塊りを分解すれば、主力は深海の漁船団であり、つぎに、大多尾、そして、上島からの遠征組もふくむ新和町、河浦町などの船であり、深海の漁師にとって一本釣のライバルは、気の荒い、下島・新和町の旧定浦・大多尾の漁船団らしかった。
牛深市は深海にとって、やはり久玉、牛深の衆であり、他所の漁民であった。牛深が外洋に面し、専ら漁場は東支那海であり、種子ケ島・屋久島(略して土地の人はタネヤクという)方面、鹿児島コシキ島や、長崎五島方面である。漁船は一目でちがう。深海の船が、三トン四トンどまりに比べ、牛深のそれは最新鋭のマキ網船(六十トン)九十隻余を筆頭に、十トン前後の外洋型の”巨船”である。だがこれは深海の漁法にとってのライバルではない。漁場がちがうからだ。牛深市場で訊けば「牛深じゃ一本釣のような手間のかかって、こまい漁はするもんはおらんたあもんね」と相手にすらされていない。むしろ深海の敵手は、同じ漁場を分ちながら、敵対する長島や獅子島(ともに鹿児島)の小型マキあみ漁船、吾智網なのである(これについてはのちに詳説する)。つまり、深海は一本釣に固執する点で、不知火海の南部海域において極めて異彩をはなっているのだ。
冒頭にのべたように、水俣病事件に一触もしなかった深海について、「一本釣の誇り高い漁師根性」と即断していた私は、現実に深海のひとびとと話すにつれて、早のみこみを恥ずる気になった。”根性”についてのみ言うなら、網漁や仕かけの多い漁法を選んだ漁師の方がはるかに殺気だって一途である。同じ自由漁業でどこでもやれるにせよ、何千メートルとなわをのべるナワハエ漁法の人の方がロスを恐れ、獰猛な面立ちですらある。
ある日、水俣病事件とのかかわりについて浜下漁協組合長に聞いた。拍子ぬけするほどのんびりしていた。
「水俣病のなんのっていっても、ここから遠かでしょう。水俣の灘に漁にいくものはここには一人といっていいほど、居らんし・・・。水銀さわぎがあったっちや、鯛には影響は全くといっていいくらいなかったもんな。鯛は外洋から上って(入って)きて産卵がすめばまた下るとじゃけん、わしらはそん品物を獲るわけですたいなあ。泳いでさるく鯛には水銀はまずかかっとりゃせんというところで、鯛の値段は、あん水俣病さわぎのときも、一円のって値の下ることはなかった。・・・不知火海漁民闘争のときも、何の話も、ここにはなかったですばい。恐らく、となりの宮野河内もむこう(不知火海漁協実行委)からあったというより、自分たちも、かたらせてくれろと頼んだっち聞いとるですがなあ。あすこは網のなんので公海ならば長島の瀬戸や、ときにゃ獅子島のむこうまでいきますからな、多少、影響のあるということで、かたったじゃなかですか。ここは何ちってもフグ・鯛の一本づりですもんなあ、関係はなかですよ。それに、わしらが”水俣”にかかわれば、じゃ、鯛はどげんな、とかえってうたがわれるでしょうが。補償金のなんのって、すこしばかしもらったっちゃ、鯛の値段の下ったりすれば、その方が痛かもんな。それで、誰も水俣病にゃかたろうとするものは居らんじゃった」
素朴をめでる風土
水俣病患者のなかで、水俣・出月の浜元二徳さんのように深海から水俣に移りすんで水俣病を背負った人びともいる。浜元姓は漁家集落、船津ではめだって多かった。また、いまのガルーダ号が定期便として一時間で深海・水俣間をつないでいるはるか以前から、水俣がよいの便船があり、便利な生活用品は水俣から運ばれ、また、買いものには水俣にいっていた。水俣の衣屋や水光社の名は深海のひとには親しく、また急患の病人が出れば、牛深・本渡の医者にめもくれず、水俣の市立病院、旧窒の附属病院に運んだという。その点、人の流れと親せきのつながりとしては、決して細いものではなかった。それだけに、地縁のひと、親せきのひとの風聞から水俣病を聞く機会は少ないものではなく、「あん衆は水俣さに行かんば、あんな難儀なめにあわずにすんだものを」といった憐れみの節も聞かれるのである。
「ここん町をどう思われるですか。わしらで言うちゃアレですばってん、みんな人のよかでしょが。子供もみてみなっせ。いまどきめずらしかほど純朴でしょうが。家に鍵をかけるものはいまだにおりませんよ。バスの通うようになってから駐在のすこしは戸締りについてうるさく言うですばってん、だれも鍵をかけるひとはおらんですよ。おまわりさんのする仕事が、ここにあるかって、わしら若いおまわりに言うとですよ」
今年になって二十九歳の若い警官が駐在として配備され、町中に住んだ。パトカーの他に、カラフルな自家用車をもち、都会的な妻と標準語に近いことばをしゃべる坊やといったニュー・ファミリー型の駐在一家である。年寄りは半ばあきれ顔で「こん部落にゃ退散間際のおまわりでよか。これからという前途のある若いおまわりが、ひまでひまで、釣りじゃいろ、ドライブじゃいろしとるのみれば、若いうちは鍛えんといけんのに、のんびりしとって、ぼけてしもて。あれじゃ出世もでけんごとなるになあ。ここの駐在はとしよりと茶ばのみなどしてくるる年配者でよかつじゃが」という。そこには、平穏なわがむらに対する深い自信がおのずと裏うちされていた。水俣の町の便りが、いまはテレビを通じ報じられるのを見るにつけ、むらの安らぎが改めて思われるようだ。それだけ、水俣病の噂はここになじまないものであった。
「深海は人のよかとこですよ」と手ばなしで他所者にいう土地も珍しい。それがごく自然に聞いていられるおだやかさがある。それは恐らく恵まれた漁場とそれにつりあった人口があり、しかも他の土地の人の流入が少なく、町をたてにひきさくような自動車道もない、ひっそりとした浦であったからでなかろうか。
聞けば東京・大阪をはじめ、熊本、水俣への人口移動は今日も絶えずあるようだ。
かつての小庄屋の当主・橋口重敏氏の手もとの資料によれば文化七年(一八一〇年)二百四十六戸、人口二千四百二十人とあり、以後、年代順に人口動態がのこされ、一八六九年(明治二年)五百四十二戸、三千七百四十二人をもってその文書は絶えている。現在、戸数六百五十三戸、人口二千六百八十二人であるのを見ると、現人口は明治維新の頃より千人以上減っていることになる。だが戸数は百戸以上増えている。いまでこそ核家族化し子供は二人でとめているが、”旧婚”家庭は六人、七人の子宝が普通である。それから類推すれば、いま現在おそらく千人以上が”出郷”しているであろう。老人が仕送りの書留をうけとる姿をよくみうける。しかし老人はむらを去らない。
水俣病を知る眼で見れば、年不相応に体の自由の利かない老人がめだつ。海のみえる縁側や波止場に端然と一日中うずくまっているからだ。聞けば六十歳代で「脳障害」で口がまわらず、足がなえたという。それも片麻痺でなく両手・両足の運動失調だった。
何気なく年齢を聞くと、急にむせるように泣く。現役漁師としてまだ働ける年である。仲間たちが隠居仕事以上に働き今日も魚をとりに行っているのにくらべ、わが身のふがいなさに耐えがたいようだ。どの病者もそうだった。
漁師はよそもの
「家のごちゃごちゃと寄りあっとるでしょうが船津(漁師部落)は。津ちゅうとは集まるとこちゅう意味ですたいね。家のより方がちがうとですよ、百姓とは。百姓はまわりにこまかでも土地があって、ちょっとしたしきりがあって、となりとつながっとるですもんな。ひとつむらでも家のたたずまいで漁師と百姓の部落はひとめで分るようになっとるですよ。」と教えてくれるのは鶴長千秋さんである。旧海軍将校、戦後帰郷し、”よそもの”のようにむらを一望の鳥瞰図としてみる機会をもった人である。その後自衛隊につとめ、八年前に退職、以後、漁協にかかわった。しかし、出身は農家のひとで、漁師をみる眼も、むらの農家部落(深海町・多々良)出身のものであることを話の節ごとにことわるのだった。バス停ふたつぶんの海ぞいの深海地区(三百三十八戸・千三百二十人)のなかでさえ、農家と漁家に分別されていることを知らされた。
漁村・深海であれば、農家といえ、もともと半農半漁が自然の暮し方であろう。そしてこの場合漁家とはいわば純漁家といった方があたっていそうだ。
「うちのひい爺さんの話して聞かせたが、明治の頃までは、農家のものが通れば漁師は土下座して通るのを待ったというですな。明治になってからは止んだ風だが、わしの父の頃には、農家から娘は漁師に嫁にはやるなと言われよった。漁師の娘をもらうのはよかです、農家から漁家によめにやるのはさらった風でしたな。むらの行事にしても戦前までは農家だけでやって、漁師の衆にはかたらんじゃった。たとえば、十月は神無月でしょう、神様の出雲にいかす月ですもんな。そるで”神わたし”といって一晩中、神社で太鼓をたたいて神を送るーまた、神をおむかえする、そうした行事があったですが、それにはよそもの漁師は入れんかったですもんな。」
この博覧強記の人の語り口によれば、船津以外の字名は今の多々良はたたら、つまり村鍛冶の家のあった字であり、海抜四百五メートルの六郎次山はロクロであり、そこに出る陶石をもちいろくろで器をつくった百姓のしごとの名ごりであり、船津以外の字はすべて農家のテリトリーであったという。では漁師はどこからきたか。それは多分「山から下りてきたり、薩摩からのよそものだったと思うですな。浜元の元は熊本では浜本とかくでしょう。苗字のモトを元とかくは薩摩ですもんな。」
また「加勢どり」という旧正月の行事ー青年が野菜一束・魚などをもって家々の門口に立って、かしわ手を叩いて、モチを受けとるといった青年宿のならわしも、もとはといえば、むかし、漁師が糧をうるために、農家の門口に魚を黙って置き、かしわ手をうって、わきに庁むと、農家のひとは、門口に出て、魚をとり上げ、その場所にモチを置く。それを漁師はもちかえって糧とした。そこには、ことばをかわしたり、うりかいのやりとりをしたりといった対の関係はなかったというのだ。(この取材は主に西山正啓君による)
一年前、石牟礼さんと一しょに、深海の旧役場・現市役所出張所に中村譲所長を訪ね、話しを聞いた折に、町の有力者は誰かをたずねた。漁民の多いここでは、市会議員に漁民代表がいるものと思いこんでいたが全くちがった。
深海地区四名選出の市会議員のことごとくが、農業者ばかりで、漁家出身の議員はなかった。そのときの意外感は、鶴長千秋氏の話を聞くことで永解した。今ものこる差別のぬけがらをそこに見る気がした。
個人漁法の放逐
漁師社会の中でも、漁法による差別が全くないといえるだろうか。そうした疑問を抱いたのはホコ突きの漁師の撮影で、周辺の漁師とかかわりはじめてからだ。
不知火海に今のこる古来からの漁法に、下島、新和町の中田のホコ突きがある。むかし、夜は赤松のかがり火をたき、海底の魚を八尋(十二米)もの鉾で突く、いまはバッテリーで二百ワットの光源をもつ採魚燈をつけ、肉眼で魚を追う。さざなみの立つときは箱メガネをつかう。そのベテランの脇板清輔老人は、この漁法がフィルムにのこることだけで撮影を承諾してくれた。
「こんホコ突きは元禄時代(一六九〇ー一七〇三年)からあったっていいますものな。松平伊豆守がここ(中田)にこられたときに、漁ばすっとをみなさったちゅうし。・・・前は長崎県でん、鹿児島県でも(ホコつきを)しよりましたがなあ・・・今は・・・」と口をにごす。
いま、両県の地先でのホコ突きは禁じられている、中田に十数人のホコ突きが残っているので、熊本県だけは許可しているという。「何故禁止されるかそれがよう分らんとです。ホコで突くとはどげんとっても知れたもんでしょう。鉾の長さぶんの海にしかいかんし、手で突くとですけん。そりゃ、アワビもナマコもとる、鯛もカレイも何でも獲りますばってん、そう邪魔するわけでもなしなあ・・・」と歯切れの悪いものの言いぶりだった。
撮影に際して、脇坂老人の協力ぶりは私の期待を越えるものがあった。ひとつには、完成のあかつき、映画のホコつきシーンを一巻にまとめて、昭和五十二年に開館した新和町立歴史民俗資料館の映画展示資料に寄贈すると申し出たことに、老人はいたく励まされたようだった。さて、そのホコ突きの漁場を選ぶにあたって、水のにごりや、風のしじまをさけようとあれこれ当るうちに、隣の河浦町の宮野河内地先の海辺で撮ることにした。私たちが、地元にひとこと断りを言うつもりで、顔みしりの宮野河内漁協のある参事に会ったが、そこで、思わぬ拒否にあった。
「ホコつきなら中田の地先でやんなっせ。うちの地先でやるなら、あとで揉め事のおこる。理由はいわん。漁師なら分るはずじゃって、わしがそういったというてくれんな。それで分る。映画のあんた方には気の毒じゃばってん、漁協として認むる訳にゃいかん。あきらめてくれなっせ」とりつくしまもなかった。
やむなくその要点だけ話しはじめるや、脇坂老人は事もなげに「嫌われとっとですよ、わしらは。夜、あかりともして、エンジンとめて、ろをこぐだけで海を這って歩くとでしょう。何をしとるか分りゃせんちゅうとこで気色の悪かでしょうもん。」という。
この映画の助言者としてついてもらった”コンサルタント”の青年にその事情をたずねた。上島・宮田の風変わりの”インテリ漁師”元長崎杜研で労働運動を体験し、いま漁業の記録をのこすことに専念している浅田康爾君は、こう解いてくれた。「まわりの漁師が変わったんですよ。ホコ突きは恐らく漁業の歴史のはじめからあったはずですよ。百年も前にゃ、不知火海のどこにもあったでしょう。いまは中田だけになってしもうとりますが。いまはこの宮田あたりは小型定置網や、磯立て網や、また養殖も多かでしょう。その魚をとられやせんかと疑うとるんですよ。夜の闇に乗じてとっていきゃせんかと。言えば泥棒あつかいですよ。気の毒かですね、本当の漁師らしい漁師ですのにねえ、ホコ突きは。」
たしかに、ホコ突きは修業しぬいた練達の技をもっている。魚をつくにも、眼をねらい、決して身の部分を傷つけないように刺す。保護色の灰色の片身を砂に埋め、二つの眼だけのぞかせているカレイを見つける眼力も並太低の経験ではかなわぬものに思われた。浅田君の言うようにそれこそ漁師であろう。しかしそのことがまわりの漁師にはもはや何の評価にもあたいしないようだ。まして、隣接県でホコツキが禁止されたことが決定的に彼らを疎外し差別する理由にもなった。
私も夜のホコ突き船にのったが、ひと刻のあいだに数キロメートルも移動していたのに驚いた。岸に近い磯づたいのホコ突き行にとって、”県境”はまず見えないのがあたりまえに思えた。その越境が”犯意”として問われているのだ。
では一本釣の立場はいまいかようなものであろうか。一本の釣糸にこめられた数々のしかけ。眼にみえない魚の種類、くせ、大小、性向、つまり彼らの生活のすべてをのみこんで、鈎をあわせ、たぐる。これもまさに漁師そのものである。
「一本釣は魚のおるところはどこでん仕事がでくる」としばしば聞く。戦前は朝鮮・大連・旅順まで手こぎ船でいったという勇猛な語り草も一本釣の特権のように語られた。だがホコつきも一本釣も”どこでんいく”ことでは似ている。一本の釣糸で獲る最も正統な個人漁法は、その力の限界性ゆえに、網の、区劃漁業権の、養殖のといった海面占有権のともなう海の分割私有の現在にも”尊重”されてきたものと私は思ってきた。その見方からホコつきも位置づけていた。しかしホコつきが同じ漁民から放逐されつつあるいま、一本釣も五十歩百歩ではなかろうかというのが新たな疑問である。
ホコ突きは、手という道具を、竿とホコに擬して発達された最も古い、原型的な漁法であろう。一本釣の歴史も古い。同様に古い地曳網は浜の埋立てや網をひく共同体のそのものの崩壊によって、殆ど亡びた。ホコ突きや一本釣がのこったのは個人漁業であり、自由漁業であり、力本位でなりたつものだったからに違いない。そうした漁民像そのものがいま何の敬意も表されないばかりか、近代漁法の秩序の中の”異分子”に転化されようとしているのだ。
疎外の壁のかなたへ
さきに触れたように、もっとも漁村性の色濃くのこると思われた深海の中での漁民の地位、そして更に、漁民の中での価値観の変動と新たな差別の重ねあわせを知るにつれ、その漁村から流浪して水俣の岸べに漂着し、定住して漁家を興した水俣漁民が、その”奇病”に対し、どんなにいわれない羞恥をもって水俣の市民に対したか、どんなに切実に、そのみぐるしさをかくしたかが透けて見える気がするのだ。
深海の町の風景になくてはならない下馬刀島にまつわる話もそうだ。この島は遠見にはバチカンの役僧の丸いつばつきの帽子のようなかっこうで一幅の絵だ。近づけば、土くれ一握りもない岩の塊である。その岩と岩との間に根をはって、雑木が緑色を辛うじてそれにおおわせているにすぎない。水もなく、風波をしのぐ洞穴もない。
深海町の小学校の社会科のガリ版刷の資料にまとめられた、岡崎宗賀市(72)さんの『馬刀島哀話』によれば、百姓・与吉が、牛深から天然痘をうつされて村に帰り、全身が白くただれて、「壁でもぬったようになったので村の人から「ぬりかべ」とよばれ」おそれられた。つぎつぎにそれは家族へ、近所の家へ枯草の燃えるようにひろがった。そこで村の頭にたつ人の相談の結果、病人すべてを島にすてることにした。丸木を組んで小屋に荒むしろを敷いたところに、甘藷や粟飯など四、五日分をのこして置きざりにした。病人のなかの子供は大声をあげて泣き、その声はむらまで風にのってきこえたという。
こうした人捨て島の話こそ「哀話」とされたが、この土地の悪戯れ唄に、他の部落のものをからかうに病気をよみこんだものがある。
「深海でんごに 浅海めた
山浦よごれに 大浦瘡」
つまりでんごとはヒイラリヤ、めたとは体毒のまわっため、赤目のめちゃめちゃしたものをいう。よどごはよごれ、かさはふきでものでかさぶただらけ・・・(鶴長千秋氏)
こうした貧窮とうちすてられた病気、そして伝染病ともなれば生きたまま葬られた、その共同体の共同記憶といったものが、”水俣病かくし”の中に息づいていたように思える。昭和三十一年当時、熊大医学部のとった学用映画フィルムにのこる多発部落のたたずまいのいくつかのシーン、雨のふる傷だらけの膜面のむこうに、電気のない家あり、裸の子があそぶ空地のかたわらで全盲の子どもが立ち、それでもはにかむように笑んでいる。そうした光景が深海で事さらに鮮やかによみがえってくるのである。
漁師道のくねくねしたままに並ぶ漁家の軒に「出征軍人の家」「遺族の家」といった文字の札がのこり、墓地には「××上等兵」などの墓碑銘が戒名より前景にはりこまれ、室内には親子の何らかの表彰状の列の中心に、明治・大正・昭和の天皇三代の写真の額が、いまも御真影のように掲げられているのをみれば、村の共同の行事にも疎外された漁民階層が、四海平等を実感し得たのは日本帝国軍隊の”赤子”となったときだけではなかったかとさえ思わしめる。そんな感懐にふけるうちに、突如、石牟礼道子さんの記録の断片が甦る。
打ち捨てられた水俣病患者をはじめて視察にきた参議院議員を迎えて、唐突に叫び出された「天皇陛下万才」の声そして構音障害の口から響き出される「君が代」がどんなに切実に、四囲の疎外の壁のはるかかなたの親への訴えであったか、そして天草漁民の心の中の幻想的リアリティの流露であったか。
一本釣にかげりが
映画を撮りにいった私たちに対し、撮ることを了承し、協力的になった深海にとって、今年はとりわけ工合の悪い年になった。フグも鯛も「絵になるよう」にはとれないのである。漁師は魚がこないことを己が非のように弁解する。「去年はフグのよか群の一ときは寄ったになあ、今年はまこてどげんなっとるじゃろ」「鯛はフグ釣の丁度終りに来んはずはなかばってんなあ」と。
深海の眼の前を川のように潮ののぼり下りする大瀬戸(八幡ノ瀬戸ともいう)は水深六十から七十米、底は瀬と砂(浜)が入りくんでいる。不知火海では確かに最も深い海である。水俣灘の深さ二十米から四十米の潟とは底質もちがう。春、水温のぬるむのを待って、外洋からフグや鯛が汐にのって産卵にやってくる。その汐の速さは「機械船の十二ノットじゃ乗り切らん、十三ノットはなからんば」というほどの流れである。皆で人吉に旅行にいき球磨川下りを試みたが、「何の戸島の汐に比べれば、何のこたあなかった。」戸島とは牛深ーつまり外洋により近く、いわば幅のせばまった”河口”部で、この近隣一の汐の早い瀬戸である。
機械船が深海町に入ったのは昭和三十二、三年とのこと、それまでは木船でろと帆をもって航海した。汐を知ることが船乗りの条件だった。汐の満ちひきにのるだけでは漁場にゆきつけない。汐をよぎり、ときに逆さにうずまくわくらじお(逆汐ともいう)にのって、汐の流れをさかのぼる技術も木船には必要だった。当時の一本釣の苦労はもっぱらこの激流の漁場でどう船を操るかにあり、そこに漁師であるよりむしろ舟頭としての技量が要ったのだ。
深海漁協に汐を月の運行にひきあてて覚える文句が考案され、貼られていた。
”月の出の八合満ち”(月の出には、満潮までにあと二合のこすまでになっている、つまり八〇%の満潮である)
”月の三刻の潮のわり”(月の出から六時間たったら、引き潮である)
”月の入りの半満”(月の没するとき、満ち潮はちょうど半ばだ)
ー鶴長千秋作ー
また漁師はこうも言う
「魚は餌にゃつかんで 汐につく」つまり餌もさることながら、汐のうごきにつれて、摂餌行動する魚の習性を第一とせよーと教えている。こうした月と汐、汐のリズムを体得することで漁師になるのだと老人たちはなつかしむ。いまは機械船になって、潮流との格闘は殆ど無用となったといってよい。「いまどきの漁師は楽なもんですたい。ペラと魚探でやりよるんじゃけん」と老人の皮肉るのも無理はない。だが、この潮ゆえに、深海は眼前に豊かな魚道をもち、産卵期の魚の群をその海底に迎えることが出来たのだ。
「三月、外の海からここに上ってくる(入ってくる)フグはですな、海の底を腹をこするごてして泳いでくるとです。妙にですな。オスメス一しょですが、メスは産むとに一しょけんめいで、めったに餌をくわんらしかですな。そんまわりをオスが白子(精子)をひっちらかして受精しよるです。やつらは餌をくうとです。そんで釣れるとはオスばっかしちう風で。春さきのフグはそんのぼりをとるとです。腹がこすれて血のにじんどるとはそんときですたいな。そして一、二カ月すれば、産卵をおえたフグどもがぼちぼち下ってくるとです。卵ば出し切って、やせてしもてですな・・・。下ってくるとは底よりすこし上を泳ぐような風で、すこし上りフグとちがうとです。そんくせを頭に入れておかんばフグちゅう品物は釣れんとですよ」
初老の漁師、浜元重男さんの話は具休的かつ描写的である。六、七十米下の世界を一本のヨマ糸(元糸)だけでさぐって得た具象的イメージであろう。これは網漁の人では把むことが出来ないものだ。言いかえれば、通常であれば、フグがその生活・習性のまま不知火海に入ってくれさえすれば、もはや獲りはぐれることはない。それがこの二、三年、とくに今年、まったく予想外れの不漁になやむことになった。
深海の漁師の生計の柱は今日、フグで支えられている。年間の現金収入の半ばをそれに頼っている。
他の漁村がいち早く、網に転換したり、在来の網漁を大型化し企業化したにもかかわらず、深海が一本釣を維持してこざるを得なかった理由のひとつは、鯛つりの在来の伝統の上に立つこのフグ漁によってうるおってきたからである。そして、このフグは一本釣の漁業形態でなければ獲ることが許されなかったからでもある。
深海にとって眼前の海、一直線の距離にあるフグ漁場は残念乍ら、大瀬戸の中間に線引きされた鹿児島との県境のむこうに位置しており、そこには一本釣となわはえ漁しか立ち入ることが出来ない。網漁できるのは鹿児島県の長島の漁民に限られていた。この事情はタイの漁場としても同じである。鯛をとるにせよ、フグをとるにせよ、一本釣でしか操業できないし、そのことは深海漁民の伝統からすれば、得意とするところであり、むしろ僥倖といえた。だから一本釣が現役の漁法としてのこってきたともいえる。その一本釣にかげりが出た。それが決定的に見えはじめたのは今年のフグ漁であった。人為的原因であることがはっきりしてきたからだ。
”下関のフグ”を釣る
ここで深海のフグ漁の短い歴史に触れておきたい。驚いたことに昭和三十年代まで、ここの漁師はフグを商品にする才覚を知らなかったというのだ。フグの本場下関の名は知っていたが、下関に運ぶ手だてはなかったし、下関のフグの仲買いも、ここがフグの好漁場であることに気づいていなかった。
浜元重男氏のあととり、牧男さん(三十七歳)は思い出しても馬鹿げた話と笑いながら「わしが中学を出る頃までは、爺ちゃんと一しょに、鯛のガラカブのつっとればフグがくうでしょうが。糸ば切って、道具をみんな噛んでもってってしまうとですたい。「あれ、またフグの悪さする」ちうて、困ったですよ。しかし大鯛のしかけは鈎が太かでしょうが、そやつにひっかかって上ってくるとですよ。そいがそやつの口にひっかかっとるでしょう。外そうとすれば指はくいちぎられるちゅうことですよ。あん魚は毒じゃで、自分の家で食いもでけんし、イケスの中でな他の魚を喰いちらかすしな。そんでポンポン棄てよったですたい」
いまは大きい牛深の魚市場も、当時、フグは引きとらなかったという。輸送できなかったからだ。「そんうちに下関の仲買いが、船で買いつけにやってくるごとなったです。それが金になるちゅうとこでとりはじめたですたい。”下関のフグ”のレッテルはればどこでとれてもよかったでしょうもん。当時(昭和三十七、八年)失対の土方の日当が三百円か四百円の頃、フグ一匹が三十円だったですばい。キロ計算じゃのうして、一匹丸ごとの値段が三十円。三キロあっとも、五キロでんする太かとも一匹は一匹ちゅうことで。それでも、金になるちゅうことでこん部落、みんなやり出したんです。今にして思えば、あん頃も料亭に出す品物じゃろ、フグは、高かったはずですばい。あとになってわしらは「仲買一年のやれば蔵の出来るばい」と腹かいて言うたもんです」
天草五橋の開通、縦断道路の整備等、昭和二十八年以来施行された離島振興法による流通系路の開拓や、コールド・チェーン・システムのめざましい開発が深海にも光をあてたのであろう。以後フグ漁は、深海のそれまでの漁期の構成を全く変えた。三月から五月にかけて、全村あげてフグの一本釣にむかうことになった。
「わたしらはいっちょう口にしたことなかです。誰もフグを料理でくるものがおらんでしょが。まだ生まれてこの方、わたしゃフグをくっとらんです」と牧男さんの奥さんは言う。「うれば高か魚でしょ。獲ったら右から左ちゅうふうに仲買いに渡しよりました」。
この夫婦は、一九七五年春、たまたま大多尾沖のフグ漁を映画にとったとき、船上に三人の子どもと赤ん坊をのせた若い夫婦像として「不知火海」の終章に描いた人たちであった。写したのはまだ日の出から間もないときであったが、五、六匹のトラフグをあげていた。それはどの船にも言えた。一見戦場のようでいて、どこかに豊かさとのどかさがただよっていた。
聞けば当時キロ千円、一日の水揚げは、平均、十数匹として五、六万円にはなった。全漁期で総計五、六百匹、総売上げ百五十万から二百万円の収入を得ていたという。
今年、フグ漁は殺気立つ競争の中、漁師たちの暗くさしせまった顔ばかりめだった。三月から五月の全漁期を通し平均百匹前後、中には四十から五十匹の水揚げにとどまったものもいる。不漁による希少価値からキロ当り、四千五百円の高値をうんだ。金額としての目減りはさまでめだたなかったが、フグ漁の先行きの不安はどうしようもなくなっていた。フグの一本釣の漁法を根底から脅かすものとして近代的なマキ網・五智網の船団が登場したからである。
網の時代との格闘
網と一本釣との確執はすでに数年前から表面化していた。去年も、この土地の人のいう”大多尾騒動”が起きた。「網は一本釣り船団からて一キロは離れてせろ、ということになっとった。県では、千五百メートルは離せと指導しとったですよ。それが、大多尾の漁師がやぶったもんな。わしらの釣っとるフグつりの網代(場所)で五智網をたてまわしたじゃなかかな。そんで引きあぐるのをみれば何百匹よ。そんでわしらの船何十艘とまわりかこんでな、殺してくるるとおめいたよ。腹んたってなあ。何の殺しやせん、船のへさきでどづいてくれた位じゃったが、怪我人は出たな。あみ船は、とうとう網を切って逃げたさな。八百キロあったよ、網の中に、フグが。たまがったな。じゃが、こっちがアミを切ったちゅうことで、一本釣がきつうとがめられた。そんだけしても、網はそんあともひきよるもんなあ」これも大多尾地先の出来事だった。だがその年はまだフグは獲れた。
新鋭マキあみ船が数名の乗り子とともに出漁し、外洋から不知火海に入るフグの魚道で、一昼夜に数十トン、水揚げ二億円に達する大量のフグを獲った。それを最高に、公海部で、次々に網をひいた。その結果、フグの群はこれまでに例を見ない、拡散した隊形をとって上りはじめた。その量も少なく、ちりぢりの上に、極度におびえたためか、求餌行動が鈍く、日の出のくいの時刻にも手応えが少なかった。夕方までねばって二、三匹がいいところ、船団の半分は空で帰る日がつづいた。こうした現象は有明海の上りフグにもあらわれたようだ。
四月九日、天草上島、大矢野町漁民らは「ゴチ網対策総決起大会」を開いた。これには天草のほか島原も参加し、二百人に及んだ。
深海漁協はその一週間後、県へ陳情書を手渡すことにしたが、それは大衆的行動とはならなかった。一日の休漁すら出来ないほど切っぱつまっていたことと、鹿児島県の網船が法規上、公海、もしくは同県内の地先の操業であり、鹿児島県の規則では合法である以上、熊本県への陳情は無力であることを知っていたからであろう。少なくとも九州地方全体の問題として、国の強力な行政の手を打たれなければ解決しないからだ。
本来、こうした紛争のためにある海区調整委員会はどうしているのか?それに対して、浅田康爾君の意見は極めて明解かつ悲観的であった。「海区調整委員会ってやつは、いわゆる”公選”じゃないんですよ。事前運動もできるし、根回しも自由自在にできるし、罰則がないんです。だから学識経験者といえば元警察官僚だったり、漁業者代表といえば網漁の親方だったりして、とても一本釣の声の通るところじゃ元々ないんです」深海漁協の抗議も畢寛負け犬のそれでしかないことを知っての上の陳情だったろう。
深海の漁民たちも、周辺の近代化を座視していたわけでもなく、吾智網、マキ網の時代の到来に歩調を合わせる動きもした。浜下組合長と、長老格の浜元國松老人の証言によれば
浜元老人「考えんではなかったですばい。十年程前に、「今後は一本釣だけじゃ心細か、吾智網と両方やらんば仕事にならんじゃなかかな。」ちゅうところで、申請するものがおった。許可も下りたですばい。金の工面のでくるものがそれぞれとって、組合も一応承認して、十六パイ吾智網船ができたとです。ところが、深海の区画漁業権のある海はですなあ、岩の多して、吾智網のひける浜(海底の砂地)は少なかですたい。公海ならよかちゅうことでやってみたが、網になれとらん深海のもんにはやっぱ大した仕事もでけんじゃったそうな。こりゃ、深海のもんはやっぱ一本釣ばせろということじゃなかかなちゅうことになって、一人やめ二人やめしてみんなやめてしもうたですたい。船だけは形ばかり一隻、波止につないであるばってん、よう動き出さん。もう吾智網はほっとけちゅうことになってしもたです。」
組合長「吾智網をやめたうらには、他の一本釣の衆への気がねもあったでしょう。事実、許可をもたんうちの組合員の反撥もあったですたい(國さん「じゃっと」)長島の衆がどしことった、生産率あげた、ほんならわしらもやってみゅということで、一時はそれでもやってみたものの、うちらの吾智網の技術じゃやり切らんじゃった。一本釣りじゃ負けんばってんなあ。また、もとのもくあみの一本釣にもどったちゅうわけですたい」
ならばと私は聞く。「ここは”深海の鯛”って有名ですね。何か秘伝があるんでしょうか」
二人は考えこんでしまった。やがて長老は「それがなかです。むしろ、よその漁師のやり方をまねしてきたのじゃなかったでしょうか。わしらは海も知っとる。魚も知っとる。汐もよう頭に入っとるとこで、そんことの頭は使うとるです。しかし、わしのおやじや、年寄りに聞いてみれば、道具については頭はなかったと思うとです。鯛はときどきのえさでやっておったというだけで。エビでするもんは、そればっかし。何ちゅうかよそんとの競争心ちゅうものがなかもんな、この深海の衆は。この深海というところは。今やっとる鯛とりのイカの生け掛け(小ぶりの赤イカを生きたまま針につけ泳がせてとる漁法)もなあ、あれは五島(長崎)がもとで、宮田、栖本の連中って伝わって、あん衆から教わったもんらしか。こっちのもんはエビだけ、ちっとも頭がそっちにむきよらんじゃった。・・・深海の生んだ漁法ち、何があるじゃろか。タコつぼはどこのもおなしやし、イカの擬似餌も、島原から来たちゅうしなあ。鯛つりのあのゴムつり(いくつもの色のゴムのひも状の束に、エビや、タコの脚をつける漁法)も支那事変まえに、水産試験所の若い技師さんのこらして、教えられらしたもんじゃもなあ。深海ちゅうところは、よそからの刺激ちゅうもんのなかったとこかも知れん。遅れとるといえば遅れとる。そこんとこを考ゆれば、深海ちゅうところは、よくよく恵まれとったところちゅうことかも知れんなあ。」
深海の一本釣を構造的に脅かす企業型大型漁法との競争に決定的に立ち遅れていることはこのフグ漁ひとつとってみてもあきらかだ。それが自然の生命力のおとろえだけであるとしたら、更に一歩ふみこんで水俣からの水銀汚染や、農薬などによる海のよごれ、異常低温による海況の変化といった範囲でとらえられるものであるなら、深海漁民のそれまでの才覚のバリエーションで切りぬけられるかも知れない。これまでもそうしてきたし、つまりは「漁は水もの」だからである。
しかしいまの危機感は全く質のちがったものである。漁民対漁民の形をとって相争い、同じ漁民部落の内部のそれぞれの生活のあり方の変化によって腐蝕しつつあるように思える。政治に即していえば自民党議員に選挙する漁師ですら「自民党政府は一本釣には打ちあわんつもりじゃなかかな」とみぬいている。地元と中央とでは”自民党”も全く別物である。しかし”政治”の手前に、共同体をお互いに音たててこわしあう破目に追いこまれた、いわば漁民同志のせめぎあいが、眼前の最大の矛盾として立ちはだかっている。朝、昼、晩の生活のディテールではむしろそれしか見えないのかも知れないのだ。
(この項 未完)